月別アーカイブ: 10月 2018

自分の可能性を狭めてはいないか?

信念を持つということは非常に大事だ。しかし信念とこだわりは紙一重、生産性のないこだわりを持ちすぎると自分の可能性を狭めてしまう。逆に、自分の芯となる信念を確立していると、逆境においても乗り越える力になりえるし、取り組んでいることに集中して飛躍的に進歩させることもできる。

信念とこだわりの違いは何か?これはある意味結果論だと言える。成功すれば信念だと言われるし、進歩がないとこだわりだと言われる。そういう意味ではこだわりをいかに信念へと昇華するか?ここが才能と努力の見せ所である。

僕自身もいろいろとこだわっているようなところがあり、それが自分の可能性を狭めているのではないかと感じるところがある。いかに不毛なこだわりを捨て去るか。それはこれからの大きな課題である。それと同時に芯となる信念を推し進め、いかに大きな結果を出すか。これに人生を懸けている。

他人が判断する可能性はあくまで結果論であって、自分の将来の可能性を一番見通せているのは自分である。もしかしたら自分の将来を見通せていない人もたくさんいるかもしれないが、自分の将来の可能性を判断できる判断力を身に付けることが非常に重要である。

では、将来の可能性を見通すためにはどうすればいいか?そのような特効薬はない。ただ何をすればよいかははっきりしている。まずは大局観を身に付ける事。そのためには目先の事ばかりを考えてはいけない。二歩先、三歩先に焦点を合さなければならない。金銭的にもそうだ。目先の小銭ではなく、将来の余裕を手に入れることを考えなければならない。ただそのためには、現在の状況を乗り越えることが必要だ。

今を乗り越え、将来の大きな目標を手に入れることにどれだけのめり込めるか?そこに人間としての度量が試されている。

コーヒー一杯に懸る、自分の人生。

生きる上で一番大事なのは、自分の身体である。「体が資本」と言うように、健康でないことには物事を前に進めるのは難しい。それと同時に大切なのが「頭脳」である。身体と頭脳は人生の両輪と言える。そのため、いかに健康な体を維持し鍛えるか、そしていかに頭脳と精神のコンディションを高いレベルで維持するか。この二つは僕にとっての日常における最も大きな課題である。

この事とコーヒーが何の関係があるのか?僕にとっては非常に大きな関係があるのである。以前の僕はコーヒー中毒と自称していたように、毎日7杯くらいのコーヒーを飲んでいた。最近は、コーヒーは万能であって体に良い効果ばかりだというニュースをよく聞く。そのような事を聞いて、調子に乗ってコーヒーを大量に摂取し続けた。

しかし何でも適量という言葉があるように、取り過ぎれば良いというものではない。それはコーヒーも同じだ。最近、睡眠などの日常生活における不調を感じて、コーヒーの摂取の量を大幅に減らした。そこで自分の体を使ったちょっとした実験を始める。果たしてどれくらいの量が僕の体にとって適量で、もっとも良いコンディションをもたらすか?

最近は、コンディションを保つことに関してはかなり力を入れている。そのことが僕の取り組んでいることの成果へ直結すると認識しているからだ。コーヒー一杯が自分のコンディションに影響を与えるのならば、言い換えるとコーヒー一杯が自分の人生を決定すると言える。ならば人生を上向きにするためにもコーヒーに対して真剣に向き合い考え抜こうという姿勢を取り始めた。

たかがコーヒー、されどコーヒー。自分の人生の行方は何気ない自分の身の周りの事によって左右されるのかもしれない。ならば今一度自分の身の周りを見返して、何か改善できることはないかと見直してみよう。

知への挑戦。

僕は、人生とは次への挑戦だと思っている。何に対して挑戦するかは人それぞれ違うが、荒野を開拓し、多くの失敗を重ね、その中で大きな成功を成し遂げる。人生が終焉する間際までこのような挑戦をし続けることができれば本望である。

