月別アーカイブ: 10月 2018

火の鳥。

僕が昔読んだ漫画の中で非常に好きだったのは、ドラゴンボール、のだめカンタービレ、そして手塚治虫の火の鳥だ。火の鳥は生命の象徴であり、死んでも再びよみがえる。そして火の鳥の生血を飲んだ者は永遠の命を手に入れられるというものだ。

人間には寿命というものがある。それは絶対に逆らえない自然の原理だ。しかし生物学的な命と共に、精神的な生命というものがあると僕は考えている。人間は生物学的に生きている間は、その精神は絶対に死んではならないと僕は思っている。

僕自身、精神が死にかけたことは何度かある。しかしその度に僕の精神はよみがえってきた。僕の精神は火の鳥だと思っている。ではなぜ死にかけた精神をよみがえらせることができたのか?それは人生の明確な意味と目標を常に持っているからだ。そういう意味で僕にとって数学と物理は命を与えてくれるものだ。

人間はよく二元論で語られる。物理的な身体と精神的な思想だ。このどちらがなくなっても人間は生きることができない。身体が生きていても精神が死んでいる状態は、僕は人間としては死んでいると考えている。体の健康は多くの人が気に留めているが、精神的な生命の健康をどれだけの人が気に留めているだろうか?それは精神が死にかけてよみがえってきた人にしかわからない。

火の鳥の生命、そして永遠の命とは、多くの人は生物学的な命だと捉えているかもしれない。しかし僕は火の鳥の生命とは精神の生命だと考えている。そういう意味で、人間は寿命をまっとうするまで火の鳥でいなければならないと僕は強く思っている。

好きな事の中にも苦行はある。

何に人生を懸けるか?多くの人は好きな事に人生を懸けるであろう。好きな事をやるのは楽しいが、人生を懸けるとなると必ずしも楽しいことばかりではない。趣味であれば楽しいことだけをして苦しいことは避けるということもできるが、人生を懸けていることに打ち込み目標を達成するためには、避けては通れない苦行も多く存在する。

しかし、そのような苦行が嫌なわけではない。苦しい事ではあるが大きなやりがいを感じ、快感でもあるのである。そして何よりもその原動力となるのは、目標を成し遂げた後の自分を想像することである。それを成し遂げた後に自分はどう変わるか?実際は自分の身の周りの事は特に変わることもないのかもしれないが、自分の中の世界観は大きく変わる可能性はある。

好きな事に打ち込むに当たって苦しいことに突き当たるのは、それは大きく深い目標を持っているからである。もし陳腐な目標であれば、苦しい事にも遭うことなくすぐにやり切ってしまうであろう。とは言え、もちろん大きな目標に向かい、楽しみながら達成してしまう人は素晴らしい。世界でトップレベルのスポーツ選手は総じて「プレーを楽しむことができた」と発言している。しかしその言葉は苦しいことはなかったということとは全く違う。苦しさもやりがいに感じる力が必要だということだ。ただこのような事は自分を高めるために必要なステップであって、他人に強要することではないことに注意しなければならない。

楽しんでプレーしているはずの錦織圭選手も、時にはイライラしてラケットを投げつけるのを見ると、最高のスポーツ選手も人間なのだと安心してしまう。人間というものは、100%よりも90%くらいがちょうど良い。

しばらくは苦行を楽しみつつ、それ以上の喜びを味わうために精進していこうと思う。

量的な判断と、質的な考察。

物事は量的な判断と質的な考察の両方から行うことが重要だ。量的な判断は、数値で厳密に表現され、視覚的にもわかりやすい。しかし量的な判断ばかりにこだわり質的な側面を見落とすと、物事の本質を見誤ってしまう。

もし量的な側面だけで判断するのならば、何も人間がしなくてもコンピューターに任せておけばいい。量的な判断はコンピューターの最も得意とする分野で、瞬時に膨大な量の事に対して正確な判断ができる。

「質」はある程度数値化できるが、個々の感覚によるところが大きい。そしてそれは数学や物理という一見数値的に見えるような事柄においても非常に重要な役割をする。そして質的な判断は、目に見えないものを見る技術とも言える。先を見通すためにはこのような技術が必要不可欠である。

「量的判断にこだわる人は、数値に溺れる」と僕は思っている。量的判断に基づくことでも、最終的な決定は質的判断に委ねられる。質的考察なしには本質に迫ることはできない。

構造論と反応論。

物事を考察する時には、構造的側面と反応的側面の両方を考えることが重要である。これは多くの学問にも言える。原子核物理は大きく構造論と反応論に分類することができ、経済学においても世の中の構造とその間で行われる動的な仕組みを知ることが必要である。構造論と反応論は、空間的軸で考えるか、時間軸で考えるかということだと言える。

構造論と反応論は多くの場合補完的である。もちろん最近は多くの事に関して細分化されており、巨大な対象の隅を突くような視野の狭い研究が多くの事に対して見られることに危惧を感じているが、ミクロの目とマクロの目の両方を上手く利用しながら本質を明らかにしていくことが必要である。

あらゆる研究において、多くの場合構造論が先行し、その後に反応論が続くという形態を取ることが多い。構造論は静的であり単純化しやすい。しかし反応論は動的であるがゆえにその反応をモデル化することは困難を極める。もちろんこの逆もあり、反応を解析することによって新たな構造が見えてくることもある。しかし繰り返すように、この二つは単純に分離できるものではなく、それぞれ補完的に、あるいは融合的に行うことによって物事の真の姿が見えてくる。

構造の解析からは物事の外見の本質を知ることができ、視覚的に非常に面白いものである。そして反応の解析からは物事の変化の様子を知ることができ、始点から始まる変化のすそ野がどのように広がっていくかという壮大な物語を知ることができる。そしてこの二つを融合することによって、初めて物事の全体像が見えてくるのである。

本は持てば持つほど身軽になる。

物は持つほど重くなり、身動きが取り辛くなる。近年は断捨離とかで出来るだけ身の回りの物を減らし、シンプルに身軽になろうとする思想が流行っている。

しかし書物は違う。本は持てば持つほど身軽になるのである。本を持つことによって進むべき道が増え、視界が広くなる。本は自分の判断力をサポートしてくれる。本を読むことによって世界を駆け巡ることができる。そういう意味で本に対する投資は積極的に行い、身の回りを本で囲むことは大事だと考えている。

しかし、本なら何でも買えばよいというものではない。学問に関する書物、例えば数学や物理の専門書、歴史書、哲学書などを厳選し集めることが大切なのである。これらの本は、自分が取り組んでいる学問、研究、思想構築に当たってあらゆる示唆を与えてくれる。そしてそれらの助けが必要な時にすぐに手にとって確認できる状況を作ることが大事なのである。

