月別アーカイブ: 7月 2018

目指すもの。

僕には目指すものがある。それを「成し遂げたい」のではなく、「絶対に成し遂げる」という覚悟を持って取り組んでいる。

ただ、自分の考えや中身の事は、周りの人には見えない。それを口に出したからといって、信じてもらえるわけではない。行動し成し遂げることによって納得させるしかないのである。

自信がないのにただ夢を見ているだけでは、何も生まれないし何の意味もない。しかし自信があることに対しては、かなりのリスクを背負ってでもその道を進むべきだと思っている。ただ、成し遂げる見込みもないのにそれにかけるのは暴挙でしかない。

リスクのない投資というものは存在しない。僕自身は金融の投資とは縁はないが、目指すものに対して最低限のお金はしっかりとつぎ込んでいるし、ここぞと思う時はお金と人生を思いっきりつぎ込んでいる。

では、どのようなものに対してお金と人生を投資すべきか?それは自分でコントロールできるものに対して投資をすべきということである。例えば、宝くじや多くのギャンブルは100%運でしかない。そのような運にお金をつぎ込む価値は全くない。しかし運の中にも自分でコントロールできるものがある。例えば人との出会いとか、あるいは金融投資もかなりコントロールできる運と言える。しかしコントロールできる運は、努力と才能なしには向上できない。

コントロールできる運は、成功した時にそれは実力へと変わる。もちろんそれまでには多くの失敗を経験するであろう。すなわち重要なのは、それまで積み重ねてきた失敗を大きな成功に変え、自分の実力へとすることなのである。

子供は誰のために産むの?

今、自民党議員のLGBT(性的少数者)に対する発言が問題になっている。LGBTの人たちは子供を産まないので生産性がない、という趣旨の発言だ。

もちろん、政治家が出生率の低さを問題にし、出生率を上げるために子育て支援などに力をいれるという政策を議論するのは大いに納得するし、そのような前向きな政策はどんどん進めてほしいと思う。しかしある特定の人たちを指し、「あなたたちは子供を産まないから国家に貢献していない」と発言するのは、間違っているということを通り越し危険性さえ感じる。

そもそも何のために子供を産むのか?その思いは様々であるだろうが、国家のために子供を産むという人は現代日本ではまずいないだろう。国家の生産性を上げるために子供を産むなどという思想は、戦前の日本の体制に通じるような危険性を感じる。

子供たちは日本の将来を担っているが、決して国家のピースではない。子供を国家の駒などと考えるような国に輝きも自由も感じないし、輝ける将来の大人である今の子供たちは、そんな国を見放していくであろう。

数学の重要性、英語の重要性。

早稲田大学政治経済学部は、2021年度の入試から数学を必ず課すという。これまで私立文系の入試というと、国・英・社の三教科入試が主流であったが、早稲田政経の数学必修化は何を意味するのだろうか?

文系学問に数学は必要ないという考えは根強くある。しかし直接的にせよ間接的にせよ、文系学問でも数学あるいは数学的思考が必要なものは多くある。経済学部では数学は欠かせない道具であり、数学なしでは経済学は成り立たない。そして哲学ではその論理構造は数学そのものと言ってよい。政治においても統計的解釈を必要とすることは多々あり、統計学、すなわち数学は全く無視できない。

数学を無視するということは、有力な武器を自ら捨てるということである。これは海外へ旅行に行くのに英語を無視することと同じである。今や日本国内にいても外国人と接する機会は多々あり、日本人同士の会話においても英語に関する話題は頻繁に出てくる。

英語と同じように、数学も現代社会に広く根付いている。コンピューター社会となった今、それらを制御するプログラミングは数学そのものであるし、日常生活において何か計画を立てるとき、それらに対する論理的思考の原点は数学にある。

2021年の早稲田政経の入試の数学必修化は、社会に対する数学の重要性を訴える一石になるものだと思う。英語の重要性は皆が認識しているのに、数学の重要性に対する認識はまだまだ甘い。これからは数学の重要性を明確に可視化していくことが求められる。

安倍氏、石破氏の自民二強体制。

現在の自民党、そして日本の政界は完全に安倍一強体制になっている。そして独裁とは言わないまでも、政界の論理はほぼ安倍氏の論理で動いている。僕自身、安倍氏にはこれまでそんなにネガティブな思いは持っていなかったが、現在の安倍首相の論理は客観的に見てかなりおかしい部分が散見される。

僕は以前から石破かぶれと言い放ち、石破茂氏に対してかなり期待を持っている。石破氏の防衛に関する著書も以前読んだりもした。なぜそこまで石破氏に期待するかというと、石破氏の防衛を中心とした深い見識と、その人柄にある。石破氏はかなり慎重に物事を進めるタイプだ。もちろん安倍氏の積極的な行動力も魅力だが、石破氏がもし首相になれば慎重ながらも動くべきところはしっかりと動くだろうと考えて良い。