僕の人生の中で一番大きな挑戦は「知への挑戦」だ。数学や物理などの学問は僕の人生の中で最も大きな挑戦であるが、哲学や思想構成、そして生物学や歴史などの専門外の学問に対しても、自分の出来うる範囲で挑戦し続けたいと思っている。

学問とスポーツは全く違うものだと考えている人は多いかもしれない。確かに学問は頭脳を使い、スポーツは体力を使う。しかしそれらを極めようとする人にとっては、その根幹にある思想は共通するところが多いと感じる。どちらも究極への挑戦である。学問であれば過去の究極はアインシュタインと言えるかもしれないし、スポーツで言えば現在の究極は大谷翔平だと言える。

知の魅力に取りつかれた人は、知の魔力からは抜けられない。知への挑戦に終わりはないのである。全ての学問、そして全てのスポーツに言えることだが、知れば知るほど、極めれば極めるほど、それらの世界の奥深さを感じ、やるべき事がどんどん増えていく。すぐにやりつくしてしまうのではないかと感じている間は全く理解していないのだと言える。

将棋に関して僕は超初心者である。僕のような初心者には将棋の世界の片隅さえも見ることはできない。しかしおそらくプロ棋士には将棋盤の上の数十センチ四方のマス目の中に限りなく大きくて深い世界が見えているのだと思う。そのようなことは学問も同じだ。数学者や物理学者は、数式を機械的に計算しているのではない。数式の中に繰り広げられる深くで豊かな世界を視覚的に見て、それらの世界を構築し色を塗り続けているのである。

知への挑戦とは、新たな世界を構築していくことである。そして人間の深さとは、現実世界とは別に、第二の世界、第三の世界を持つことなのかもしれない。そのような世界が僕にとっては数学の世界、物理の世界なのである。

紛争鉱物。

スマホなどの最先端の電子機器には、レアメタルなどの鉱物が多く使用されている。これらの鉱物の一部は、アフリカの最貧国でも採取されている。しかしそれらの国で採取される鉱物を巡って、現在大きな問題が発生している。

アフリカのコンゴでは、多くの鉱物が採取されるらしい。埋蔵している資源だけで見るとコンゴは資源大国である。しかし現状は最貧国と言える状態だ。これらの国で、鉱物を巡って過酷な労働が強制され、暴行・虐殺が横行しているという。これらの事を聞いて日本人はどう思うだろうか?「暴行や虐殺は許されないことだが、日本人である私らには関係ないことでどうすることもできない」と思う人も多いかもしれない。しかしこれらの事に関して日本人は関係ないどころか密接な関係があり、関与することもできる問題なのである。

先ほどの話で取り上げたスマホなどの電子機器に使用されている鉱物は、これらの国で取られた鉱物である可能性は高い。この様な人権的な問題がある中で取られた鉱物を「紛争鉱物」という。私たちができる手段の内の一つは、これらの紛争鉱物が使われていないか監視することだ。最近ではこのような監視が国際的に行われ、紛争鉱物でないものにはタグをつけ、紛争鉱物に対して流通制限をしているという。

私たちは多くの電子機器に囲まれ、スマホなどの便利な機器を利用してスマートな生き方をしている。しかしスマートで、時にはお洒落に振る舞うことの背後には、このような紛争鉱物を巡って過酷な労働を強いられている人たちがいる。すなわち私たちの生活は、これらの人の人権侵害の下に成り立っていると言える。

自分たちだけが良ければいいという考えはもはや通じない。日本国内を豊かにすることは大事だが、それが世界の人たちの豊かさの下に成り立っていなければならない。しかし現実は、多くの人たちの犠牲の下に成り立っている。紛争鉱物はそのような世界の構造的な問題を提起し、これからの社会の在り方を考えさせられる。

究極の技術。

今日、録画しておいたドラマ「下町ロケット」の新シリーズを観た。前回のシリーズも非常に面白かったが、今回も何やら面白くなる予感がする。少なくとも僕は、究極の技術に立ち向かう人間と組織のストーリーは大好きだ。