逆に買う必要のない本も色々とある。例えばファッション雑誌であったり、小説などである。僕はファッション雑誌は非常に好きで毎月何冊も読むが、ほとんど立ち読みで済ませている。ファッション雑誌を購入するお金があれば、それを専門書に回した方が圧倒的に有意義だ。

小説は多くの場合一度読んだら終わりだ。そして何かを構築しようとするときに参照することもほとんどない。しかし小説を立ち読みするということは現実的には不可能だ。ならば図書館で借りればいい。もしどうしても最新の小説が読みたい時は購入するしかないが、読み終われば古本屋に売れば良い。そうして失うことはほとんどない。

本は第二の頭脳である。つまり本を身近に置くことによって二人力、三人力の働きをすることができる。買う価値のある本を買いそれらを利用することによって身軽になれば、自分の行動範囲は圧倒的に広がるであろう。

あえて1%の危険性を残すことが重要だ!

何に対しても100%の安全を求める人は多い。しかし、あえて1%の危険性を残すことが重要である。

この1%(実際は0.01%かもしれないが)の危険性をどう捉えるか?この1%の危険性を克服すると全てが幸せになるように思えるが、実際はそうはならない。この1%を解消することにおける代償は大きい。その代償とは何か?それは金銭的な事であったり、人間に対する自由であったりする。特に近年はこの自由に対する代償は深刻な問題であると僕は考えている。

100%の安全を達成するためには、徹底的な管理が必要である。その管理は元はと言えば物事に対する管理であったかもしれないが、それが巡り巡って人間への徹底的な管理になる。そのような管理をあらゆるところに求めてしまえば、その先にあるのは監視社会である。

もちろん一定の管理は必要かもしれない。経済でも自由貿易だと言っても一定のルールは必要だ。最低限のルールがない社会は無法地帯でしかない。しかし重要なのは“最低限”のルールであって、“過度”なルールは自由の束縛でしかない。

話しは初めに戻るが、最終的な1%の安全を保障するためには、多くの場合90%の自由が失われる。さらに金銭的な負担も莫大になるが、これらの事は物事を大局的に捉える事の重要性を示している。1%の安全性にこだわりそれだけしか見えなければ、それに関して相互作用的に動く物事が捉えられないのである。

僕は物事を行う時には、あえて1%の危険性を残すことを肝に銘じている。言い方を変えると、100%ではなく99%を目指すということである。もし1%の危険が起これば、そこは潔く諦めることにしている。しかしこの1%を諦めることによって手に入れるものの大きさは絶大であることを認識することが重要である。

本丸を守り、本丸を攻める。

自分にとって一番重要なことは何か?その一番重要な事である本丸をいかに守るかは、人間にとって生命線となる。

本丸を守るために、時にはその周囲を犠牲にしなければならないこともあるだろう。すなわちそれは「肉を切らせて、骨を断つ」ということかもしれない。肉は切られても復元能力がある。骨ではないが、芯となる神経を切られては元には戻らない。

本丸を守るためには、まず本丸が何なのか?そしてそれはどのくら重要なのかを理解しなければならない。逆に、何かに挑戦するときは、対象の本丸を攻めなければならない。本丸を落とすためにまず何が必要かを考え用意周到に準備し、対象の本質を見抜かなければならない。対象の本質を見抜くとは、どこを攻めれば芯を突いたことになるかを見極めることだ。

これらのことは、学問についても言えるだろう。細かい計算を続ければ何かは出るかもしれない。しかし本質を突かないことには、それは枝葉末節的な事に終始してしまう。学問の本丸を攻めなければならないのである。

本丸を守り、本丸を攻める。このことを実行できている人は非常に少ない。しかし本丸を見極めることができれば、本丸を攻める準備の65%はできていると言える。

物事を総合的に見る。

物事を大局的に捉え、総合的に見ることが大事である。ある一つの事だけを見てそれが良いことだと思ってもそれが他の事に良くない影響を与えることもあるし、その逆もある。物事を近視眼的に捉えてしまうことは非常に危険である。

ビジネスマンや経営者でも同じだ。目先の事だけしか見えずそれだけの損得しか考えなければ成功してもその幅は小さく、小さな成功者にしかなれない。物事を大局的に捉え総合的に見ることができれば、今目の前にある事に対して損になる選択をしてでもその先にある大きな利益を取ることができる。

これらの事は研究者でも同じだ。目先の成果にこだわり過ぎれば、絶対に成功することにしか手を出せない。しかしそのような必ず成果が出るということは大概大した成果ではない。研究においてもリスクを取ることが大事である。もちろんそのような大きなリスクを取るためには、それまで小さな成果をいくつか挙げていなければならないのかもしれない。

しかし間違ってはならないのは、負けるとわかっている戦は絶対にしてはならないということだ。負け戦は「暴挙」である。ビジョンを持ち、勝つまでの道筋を立てておく。その上で「挑戦」をしなければならない。

自分には展望があっても、他人からは暴挙だと見られることもあるだろう。しかし自分に勝算があればそのような目はどうでもいい。挑戦に打って出ればよいのである。それで負ければ暴挙だったと言われればいい。勝てば自分の挑戦は正しかったと胸を張れば良いのである。

大局的に物事を捉え、自分の目で判断する。それができれば大きな挑戦に打って出る準備の第一段階は整っている。あとは自分がそれをどこまで実行し成し遂げられるかだ。

大人になるとは、自分を汚していく作業だ!

以前の僕は、人間としていかに潔癖であるかということを考えていた。しかし今は違う。大人として、そして人間として成長するとは、自分を汚していく作業で、いかに汚れた状況の中でたくましく生きるかということが大事だと考えている。そして潔癖とは弱さであると気付いた。

人間が前に進む時に必ず必要になるのが「挑戦」だ。そして挑戦をし続ければ、成功することもあるし失敗もある。しかし汚れるということは挑戦者の証なのである。

日本の社会では、多くの場合減点主義を取ることが多い。しかし減点主義を取った結果、多くの人は挑戦をしないで減点を免れるという手法をとる。この場合確かに減点はされないが、加点もされない。すなわち永遠のゼロなのである。

しかし僕は、挑戦をし続け減点を繰り返しながらも、ここぞという時に大きな加点を狙うということが大事なのではないかと考えている。永遠のゼロではその人は存在しないのと同じだ。人間の手腕の見せ所は、減点をいかに加点に変えるかということである。

これまでの横並び主義の日本社会の中であれば、減点主義で調整型の社会でも良かったかもしれない。しかし今の世の中はボーダーレスである。日本の田舎に居ても、さらにはインフラも整っていない発展途上国に居ても、スマホとパソコン一つで世界のどこの人とも繋がり、最先端の仕事ができる世の中である。そのような世界で減点主義で調整型の組織が生き残れるはずがない。事実、これまで一流企業と呼ばれたシャープが買収され、世界的なトップ企業と言われたソニーも現在では見る影もない。

今必要なのは、リスクを取りとことん前に進むことだ。そして汚れることを恐れてはならない。社会からの評価を気にしてしまうかもしれないが、自分が評価をする側にならなければならない。人生が幕を閉じる時にボロボロで見る影もない、そのような人生を送れたら本望である。

充電をしすぎるな!

