月別アーカイブ: 6月 2018

サッカー日本代表、何が問題なのか?

サッカーW杯ポーランド戦、日本代表の戦いはあまりにも不甲斐無かった。特に終盤はパス回しによる現状維持で怒りに震えた人もいるだろう。僕もそのうちの一人だ。勝っていて、あるいは引き分けでそれを維持するためにというのならばまだわかる。しかし“負け”を維持するためのパス回しなど聞いたことがない。正直言って西野監督には失望した。

では、この終盤のパス回しによる現状維持の何が問題なのか?確かに現状維持すれば決勝トーナメントへの出場へ大きく進むことになる。目の前の勝負を捨て、その先の勝負を取ると考えれば、そのような作戦も十分にありだ。

しかし問題はそこではない。日本代表が戦っている時、もう一つの試合であるセネガル対コロンビア戦も同時に行われている。そちらでコロンビアが1点リード。このまま行けば日本は1点差で負けても決勝トーナメントへ進出が決まる。しかしセネガル対コロンビア戦もまだ終わっていない。つまり日本代表は自分たちの運命を現在進行中の他試合に預けたのである。まさしく他力本願。他試合の行方を“自分たち”で左右することはできない。ここに問題があるのではないかと思う。

とは言え、とにかく決勝トーナメントに進出が決定した。次の試合で西野監督の評価の全てが問われる。もしベルギーに勝利すれば西野監督は大きく再評価される。しかしベルギーに負けると西野監督と日本代表は世界の笑いの的になる。それが勝負の世界である。

なぜ大学教育では真理探究に重きを置くのか。

大学、学部、学科によって学ぶ目的は様々だが、大学教育というものは基本的に真理探究に重きを置いている。いや、正確にはそれに重きを置くべきだということかもしれない。

なぜ真理探究に重きを置くべきか?それは大学を出た後に大きく関係する。人間として、あるいは社会人として上を目指していくためには、常に勉強を続け、技術を身に付けることが必要になる。そのためには基盤が必要になる。その基盤こそが大学での真理探究なのである。

最近は大学での実学志向が甚だしい。すぐに役に立つ知識、すぐに役に立つ技術を学生が求め、大学側もそれに応えようとしている。しかしすぐに役に立つものは、枯れるのも早い。言い方を変えれば小手先の知識・技術であると言うことである。

また、すぐに役に立つものばかりを追い求めると、選択肢も狭まり、将来性を縮小させることにもなる。基盤知識・技術を身に付ければ、一生学び続けることができ、社会の変化にも柔軟に対応できる。

真理探究というものは、知識を追い求めることではない。思考を追い求めることである。現在の情報社会では、知識などというものはコンピューターで検索すれば瞬時にいくらでも出てくる。そこで必要になるのが人間の知恵である。

これからの情報社会、コンピューター社会で生き残る鍵は、人間らしさと人間の思考であるはずだ。

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

身体と精神がますます健康になっていく!

タイトルに相反するようだが、ここ二日間くらい少し体調を崩した。と言っても微熱があり、だるいくらいなので、ちょっとした不調と言った方が正しいかもしれない。

しかしもう少し長い目で見ると、僕の身体と精神はますます健康になってきている。ブログで何度も書いたように、健康は最大の実力であると考えているので、僕の身体と精神の健康は胸を張って誇れるものかもしれない。

何らかの不良がある時、多くの人は薬に頼ることだろう。風邪をひいたときには風邪薬をというふうに。もちろん、薬に頼らないに越したことはない。薬を飲まずに元気でいられることは、非常に素晴らしいことだ。しかし、不調である時に薬を飲んで元気になれば、それはそれで良いことだ。しかし薬に溺れてはいけない。

僕はここ五年くらい、ほぼ毎日筋トレをしている。おかげで身体は若い頃以上にたくましくなってきているように思える。数学や物理の研究においても、研究者は「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものだ。体力と精神の健康は何よりも大事である。

しかし、この健康を無駄にしてはいけないと強く思っている。健康であることを最大限に生かし、前に進むことが大事である。

「俺は、俺は」を考え直す時。

自分に余裕がない時、一番に考えるのは自分の事だ。「俺は、俺は」の思考で考えれば自分の事が前進するように錯覚するが、実は自分の事というのは他人と、あるいは社会と結びついているので、相手の事を一番に考えることが周り巡って自分の事にプラスに働くことがよくある。そのことに気付くことが大事である。

