月別アーカイブ: 9月 2018

人生、努力している途中。

高い目標があれば、それを達成しようと努力をするのは自然な事だ。では今までの人生の中で最も努力したことは何だろうか?スポーツとかいろいろあるだろうが、多くの人は学生時代の勉強だと答えるのではないだろうか?もちろん勉強することは非常に建設的な事であり、非常に意義のあることだと思う。しかしその絶頂を「受験」という一イベントだけに置くのは非常にもったいないことだ。

勉強で得たものは受験で合格した後は無用の長物になるのだろうか?そんなはずはない!人生において一貫して意味を持つものだからこそ、勉強は評価されるのである。逆に言えば意味のある勉強をしなければならないということである。学校を卒業し世の中を走っていくにあたって、それまでに努力して勉強したことを武器にして進んで行かなければならない。

人生観というものは人によってさまざまであるが、僕にとって余生という概念はない。百歩譲って余生があるとすれば、それはもう死んだものと捉えて何事にも恐れずに飛び込んで行ける度胸を身に付けるものであると僕は思っている。そういう意味では僕のこれからの人生の中にも余生ができるのかもしれない。

僕には高くて大きな目標がある。それを成し遂げるためには人生常に努力していかなければならないと思っている。今、僕の人生は努力している途中である。

現代社会は、不平等はなくなりつつあるが、偽平等な社会になりつつある。

現代社会では、不平等の是正は急務である。現在でも大きな問題である人種差別から男女差別などは最も是正しなければならないことであるが、そのような大きな問題でなくても是正しなければならない問題は山積みだ。

しかし僕が最近非常に問題だと思っているのが、不平等ならぬ“偽平等”だ。偽平等は平等の顔をして広まってくる。確かに問題のある不平等は是正しなければならないが、今問題なのは“表面的”な平等である。

そもそも不平等を是正するためには、まずそれのどこが問題なのかということを表面化しなければならない。それによって改善の方向性が見えてくる。しかし改善の方向性を示さずにただ不平等を解消しなければならないというだけでは、その先は偽平等になる危険性がある。偽平等は時には不平等よりも危険な存在になり得る。

平等と横並びは似て非なるものである。これを混同してしまえば、多くの発展を犠牲にし、多くの才能と多くの自由を奪い去ってしまう。さらに偽平等が蔓延してしまえば、その先にあるのは監視社会であると僕は考えている。

平等とは肉体と精神の自由をもたらすものでなければならない。人間の思考と行動の自由を束縛する偽平等はこの世の中にはいらない!

コーヒーはお好きですか?

コーヒーは心と体にゆとりをもたらすものだと僕は感じている。朝一杯(僕は三杯)のコーヒーはリラックスをもたらし、一日の活力源ともなる。お酒がなくても生きていけるが、コーヒーがなくなれば僕は生きていけない。完全にコーヒー中毒である。

先日、海外から帰国していた友人とコーヒーを飲む機会があった。1年に一回の帰国ということであるが、数回コーヒー(とお酒)を飲む機会ができた。お酒を飲みながらの話はもちろん非常に楽しいものだが、カフェでのコーヒーを飲みながらの会話も僕は非常に好きだ。お酒を飲みながらの会話とコーヒーを飲みながらの会話の両方を持てたことは、非常に有意義であった。

コーヒーを飲むと言っても、飲む場はいろいろある。家で飲むことや外で缶コーヒー飲むこと、そしてカフェで飲む場合はスタバやドトールなどの廉価なコーヒー屋さんからホテルのラウンジのようなちょっと高級なカフェまで。これらのどの場で飲む場合でも、それぞれ良いところがあっていいものだ。

コーヒーは柔らかいイメージがあるが、時には頭を働かせ、学問の研究の武器にもなる。たかがコーヒー、されどコーヒー。コーヒー一杯の使い方によって自分の生活を変えることができ、また良い人間関係を構築することもできる。

コーヒー一杯に詰まっている僕の想いは、非常に深いものである。

課題を一つ一つ乗り越えていく。

複数の課題を一気にこなすのは、ほとんどの場合無理である。だからまずは一つ一つの課題に真摯に向き合い、乗り越えていくことが重要になる。

乗り越えなければならない課題には、いろいろなものがあるが、大きく二つに分けると、外的環境に対する課題、そして精神的な内面に関する課題であろう。外的環境というものは自分一人ではどうにもならない側面もあるが、自分のアクションによって環境を変えられることも大いにある。自分の置かれた環境に対して周りの責任だと責めたくもなるが、そのような考えを持ったところでほとんどの場合何の解決にもならない。変えられるところから地道に変えていこうという行動を重ねることによって、自分を取り巻く環境が次第に晴れていく。

では、精神的な内面に関する課題をどう克服するか?やはりこれも外的環境と同じで自分の自分に対するアクションを重ねるしかない。しかしもちろんこの場合のアクションは、物理的な行動だけではない。自分の思考や意志に対してのコントロールが中心になる。とは言っても、これはなかなかイメージしにくく、何をどう行えばいいのかなかなかわからないかもしれない。しかし物理的アクションと同じく、このような精神的アクションを行うことは非常に有効的に働く。

肉体と精神は人間の活動の両輪である。肉体によって物理的行動を起こし、精神的活動によって自分というものを確立していく。まずは肉体的にも精神的にも、アクションを起こさないことには何も前には進まない。

良いところはあるが、欠点もある。

自分自身をどう評価しているのか?自分への正確な評価というものは大変難しいことであり、どうしても自分を色眼鏡を通して見てしまう。そうなると当然、自分への評価は客観的な評価とはかけ離れ、高く見積もってしまう。あるいは逆に自分を卑下しすぎて低く見積もってしまうこともある。大事なのは高く評価することでもなく、低く評価することでもなく、正確に評価することである。

では僕自身はどうかと言うと、高めに見積もってしまう傾向にあるように思える。基本的に自信がある。しかし自信を持つに当たって、その根拠がないわけではない。そしてその高みは、自分をそこへと努力して上り詰めようという目標でもある。もちろんその結果に対する評価は周りが行うことであるが、高い目標を持ってそこへと邁進する力は絶対的に必要だと考えている。