次期自民党総裁選での安倍氏の圧倒的優位は現在のところ揺るがないが、このまま安倍氏が三選することには危機感を感じるのも事実だ。やはり総裁二期までという制限は大きな意味を持っていたと強く感じる。

理想としては、安倍氏と石破氏が自民党内で争い、お互いをけん制できるような体制にすべきではないかと思う。もちろん、石破氏以外の人物がそれに割って入ってもよい。そういう意味で、このまま安倍首相の三選に突入するのはあまりにも危険すぎる。三選を果たし長期政権を確立してしまえば、誰が安倍首相に苦言を呈することができるのか?自民党内はほぼ安倍氏のイエスマンになってしまうだろう。

9月の自民党総裁選まで短いながらもまだ時間はある。現状を変えるには政局だけに期待するのは少し無理があるだろう。従って国民の大きな声が必要になる。安倍首相を支持するのならそれはそれでいいとは思うが、もし安倍氏三選に危機感を感じているのならば、国民自らが声を上げるしかない。大きな機運も一人一人の声から成り立っていることを忘れてはならない。

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

やまゆり園事件から2年、断じて許せないもの。

知的障がい者施設、津久井やまゆり園での殺傷事件から26日で2年が経った。戦後、国内では経験したことのないような殺傷事件は、日本国民に何を問いかけたのだろうか?

まず初めに、言うまでもないがこの事件は断じて許されないものである。犯人の植松被告に対しては厳格な判決が求められる。

しかしその一方、植松被告の主張に賛同する一部の日本人がいるともよく聞く。その理由は次のようなものである。

意志疎通のできない知的障がい者は世の中で生きている意味がない。

と。

植松被告は「心失者」という言葉を使っているらしい。植松被告がどのような意図を持って心失者という言葉を使っているのかわからないが、その字から推測すると、心、すなわち意志がないと言う意味だろうかと思う。しかし本当に知的障がい者には心がないのだろうか?

僕は、意志疎通ができないというのは心がないということとは全く異なると思っている。意思疎通ができないというのは意志を表現できないということであって、意志がないという意味ではない。意思疎通困難者の中には内に秘める心、すなわち意志が必ず存在するのだと思う。

全く話は違うが、先日亡くなった理論物理学者のホーキング博士は、現代のコンピューターによる補助がなければ意思疎通が困難だったと言える。実際はコンピューターを使って縦横無尽にコミュニケーションを取っていたのであるが、そんなホーキング博士を意志がないとは誰も言わない。それどころか健常者以上の意志と思想を持っている。

意志疎通困難とは見かけだけの話であって、それを意志がないということは人間性を正しく判断していない。しかし植松被告の主張は、一般日本人が持つ偏見に対して一石を投じるものであると思う。実際に植松被告の主張に賛同する者は一部とはいえ存在する。さらに表だって賛同するわけではないが、偏見を持っている人はそれ以上いるのかもしれない。

しかしこれ以上そのような偏見を蔓延させることは許してはならない。植松被告の主張を綿密に分析し、それを偏見の解消へと変えることが強く求められていると言えよう。

物事を額面通りに受け取ることも大切だ。

物事を深く考えることは非常に大切だ。しかしそれは、裏を考えることではない。裏を考えることによって知った気分になるのは間違っていることが多く、時には額面通り受け取ることも大事なのだ。

しかしこれがなかなかできるものではない。何か直面すると、すぐにその裏を推測してしまうのだ。額面通り受け取れるかどうかということは、寛容な内面を持っているかどうかということに関わっている。寛容な内面が欠けているとどうしても裏を推測したくなってしまう。

もちろん、裏を推測することも大事なことはよくある。政治に関しては裏の取り合いでもあるし、詐欺に対しての対処は裏を推測することが重要になる。

しかし裏を考えすぎるが故に、物事の本質を見逃すことも多い。額面というものは一次情報である。まずは一次情報を基に物事を深く考えることが重要である。その一次情報に関して矛盾が出てくれば、そこから裏を考えればいいのである。一次情報を無視して初めから裏を考えるのは、全部とまでは言わないまでも多くの場合誤った結論を導いてしまうことになる。

しかし本当に大事なのは、額面か?裏か?ではなく、本質はどこにあるかということである。そのためには得られた情報をフルに活用しなければならない。そして時には仮定も必要であろう。しかし全てに共通するのは、繰り返しになるが「深く考える」ということである。

絶対に人を見下さない。ただ・・・。

僕は絶対に人を見下さないようにしている。例えば学歴で人を見下すなんてことは絶対にしないし、職業で見下すことも絶対にない。むしろ自分の方が見下されているのかもしれない。

ただ・・・、人を見下す人に対しては見下すことはある。人を見下す人は最低な部類の人間だと思っているからだ。

人を見下す人は様々な理由で見下してくる。学歴、職業、収入、あるいは性格などで。学歴によって収入が変わることはあることかもしれないが、学歴によって人間性を判断することはできない。僕はこれまで様々な人間を見てきたが、総じて学歴と人間性とはほとんど関係ないと感じている。

とは言っても、僕も完璧な人間ではない。無意識に失礼な態度を取ってしまっていることはあるかもしれない。そのような所があれば、それは僕の重大な欠点だ。しかし基本的なスタンスとして、人を絶対に見下さないという姿勢を取っている。

学歴、職業、収入に関わらず、面白くて立派な人はたくさんいる。そのような素晴らしく魅力的な人間が注目を浴びるような社会になることを僕は願っている。

早寝早起きは絶対的な善なのか?