自分に対する自戒を込めて書きたいと思う。

十分に休養して「充電する」という言葉をよく聞く。確かに猛烈に走り続けていればどこかで倒れてしまう。そのためにも途中で休養して充電することは大事なのかもしれない。しかし過度な充電は逆に危険でもある。

普段あまり活動もしなくて何も取り組んでいる訳でもないのに、何かにつけて休養や充電を頻繁に取る人がいるが、そのような充電は、一歩進んで三歩後退するということでしかない。この様な場合、トータルで見ると後退している。しかし一歩進んでいる事しか眼中にないので進んでいるという錯覚に陥る。

普通に生きていれば、意識しなくてもたいていの場合ある程度の充電はできている。すなわち充電に気が行っている場合は過度な充電に陥っている危険性が高い。もちろん、十分な睡眠が取れていないとか明らかに過労である場合は、意識して休養・充電する必要はある。しかし、睡眠を普通に取れていれば、それだけで65%くらいの充電はできていると言える。

人によっては、むしろより活動するためにはどうすればよいかということを考えた方が良い。休養して疲れが取れる場合もあるが、時には達成することによる爽快感も必要である。もちろん、休養と爽快感は同一ではないが、人間は適度に活動していないと逆に不調に陥ることもある。

今僕に必要なのは、取り組んでいることに没頭し、出来うる限り前進することである。意識を活動的に生きる事へと向け、一歩でも前進する。今の僕にははっきり言って休養はいらないと感じている。意識しなくても適度に休養は取れているからだ。

成し遂げる前の適度な休養も良いが、達成した後の爽快感に浸りながらのバカンスを実行するために猪突猛進したいものである。

自分の可能性を狭めてはいないか?

信念を持つということは非常に大事だ。しかし信念とこだわりは紙一重、生産性のないこだわりを持ちすぎると自分の可能性を狭めてしまう。逆に、自分の芯となる信念を確立していると、逆境においても乗り越える力になりえるし、取り組んでいることに集中して飛躍的に進歩させることもできる。

信念とこだわりの違いは何か?これはある意味結果論だと言える。成功すれば信念だと言われるし、進歩がないとこだわりだと言われる。そういう意味ではこだわりをいかに信念へと昇華するか?ここが才能と努力の見せ所である。

僕自身もいろいろとこだわっているようなところがあり、それが自分の可能性を狭めているのではないかと感じるところがある。いかに不毛なこだわりを捨て去るか。それはこれからの大きな課題である。それと同時に芯となる信念を推し進め、いかに大きな結果を出すか。これに人生を懸けている。

他人が判断する可能性はあくまで結果論であって、自分の将来の可能性を一番見通せているのは自分である。もしかしたら自分の将来を見通せていない人もたくさんいるかもしれないが、自分の将来の可能性を判断できる判断力を身に付けることが非常に重要である。

では、将来の可能性を見通すためにはどうすればいいか?そのような特効薬はない。ただ何をすればよいかははっきりしている。まずは大局観を身に付ける事。そのためには目先の事ばかりを考えてはいけない。二歩先、三歩先に焦点を合さなければならない。金銭的にもそうだ。目先の小銭ではなく、将来の余裕を手に入れることを考えなければならない。ただそのためには、現在の状況を乗り越えることが必要だ。

今を乗り越え、将来の大きな目標を手に入れることにどれだけのめり込めるか?そこに人間としての度量が試されている。

コーヒー一杯に懸る、自分の人生。

生きる上で一番大事なのは、自分の身体である。「体が資本」と言うように、健康でないことには物事を前に進めるのは難しい。それと同時に大切なのが「頭脳」である。身体と頭脳は人生の両輪と言える。そのため、いかに健康な体を維持し鍛えるか、そしていかに頭脳と精神のコンディションを高いレベルで維持するか。この二つは僕にとっての日常における最も大きな課題である。

この事とコーヒーが何の関係があるのか?僕にとっては非常に大きな関係があるのである。以前の僕はコーヒー中毒と自称していたように、毎日7杯くらいのコーヒーを飲んでいた。最近は、コーヒーは万能であって体に良い効果ばかりだというニュースをよく聞く。そのような事を聞いて、調子に乗ってコーヒーを大量に摂取し続けた。

しかし何でも適量という言葉があるように、取り過ぎれば良いというものではない。それはコーヒーも同じだ。最近、睡眠などの日常生活における不調を感じて、コーヒーの摂取の量を大幅に減らした。そこで自分の体を使ったちょっとした実験を始める。果たしてどれくらいの量が僕の体にとって適量で、もっとも良いコンディションをもたらすか?

最近は、コンディションを保つことに関してはかなり力を入れている。そのことが僕の取り組んでいることの成果へ直結すると認識しているからだ。コーヒー一杯が自分のコンディションに影響を与えるのならば、言い換えるとコーヒー一杯が自分の人生を決定すると言える。ならば人生を上向きにするためにもコーヒーに対して真剣に向き合い考え抜こうという姿勢を取り始めた。

たかがコーヒー、されどコーヒー。自分の人生の行方は何気ない自分の身の周りの事によって左右されるのかもしれない。ならば今一度自分の身の周りを見返して、何か改善できることはないかと見直してみよう。

知への挑戦。

僕は、人生とは次への挑戦だと思っている。何に対して挑戦するかは人それぞれ違うが、荒野を開拓し、多くの失敗を重ね、その中で大きな成功を成し遂げる。人生が終焉する間際までこのような挑戦をし続けることができれば本望である。

僕の人生の中で一番大きな挑戦は「知への挑戦」だ。数学や物理などの学問は僕の人生の中で最も大きな挑戦であるが、哲学や思想構成、そして生物学や歴史などの専門外の学問に対しても、自分の出来うる範囲で挑戦し続けたいと思っている。