では少し見方を変えて、自分の良いところはどこか?また欠点は何か?という問いを考えてみよう。この問いに対する答えは大きく二つに分かれるだろう。良いところはたくさんあるが欠点もたくさんある。あるいは欠点はないが良いところもあまりない。もちろん凄く良い所ばかりの聖人のような人も世の中にはいるだろうし、また悪いことばかりの人もいるだろう。しかし多くの人は良い所と欠点のバランスが取れている。

ではなぜ良いところが多い人は欠点も多いのか?その大きな理由は、このような人は総じて活動的だからと言えるだろう。自分が進んで前面に出るからこそ、欠点を作ることにもつながる。人生で言えば、大きな成功を成し遂げるためには、それを超えるだけの多くの失敗を経験しなければならないということだろう。もちろん、このような論は少し強引なところがあるが、僕は失敗を重ね、そういう意味での汚点をどんどん作っていきたいと思っている。

良いところも悪いところもない「当たり障りのない人間」だけにはなりたくないと思っている。とは言え、もちろん当たり障りのない人間が悪いわけではない。ただ自分の人生観として、どんどん前に出て良いところも汚点もどんどん作り、足跡を残していきたいと思っている。ただ「フェア」な人間でいることは忘れないように心に銘じておかなければならない。

死を意識することと、死ぬことは違う!

何かに関して窮地に立たされた時、死を意識する人は少なからずいるだろう。そのような「死を意識すること」は、僕は非常に重要な事だと考えている。

社会的には、死ということに対して非常にネガティブに捉えられることが多い。もちろん、生きているということは何より貴重な事であり、普段の生活において死を選ぶということはありえない。

しかし僕は、「死を選ぶ」ということは人間に許された最大の権利だと考えている。もちろん、普段はそのような権利を行使する必要はない。しかし自分の心の中で死を選ぶという選択肢があるからこそ、思い切った行動を取り、思いっきり生きれるのだと思う。

近年は医療や生活の質の向上により、ますます長寿社会になりつつある。そのような事を見ると、現代社会は昔よりはるかに生きやすい社会になったと思うかもしれない。確かに表面的には圧倒的に生きやすい社会になっている。しかし果たして本当に現代は生きやすい社会になったのだろうか?社会の表面的な部分、例えば世の中が便利になったとかそういう部分ではなく、人間的な活動を行う上で本当に快適になったのかということを真剣に考えて社会を築いていかなければならない。

少し話は逸れたが、死というものを徹底的に忌避するのではなく、死を意識することによって生を魅力的にしていくということが現代社会には大きく欠けているように感じる。

深い関係と、表面的な関係。

色々な人と深い関係を繋げることはもちろん良いことだ。僕も様々な人と深い関係を築いていければと常々思っている。しかしだからと言って、表面的な関係は悪いことなのかと言うと、僕は最近はそれも悪くないと思っている。例え表面的な関係であっても、それを基に自分を高め、良い環境を構築していくことはできるからだ。また、ビジネスにおいては表面的な関係が幅を利かせることは良くあることだろう。

僕自身はそんなに人間関係は多様ではないし、少なくても心置きなく話せる少数の人たちがいれば良いと考えている。しかし、多くの軽い関係を築くことは僕の重要な課題でもある。

最近の若者は、社会では必要最小限の付き合いしかせずにプライベートを大切にするとよく聞く。職場での飲み会には参加しないという声もよく聞く。そのような考え自体悪い考えではなく、これからは社会全体がそのような方向へと進んで行くのかとも強く思う。

僕は結構情熱的で熱い人間だ。人間関係にどっぷりと浸かることも多々ある。しかしそれが故に、自分で勝手に傷つくことも多々ある。そのような事を考えると、軽い関係を築き、深く立ち入らないということも、生きる上で非常にポジティブに働くのではないかと考えている。

深い関係と軽い関係をその時々で使い分け、それぞれの良いところを取っていければ、精神的にも良い状態を保つことができ、人生が上手くいくのではないかと考える今日この頃である。

プレッシャーの中で、いかに結果を出すか?

このブログでは何度も大谷翔平選手の名前を出しているが、なぜそこまで大谷翔平選手の名前を出すのかと言うと、大谷選手からは学ぶべきところも考えるべきことも大いにあるからだ。そういう意味でも、大谷選手は人間としても素晴らしいものを持っていると思っている。

大谷翔平選手はあらゆる意味で凄い。打者として、投手として、そして人間として、そしてこれからの可能性に関して。はっきり言って、大谷選手の魅力に僕は惚れている。大谷選手に惚れているのは、僕だけでなく老若男女数多くいるだろう。

ここでは、プレッシャーの中でいかに力を発揮するかということを考えてみよう。しかしこんなことを書かなくても、プレッシャーの中で活躍する大谷選手を見れば、それだけでいろいろと得るところはあると思う。

夢を成し遂げるためには、もちろん努力や才能も必要だが、僕は最近忍耐力が重要だと感じている。もちろん、普通の生き方を受け入れてしまえば、そこまでプレッシャーを感じる必要もないのかもしれないし、どうしても耐えられなくなれば逃げればいいのである。しかし、自分で進むべき道を選び、自分の意志でやり遂げると決めたならば、簡単に逃げることはできない。さらに結果を出すまではあらゆるプレッシャーがかかり、それを耐えるための忍耐力が必要だ。

近年、努力だとか忍耐力とかいう言葉は避けられる傾向がある。もちろん僕もそのような事を人に押し付けようとは全く思わない。楽していきたい人は楽をして生きればいいのである。楽して上手く生きる人も世の中には多くいる。だからそのような生き方を選ぶことは決して悪いことではない。なので、努力だとか忍耐力などという言葉は僕のたわごとだと思ってもらっていい。

人にそのような事を押し付けることははっきり言って良いとは思わないが、自分が忍耐力を持って努力し、夢の実現を成し遂げようとすることに対して、人から非難される筋合いはない。しかし気を付けないといけないことは、無思考で努力を行わないということである。無思考での努力は無駄に終わってしまう可能性が高い。なので、努力をする際はその努力を最大限に生かすように十分考え抜かなければならない。

大谷翔平選手の凄いところは、単に努力するだけではなく、徹底的に考え抜かれているところである。野球は体力勝負だという側面は強いが、大谷選手は「知的努力」を貫いている。

僕自身もいろいろ考えてはいるが、まだまだ考える余地は十分にあると感じている。そして知的努力をしながらも、バカになり切ることも必要だと感じている。バカになり切りバカで終わるか?それともバカを乗り越え成功を掴みとるか?後は成功までの構想をいかに実現するかにかかっている。

所属している組織ではなく、自分を語れる人間になれ!