学校でも社会でも、そしてメディアでも、早寝早起きは絶対的な善であると主張されている。それは昔も今もほぼ同じだ。しかし最近それが絶対的に良いという訳ではないという記事をちらほら見かけるようになった。それは思想的な話ではなく、医学的な研究に基づくものだ。このようなことが科学的根拠を持って主張されることは喜ばしい限りだ。

僕自身は遅寝超遅起きの典型的な夜型人間。そして超ロングスリーパーだ。このような僕みたいな人間にとって、早寝早起き絶対主義の社会は非常に苦しいものである。夜型人間は夜に仕事をするというような自由も与えてもらいたいものである。

医学的研究に基づいた記事によると、体内時計の違いにより朝型と夜型に分かれ、朝型人間が夜に弱いのに対して夜型人間は夜に圧倒的に強いということになるという。(2017年のノーベル医学・生理学賞は、このような体内時計に関する研究に対して与えられている。)夜型人間は夜に最大限のパフォーマンスを発揮する。それらの事については僕自身の経験からほぼ間違いないと思っている。

最近、フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)数学者の広中平祐氏の著書を立ち読みした。それによると広中氏は夜中に研究をし、朝の5時頃に寝るということが書かれていた。広中氏のように、夜にパフォーマンスを発揮する人間を無理やり朝型にし、パフォーマンスを落とすようなことは、社会としても非常にもったいないと思うし、夜型人間にとっても非常に生きにくい世の中だ。

ただ社会というものは、ほとんどの事が朝型人間に合わせられている。朝型人間が夜早くに寝ることをとがめる人はいない。それどころか早寝は称賛されてさえいる。

ただ朝に弱く夜に強いだけで、そして夜に最大のパフォーマンスを出すというだけで徹底的に叩かれる世の中は、我々のような夜型人間には本当に生きづらいものである。

自分を汚していこう!

何事も綺麗な方が見栄えがいいし、汚れたものより綺麗なものの方が気持ちいい。

しかし綺麗なものと汚れているもののどちらが強いかと言えば、多くの場合、汚れているものの方が強い。それは人間にも言えることだ。綺麗なガラスのような人間よりも、泥にまみれている人間の方が圧倒的に強い。

僕は今、自分を徹底的に汚そうということに取り組んでいる。何に対して汚れるかということに関してはいろいろあるが、精神的な汚れから潔癖に対する汚れまでいろいろとある。

人間の活動というものは、グレーゾーンで行われる。そのグレーゾーンを切り抜けるのは綺麗な人間か?汚れている人間か?と問われれば、圧倒的に汚れている人間だと思う。あらゆるものに対して潔癖であることに、良いことはほとんどない。汚れに対する耐性が人間を強くするのである。

日本のトップである歴代の総理大臣を見ても、大物と言われる総理は総じて汚いと言われた人間だ。もちろん悪いことを肯定する気はないが、田中角栄氏をはじめ、汚れに対する耐性がある人間が大物と言われる存在になるように思える。

必ずしも潔癖であることが善であるわけではなく、現実に染まり大いに汚れることが人間を強くするように思える。

次世代社会を理解するために。

次世代社会を見通すためには何をしなければならないか?

今日、ある記事を読んだ。それはビットコインをはじめとする仮想通貨に関しての記事だ。しかし仮想通貨で儲けようという記事では全くない。次世代への仮想通貨の可能性、そして仮想通貨における信用性に関する記事だ。

僕はこれまで仮想通貨に関して「怪しい物」というくらいの認識しかもっていなかった。何しろ普段目にする仮想通貨に関してのニュースは、金儲けの投機対象としてのニュース記事ばかりだ。そんな記事しか見ていないと、正確な理解ができるわけがない。

しかし仮想通貨はITでもあり、信用の塊でもある。そしてそれらが次世代社会においてどのような役割を果たし、どれだけの人を救えるのか?そのような観点で書かれた記事はほぼ皆無に等しい。

しかしそのような観点で仮想通貨を見た時、知らないでは済まされないことに気が付いた。もちろん、現段階では仮想通貨に関する僕の理解は全くないと言ってよい。

では仮想通貨を理解するためにはどうすればよいか?それには二つの事が必要である。一つはブロックチェーンなどの仮想通貨の技術的側面を理解すること。そしてもう一つは実際に仮想通貨を所持して仮想通貨の可能性を実感することだ。