学問とスポーツは全く違うものだと考えている人は多いかもしれない。確かに学問は頭脳を使い、スポーツは体力を使う。しかしそれらを極めようとする人にとっては、その根幹にある思想は共通するところが多いと感じる。どちらも究極への挑戦である。学問であれば過去の究極はアインシュタインと言えるかもしれないし、スポーツで言えば現在の究極は大谷翔平だと言える。

知の魅力に取りつかれた人は、知の魔力からは抜けられない。知への挑戦に終わりはないのである。全ての学問、そして全てのスポーツに言えることだが、知れば知るほど、極めれば極めるほど、それらの世界の奥深さを感じ、やるべき事がどんどん増えていく。すぐにやりつくしてしまうのではないかと感じている間は全く理解していないのだと言える。

将棋に関して僕は超初心者である。僕のような初心者には将棋の世界の片隅さえも見ることはできない。しかしおそらくプロ棋士には将棋盤の上の数十センチ四方のマス目の中に限りなく大きくて深い世界が見えているのだと思う。そのようなことは学問も同じだ。数学者や物理学者は、数式を機械的に計算しているのではない。数式の中に繰り広げられる深くで豊かな世界を視覚的に見て、それらの世界を構築し色を塗り続けているのである。

知への挑戦とは、新たな世界を構築していくことである。そして人間の深さとは、現実世界とは別に、第二の世界、第三の世界を持つことなのかもしれない。そのような世界が僕にとっては数学の世界、物理の世界なのである。

紛争鉱物。

スマホなどの最先端の電子機器には、レアメタルなどの鉱物が多く使用されている。これらの鉱物の一部は、アフリカの最貧国でも採取されている。しかしそれらの国で採取される鉱物を巡って、現在大きな問題が発生している。

アフリカのコンゴでは、多くの鉱物が採取されるらしい。埋蔵している資源だけで見るとコンゴは資源大国である。しかし現状は最貧国と言える状態だ。これらの国で、鉱物を巡って過酷な労働が強制され、暴行・虐殺が横行しているという。これらの事を聞いて日本人はどう思うだろうか?「暴行や虐殺は許されないことだが、日本人である私らには関係ないことでどうすることもできない」と思う人も多いかもしれない。しかしこれらの事に関して日本人は関係ないどころか密接な関係があり、関与することもできる問題なのである。

先ほどの話で取り上げたスマホなどの電子機器に使用されている鉱物は、これらの国で取られた鉱物である可能性は高い。この様な人権的な問題がある中で取られた鉱物を「紛争鉱物」という。私たちができる手段の内の一つは、これらの紛争鉱物が使われていないか監視することだ。最近ではこのような監視が国際的に行われ、紛争鉱物でないものにはタグをつけ、紛争鉱物に対して流通制限をしているという。

私たちは多くの電子機器に囲まれ、スマホなどの便利な機器を利用してスマートな生き方をしている。しかしスマートで、時にはお洒落に振る舞うことの背後には、このような紛争鉱物を巡って過酷な労働を強いられている人たちがいる。すなわち私たちの生活は、これらの人の人権侵害の下に成り立っていると言える。

自分たちだけが良ければいいという考えはもはや通じない。日本国内を豊かにすることは大事だが、それが世界の人たちの豊かさの下に成り立っていなければならない。しかし現実は、多くの人たちの犠牲の下に成り立っている。紛争鉱物はそのような世界の構造的な問題を提起し、これからの社会の在り方を考えさせられる。

究極の技術。

今日、録画しておいたドラマ「下町ロケット」の新シリーズを観た。前回のシリーズも非常に面白かったが、今回も何やら面白くなる予感がする。少なくとも僕は、究極の技術に立ち向かう人間と組織のストーリーは大好きだ。

ところで、究極の技術を開発するとはどういうことか?一言で言えば世界一の技術を身に付けるということだ。しかし企業が技術を開発するに当たっては、単に技術を向上すれば良いというものではない。まずはコストというものを考えなければならない。資金は有限である。もちろんお金をかければ基本的には良い物ができる。しかしビジネスにおいては費用対効果も非常に重要な要素になる。

今回の下町ロケットでは、スペックの問題が取り上げられていた。スペックは数字で厳密に表現できる。しかしスペック以外の所にも重要な要素はいくつかある。これは人間についても言える。近年、人間のスペックという言葉をたまに耳にする。収入や学歴などの数字やランクで表現できることである。しかし人間の本質はスペックではない。人間性やフットワークの軽さなど、スペックでないところに人間の本質がある。とは言ってもスペックが無関係なわけではない。スペックが全てではないが、スペックは判断要素の一つであり得るということだ。

究極の技術は同時に、究極の人間性を身に付けるということだ。学問やスポーツにおいて究極の技術を身に付けるためには、まずは人間性を高める必要がある。生きる上での哲学、そして取り組んでいる事に対して本質を見抜くための力、そして絶対的に折れないための体力も必要だ。

一つを極めるためには全てを高めなければならない。専門バカになるためには、人間としてオールラウンダーになることが必要不可欠である。

教育と国力。

日本は明治に開国して、飛躍的に発展・工業化したと言われている。それの対比として、江戸時代の農業を中心とした形態は国際的に遅れていたという認識がある。しかし本当に江戸時代の日本は遅れていて、明治になった途端に何の素養もないところに欧米の技術が流入し発展したのだろうか?

江戸時代の日本は、世界的に見て類を見ないくらいに高い識字率を誇っていたという。寺子屋では庶民が読み書きそろばんを習い、民衆知識の基盤を固めていた。さらに上流階級に属する武士の中で優秀な者は藩校などの学問所で学び、高度な人材を育成していた。その中のさらに優秀な者は、江戸に留学し昌平黌(後の東大)などの官僚養成学校で学問を究めていた。

明治維新は「断層」だと広く認識されているが、明治における急激な近代化は、江戸時代から続く高い識字率と読み書きそろばん、そして高度な学問文化が基盤となっていた。なので、文明的には江戸と明治は強い連続性によって結ばれている。

さらに政治組織においても、幕府から明治政府へと変わったとは言え、官僚組織の多くの部分は幕府官僚から明治官僚組織へとそのまま移されたという。すなわち、政府の実務レベルでは、その多くが幕府方式がそのまま明治政府へ引き継がれたのである。しかも幕府の官僚システムは非常に高度で優秀であったという。

このように、江戸から明治期においての国家システムは非常に優秀で、それが国力の大きな発展につながったと言える。しかし残念な事か、第二次世界大戦を経て国の在り方が大きく変わったとは言え、基盤となる官僚システムは江戸から現在まで継続されているのではないかと感じる。もちろん、改良はその都度なされてはいるであろう。しかし大きくは変わってはないはずだ。