とは言え、「俺は、俺は」と考え、自分が最前線に出て行くことも時には重要である。

現在、サッカーのワールドカップが開催されているが、日本のサッカーは基本的に組織的プレーである。それに対してアフリカ勢のサッカーなどは個人技が大きくものを言っているように思える。確かにどちらが優れているという訳ではないかもしれないが、組織的プレーを重要視する日本にも「俺が、俺が」と自分が出て行き決めることも大事なように思える。

僕はと言うと、基本的に「俺は、俺は」という人間である。個人技で勝負するという人生を信条としている。しかし当たり前の事だが、自分一人で生きているわけではない。従って周りの人の事を考えることも大事である。その部分の加減は難しい。しかし自分にしかできないことがあるなら、そこでは「俺が」と自分が出て行くべきである。

とは言え、何事も組織的に進め協調性を重要視する日本においては、個人技で勝負する人間に対しては風当たりが強いものである。

出来る気しかしない!

「出来る気しかしない!」と言ったら自信過剰だろうか?いや、本当に自信過剰である。しかし僕には出来る気しかしないのである。

僕には非常に大きな目標がある。そのための明確なビジョンもある。足りないのは細部を詰めることである。ただ、細部を詰めるには高度な技術がいる。その技術の習得に励んでいる。

もしこれで出来なかったら、単なる自信過剰である。その意識が本物か偽物か?それは結果が答えてくれる。

ただこれまで、かなりの時間がかかっている。それは僕の悪い癖である。これまでいくつかの事を成し遂げてきたけど、時間がかかりすぎている。現在の目標を達成するのにも時間がかかるかもしれない。

自信過剰で出来なかったら単なるほら吹きであるが、今は単なるほら吹きではなく、大ぼら吹きになろうと思っている。そしてその大ぼらを吹いたことを実現させる。ただそれだけで、それ以上でも以下でもない。

今は大ぼらを吹いて、自分を追い詰めようと思う。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

上手くいかない時こそ考える。

物事が上手くいっている時は、何も考えていなくても次々と順調に進むが、上手くいかない時は何をやっても上手くいかないことが続く。しかし上手くいかないからと言ってネガティブにとらえるのではなく、そのような時は熟考するチャンスだととらえ、徹底的に考えるのが良い。

考えるというのは主体的な行為だ。だから周りから情報を集めるだけでは何も考える事にはなっていない。考えるという行為は情報を集めることではなく、自分の中で物事を構築していく作業である。

ただ、考えたことが結果として表れるまでにはタイムラグが現れる。そのタイムラグの間、どこまで耐えられるかということも行方を左右する。

考える事には、直接的なお金も情報もいらない。いや、多少なりともヒントとなる情報と、それを入手するためのお金は必要かもしれないが。しかし情報の沼にはまってしまえば、考察の楽園にはいつまでたってもたどり着けない。

ヒカキンさんの着眼点がすごい!

19日、サッカー日本代表が大金星を挙げて、日本は大盛り上がりだ。例のごとく試合後、渋谷にはたくさんのサポーターが集まりすごい騒ぎだったようだ。

ところで、ワールドカップのスポンサーになってコラボをし、名前をアピールする企業はたくさんある。そしてそれらの企業はおそらく何千万円、もしかしたら何億円のスポンサー料を払っていることだろう。

しかしヒカキンさんは全く違うことを考えていた。試合翌日の6月20日のヒカキンさんのチャンネル「HikakinTV」では、騒ぎが収まった後の早朝の渋谷でゴミ拾いするというものであった。これは一見すごく地味に見えるが、0円でワールドカップとコラボ(?)し、しかも街が綺麗になり、さらにYouTube動画を作るという、一石三鳥の離れ業である。このヒカキンさんの発想と着眼点には脱帽だ。

この動画を観て、多くのユーチューバーがいる中なぜヒカキンさんが絶大な人気を獲得しているか、良くわかった。皆がユーチューバーをやっているわけではないが、ヒカキンさんの発想と着眼点には大きく見習うところがあるはずだ。

自分が取り組んでいる分野で、ヒカキンさんに負けないくらいの自由な発想で力を発揮してみよう!

リスクを取らないことが最大のリスクだ!サッカーW杯・日本代表を観て。

19日、サッカーワールドカップ・日本代表対コロンビア代表の試合があった。日本代表は下馬評を覆す大金星でまずは一勝を挙げ、グループリーグ突破が明確に見えてきた。

前半3分、コロンビア選手のレッドカードで一発退場。そして香川選手のPK。そこで先制点を奪い、さらに日本の数的優位になりこのまま安泰。

と思いきや、

その後コロンビアが同点弾を挙げる。とは言え数的優位に立っているので本来なら日本が有利であるはずだが、前半終了直前の状況を見て僕はかなり悲観的になっていた。日本代表は完全に守りに入っている。パスは全て横パスだ。コロンビアに対して全くプレッシャーをかけることができていない。このままいけば確実に後半で逆転されて負ける。正直そう思った。

しかしハーフタイムが救いだった。ハーフタイムでおそらくその辺の指示が出たのであろう。後半が始まってからの日本代表は見違えるように変わっていた。横パスが全て縦パスに変わり、断続的にコロンビアに対してプレッシャーをかけていた。それを見て今度は、これは勝てると確信した。

結果、日本代表の勝利!日本代表、おめでとう!