ある程度歳を取った人たちは、仮想通貨などの新しいシステムに飛び込むのは躊躇するかもしれない。もちろん金儲けなどのわかりやすい理由があれば別だが。しかし現代の若者たちはそれらの人とは違う世界を仮想通貨に見ているのかもしれない。それに対して、金儲けという側面だけしか見れない大人たちは非常に情けないと言える。しかし、現在のメディアを牛耳っているのが年寄であるのならば、そのような観点ばかりのニュースになるのも無理はない。

僕自身も、仮想通貨の未来がどうなるかは今は全く想像できない。しかしそこには社会を変革するくらいの大きな可能性があるのかもしれない。

学問からファッションまで。

学問とファッション、何だか対極に位置するような気がするかもしれないが、僕にとっては両方とも重要なものである。学問もファッションも両方とも自分自身そのものであり、学問は自分の内面、ファッションは自分の外見だと言えるかもしれない。そうは言っても学問は自分のアクションを促すことによって外見にも表れるし、ファッションは自分の内面の一つの表現だとも言える。

そして学問もファッションも、僕は両方とも大好きである。本屋さんでファッション雑誌を立ち読みすれば止まらない。そして机に向かって学問に向き合えばこれまた止まらない。いや、止まらないようにしたい。

ファッションを軽視する人も多いが、僕はファッションは非常に重要だと考えている。もちろん過度に流行を追う必要はないが、ファッション一つで周りの人に対する印象を変えられるし、フォーマルな場ではファッションが一つの礼儀作法だと言える。

人間の内面を重視する人の多くは、外見も重要視する。外見は内面の表れだと考えるからだ。しかしこんな堅いことを言わないまでも、ファッションに遊び心を入れて気軽に、そして時には本気に入れ込んでみるのも悪くない。

情報魔!

僕は自他ともに認める情報魔だ。中学生の頃から新聞には隅から隅まで目を通し、現在では新聞社などの報道・情報サイトをサーフィンすることが趣味になっている。

なぜ情報にこだわるのか?別に深い意味はない。ただ情報が好きなのだ。国内・国外を問わず社会情勢からチープな情報まで、あらゆる情報を仕入れ楽しんでいる。

ただ、情報は何でも手に入れる方が良いという訳ではなく、入手する情報は大まかに分別することが大事である。初めに最も重要な情報、そしてその次に重要な情報、そして息抜きになる面白くてチープな情報と。

情報は新しい知見をもたらしてくれる場合もあれば、自分を堕落させてしまう情報もある。情報は諸刃の剣なのである。そこで重要になるのが、情報を消化すること。消化とはすなわち、自分で考え解釈を与えることである。消化をしないと単なる情報が単なる情報で終わってしまう。

情報と自己の知恵を融合すれば、その価値は何十倍、何百倍になる。そのようなことからも、繰り返しになるが何事も自分の頭で思考するということが重要になるのである。

ピンチはチャンス!

大きなピンチを乗り越えた時、それは大きなチャンスに変わる!

僕自身、つい最近まで大きなピンチを背負っていた。しかし何かと打開策があるものである。しかしその打開策を実行するためには大きな思いっきりが必要だ。僕自身、これまで長い間負っていたものがあったが、それを打開するために一歩踏み込んでみると意外と難なく突破することができそうにある。

もちろんピンチは砂浜に押し寄せるさざ波のように、繰り返し何度も押し寄せてくる。時にはさざ波どころではなく、人生を破滅させるかと感じるような高波が押し寄せてくることもある。

しかし高波の後ろには意外と平穏な水面が広がっているものである。すなわち、大きなピンチの後には大きなチャンスが待っている。

ただ、受け身の状態だとその高波は乗り越えることはできない。能動的に越えようとするアクションが大事である。

僕も今まで人生が破滅するかもしれないと思えるようなピンチが何度かあった。しかしそのピンチを乗り越えることができた。そして現在、乗り越えようとしているピンチも二つほどある。しかしそれらのピンチの後に大きなチャンスが見えている。

何かを成し遂げようとする意志がピンチを乗り越える原動力となり、その後のチャンスにつながると僕は考えている。

必要な経験。

「経験がないからできない」という人は、経験してもできない。重要なのは「どの経験が必要なのか?」という具体性である。今何の経験が必要か?ということを見極め、認識しなければならない。

もちろん、何の経験もなしに物事をこなすことは難しい。しかし経験があればいいという訳ではない。経験をものにするためには、考えながら行動することが必要だ。一流プロ野球選手はただ練習しているだけではなく、バッターボックスの中であらゆるシチュエーションを考え、体の動かし方を試行錯誤していると言う。

もし何も考えずに経験し、できていると思っているのならば、それは錯覚だと思って間違いない。さらに、経験とは与えられるものではなく、自分から得に行くものである。そのためにも何の経験が必要なのかということを認識することが重要なのである。

経験を積むのに遅いということはない。もし自分に何の経験が必要かと強く認識できているのならば、今すぐにその経験を求めていくべきだ。

必要なのは、目をそらすことではなく、徹底的に向き合うことだ!