そしてシステムそのものが変わっていないということ以上に問題なのは、江戸からの国家システムが作り上げた「国民の意識」が変わっていないということではないだろうか?その代表例が「出る杭は打たれる」という意識である。そしてそれは、横並び意識の蔓延でもある。

しかし今日本に最も必要とされているのは、「出る杭を作り上げる」ということではないだろうか?これは出る杭になる“人間”を創り出すことであり、また出る杭となる“組織・企業”を創り出すことである。出る杭に当たる企業とは現在で言うと「GAFA(Google・Apple・Facebook ・Amazon)」が代表例と言える。トヨタなどは非常に大きな企業だが、出る杭というより“優等生”といった言葉が適切であろう。

また、これらのことは企業だけに限らない。科学の研究においても言えるし、スポーツにおいても言える。日本は優等生を作るのは得意だが、出る杭を誕生させる度量がない。ただスポーツにおいては近年、大谷翔平選手をはじめとする規格外の出る杭が誕生しているように感じる。

優等生の頂点が天才だとすれば、今日本が一番必要としているのは「異才」だと言えるのではないだろうか?昔、「異能流出」という言葉を見たことがある。これからの日本が現状維持を目指すのならば、その先にあるのは大量の異能流出である。

期限を設けて成し遂げる大切さと、長い目で見て取り組む大切さ。

物事に取り組むに当たって、多くの場合は期限が設定されている。ではなぜ期限が設けられているのか?その究極的な答えは「人間の命は有限」だからである。単純に人生80年だと計算しても、その中でできる事はたかが知れている。確かに多くの事が出来るかもしれないが、地球上全体から考えればその量は塵ほどでしかない。

物事を期限までに成し遂げるということは非常に重要だが、その一方で期限を設けずに長い目で見て取り組むということも大事である。もし人生で一番大切なことがあるのならば、それは数か月や数年でできる事ではないだろう。時には人生すべてをつぎ込んで成し遂げられることかもしれない。そう意味で「人生」という期限はあるのかもしれないが、半永久的だとも言える。

近年では、ほとんどの事に対して短期間で目に見える形で結果を出すことが求められることが多くなっている。時代の流れは速く、一年もたてば古くなってしまうことも多い。新型iPhoneも長く見て寿命は5年というところだ。

しかし本当に重要な事は、年月が経っても古びない。それが真の価値というものだ。科学研究においても本当に重要な基礎研究は何十年、何百年と受け継がれている。しかし99%以上の研究は数年で消える運命にある。

自分自身の人生のミッションにおいて、時には追い込んで短期間で仕上げなければならない時がある。それができなければ二度目はない。そのような時にそれを成し遂げられるかどうか?自分自身の才能と努力と人間としての総合力が問われ、自分という人間が試されている時かもしれない。

賢く、時にはバカであれ!

賢いとは、決して勉強ができるとか多くの知識を知っているということではない。賢いとは、生きる姿勢である。また応用や解釈が豊富で、本質を見抜けるかということである。また、本当に賢い人は普段はバカになれる。そして徹底的にバカになり切れる。

賢い人は騙されることができる。逆に愚かな人は人を騙そうとする。もしかしたらこれらのことは一般の認識とは逆だと思うかもしれない。しかし本当に賢い人は「騙されても、人を絶対に騙さない」という生き方を貫くことができる。

賢い人は、自分の信じることに対しては徹底的に貫く。そして徹底的に真理を追求する。しかしこれは宗教を信じるとかそういうことではない。なぜなら宗教には根拠がないからだ。人を信じることは大切な事だが、その前に自分の思考を徹底的に信じなければならない。物事の真理は自分の頭によってもたらされるのである。

愚かな人は、目の前のものしか見えない。現代的に言えば、ネットの情報を鵜呑みにするということかもしれない。目の前の事やネット上の事は“判断材料”でしかない。大事なのはそれらの背景やその奥に潜む本質である。

本質はどうしたら見抜けるか?僕にはそのような特効薬があるとは思えない。ただ一つ言えることは、「徹底的に自分の頭で考える」ということだ。これなしに本質はつかめない。

学問の教科書に載っていることは、過去の常識でしかない。しかし最も大事なことは、「未来を創る」ということである。だから、教科書や書物を読むばかりでは過去の常識を蓄積することしかできず、未来は永久に創れない。やはり本や教科書を基に自分の頭で思考することが重要になる。

僕のブログのタイトルは「考える部屋」である。だから知識を延々と書くなどということは絶対にしない。時には、自分の考えたことや自分の生き方のメモになっているかもしれない。しかし僕の書いた記事が何かを考えるきっかけになればと思っている。

考える事は、生きることの一番の核だと僕は思っている。

永遠の命は違った形で?

昔から(一部の?)人間は、永遠の命を求め続けてきた。僕自身は永遠の命には全く興味がなく、むしろ寿命があるからこそ生きていることに大きな価値があると思っている。しかしそれとは別に、永遠の命というものが実現可能か?という問題に関しては大きな興味がある。

余談だが、昔読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥」では、火の鳥の生血を飲むと永遠の命が手に入ると伝えられ、人々が火の鳥を追い求めるというストーリーが展開されている。そこで書かれている永遠の命を手に入れた人間の末路は悲惨で壮絶であった。もし本気で永遠の命を手に入れたいと思っている人がいるのならば、火の鳥を一読してもらいたいと思う。

永遠の命とは程遠いが、寿命を延ばすことに関しては人類は大きな成果を挙げてきた。そして2018年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑博士らが開発したオプジーボは、一部の(全部ではないと強調されている)ガンを征服することに成功し、その延長戦上にガンの征服が見えてくるのかもしれない。しかし例え人間がガンを征服したとしても、それは病気の一つ(しかし最も大きな病気である)を征服したに過ぎず、永遠の命を人類が手に入れたとは全く言うことができない。

これまでは、仮に永遠の命を手に入れることがあるとすれば、それは医学の進歩の延長線上にあると考えられてきた。(もちろん僕はそのようなことは不可能ではないかと考えているが。)しかし近年の(ITを含む)科学技術の発展により、違う形で永遠の命というものが実現されるのではないかと思い始めた。そのきっかけは、一冊の本「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)を読んだことだ。この本では、人間の意識を機械に移植するということが究極の目標だと書かれている。そして著者の渡辺博士はそのための基礎研究として「意識とは何か?」ということを科学的に研究されている。渡辺博士の研究は単なる思い付きによるものではなく、細胞レベルからマクロの人間レベルに至る地道な実験によるものである。

もし人間の意識を機械に移植できれば、人間は半永久的に生きることができると言えるのではないだろうか。現時点ではこのようなことが実現できるかどうかは不明である。しかし人間の脳は一種の自然コンピューターだと見なせ、人間が現実に存在するという事実からコンピューターを人間化することは原理的に可能であると言える。ただ、意識を科学的に解明するということはとてつもなく手ごわい問題であり、そのような基礎科学的問題の解明にどれだけ時間がかかるかもわからない。しかし科学的興味として、非常にエキサイティングな問題であることには間違いない。

永遠の命は医学ではなく、IT及びコンピューター技術(ともちろん生命科学)によりもたらされる可能性があるということを渡辺博士の著書では示唆されている。そのようなこれまでの常識を180度ひっくり返すような未来が来るのかどうか?興味があるが、それまで現在生きている人間が生きているのかどうかは分からない。

最先端の理論が一番チープだ!