外国の事はよくわからないが、日本では自己紹介をする時に必ずと言っていいほど自分の所属する組織を名乗る。もちろんそれが悪いわけではなく、所属組織がその人の人となりを表すこともあるが、所属組織名を自分の権威付けのために利用する人も少なくない。

組織で活動する人は、大きく二つに分けられる。一つは組織に大きく貢献して、さらに組織の中で力を付け大きく活躍する人。もう一つは自分一人では何もできないがために、組織という虎の威を借る人。前者の人は多くの場合組織に所属しているかいないかに関わらず、独力でも活躍できる人であろう。しかし後者は、組織名を名乗らないと何もすることができない。

僕が最近重要だと思っていることは、組織に所属しているとか所属していないとかに関わらず、基本的スタンスとして独立していることだ。行動的にも精神的にも独立していないと、軽快なフットワークは生まれない。組織に所属している場合は、組織の規約にがんじがらめにならないためにも、独立精神を持っていないといけない。

自分を語る時、属している組織を語らないと何も語れないような人間になってはいけない。組織ではなく、自分を語れる人間になることが重要である。

いかに大きなリスクを取り、いかにそれを大きな成功へ結びつけるか?

人間は大きく二つに分けられる。リスクを取る人と、リスクを取らない人だ。リスクを取ると言えば金融投資などの金銭的なリスクばかりを考えるかもしれないが、金銭的リスク以上に人生のリスクを取ることの方がより重要で、より危うく、より意味がある。

リスクと成功は表裏一体である。大きな成功を収めるためには必ずと言っていいほどリスクを取る事が必要であり、リスクを取らないで成功することは全くないとは言わないが、ほとんどの場合ありえない。

もちろんリスクを取るということは、失敗する可能性も大いにある。リスクを取りながら生きるということは、人生のギリギリの所での攻防を楽しむということでもある。なぜそのような危険なことが楽しいのか?それは成功した暁にどのようなものを手に入れることができるかということを想像することが快感だからである。さらに危険と隣り合わせであることがスリリングであり、エキサイティングであるとも言える。

もちろん、リスクを冒して夢を追いかけるためには、それなりのしっかりした構想を確立していなければならない。成功までの展望がないリスクは、単なる暴挙でしかない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

リスクを取り夢を成し遂げることにまい進している人にとって、普通に生きるということは一番縁が遠いことかもしれない。普通の生き方ではないから、成功するまでは人からは理解されないし、バカにされることもあるだろう。しかしそんなことは、成功することによって納得させればいいのである。

金融投資ではなく自己投資を、そして金銭的リスクではなく人生のリスクを。もちろんこのような生き方をすることは皆に勧められることではないし、むしろほとんどの人にとってはこのような大きなリスクは絶対に取らないほうが良い。しかしこのような大きな人生リスクをとる覚悟と成功への自信があれば、そのようなリスクに飛び込むことは大きな人生チャレンジであり、価値のあることだ。

便利なことは、自由なのか?

近年、ますます便利な世の中になりつつある。しかしその一方、便利であるように錯覚しているだけなのではないかとも感じる。

便利の代表格は、スマホであろう。スマホは確かに便利である。そして最近はスマートスピーカーなるものまで出現している。このように大きく便利になりつつある一方、それらの便利さははたして人間に対する束縛を本当に解放しているのかと疑問に思ったりする。

なぜ科学技術を発展させる必要があるのか?その一番の理由は「自由を得る」ためである。20世紀には自動車が発達し、新幹線などの鉄道網が発達した。それらは確かに人々を便利にした。そして20世紀終わり頃に普及した携帯電話、今で言うガラケーも、当時は非常に便利に思えた。

携帯電話が普及する前は、友人と連絡を取るのにも一苦労だった。ましてや気になる女の子と連絡を取ることは一大イベントであった。しかしそのような不便さが逆に大きな達成感と幸福感を生んでいたのではないかと感じる。

今は好きな女の子がいれば、スマホでボタンをポチっと押すだけで簡単に連絡が取れる。昔のような行き違いなどはほとんどないのではないかと思う。待ち合わせでのすれ違いなども、ラインや電話ですぐに連絡が取れる現在では考えられない。

21世紀も18年過ぎ、爆発的に便利さが発達した。しかしこの18年の技術の発展が果たしてそこに住む人を自由にしたかというと、僕は強い疑問を感じる。確かに物理的には大きく自由になった。しかし精神的に自由になったかというと、むしろ束縛するような方向へと向かっているのではないかと思う。しかもこの流れは前には戻せない。科学技術は前には戻せないという特性を持っている。

この精神的な束縛は、年配よりもIT社会をよく熟知している若者の方が強く感じているのではないかと思う。もう少し詳しく言うと、圧倒的な便利さだけしか感じない人と、その便利さの背後にある束縛を強く感じる人の二極化が起きているのではないだろうか?

便利さとは何か?それによってもたらされる自由とは何か?今そのような事を真剣に考える必要があるのではないだろうか?