苦しかったり自分に不都合なことがあれば、多くの人はそこから逃げたくなるだろう。もちろんそこから逃げるということは一つの選択肢かもしれないが、逃げたり目をそらすことは一時しのぎでしかないことが多い。

苦しい時はどうしても目をそらしたくなるかもしれないが、そこはあえて正面から徹底的に向き合うことが大事だ。そうでないと根本的な解決には結びつかない。目の前の事についてとことん向き合い、理解する。理解が深まれば解決の手がかりが見えてくる。

選択肢は多くの場合、逃げるか、向き合うかしかない。その中間的な選択肢を選んだ場合は、ほとんどの場合最終的には逃げるという方向に進んでしまう。従って強く意識して向き合わないと、根本的解決へとは進まない。

苦しいことや不都合なことは、あらゆるところで頻繁に表れる。だからこそ基本的スタンスとして、徹底的に向き合うという姿勢をはっきりとさせていなければならない。

徹底的に向き合うことで本当に解決するだろうかと疑問に思うかもしれないが、いざ徹底的に向き合い理解が深まれば、意外とスムーズに解決へと向かうものである。

「前例がない」はできない理由にはならない!

日本の社会は何かと前例主義である。社会でも、それができるかどうかを判断をする時、まず前例を徹底的に調べる。そして前例がなければ、それは100%できないものとみなされる。

メジャーリーグの大谷翔平選手が前代未聞の二刀流に挑戦している。もちろん大谷翔平選手が挑戦している二刀流は、プロ野球界では前例がないものである。

専門家や元プロ野球選手をはじめ、大谷選手の二刀流に関して否定的な意見を述べる人が多い。しかしその多くは、できない理由を「前例がない」ということにおいているように思える。しかし実際は、現在はけがをしているとは言え、大きな活躍を見せている。

物事とは初めは全て前例がない状態である。即ち誰かが前例のないことに挑戦しないと始まらない。ガリレイやニュートンの物理学も、前例のない所に物理学という分野を打ち立てた。現在日常的に使われているコンピューターも、初めは非常に初歩的は計算機を作り上げるという、前例がないことから始められている。

確かに前例がないことを始めることは、リスクが非常に高い。これまでにそのような前例のないことに取り組み、夢破れた多数の人たちがいたであろう、しかしその中の少数の人たちは、前例を打ち破り大きなブレークスルーを打ち立てた。

自分は前例を踏襲するべきか?前例を破るべきか?後者を取る場合は非常に大きな逆風を突き進むことになるが、それが成功した時の達成感は半端ないだろう。

まずは資本を確保する。

近年のネット環境の発達により、お金を使わずにできる事が増えた。例えば音楽動画などを見たければYou Tubeでいくらでも見れるし、連絡を取り合うのにも電話代を払わずにLINEでメッセージのやり取りができる。しかし自分を高めるアクションを取る時、どうしても最低限の資本は必要になる。

普通の人には何の苦労もなくできる事が、僕には出来なかったりする、しかし他の人には絶対にできないことが、僕にできる自信もある。しかしそれには最低限の資本が必要である。

数学や物理の専門書も一冊1万円以上するものはたくさんあるし、今成し遂げようとすることもそれを世に出すためには資金が必要である。確かに金融投資などと比べるとその金額は少ないかもしれないが、自己投資には“投資”という用語が使われているように資金が必要である。

しかし最近、自分が自由になりつつある。自由だということは資本獲得にも動き出せるということである。そして時間の自由も増える。これまでは自分で自分を縛り付けているようなところがあったが、今、行動の自由と精神の自由を大きく獲得していろいろとアクションが取れる状況になりつつある。

この自由を後戻りさせてはいけない。自由をフル活用して、最低限の資本を確保し、自分が持っている高い目標へと上り詰めようと思う。あとは努力をするのみだ!

例外を作らない。

あらゆる分野に関して、必ず例外というものが存在する。時には例外が大きな変革を起こすことになる。しかし自分の内面と向き合い自分を変えようと思っている時、例外を作ることは許されない。

自分の内面に関して例外を作ってしまうと、そこが逃避地になってしまう。逃避地が存在していると、いつでも逃げられると思ってしまい自分を変えることができない。もちろん今の自分に満足しているのならば問題ないが、自分を変えようと試行錯誤している時には、あえて逃避地を作らず覚悟を決めることが重要になる。

僕自身、自分を変えなければならないところは多々ある。そして常日頃自分の弱点を克服しようと試行錯誤している。そんな時、逃避地の存在、そして例外を作っていることが逃げにつながり一向に変えられないことに気付いた。