科学理論や世の中の理論において、多くの場合最先端の理論が一番チープである。チープという言葉はネガティブな意味に捉えられるかもしれないが、言い方を変えれば「荒削り」だと言える。

理論というものは、提出された時が一番斬新で、それが故にバグも多い。しかし忘れてはならないことは、一番最初の原論文には多くの場合、重要なエッセンスの全てが含まれている。だから理論の本質を知るための最も有効な勉強法は、原論文を読むことである。

しかし、洗練されてはいるが、技術的な話に終始し本質的な発展が全くない論文も多い。そして現実はそのような論文の方が本質的な論文よりはるかに多い。それは執筆論文の数が最も大きな評価を受けるという現在の風潮の弊害であると言える。

ごく少数のトップレベルの学者を省いて、普通の学者が短期間に何本も本質的な論文を書けるわけではない。しかし評価は継続的に受けるわけだから、本質的でなくても論文を書くしかないのだろう。

最先端の論文の9割以上は数年後には消える運命にある。だから評価はそれに残った1割に対してなされるべきである。教科書のリファレンスに載るような論文は、多く見積もっても1%も無い。そして教科書のリファレンスに載っている論文は、多くの場合同一著者の複数の論文が引用されている。

研究者にとっても、最新の論文を読みあさるのではなく重要な論文をしっかりと読み込むことが求められる。一本の重要論文は百本の最新論文よりも得るところがある。このことは論文に限らず一般書についても言える。最新の書物を読むよりも、一冊の岩波文庫の短編を読む方が圧倒的に得るものがある。

最新を追いかけるだけではなく。原典・原論文を時間をかけてしっかりと読み込む精神的な余裕を身に付けることが重要である。

大学は何のためにあるのだろうか?

近年、大学への進学率は非常に高くなっており、とりあえず大学に行くという人も多いだろう。もちろんそれは悪いことでは全くないが、しかしその一方、大学に何をするために行くか?また、大学は何のためにあるのか?という議論が社会でほとんど行われていないことに危機感を感じる。

大学は何のためにあるのか?と聞かれたら、多くの人は学問を修めるためにあると答えるだろう。しかし体育大学などではスポーツがメインであるように、学問以外の目的のためにある大学もある。(もちろん体育を学問的に研究されてもいるが。)また、専門職大学(大学院)のように、実務を目的とした大学も存在する。なので、大学の主目的が学問であると一概に答えることはできない。

近年、益々顕著になりつつあるのが、大学の就職予備校化だ。このことに異論がある人も多いであろうが、現実は就職が最大目的だという人の方が圧倒的多数であろう。もちろん、希望する職種を目指して大学で学問に励むという頼もしい強者も多くいるが、その一方、大学の授業そっちのけで就職活動に埋没する人には疑問を感じる。

もちろん、大学で学問を学ぶ力と就職してから必要になる力はかなり違う。なので、就職するために大学で真剣に学ぶ必要はないという声も聞かれるかもしれない。しかしそれなら、そもそも大学に行く必要は全くない。大学が就職予備校と化す前に、就職予備校というものを本当に作ればよいのではないかと強く感じる。それは就職予備校というものに対してのネガティブな意見ではなく、就職予備校で徹底的に実用的知識及び行動力を身に付けるというポジティブな意見からだ。大学に行くのなら、学問に励みつつ就職活動を遂行してほしいと強く願う。

僕の身の周りであった出来事であるが、現実として学問に真剣に励んでいる人がそれが故に就職にあぶれ、ゼミ中に教室の後ろで携帯をいじくっている人が就職活動に励み日の目を見るということが至る所で見られた。これは大学及び社会の構造的欠陥ではないかと強く感じる。

とは言え、好きで学問を修め研究を行っている人にとっては、このような事はあまり気にしないのかもしれない。大学でサボって上手く就職した人も、仕事で成果を出せれば大学時代のことなどは小さな問題なのかもしれない。とにかく自分がすべきことを見つけ、それにまい進することができれば、その人にとっても社会にとっても大きな財産になるのではないかと強く感じる。

今すべきことに対して、一歩でも前に進むことを考え行動していく。これができれば人生に対してそう大きく迷うこともないのではないだろうか。

(過度な)整理整頓は必要ない!

子供の頃から整理整頓をしなければいけないと教えられた人は少なくないと思う。おそらく学校では例外なく整理整頓をしろと強制されてきたであろう。普段から几帳面に整理整頓ができる人はいいが、僕のように整理整頓が苦手な人にとっては苦痛でしかなかった。

しかし、僕は身の回りのものをある程度散らかすということは大事なことだと思っている。世の中というものは、すべてが整理されている訳ではない。混沌とした中で何がどこにあるのか?そしてその中で本質的な所はどこか?このような事を認識する嗅覚は混沌と散らかった中で養われるものだ。

身の回りを整理整頓すること以上に大事なのは、頭の思考を整理整頓することだ。そして相反することのようだが、頭の整理整頓は身の回りの物をある程度散らかすということから養われる。残念なことに、身の回りを(過度に)整理整頓している人は、頭の思考回路の本質的な整理整頓に欠け、形式的な整理に終始している人が多いように感じる。

ここで一つ実例を挙げよう。僕が大学院時代に接した研究者の中には非常に優秀な研究者が何人かいた。その中の一人にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を取るのではないかと言われていた優れた数学者がいた。その数学者の頭の思考回路は非常に明晰だ。しかしその一方、研究室の机の上は専門書が山積みでプリントや論文が溢れかえっていた。一体この数学者はどこで研究をするのだろうと不思議に思っていたが、器用に場所を見つけ、次から次へと重要な論文を書き上げていた。その数学者の印象は僕の中に強烈に焼き付けられている。

確かに自分の活動するフィールドによって求められる能力は違う。だから人によっては整理整頓をすることは非常に重要であろう。(というより、このような人の方が圧倒的に多いかもしれない。)あくまで僕の個人的な実感であるが、数学や物理などの究極的にクリエイティブな分野では、「散らかった中でどのように物事を試行錯誤し俯瞰するか?」という能力が求められる。しかし常に(過度に?)整理整頓された環境ではそのような試行錯誤を行う環境に乏しいし、また本質的でないところに気をとらわれ過ぎてしまう危険性がある。

身の回りの物の整理整頓よりも、頭の中の整理整頓の方が圧倒的に重要である!