科学を哲学する。

科学と哲学は、似ても似つかないものだと思っている人は多い。そもそも大学では科学は理系であり、哲学は文系となっている。しかしこのような理系と文系という区別をすること自体が明らかにおかしいのであって、そのような日本人のステレオタイプな見方は改めなければならないと強く感じている。

科学の中でも、理学系の基礎科学の人と、工学系の技術の人では、科学に対する捉え方が大きく違うように感じる。僕は、基礎科学と哲学は非常に共通するところが多いように感じている。実際僕は、科学と哲学を区別することはなく、科学も哲学であると思っている。ただ科学は対象が“自然”であるというそれだけの事である。哲学を追求することができなければ、自然を追求する科学はできない。

日本の哲学の中心地は、明らかに京都だ。西田幾多郎をはじめとする京都大学の京都学派の伝統は脈々と受け継がれている。京都には哲学の道と言われる通りもある。

哲学と双璧を成すように、基礎物理学の中心も京都である。言うまでもなく湯川秀樹からの伝統であるが、物理をやっている人にとって京都には一種の憧れがあるのかもしれない。また、京都大学には基礎物理学研究所というものもある。

京都という土地は、学問を醸成するにはよい環境なのだろうか?僕は京都に住んだことはないが、京都を訪れると何か独特の雰囲気を感じる。ただ訪れているだけなのに、京都学派の息づきを感じるのだ。

理系だとか文系だとか言って学問を強引に区別するのは明らかに間違っている。科学をするのに哲学的な思考が重要であるように、物事を大局的に捉えるためには分野の垣根を越えなければならない。近年は分野を細分化し、より専門家が進んでいるが、そのような流れは本来あるべき姿とは逆に流れているように強く感じる。

長生きは、善なのか?20代の希望寿命から見て取れる社会の根深い問題。

20代の若者の希望寿命(何歳まで生きたいか?という問い)が80歳を切り、平均寿命を下回ったというニュースがあった。この結果をどう捉えればいいか?おそらくこれまでの社会の価値観と人生観では理解できないことであろう。

これまで、長生きすることは無条件に善であるという価値観が蔓延していた。もちろん今でも長生きが悪だという人はほとんどいないであろう。しかし誤解を恐れずに言うと、生きる権利があるのなら死ぬ権利もあるはずだ。そもそも人間はいつかは必ず死ぬ。そのような100%正しい事実に対して、それを否定するのは逆に人生を否定するものである。

僕が一番大事だと思っていることは、「自分で自分の寿命を決める」ということである。長生きを望む人に対してそれを全力で肯定するのならば、若者がそこまで長生きしたくないという意志もある意味尊重しなければならない。

しかし、この若者が長生きを望まないというアンケート結果は、現在の社会に原因(責任?)がある。おそらく若者にとって現在の社会はかなり生きづらいものなのであろう。例えば、何でも平等、何でも保証。この様な一見良いことだと思われることでも、それが度を過ぎると非常に生きづらい世の中になってしまう。目に見える快適さだけではなく、目に見えない生きやすさを考えないといけない。

もしかしたら、現在のIT化された社会も原因なのかもしれない。一見非常に便利であるように見えるこれらのシステムも、ここまでくると生きづらささえ感じてしまう。実際、僕らの世代よりも現在の若者の方が過去の社会を懐かしんでいるようにも見える。

この20代の希望寿命のアンケートからは、現在の社会が抱える様々な問題が見て取れる。そしてこれらの問題は決して気軽にスルーできる問題ではない。

数理物理学とは?

僕のブログでもしばしば数理物理という名前を出しているが、そもそも数理物理学とはどのような学問なのか?ということを書いて見よう。

何を研究しているか?と聞かれた時、ほとんどの研究者は“分野”の名前を答えるだろう。例えば物理であれば「素粒子論」だとか、数学であれば「微分幾何学」だとか言うだろう。しかし「数理物理学」とは分野の名前ではないと僕は思っている。では何か?それは“手法”の名前である。

数理物理学とは「数学的理論と技術をフルに駆使して研究する物理」だ。だから同じ数理物理学研究者でも、全く違う分野を研究している人がいる。また物理寄りの数理物理学研究者がいれば、数学寄りの数理物理学研究者もいる。ただ確実に言えることは、数理物理を研究するためには数学と物理の知識を両方持ち合わせていなければならないということである。

数学と物理の両方が大好きな人にとっては、数理物理とは天国である。数学でも遊べるし、物理でも遊べる。また学際分野だとも言え、数学と物理の融合の仕方も千差万別である。この融合がまた面白い。

数理物理学の研究者で今世界で最も活躍していると言われている人は、プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン教授である。ウィッテン教授は同じテーマでも数学と物理の両方の論文を書くことでも有名である。ウィッテン教授の代表作(これがまたたくさんある)の一つであるサイバーグ・ウィッテン理論の論文は、数学者と物理学者の双方に対して大きな影響を与えた。ただウィッテン教授の次の世代が台頭することが望まれるが、ウィッテン教授の勢いはまだまだ健在だ。

ウィッテン教授の研究は絶大なインパクトがあり、「流行を作り出す数理物理学者だ」と言える。しかし世の中の多くの学者は、流行に乗り合わせているというのが現状かも知れない。今多くの物理学者や数学者に対して求められているのは、流行に飛びつくことではなく、流行を作り出せる独創性を発揮することではないかと僕は強く感じている。

今日はお休み?

このブログは毎日書いて、毎日アップしている。書けるときはまとめて数本書く時もあるが、調子が乗らずに書けない時もたまにある。そのような時に記事のストックがあればいいが、どうしても書けない時はお休みするしかない。

何事に対しても、調子の乗らない時にどう過ごすかは非常に考えどころである。調子の乗らない時にも、一歩とは言わないまでも半歩でも物事を進めたいものである。しかしできないものはできないので、できる事から片づけたい。

調子が乗らず創造的な事ができない時には、単調な作業をこなすのもよい。または読書をするのも良いかもしれない。調子が良い時には逆に読む本にこだわってしまうので、調子の良くない時には思い切ってテーマを変え、普段読まないような本を読むようにしている。例えば講談社のブルーバックシリーズでサイエンスのお話を読むのもいいし、小説を読むのもいい。