ところで、究極の技術を開発するとはどういうことか?一言で言えば世界一の技術を身に付けるということだ。しかし企業が技術を開発するに当たっては、単に技術を向上すれば良いというものではない。まずはコストというものを考えなければならない。資金は有限である。もちろんお金をかければ基本的には良い物ができる。しかしビジネスにおいては費用対効果も非常に重要な要素になる。

今回の下町ロケットでは、スペックの問題が取り上げられていた。スペックは数字で厳密に表現できる。しかしスペック以外の所にも重要な要素はいくつかある。これは人間についても言える。近年、人間のスペックという言葉をたまに耳にする。収入や学歴などの数字やランクで表現できることである。しかし人間の本質はスペックではない。人間性やフットワークの軽さなど、スペックでないところに人間の本質がある。とは言ってもスペックが無関係なわけではない。スペックが全てではないが、スペックは判断要素の一つであり得るということだ。

究極の技術は同時に、究極の人間性を身に付けるということだ。学問やスポーツにおいて究極の技術を身に付けるためには、まずは人間性を高める必要がある。生きる上での哲学、そして取り組んでいる事に対して本質を見抜くための力、そして絶対的に折れないための体力も必要だ。

一つを極めるためには全てを高めなければならない。専門バカになるためには、人間としてオールラウンダーになることが必要不可欠である。

教育と国力。

日本は明治に開国して、飛躍的に発展・工業化したと言われている。それの対比として、江戸時代の農業を中心とした形態は国際的に遅れていたという認識がある。しかし本当に江戸時代の日本は遅れていて、明治になった途端に何の素養もないところに欧米の技術が流入し発展したのだろうか?

江戸時代の日本は、世界的に見て類を見ないくらいに高い識字率を誇っていたという。寺子屋では庶民が読み書きそろばんを習い、民衆知識の基盤を固めていた。さらに上流階級に属する武士の中で優秀な者は藩校などの学問所で学び、高度な人材を育成していた。その中のさらに優秀な者は、江戸に留学し昌平黌(後の東大)などの官僚養成学校で学問を究めていた。

明治維新は「断層」だと広く認識されているが、明治における急激な近代化は、江戸時代から続く高い識字率と読み書きそろばん、そして高度な学問文化が基盤となっていた。なので、文明的には江戸と明治は強い連続性によって結ばれている。

さらに政治組織においても、幕府から明治政府へと変わったとは言え、官僚組織の多くの部分は幕府官僚から明治官僚組織へとそのまま移されたという。すなわち、政府の実務レベルでは、その多くが幕府方式がそのまま明治政府へ引き継がれたのである。しかも幕府の官僚システムは非常に高度で優秀であったという。

このように、江戸から明治期においての国家システムは非常に優秀で、それが国力の大きな発展につながったと言える。しかし残念な事か、第二次世界大戦を経て国の在り方が大きく変わったとは言え、基盤となる官僚システムは江戸から現在まで継続されているのではないかと感じる。もちろん、改良はその都度なされてはいるであろう。しかし大きくは変わってはないはずだ。

そしてシステムそのものが変わっていないということ以上に問題なのは、江戸からの国家システムが作り上げた「国民の意識」が変わっていないということではないだろうか?その代表例が「出る杭は打たれる」という意識である。そしてそれは、横並び意識の蔓延でもある。

しかし今日本に最も必要とされているのは、「出る杭を作り上げる」ということではないだろうか?これは出る杭になる“人間”を創り出すことであり、また出る杭となる“組織・企業”を創り出すことである。出る杭に当たる企業とは現在で言うと「GAFA(Google・Apple・Facebook ・Amazon)」が代表例と言える。トヨタなどは非常に大きな企業だが、出る杭というより“優等生”といった言葉が適切であろう。

また、これらのことは企業だけに限らない。科学の研究においても言えるし、スポーツにおいても言える。日本は優等生を作るのは得意だが、出る杭を誕生させる度量がない。ただスポーツにおいては近年、大谷翔平選手をはじめとする規格外の出る杭が誕生しているように感じる。