自分を変えようとする時、初めの一歩には勇気がいる。初めの一歩を踏み出すことに、自分を変える労力の99%を使うと言っても過言ではない。しかしその一歩を踏み出せば、自分の内面の世界が大きく変わることが実感できる。

今日、その一歩が踏み出せたような気がする。この一歩を確実にものにし、その後の百歩へと何とかつなげようと覚悟を決めたところである。

死の谷。

iPS細胞の山中伸弥教授が言ったことであるが、研究結果を事業化しようとすると死の谷というものに直面するという。事業化するにあたって、その過程で資金は莫大にかかるがすぐには利益に結びつかない時期が生じるというものだ。

そのような死の谷は、人生においても直面するのではないだろうか?すぐには結果が出ない。しかし避けては通れない過程。そこが人生の死の谷だと思う。

無難に死の谷を避けて生きるのも一つの手かもしれない。しかし死の谷というものは、リスクでもあり投資でもある。リスクと投資なしでは大きな結果は望めない。

最近は何においても便利さと効率化が重要視されてきている。それと対極的にリスクは出来る限り避ける傾向にある。しかし果たしてリスクは悪なのか?人によっては徹底的に悪と捉えるだろう。しかしリスクは成功への投資でもある。

死の谷の中にいるときは本当に苦しい。しかしその先が少しでも見えているからこそ死の谷の中に飛び込んでいるわけでもある。死の谷はビジョンの中にある。死の谷の中でビジョンを具体化させ、それが成功した時、死の谷から脱出できるのだろう。

死の谷を乗り越えた時、その前に広がる風景は一変するに違いない。

逃げるのは最後でいい!

戦略として、負けそうな試合を早めに切り上げて次に備えるというのはありかも知れない。しかし自分が何かと向き合っている時、ギリギリまで粘ってみることが重要である。形勢というものは一つのポイントで急に変わることがよくある。そのポイントを逃さないためにもギリギリまで粘ってみる必要がある。

逃げるのはいつでもできる。だから逃げるのは最後でいいのである。勝ち癖を付けることが大事であるのと同時に、負け癖は出来る限り付けない方が良い。そして逃げ癖も同様である。しかし“逃げ”と“失敗”は違う。僕は失敗をすることは大事だと考えている。

失敗には継続性がある。失敗は次につながるのである。大きな成功は繰り返してきた失敗から生まれる。失敗をしない人は成功もしないと思っている。なぜなら失敗とは挑戦の証であり、挑戦しないことには成功もない。大きな成功を目指しているのならば、多くの挑戦を繰り返し多くの失敗を積み重ねることが大事である。

失敗とは違って、安易な逃げは次につながらない。逃げるとそこで打ち切られる。安易な逃げは次の逃げを呼ぶだけである。もちろん安易な逃げは失敗でさえもない。

とは言え、どうしても逃げないといけない時もある。絶対的に逃げ出さなければならないと判断した時は、勇気をもって逃げよう。ポジティブに判断した末の逃げは絶対に次につながる。

ギリギリの状況をどう切り抜けるか?そこではこれまでの失敗を次に生かせるかということにかかっている。

プロスポーツ選手から活力をもらう。

テニスの錦織圭選手がウィンブルドンで8強に入った。途中までは僅差のゲームが続いたが、最後は錦織選手が圧倒的な力の差を見せつけた。

錦織選手に限ったことではないが、日本人プロスポーツ選手の活躍からはいつも活力を与えられる。最近ではサッカー日本代表、メジャーリーグの大谷翔平選手、そしてフィギュアスケートの羽生結弦選手など日本人選手の活躍が目覚ましいが、どのプロスポーツ選手からも大きな力を得ることができる。

もちろん、活躍するプロスポーツ選手から得た力をどう自分の躍進につなげるか、そこは自分自身にかかっているが、自分も世界で活躍するプロスポーツ選手に負けないくらいの活躍をするぞと気合が入る。

僕はどの世界においても、プロといわれる人には敬意を持っている。スポーツ選手に限らず羽生善治氏や藤井聡太氏のようなプロ棋士をはじめ、全ての職種においてプロと呼ばれる人すべてにリスペクトしている。

明確にプロとアマチュアの線引きがされている分野もあるが、プロの定義が難しい職種もある。しかし一番大事なのは「プロ意識」だと思う。プロスポーツ選手を目指している人やプロ棋士を目指している人は、プロになる前から強いプロ意識を持っていると感じる。プロ意識なしにプロは成り立たない。

錦織選手は次は4強を目指して戦うことになる。しかし強い刺激をもらうためにも、4強と言わず頂点を目指して勝ち進んでほしい。僕も一日本人としてすごく応援している!

僕には大きな夢がある。今からでも遅くはない!