今日はこれくらいにして、少し読書でもしよう。開店休業だ。

余裕を持つこと、限界まで力を出すこと。

生きることに全力を出すことを心がけている人と、余裕を持つことを心がけている人がいる。どちらの方が良いという訳ではないが、普段は余裕を持って生きる事が重要かもしれない。しかしここぞという時は、限界まで全力を出すことは必要だ。

現在、メジャーリーグの大谷翔平選手の肘のけがが問題になっている。素人が草野球をするのと違って、最高峰の舞台でプレーするプロ選手はけがをするかしないかのギリギリのラインでプレーするので、少し力の入れ具合を間違うとそれがけがにつながってしまう。

イチロー選手の凄いところはけがをほとんどしないところで、単に運が良かったという訳ではなく、どこまで力を出し切ってそれ以上は出さないという塩梅を心がけていたから、限界の力を出しつつけがをしないでプレーできたのではないかと僕は考えている。

大谷翔平選手は非常に真面目な選手なので、どうしても限界以上の力を出し切ろうとしてしまうのではないだろうか。僕も大谷選手のファンなので、けがなく活躍してほしいと強く願っているが、力の加減を把握せずにけがをしてしまうのは、それも実力に関係しているのだと思う。プロの世界は「けがをするかしないかも実力のうち」だと言われるゆえんだ。とは言え、二刀流のもう一本の刀である打撃で大きく活躍しているのは、非常に嬉しい限りである。

自分の取り組んでいることに全力を出すことは非常に重要であるが、普段生きていく上では余裕を持つことが重要である。また人間関係では大きく余裕を持って接していきたいものである。それが人間の器というものである。

現在、僕自身が余裕を持って生きているかと言われると、はっきり言って自信がない。結構ギリギリのラインで生きているように思える。しかしそのギリギリのラインでの人生の攻防もそれはそれでエキサイティングであり面白い。とは言え、人間関係では大きな度量を持つことを心がけたい。

ケアにこだわる。

お金があれば、高級なものを買いたいと思う人は多いかもしれない。僕自身も欲しい高級品はいろいろある。しかし僕が物を買うこと以上にこだわっているのは、「ケアをすること」である。

例えば、靴を買った後は履き潰すという人も多いが、僕は定期的な靴磨きなどのケアにこだわっている。雨が降りそうなときは、防水スプレーをかけるようにしている。革鞄も定期的にケアをするようにしている。腕時計の革ベルトも定期的に交換している。

高級なものを買うことはお金があればできるが、その後のケアができるかどうかはお金とはほとんど関係ない。もちろん、ケアにもそれなりのお金はかかるし、僕もケアに必要な最小限のお金は投資している。しかしケアができるかどうかは、お金よりも人間性が関係してくる。

僕にとって一番大切なことは数理物理の研究であり、数学や物理の専門書は宝物のように大切にしている。しかし革靴や革鞄と違って、最も大事なのは本という「紙(ペーパー)」ではなくて、その中に書かれている内容(情報)である。そういう意味では専門書(ペーパー)より革靴のが大事なのかもしれない。もちろん実際は専門書の方が圧倒的に大事ではあるが。

学問を研究する人にとって、ペンは非常に重要である。ペンは研究の武器だとも言える。僕の武器であるペンは、大学院入学時に友人からもらった万年筆だ。もう優に十数年以上その万年筆を使い続けている。万年筆は僕の体の一部だ。もちろん、万年筆は頻繁に手入れの必要なものではないが、たまにケアはしている。

ケアをすることは、非常に有意義な事である。物も良くなるし、心も綺麗になる。そして様々な物のケアを重ねるうちに、自分に人間としての厚みも増していくように感じる。そのように感じるのは僕の錯覚だろうか?

最後の晩餐。

もし自分の最後の晩餐を開くのなら、そこで何を食べるだろうか?高級な肉が良いか?美味しい魚を食べるのも良いか?。はたまた食べたことのないフォアグラやキャビアだろうか?

僕はもう決めている。それは「ローソンのメロンパン」だ。

僕はメロンパンが大好きだ。もちろん少し凝ったメロンパンもちまたにはあるが、僕が今まで食べた中で一番おいしかったメロンパンはローソンの100円のメロンパンだ。

はっきり言って、僕は食に対して味にはあまりこだわりはない。どちらかというと「美味しいものを少し」というタイプではあるが、レストランに行っても味より雰囲気にこだわる。もちろん美味しいに越したことはないが。

あと、最後の晩餐にメロンパンというのは、自分らしいように思える。ローソンのメロンパンに木原康明という人間の嗜好が凝縮されているからだ。他人が食にこだわるのは全然かまわないが、僕自身は食にはあまりこだわりたくない。しかしレストランやバーの雰囲気にはこだわる。

外出した時に食事を気軽に済ませたい時には、決まってローソンのメロンパンとタリーズのブラック缶コーヒーだ。世の中から神戸牛が消えても全く困らないが、ローソンのメロンパンが消えると非常に困るのである。

大排気量エンジンも、ガソリンがなければ走らない。

イギリスの自動車メーカーであるベントレーには、“W12”という6000ccのエンジンがある。Wとはエンジンのシリンダーの配置を表していて、一言で言えばV6が横に二列並んでいるということだ。ベントレーのW12は大排気量エンジンの代表だと言ってよい。僕はまだ乗ったことはないが、W12の力強いパワーを味わってみたいものである。

当たり前ではあるが、どんなにパワーのあるエンジンを積んでいてもガソリンがなければ走らない。それは人間でも同じだ。人間の思考のエンジンは脳である。一人ひとりの脳の特性は違っているようで、コンパクトなエンジンもあれば、大排気量エンジンもある。そして近年自動車では主流のダウンサイジングターボエンジンみたいな脳もあるかもしれない。ハイブリッドエンジンがあるかどうかは僕にはわからない。

大排気量エンジンのような脳にはガソリンもたくさん必要だ。脳エンジンのガソリンは糖分である。近年は糖分の摂取に対して非常に過敏になっているが、大排気量の脳エンジンを動かすためには多量の糖分の摂取が必要である。糖分の摂取を怠るとたちまち意識朦朧となってしまう。頭をフルに動かしたければ、糖分を十分摂取しなければならないようだ。

自分の脳がどのような特性を持っているかは自分で把握する必要がある。特性を把握することによって、最大限のパフォーマンスの発揮の仕方も理解できる。脳というエンジンと身体というエンジンを縦横無尽に駆使して自分の成すべきことへ一心に向かってみよう!