優等生の頂点が天才だとすれば、今日本が一番必要としているのは「異才」だと言えるのではないだろうか?昔、「異能流出」という言葉を見たことがある。これからの日本が現状維持を目指すのならば、その先にあるのは大量の異能流出である。

期限を設けて成し遂げる大切さと、長い目で見て取り組む大切さ。

物事に取り組むに当たって、多くの場合は期限が設定されている。ではなぜ期限が設けられているのか?その究極的な答えは「人間の命は有限」だからである。単純に人生80年だと計算しても、その中でできる事はたかが知れている。確かに多くの事が出来るかもしれないが、地球上全体から考えればその量は塵ほどでしかない。

物事を期限までに成し遂げるということは非常に重要だが、その一方で期限を設けずに長い目で見て取り組むということも大事である。もし人生で一番大切なことがあるのならば、それは数か月や数年でできる事ではないだろう。時には人生すべてをつぎ込んで成し遂げられることかもしれない。そう意味で「人生」という期限はあるのかもしれないが、半永久的だとも言える。

近年では、ほとんどの事に対して短期間で目に見える形で結果を出すことが求められることが多くなっている。時代の流れは速く、一年もたてば古くなってしまうことも多い。新型iPhoneも長く見て寿命は5年というところだ。

しかし本当に重要な事は、年月が経っても古びない。それが真の価値というものだ。科学研究においても本当に重要な基礎研究は何十年、何百年と受け継がれている。しかし99%以上の研究は数年で消える運命にある。

自分自身の人生のミッションにおいて、時には追い込んで短期間で仕上げなければならない時がある。それができなければ二度目はない。そのような時にそれを成し遂げられるかどうか?自分自身の才能と努力と人間としての総合力が問われ、自分という人間が試されている時かもしれない。

賢く、時にはバカであれ!

賢いとは、決して勉強ができるとか多くの知識を知っているということではない。賢いとは、生きる姿勢である。また応用や解釈が豊富で、本質を見抜けるかということである。また、本当に賢い人は普段はバカになれる。そして徹底的にバカになり切れる。

賢い人は騙されることができる。逆に愚かな人は人を騙そうとする。もしかしたらこれらのことは一般の認識とは逆だと思うかもしれない。しかし本当に賢い人は「騙されても、人を絶対に騙さない」という生き方を貫くことができる。

賢い人は、自分の信じることに対しては徹底的に貫く。そして徹底的に真理を追求する。しかしこれは宗教を信じるとかそういうことではない。なぜなら宗教には根拠がないからだ。人を信じることは大切な事だが、その前に自分の思考を徹底的に信じなければならない。物事の真理は自分の頭によってもたらされるのである。

愚かな人は、目の前のものしか見えない。現代的に言えば、ネットの情報を鵜呑みにするということかもしれない。目の前の事やネット上の事は“判断材料”でしかない。大事なのはそれらの背景やその奥に潜む本質である。

本質はどうしたら見抜けるか?僕にはそのような特効薬があるとは思えない。ただ一つ言えることは、「徹底的に自分の頭で考える」ということだ。これなしに本質はつかめない。

学問の教科書に載っていることは、過去の常識でしかない。しかし最も大事なことは、「未来を創る」ということである。だから、教科書や書物を読むばかりでは過去の常識を蓄積することしかできず、未来は永久に創れない。やはり本や教科書を基に自分の頭で思考することが重要になる。

僕のブログのタイトルは「考える部屋」である。だから知識を延々と書くなどということは絶対にしない。時には、自分の考えたことや自分の生き方のメモになっているかもしれない。しかし僕の書いた記事が何かを考えるきっかけになればと思っている。

考える事は、生きることの一番の核だと僕は思っている。

永遠の命は違った形で?