頑張れる、頑張ろう!

最近は、頑張るということがなぜかネガティブな意味で捉えられることがあり、少し寂しい思いがする。頑張らずにどう生きるか?それも一つの生き方としてはありなのかもしれないが、大きな目標へと進んでいる人間にとって頑張ることは必要不可欠だ。他人に絶対に頑張れとは言わないが、自分が頑張ることに関しては誰も責めることはできない。

最近、僕の内面に関して少し変化があった。少し前のブログでも僕がコーヒー中毒であることを言ったが、最近、コーヒーを飲む量を大幅に減量し、カフェイン中毒からの脱皮を目指している。

現在はコーヒー中毒から抜け出す途上であるが、カフェインの摂取を大幅に減らしたところ、精神的な面を含む内面に関して変化があった。明らかに思考パターンなどの精神的な面で良い方向へと変化してきているのである。そしてカフェイン中毒から抜け出すことにより心身の調子も良くなり、いろいろとさらに頑張れるような気になってきたのである。

これまでは頑張ろうと思っても、頑張り切れないことがよくあった。しかし今はこれまで以上に頑張れる気がする。ならば頑張るしかない!一日コーヒー7杯飲んでいたところを、一日1杯に抑えた。するとその1杯がこれまで以上に元気をもたらしてくれる。睡眠の質も明らかに良くなった。これらの変化は自分自身の試行錯誤の成果だと思っている。やはり考えながら生きるということは非常に重要である。

今は頑張れる!ならば頑張ろう!期限は2019年12月31日!絶対にこれまでに結果を出すと決めている。

日本に居ながら、日本にいない。

江戸時代まで、日本人にとって日本が全てであった。そして明治に開国してから地球上の世界が全てになった。現在も、数える程の人間が宇宙に行ったとは言え、人間の活動は事実上地球上に留まっている。

飛行機などの交通が発達して、海外に飛び立つことはそんなに難しいことではなくなった。世界を飛び回るビジネスマンから科学者、そしてジェットセッターと言われる人が多くいる。

そして現在は次のステージに突入した。ITの発達により瞬時に(仮想的に)世界を飛び回ることが可能になったのだ。すなわち、日本に居ながら世界的な活動を行うことが可能になったのである。

しかし本当に大事なことは、飛行機で物理的に世界を巡ることではなく、世界を思想で包むことである。科学においてもビジネスにおいても、世界を包むレベルで活動することが求められるのである。

日本に居ながら、日本に居ない。そのような考えで世界的レベルの活動を行うことも十分可能だが、僕自身も物理的に海外に行き、世界的な評価の下で研究活動を行いたいと強く思っている。またそれは現在の大きな目標でもある。

過去に誇れるものはない!

人間は三つに分けられる。過去に生きる人、未来に生きる人、そして現在に生きる人。僕自身は完全に未来に生きる人だと思っている。もちろん現在を生きている訳だから、現在を悔いなく生きることは非常に重要だ。そして過去に生きた出来事は事実なのだから、過去に生きた歴史は変えられない。

しかし、どこを見て生きるかということは非常に重要である。そこで僕が心に留めているのは、「過去を見過ぎず、過去に生きない」ということだ。過去を見るとは、過去の学歴、過去の交際、過去に手に入れたものなど、過去の栄光を誇ることだ。あるいは過去の暗い人生を卑下することかもしれない。

僕には過去に誇れるものはないし、過去を卑下することもない。現在の自分にとって過去は歴史的事実でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。そして最も重要な事は、過去の事実は変えられないとういうことだ。だから過去に引きずられることはデメリットしかないと考えている。

しかし未来は変えられる。ならば未来を自分の目指す方向へと変えることに注力すべきだ。過去の栄光を誇るのではなく、未来の栄光を胸に秘めるべきだ。未来があるからこそ、現在の生き方に対して試行錯誤できる。

未来を生きることができれば、「今、人生が面白い」と心の底から思うことができる!

自然体でなくていい。

自然体でいることが大事だという話をよく聞く。たしかに自然体でいることにより素の自分が出せることになり、精神的にも対外的な印象に関しても非常に良い効果が出せるように思える。しかし僕は、「自然体であることが自然」ではなく、「自然体でないことの方が自然」ではないかと感じる。

自然体でいることに神経を尖らせ、むしろ自然体が自然でなくなることがよくある。そのような時は、「自然体でなくていい。むしろ自然体でない自分を出すことが自然だ」という発想の転換を行うことが、あらゆることに良い影響を与える。

そもそも、人間が裸ではなく服を着て生活をするように、自分を装って表現することは自然な事である。自然体ではない自分を装うことは、むしろ自分という人間の自己表現だと言える。大事なのは、自然体から脱皮して、いかに自分を良い方向へ作るかということである。

普段の人ごみの中でもまれていくと、自分が自分で無くなっていくような感覚にとらわれることがある。しかしそれは、自分で無くなっていくのではなく、単に自分が変化しているだけなのである。そのような変化した自分も、自分そのものなのである。だから、自然体でない自分というものは、一種の自分の変化だと言える。

ただし、自分の変化の方向は、成長する方向へ向けなければならない。しかし現実は、退化する方向へ変化する人も多い。自然体でない自分を作るということは、自分に対するプロデュースである。いかにセンスのあるプロデューサーになるか?自然体でない自分を構築するのもなかなか面白い挑戦である。

自分を守る。

僕の人生は非常に攻撃的であると思っている。他人から見てどう見えるかはわからないが、何事にも積極的に出て行こうと思っている。しかしそのように出るためにも、自分という存在は確立していなければならない。自分が確立していなければ出るものも出られない。

「攻める」という言葉からは対極的にあるようだが、僕は「自分を守る」ということも大事だと思っている。自分を確立するための第一歩は、自分を守ることから始まるからだ。

攻めていくということは、周りから攻められるということでもある。攻められるのだから、自分を守る術を持たなければならない。しかし剣と鎧のバランスは非常に重要である。

昔、ドラゴンクエスト(現在も続編は出ている)というロールプレイングゲームにはまっていたことがある。剣で攻撃力を上げ、鎧で防御を固め、戦い経験値を上げていく。今思えば非常に良くできたゲームである。僕らが生きているこの世の中は、モンスターを倒すわけではないが、一種のリアルロールプレイングゲームだとみなすことができる。そのような現実世界の世界観を詰め込んでいたからこそ、ドラクエはヒットしたのだろうか?