世界を知る。

人間が一生に体験できる事なんて、たかが知れている。世界を旅行したところで、見ることができる事なんて微々たるものだ。では世界を知るためにはどうすればよいか?それは読書をすることである。

読書をして得られることも、たかが知れているかもしれない。しかし読書から多々の新しい知見が得られることは事実である。読書をするのとしないのとでは、世界の広がりが大きく違ってくる。さらに読書をして得られる知見は、旅行をして得られる知見とは質が違う。

その一方、旅行をして得られる体験も貴重である。なぜならば、旅行をして得られる体験からは生の情報が得られるからだ。言い方を変えると「一次情報」だと言える。なので旅行をして得られる体験は非常に貴重なものであるが、そのような貴重な体験を生かせている人は多くはないように感じる。体験をしてそれで終わりでは、あまりにももったいない。まずは問題意識を持って体験することが大事である。

「知」の情報を得るためには、書物を読むことは欠かせない。特に学問を修めるには、書物なしでは何も進まない。「目の前の本を知って、世界を知る」なんてことも、その気があれがすぐにでもできるのである。「お酒を飲めない人は人生の半分を損している」とはよく聞く言葉だが、「本を読まない人は人生における知の99%を無駄にしている」と言えるだろう。

世界を知ると言っても、何も旅行をして地球を見る事だけを指すわけではない。数学や物理学の世界を知ることも、世界を知ることに入る。いや、それこそが世界を知るということだと思う。

世界を知ることはそんなに難しいことではない。大金をはたいて海外旅行する暇があれば、そのお金を少しでも書物に当てるといい。書物を読み世界を知ることは非常に意義のあることだ。

強い意志。

一人で進んで行くと決めた者にとっては、一人でいることを恐れている暇はない。どこまで自分を信じれるか?それが一番重要である。

今、なぜ自分が数理物理の夢に向かって進んでいるのか?その理由は二つ。一つは数理物理が大好きだから。そしてもう一つは成功するという確信があるから。理由はこの二つでしかない。

人間の内面というものは、他人からはなかなか見ることはできない。自分にどれだけ確信があっても、それを周りの人に理解してもらえることはほとんどない。しかしもし自分を理解してもらえないと感じているのならば、自分に対して自信を持っていいのかもしれない。なぜなら理解してもらえないようなことに挑戦している証だから。簡単に理解してもらえるようなことはあまり価値はない。自分の成すことを成し遂げることによって理解させればいいのである。

しかしそうは言っても、理解してもらえないことは非常に苦しいし精神的にきついものである。僕はそのような時には、ある音楽を聴いて自分を確認している。もう25年以上お世話になっている曲だが、その曲を聴くことによって何度も壁を乗り越えることができた。そのような音楽に出会えたことは非常に幸運だった。

出会うことができた音楽、出会うことができた恩師。そのようなことを考えると自分一人ではないと感じることがあるが、とにかく今は成し遂げるべき目標に向かってひたむきに進んで行こうと思う。一つ目のゴールはもう見えるところに来ている。

岩波講座。

岩波書店は日本で最も権威と歴史のある出版社だと言ってよい。もちろん規模の大きさで言えば、岩波書店よりも大きな出版社はあるが、岩波書店に対する信用は絶大である。

岩波書店と言えば、岩波文庫を想像する人は多いかもしれない。岩波文庫には過去の名著が目白押しである。何を読もうか迷った時には、書店で岩波文庫を眺めればいい。僕自身は、岩波文庫に並んでいる哲学書をよく眺め購入している。

その岩波文庫と並び、岩波を代表するのが「岩波講座」と言われるシリーズだ。岩波講座はいくつかの分野で出ている。さらに同じ分野でも時を経て新しい岩波講座が企画されることが多い。数学でも過去に数回岩波講座が出ている。僕自身も岩波講座の数学シリーズには非常にお世話になっている。研究者にとって岩波講座はなくてはならないものだと言っても過言ではないと思う。

歴史学においてももちろん岩波講座は出ている。その中でも日本史の岩波講座は歴史研究界において非常に重要な地位をせめているようだ。岩波講座が出版時の日本史研究のスタンダードと言ってもいいらしい。日本史を研究する者にとって、岩波講座を熟知することは研究者への第一歩なのかもしれない。歴史の一般書を読んでも、岩波講座が参考文献として引用されていることが多い。

もしこれから何らかの学問に打ち込もうと考えているのならば、まずは岩波講座を読むのが非常に良い。岩波講座は10冊以上(岩波講座・基礎数学は79冊である!)の本で構成されることが多く、全て集めるのは非常に大変だが、金銭的に無理がある場合は古本などで安くで購入するのも一つの手である。

学問の研究者にとって、岩波講座は信用のおける非常に重要な書物群となっている。

失敗を全く恐れない!

日本では失敗はしてはならないものだとよく教わる。その割には「挫折を糧にして」という話をよく聞く。しかし僕はそれは逆だと考えている。失敗は恐れることなくいくらでも積み重ねればいい。しかし挫折は絶対にしてはいけないと考えている。

社会全体が失敗を過度に恐れるあまり、全ての事を無難にやりくりしようと考えようとする。飛び抜ける事より普通になることを考えようとする。それなのに度々挫折をする。もちろんそのような人が多くいる中でも、変革を行い飛び抜けようとする人は少なからずいる。世の中を支えるのは多くの普通の人かもしれないが、世の中を変えるのは間違いなく突き抜けた人だ。

どのような世界でも、公になるのは成功ばかりだ。失敗を成果として挙げる人は一人もいない。だから多くの人は、成功者は失敗をしないと錯覚してしまう。しかし、一つの成功の裏には多くの失敗が存在することを忘れてはならない。

失敗を積み重ねているのは、挑戦している証である。挑戦しない人は失敗することさえできない。

失敗が客観的事実である一方、挫折は主観である。なので周りの人がそれを挫折と言おうが、自分が挫折だと思っていないのならばそれは挫折ではないのである。そのような意味で、「失敗は重ねても、挫折はしてはいけない」と僕は常々考えているのである。

好調でない時に、何をすべきか?