昔から(一部の?)人間は、永遠の命を求め続けてきた。僕自身は永遠の命には全く興味がなく、むしろ寿命があるからこそ生きていることに大きな価値があると思っている。しかしそれとは別に、永遠の命というものが実現可能か?という問題に関しては大きな興味がある。

余談だが、昔読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥」では、火の鳥の生血を飲むと永遠の命が手に入ると伝えられ、人々が火の鳥を追い求めるというストーリーが展開されている。そこで書かれている永遠の命を手に入れた人間の末路は悲惨で壮絶であった。もし本気で永遠の命を手に入れたいと思っている人がいるのならば、火の鳥を一読してもらいたいと思う。

永遠の命とは程遠いが、寿命を延ばすことに関しては人類は大きな成果を挙げてきた。そして2018年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑博士らが開発したオプジーボは、一部の(全部ではないと強調されている)ガンを征服することに成功し、その延長戦上にガンの征服が見えてくるのかもしれない。しかし例え人間がガンを征服したとしても、それは病気の一つ(しかし最も大きな病気である)を征服したに過ぎず、永遠の命を人類が手に入れたとは全く言うことができない。

これまでは、仮に永遠の命を手に入れることがあるとすれば、それは医学の進歩の延長線上にあると考えられてきた。(もちろん僕はそのようなことは不可能ではないかと考えているが。)しかし近年の(ITを含む)科学技術の発展により、違う形で永遠の命というものが実現されるのではないかと思い始めた。そのきっかけは、一冊の本「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)を読んだことだ。この本では、人間の意識を機械に移植するということが究極の目標だと書かれている。そして著者の渡辺博士はそのための基礎研究として「意識とは何か?」ということを科学的に研究されている。渡辺博士の研究は単なる思い付きによるものではなく、細胞レベルからマクロの人間レベルに至る地道な実験によるものである。

もし人間の意識を機械に移植できれば、人間は半永久的に生きることができると言えるのではないだろうか。現時点ではこのようなことが実現できるかどうかは不明である。しかし人間の脳は一種の自然コンピューターだと見なせ、人間が現実に存在するという事実からコンピューターを人間化することは原理的に可能であると言える。ただ、意識を科学的に解明するということはとてつもなく手ごわい問題であり、そのような基礎科学的問題の解明にどれだけ時間がかかるかもわからない。しかし科学的興味として、非常にエキサイティングな問題であることには間違いない。

永遠の命は医学ではなく、IT及びコンピューター技術(ともちろん生命科学)によりもたらされる可能性があるということを渡辺博士の著書では示唆されている。そのようなこれまでの常識を180度ひっくり返すような未来が来るのかどうか?興味があるが、それまで現在生きている人間が生きているのかどうかは分からない。

最先端の理論が一番チープだ!

科学理論や世の中の理論において、多くの場合最先端の理論が一番チープである。チープという言葉はネガティブな意味に捉えられるかもしれないが、言い方を変えれば「荒削り」だと言える。

理論というものは、提出された時が一番斬新で、それが故にバグも多い。しかし忘れてはならないことは、一番最初の原論文には多くの場合、重要なエッセンスの全てが含まれている。だから理論の本質を知るための最も有効な勉強法は、原論文を読むことである。

しかし、洗練されてはいるが、技術的な話に終始し本質的な発展が全くない論文も多い。そして現実はそのような論文の方が本質的な論文よりはるかに多い。それは執筆論文の数が最も大きな評価を受けるという現在の風潮の弊害であると言える。

ごく少数のトップレベルの学者を省いて、普通の学者が短期間に何本も本質的な論文を書けるわけではない。しかし評価は継続的に受けるわけだから、本質的でなくても論文を書くしかないのだろう。

最先端の論文の9割以上は数年後には消える運命にある。だから評価はそれに残った1割に対してなされるべきである。教科書のリファレンスに載るような論文は、多く見積もっても1%も無い。そして教科書のリファレンスに載っている論文は、多くの場合同一著者の複数の論文が引用されている。

研究者にとっても、最新の論文を読みあさるのではなく重要な論文をしっかりと読み込むことが求められる。一本の重要論文は百本の最新論文よりも得るところがある。このことは論文に限らず一般書についても言える。最新の書物を読むよりも、一冊の岩波文庫の短編を読む方が圧倒的に得るものがある。

最新を追いかけるだけではなく。原典・原論文を時間をかけてしっかりと読み込む精神的な余裕を身に付けることが重要である。