歳を取ると、もう夢を見るのには遅いと言われることが多い。はっきり言うと「夢を“見る”」のには遅い!少年や少女のように夢を“見る”のには確かに遅いのである。しかし「夢を成し遂げる」ことに対しては全く遅くはない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

僕も今までいろいろなアクシデントがあった。それがために大きな回り道をすることになって、現在はまだ夢を成し遂げるには至っていない。しかし夢を実現させるための手応えは大きく感じている。

僕の夢は、物理と数学、すなわち数理物理の研究にある。それを成し遂げるビジョンは明確にある。後は細部を詰めて形にするだけだ。もちろんそこが非常に難しいところであることは理解している。

まず一つの大きな結果を出すことが大事である。しかし一つ結果を出したらそれで終わりではない。結果を出したら次の目標へと切り替えなければならない。それの繰り返しである。

iPS細胞の山中伸弥教授の言葉である「VW(ビジョン&ハードワーク)」を常に心がけて、常に挑戦し続けて行こう!何と言おうと僕は「超攻撃的人生」を進むと決めたのだから。

今、目の前は暗い。

今、僕の目の前は暗い。しかし将来が暗い訳ではない。一歩進んだ先には明るい光は見えているし、とてつもなく大きな希望もある。しかし自分の周りの環境、社会、そして広くは日本に関して、明るい状況には見えない。

現在、高度な情報化社会になり非常に便利になる一方、行動の自由が束縛されているようにも思える。非常に自由に感じるかもしれないが、何か社会に誘導されているようにも思える。

僕は今、自分が最高に自由になるためにはどうすればいいかと色々なことを試みている。自由には行動の自由と精神の自由がある。どちらか一方あれば良いというものではなく、この二つは自由の両輪である。

現在の社会に疑問を感じても、後戻りすることはできない。しかし前に進んで変えることはできる。とは言え、社会を変えようとする前に、自分が自由になる必要がある。行動と精神が自由でない人に環境と社会を変えることはできない。

オウム事件・死刑執行の可否について。

7月6日、オウム真理教による一連の事件に関する死刑囚の死刑執行が行われた。7人同時執行という異例の決断だった。これらの執行に関しては様々な議論がされているが、単純に可否を決めつけられるものではない。

死刑執行に関しては人権問題に関連付けられ、近年は世界的に廃止する方向性が固まっている。特に今回の死刑執行に関して、EU諸国からは強い非難が浴びせられている。しかしEU諸国の主張に対して、単純にそれが正しいと受け入れることはできない。

その理由の一つ目は、EUの主張は死刑執行という行為のみに焦点を当てており、オウム事件そのものに関しては(EUの主張を見る限り)盲目的であるということである。オウム事件に限ったことではないが、事件(犯罪)と刑の双方を総合的に見る必要がある。さらに、加害者(死刑囚)の人権ばかりが論じられているが、被害者の人権が一切論じられていない。

二つ目は、死刑制度は犯罪の抑止力にならないという意見だが、抑止力になってないという根拠は示されておらず、さらに刑は犯罪の抑止力だけのためにあるのではない。

三つ目は、オウム事件の特殊性である。このオウム事件に関しては規模が桁違いに大きく、被害も桁違いである。さらに非常に組織的な犯罪であり、個人が気まぐれに起こした犯罪とは訳が違う。

次に、死刑廃止に対する妥当性についてであるが、何より死刑執行という行為は不可逆的だということは考えておかなければならない。死刑執行をした後になってからでは元には戻せない。特に冤罪が発覚した後になっては既に取り返しがつかない。実際、袴田事件の袴田巌さんのような事例が最近明らかになっている。袴田さんに関しては何とか解放することはできたが、おそらく冤罪により死刑執行された人もいるのではないかと推測される。

今回のオウム事件に関する死刑執行の可否を一言で論ずることはできない。しかし死刑制度に対する妥当性を真剣に論ずる必要性は強くあるように感じる。

1%ダメだということは、99%大丈夫だ!

ネガティブな思考回路になっている時は、少しのネガティブ材料も過大評価して、1%しか起こりえない最悪の事を99%ダメであるかのように錯覚することが多い。しかし冷静に論理的に考えると、そのようなダメである確率は1%しか起こりえないと結論付けられることが分かる。すなわち99%は大丈夫なのである。

仮に例え49%ダメであっても、51%は大丈夫なのである。ダメな時のことばかり考えて保険を掛け過ぎるよりかは、上手く行った時にはさらにどのように進もうかと考えた方がはるかに建設的である。

人生には危険は付きものである。しかもそのほとんどは予測できない危険なのである。予測できる危険などは少数でしかないので、危険に対する恐れを過度に持つことは意味がないわけではないが、あまり効果的でもない。重要なのは予測できない危険が生じた時の対処と、動じない意志を持つことなのである。

人生とは予測不能な事案の連続である。過度に右往左往するのではなく、どっしりと構えて不測の事態にも覚悟を持って対処することが大事である。

ブログ復旧しました!

2日間ほどブログサイトがダウンしていましたけれど、無事復旧しました!