もしかしたら常に好調である人もいるかもしれないが、多くの人には好不調の波はあるだろう。好調の時にやるべきことを徹底的にやるのは意外と難しくないかもしれないが、不調な時に何をすればいいのかということについて悩む人は少なくない。

不調な時には、何もしないという選択肢を取りがちだ。そのような選択肢はもしかしたらあながち間違ってはいないのかもしれない。不調な時に体力気力を温存して、調子が上向いてきたらやる気を発揮する。しかし不調な時にも何かやるべきことはあるのではないかと感じてしまう。好調な時に十歩進めるのなら、不調な時には一歩、いや半歩でも前に進めれば大きな進歩である。

しかしこれがなかなか簡単な事ではない。その半歩がなかなか実行できないのである。しかし、非常に気力のいる本業はできなくても、サブのことならできるかもしれない。それもできないのならサブのサブと。不調な時にもできる事を探すことは重要だ。

昔、ある哲学者(たしかラッセルだったと思う)は、「調子の良い日は哲学をやる。そしてそんなに調子が良くない日は社会学をやる。さらに不調な時には歴史学をやる。」と言ったそうだ。ラッセルのような偉人でさえも、好不調の時のやりくりを工夫していたのである。

やれない時には無理してやる必要はない。やれることをやれるときにやればいいのである。自分の波を観察しながら、試行錯誤して出来るだけ力を発揮することを心がけたいものである。

歴史は暗記科目ではない!

学校で習う歴史は暗記科目と認識され、年号や名前を徹底的に暗記することが要求されている。僕自身も中学時代や大学受験生時代は様々な事を暗記したように思える。

最近、歴史に関して興味深い本を読み、ふと気付いたことがある。それは歴史は暗記科目ではないということだ。もちろん必要最小限のことを覚えることは必要かもしれない。しかし歴史に関して100%暗記しようという姿勢では、全く理解できないであろう。

一つ例を挙げて言うと、年号を暗記することより、年号を見てその相対関係と流れを把握することが重要である。歴史は流れが全てと言っても過言ではない。流れのない歴史は単なる暗号でしかないのだ。

そして最近学んだのは、歴史には絶対ということがないということである。過去の歴史は研究が進むにつれて変わるのが常であるようだ。例えば大化の改新は本当にあったのか?(最近は大きな変革である大化の改新よりも、クーデターそのものをさす乙巳の変を基本としているようだ。)さらに、鎌倉幕府の誕生は“いい国作ろう”の1192年という固定的な見方は現在では主流ではないらしい。僕らの学生時代に常識として習ったことが、最新の歴史研究では否定されているのである。

この様になると、どれが正しくてどれが間違っているのか戸惑ってしまうが、歴史というものは不確定要素が強いということは認識した方が良さそうだ。特に古いものになればなるほど、不確定要素は強くなる。

とは言え、歴史自体は非常に面白いものである。過去の先人の起こした出来事は非常に興味のあることである。このような歴史を楽しむためにも、近視眼的に暗記するのではなく、大局的に歴史の流れとその背景を捉えることが重要である。

9割9分は大丈夫!

普段生きていると何かと心配することが出てくるが、ほとんどの事は9割9分大丈夫である。もちろん何事においても100%大丈夫ということはありえない。しかし99%は大丈夫なのである。

では残りの1%をどう捉えるか?ここにそれぞれの人間としての器が現れる。結論を言うと、「残りの1%が起きた時は潔く諦める」ということである。1%の危険性にこだわり、悩み抜いたところで何も始まらない。この1%のことを考える暇が合ったら、残りの99%の事をポジティブに捉える方がはるかに建設的だ。

しかし日本人の特性として、「この1%が起きた時はどうするつもりだ?」と問いかける人が多い。もちろん安全性が高まればそれに越したことはない。しかし最も重要な事は、「99%の事をポジティブに捉えることにより、1%の危険性がより低くなる」ということである。近視眼的に目先の危険性だけ考えるのではなく、広域的に物事を捉えることが重要なのである。

では、これらの事に関して一例を挙げよう。現在よく話題にのぼる自動車の自動運転に関してだ。現在は自動運転はまだ開発段階であるが、2020年には実用化されるという話もある。自動運転で一番問題になるのは、事故が起きたらどう責任を取るのかということだ。自動運転の実験で一つ事故が起きると大問題になる。しかし生身の人間が運転する自動車は膨大な数の事故を起こし、決して少なくない数の死者が出ている。しかしこちらの方は自動運転の事故に比べてあまり話題にならない。その証拠として、皆は年間何人の人が交通事故で亡くなっているか記憶にあるだろうか?

自動運転の場合、最大の目標は人間が起こす事故率よりも自動運転の起こす事故率を低くすることである。もちろんゼロにすることはできないであろう。そして実験段階では一時的に自動運転の事故率の方が高くなるのかもしれない。しかしそれを問題にしすぎて解決の糸口を見いだせないようであれば本末転倒だ。将来の自動運転事故率の低下を目標に、慎重に実験開発を進めるしかない。

少し話が逸れたが、自分自身の事に対しては1%の危険性を気にしすぎるのではなく、99%の事をポジティブに捉えることを心がけたいと思う。そのようなポジティブシンキングによって、自分の未来を開拓していきたいものである。

堂々とすること。

人間は中身が大事とは言うものの、外見は人間を評価するにあたって重要な役割を与える。外見というと服装などの身なりを想像する人が多いかもしれないが、最も大事なのは表情、そして振る舞いである。さらに言うと、表情や振る舞いは決して外見と一言で片づけられることではなく、むしろ人間性そのものだと言える。