話しは戻るが、自分の守り方には二種類あると思う。一つは攻撃的な守り、もう一つは消極的な守り。消極的な守りは自分の世界観を狭め、知的活動も退化していく。攻撃的な守りによって自分を高め、どのような険しい世界に打って出ても攻めていけるようなタフな自分を作りたいと常々思っている。

仮に逃げるとしたら、「研究に」だ!

普段生きていれば、時には逃げたくなる時もある。今やっていることに対して、これが果たして意味のあるものか?と思い、くじけそうになる。そのような現実に対してどう対処すべきか?あるいはどこに逃げるのか?

「逃げる」という言葉にはネガティブなイメージが付きまとうが、同じ逃げるにしても、どこに逃げるかによってその意味合いは大きく変わる。破滅的な方向へ逃げるのか?それとも建設的な方向へ逃げるのか?そのどちらに逃げるかによって、その人の人間性が試されると僕は思っている。

そのどちらに逃げるのが良いか?僕はそれをバネにして建設的な方向へ逃げることを心がけている。その建設的な方向とは、僕の場合は数理物理の研究に逃げるということだ。数理物理とは僕にとって生きがいであるが、同時に避難地でもある。ここに行けばまず大丈夫という絶対的な安堵感がある。とは言え、時にはそこにこだわるがあまり非常に苦しい立場に立たされることもある。それはそれで試練と受け止め、乗り越えていかなければならない。

では破滅的な方向とは何か?例えばお酒に逃げるとか取り組んでいることを投げ出すとかいろいろあると思う。では破滅的な方向へ逃げることは悪いことなのか?僕はそうは思わない。時には破滅的な方向へ逃げるのもいい。自分が完全に破滅しない程度に逃げるのは良いと思う。そしてそこからリスタートし建設的な道を歩めばよいのである。

生きていればいろいろと苦しいこともある。そのような時に研究に逃げられるようにその避難地は確保しておきたい。一番苦しいのはその避難地がなくなることだから。

健康マニア。

企業のトップになるような人は、健康マニアが多いという話を聞いたことがある。やはり企業のトップとして最高のパフォーマンスを発揮するためには、何を差し置いても健康であることが一番重要であるということかもしれない。

誰しもが健康でありたいとは思っているだろうが、健康マニアか?と言われるとマニアというほどではないと答えるだろう。しかし先頭に立って物事を突破するためには、何事においてもマニアだと言われるような突出するくらいの覚悟を持っていなければならない。もちろん本業ではマニアよりもさらに上のプロフェッショナルというレベルの事が要求される。しかし本業以外に関してもセミプロになるくらいの考えがなくてはいけない。あるいはそれが嫌ならばゼロでいる方が良い。中途半端に何となくというのが一番得るものがない。

近年はネットが発達し、一般的な情報はすぐに手に入るようになってきた。このようなネットの力を利用しない手はない。健康に関する情報なども、ネットや雑誌を利用してどんどん入手すればいい。しかしネット情報というものは玉石混在している。そのため、偽情報に振り回されることだけは避けなければならない。情報の真偽を見分ける方法はいくつかあるが、まずは情報の発信源は信頼の置けるところか?そして複数のソースから確認する、ということくらいはしなければならない。

現代の健康マニアへの道は情報戦である。いかに“信頼”のある“多くの”情報を手に入れるかということに尽きる。そのような情報を手に入れた後は、それを基に自分流にアレンジし実行するだけである。健康マニアになって、トップを目指そう!

ノーベル賞から一般人が学ぶべきこと。

先日は本庶佑教授のノーベル医学・生理学賞受賞で盛り上がったが、ノーベル賞を一夜騒ぎのお祭りで終わらせるのではなく、科学者でない一般人にとってもノーベル賞から学ぶべきこと、考えるべきことはいろいろある。

ノーベル賞から学ぶべき最も重要な事は、基礎科学は本来、役に立つかどうかで評価されるものではないということだ。確かに重要な科学的成果が人々の役に立つことは往々にしてある。しかし役に立つかどうかということは科学の一側面しか表していないのである。特にノーベル賞受賞対象となる基礎科学は、極論を言うと役に立つかどうかということとは全く関係ない。実際、2017年のノーベル物理学賞受賞対象となった重力波は、少なくとも現段階では全く役に立つめどは立っていない。しかしそれでも科学的価値は絶大なのである。

科学は役に立たないと意味がないと思っている人は、“科学”と“科学技術”を混同しているのではないか?科学技術は確かに役に立たないと意味がないのかもしれない。しかし科学の価値は、役に立つかどうかという所とは全く別次元の所にある。役に立つかどうかという物差しとは全く違う物差しが必要なのである。

以前僕のブログで、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを書いた。これは僕が百歩譲って書いた論である。百歩譲って科学の価値を役に立つかどうかということに置いたとしても、役に立たない科学は重要だということである。

今週はノーベル賞の発表が続くノーベルウィークであるが、今一度、役に立つかどうかという尺度とは違った観点から科学を眺めてもらいたいと強く願う。

本庶佑教授、ノーベル医学・生理学賞受賞!

2018年のノーベル医学・生理学賞に、京都大学の本庶佑特別教授が受賞されることになった。心よりお祝いを申し上げたい。

本庶佑教授の名前だけは以前から知っていたが、今回の受賞報道で抗がん薬のオプジーボを開発された方と知って、そうだったのかと納得した。やはりノーベル医学・生理学賞を受賞される方々は、単に基礎研究として大きな成果である(これは最も重要だが)だけでなく、多くの人々の命を救う可能性を秘めているというところが、また非常に素晴らしいところである。このことは、iPS細胞の山中伸弥教授にも言えることではないだろうか。

本庶教授は会見で、「教科書を信じないことが大切だ」と言っておられた。これは非常に共感するところだ。学校では教科書は絶対だと教えられるが、そのような教育は権威や権力に従い盲目的になるというところへつながっていく。自分で何かを発見するためには、まずは過去の成果を疑うことから始まり、過去の成果を覆すことにより新たな成果となる。

特に医学へのつながりの強い生物学や、過去の史実が次々と否定される歴史学では、過去の常識が現在の非常識となることが多い。そして絶対的だと思われている物理学などの科学全般において、科学を盲目的に信じることは最も非科学的な行動だということを心に留めておかなければならない。

今週のいわゆる“ノーベルウィーク”はまだ続く。他の賞でも日本人研究者の受賞者は出るのだろうか?