再び毎日ブログをアップしていこうと思います。

よろしくお願いします。

木原康明

フォワードのさらに前を行く!

超攻撃的人生を実行するためにはどうすればいいか?そのキーワードは「フォワードのさらに前を行く」ということだ。フォワード的位置は、普通の攻撃的ポジションだ。そのため、超攻撃的に物事を進めるためには、フォワードよりさらに前のポジションに位置しなければならない。

「超攻撃的」とは、物事や人生の進め方の姿勢であるが、それと同時に「必ずゴールを決める」という意味合いもある。従ってゴールを決めてなんぼの世界である。

サッカーで最前線のポジションはフォワードである。従ってサッカーの世界ではフォワードのさらに前というポジションは存在しない。しかし必ずゴールを決めるという意味では、メッシやC.ロナウドはフォワードのさらに前を行っていると言える。すなわちフォワードのさらに前を目指すということは、その世界でメッシやC.ロナウドを目指すことを意味する。

誰もが「フォワードのさらに前を行く」ことができるわけではない。これを実行するためには、実力や技術、そして強い意志を持たなければならない。しかし自分にそれだけの実力と意志を持っていると自負できるのなら、そのようなポジションをとって超攻撃的に進めることは非常にエキサイティングな挑戦である。

自己精神マネジメント。

自分の目標とすることを達成するためには、専門の知識・技術を高めると同時に自分の精神をコントロールすることが必要だ。しかしこのような自己精神マネジメントにはあらゆる側面があるし、また高いレベルでマネジメントをする必要がある。

僕は自己精神マネジメントには大きく二種類あると考えている。一つは攻めの自己マネジメント。もう一つは逃げの自己マネジメント。僕は現在、攻めの自己マネジメントを徹底的に追求している。なぜ攻めの自己マネジメントが必要かというと、それは自分の行動の自由、及び精神の自由に直結するからだ。

あらゆる面で自由でないと創造的な取り組みをすることはできない。そのためには身体と精神が高いレベルで健康であることが求められる。もちろん先日亡くなったホーキング博士のように、身体的に不自由でも徹底的に高度な精神を持って創造的な仕事をする人もいる。しかし普通の人にはとてもまねはできない。

高度に自由な思考で生き、非常に高度な目標を達成するためには、精神と身体のマネジメントを徹底的に追求することが必要だ。

知は受け継がれる。

最近、ソリトン理論関連のことを調べることがあり、その中でも戸田格子理論で有名な戸田盛和さんのことを調べた。戸田さんはもうお歳だろうとは思っていたが、1917年生まれで、2010年に93歳で亡くなっているらしい。戸田盛和さんはもうこの世にはいないが、戸田理論はこれからも長く残っていくだろう。

当たり前の事だが、科学者と言えども人間であるから、いつかはこの世からいなくなる。しかし科学者が残した理論はこれからも長く残っていく。いや、長く残る理論を作らなければならない。

いつの時代も同じだと思うが、多くの科学者は流行の理論に飛びつき、流行に乗った確実に結果が出る問題に取り組む。それ自体は間違っていないのかもしれないが、なんだか納得できない。しかし納得できないのなら自分が行動で示さなければならない。

多くの受け継がれない知ではなく、価値ある受け継がれる知を構築することが重要である。そのような意味のある研究に取り組んでいる科学者がどれだけいるのか?残念ながら多くはいないように感じている。

目の前の勝負より、その先の勝利!

サッカー日本代表・ポーランド戦の試合は、「目の前の勝負よりその先の勝利」とブログでも書いた。今でもポーランド戦での戦術には納得いかないが、自分自身の事に対して振り返れば、それはまさに「目の前の勝負よりその先の勝利」を目指していることと再確認した。

この信念で進めた場合、その先で勝利を挙げることができれば大きな評価を得ることができるが、もし勝利できなかったら笑いの的だ。もちろん、僕もその覚悟で進んでいることは言うまでもないが、サッカー日本代表の西野監督も同じ覚悟かも知れない。

もちろん、小さなことを積み重ねていくことは大事であるし、そこで小さな結果を出し続けることも大事である。サッカー日本代表も小さな結果から大きな結果まで出し続けてきた。僕自身も結果を出す必要性は痛感している。

小さな積み重ねなしに、その先の大きな結果はありえない。僕自身もこれまでの人生の中で小さなことを積み重ねてきた自負がある。

小さなことを何年、何十年も積み重ねると、人には見えない世界が見えてくる。サッカー日本代表にもそのような世界が見えているのだろう。

将棋の羽生善治さんは、才能とは継続することだと言っている。何時間集中して打ち込むことは多くの人にも経験があるだろうが、30年以上当たり前のことを継続することは容易ではない。しかしそれができる人には、そのことが才能があるということなのだろう。

当たり前のことを30年以上続けることができていれば、少し胸を張っていいのかもしれない。僕も少し胸を張ろうかな?