僕が最近非常に感じているのは、普段から堂々と振る舞うことが非常に大事だということである。もちろん、ここぞという時に堂々とすることは多くの人が実践しているかもしれないが、普段何気ない時に堂々と振る舞えるかということは、その人の自信や人間性が最も表れるところである。

しかしこれがなかなか簡単に出来るものではない。やはり自分に対して心の底から湧き上がる自信がないと、常に堂々と振る舞うことはできない。しかし常に堂々と振る舞うことができると、周りの人からの印象だけではなく、自分の自分に対する意識がより確固たるものになり、自分の周辺で起きる事柄も自分が動きやすい方向へ回る。

何が起きても堂々と振る舞えるか?これができると自分自身も周りも大きく変えることができる。とは言えいきなり大きく変えることはできないので、小さなことから徐々に意識を変えることを心がけたいものである。

社会や思想の民主主義化。そして教育の多様化へ。

9月1日、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)を見た。この回のテーマはAIと社会に関することであったが、見ながら気になることが一つあった。それはほとんどの話がビジネスベースで考えられていることである。もちろんこの番組の根底にはビジネスを主体にするという暗黙の了解があるからなのかもしれないが、もう少し違う切り口があるのではないかと感じた。

AIが社会に広く浸透すると、もちろん教育の在り方も変えていかなければならない。もちろんどのように稼ぐか?ということも重要であるが、人間が人間らしく生きるためにはどうすればいいか?ということを真剣に議論しなければならない。そのためには全てがビジネスベースという前提を外さなければならない。

教育とは何か?この問いの答えは様々である。もちろん将来お金を稼ぐための力を付けるというものもあるだろうし、学問に打ち込み研究力を付けるというものもある。しかし現在の一般市民の教育に対する期待は、「いかに安定した職に就いて、いかに安定的に収入を得るか?」というところに偏っている。「たくさん稼いで金持ちになる」ということですらないのだ。多くの人が現状維持を望み、社会や企業もいかにして現状を維持するかというところに注力している。

過去の歴史を見ても、現状維持を望んで現状維持を保ったケースはほとんどない。現状維持は没落への始まりである。ではなぜ日本という国が曲がりなりにも現状維持をできているように見えるのか?それは国全体が現状維持を目指しているからである。全体が現状維持のため、現状維持をしていると錯覚しているのである。しかし世界的に見ると、現在の日本は全ての面で明らかに低下している。

思考がそのような方向に行くのは「国民性だ」と言われるかもしれないが、国民性を形成するのは教育であり、国家体制である。日本は政治システム上は紛れもなく民主主義であるが、日本社会はとてもじゃないが民主主義と言えるものではない。横並び思想で、みんな仲良しで、皆と違うことをすれば仲間外れにする。それは個人レベルでも企業などの社会レベルでも同じだ。社会主義国家である中国でさえ、日本は中国以上に社会主義であると言っている。

今日本に強く求められているのは、民主主義という看板を掲げた社会主義ではなく、思想や社会、そして教育の民主主義化を進める事ではないだろうか?

真剣に生きようとする人をバカにしてはいけない。

理解できないことだが、世の中には真剣に生きようとする人をバカにする人がいる。あるいはそのような風潮がある。誰だって順風満帆な訳ではなく、様々な困難を抱えながら生きている。もちろん何の困難もなく順調に生きている人もいるが、順調に生きている人も困難に立ち向かいながら生きている人も、それぞれ真剣に生きているのである。

日本に限ったことか、それとも世界的にそうなのかわからないが、普通と違う感じの人をバカにする風潮がある。逆に言えば多くの人は普通に生きようと思っているのかもしれないが、世の中の多様性を考えれば皆普通とは違うという状況の方が普通なのかもしれない。

日本の科学の世界では「異能流出」という言葉があり、以前から問題になっている。僕はこの言葉を、ノーベル賞科学者の中村修二教授に関してのことで聞いたのだが、中村教授は明らかに普通ではない。しかしもし中村教授が普通だったのならば確実にノーベル賞は取れなかったであろう。もちろん中村教授が最高の才能を持ち合わせた人であることは言うまでもないが。

異能を持ち合わせた人は、なぜ異能と言われるのか?それは最高に真剣に生きているからだと思う。真剣に生き、異能になり得るような人をバカにする風潮がある日本の行く先は、はっきり言って暗いとしか言いようがない。世の中を変えるのは、普通の人ではなくて異能なのだから。

思想としての数学。

数学というものに対して、誤った認識を持っている人が多い。数学とは一見、ルールと論理に則ったガチガチの体系のように見える。しかし数学は論理だけでできるものではなく、数学者の思想、さらには性格までが反映する非常に人間的なものでもある。

例えば、ある定義から始めて数学的論理を構築していくと、全ての数学者が同じ結果にたどり着くかというと、全くそうではない。同じところから出発しても、違うところにたどり着くことは多々ある。右にも進み得るし、左にも進み得る。数学の多様性はそのように起こり得るのである。

数学者一人ひとり、数学というものに対してのスタンスは様々であるが、数学を一つの思想だと捉えている数学者も少なくないように思える。数学理論には数学者の思想が色濃く反映されているのである。そこが数学の面白い所であり、一筋縄ではいかないところでもある。

数学の歴史の原点とも言える古代ギリシャでは、数学は思想であり、宗教でもあった。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、ギリシャ時代の新興宗教の教祖であったという話は有名である。数学とは無味乾燥な無機物ではなく、非常に人間的な有機物なのである。

とは言え、数学の非常に大きな特徴は“普遍性”である。地球上の人間が考え出した数学理論は、遠く離れた恒星シリウスの惑星に住む知的生物にも同様に発見されるであろう。もちろん数学にどのような思想を見出すかは様々であるが。

数学的思想は、数学研究を前進させる原動力である。思想無き数学は大抵取るに足らないものであることが多い。重要な数学理論の根底には、数学的思想が脈々と流れている。数学理論の豊かさを感じ取るためには、数学的思想を持つことが非常に重要なのである。