この試合を観て思ったのは「リスクを取らないことが最大のリスクだ」ということだ。前半終了間際の日本代表は完全にリスクを避けていた。それがために相手にプレッシャーをかけられずに危機的状況に陥っていた。しかし後半に入りリスクを取る集団に変貌した。この試合の一番の勝因は、後半に入ってリスクを取りに行ったことだと思う。

人間は有利に立つと守りに入るものかもしれない。そこで再びリスクを取れるかどうか?そこがその後の分かれ道であると言えるだろう。

一回立ち止まって、過去を振り返ることも大事。

近年の科学技術の進歩は目覚ましいものがあり、そのスピードになかなかついていけないこともある。しかし最先端の理論、最先端の技術を追い求めるあまり、過去の重要事項を見落としてしまうことも多いのではないだろうか?

進歩があまりにも速いが故、つい二、三年前の事でさえ時代遅れになってしまう。しかし本当に重要で価値のあることは、例え数十年経っても色あせないものである。アインシュタインの相対論は、現在の科学においても根幹として存在感を発揮している。量子力学も然りである。

しかし一部、いや多くの人たちが、過去の重要事項を時代遅れのものだとみなし、無視しているきらいがある。最先端を追い求めることに必死になるあまり、本当に重要な事に気が付いていないのである。

全速力で走ることは重要であるが、時には立ち止まって過去を振り返ることも大事である。そのように立ち止まって過去を振り返ると、重要なヒントに気付く時がある。

最先端の事項はすぐに時代遅れになる。最先端の事より本当に重要な事は、数十年、数百年経っても色あせずに残ってきたものなのである。

数学と物理があるから、生きていける。

人生を懸けるものは見つかっただろうか?僕にとっては数学と物理が人生そのものである。他人からは趣味だとかいろいろと言われるが、僕にとっては生きがいである。

幸運にも、理論系の学問は自分一人でもやっていける。もちろん専門書だとか論文だとかを手に入れるにはそれなりのお金がかかるが、多くの実験科学のように膨大なお金と実験施設がいるわけではない。

僕は数学と物理を趣味でやっているわけでは決してない。趣味と言われるくらいならまだ遊びと言われる方がマシだ。数学者とは数学で遊ぶことを生きがいにしている人である。僕が昔知り合っていた超一流数学者は、数学の事を「この遊びはやめられない」と言っていた。

人生を懸けて打ち込むのなら、世界でトップを目指すべきだ。科学は順位を争うものではないと言う人もいるが、科学とは誰が世界で一番に成し遂げるかという競争である。そのことを肝に銘じなければならない。

人生を懸けるものがあるかどうかは、人生で苦境に立たされた時に大きく左右される。人生を懸けるものがあるから、周りから見て絶望的な状況であっても小さな光を見出し突破することができるのである。

思想の欧米化。

最近では外国人が日本の文化に興味を示しているという話題をよく聞くようになったが、思想や倫理観に関してはまだまだ欧米がグローバルスタンダードのような気がする、しかしだからと言って、日本の思想や倫理観が時代遅れだとか悪いといったことは無く、むしろ欧米の思想や倫理観の方がおかしいのではないかと感じることも少なくない。

とは言え、西洋思想と東洋思想はどうしても相いれないところが出てくるのは当然かもしれないが、根本をたどれば人間の思想であることに変わりはなく、一方的に東洋の思想がおかしいと決めつけるのは間違っている。欧米思想がスタンダードになる理由は、それが優れているからではなく、多くは国力の差に依存するものである。

現在日本は、日本文化を世界に広めることに躍起になっている。近年ではクールジャパンという言葉もかなり世界に広まってきているようだ。しかし日本思想を伝える事にはかなり後れをとっているように思える。しかし日本思想は根は中国・朝鮮にたどり着くことも多く、広く東洋思想として世界に広めることが必要だ。

日本思想に限定すれば、京都は日本思想の震源地と言ってもよい。西田幾多郎をはじめとする京都学派は大きな広がりがある。京都はもちろん日本文化の中心地である。現代的日本文化の中心地は東京であるが、伝統的日本文化の多くは京都に依存する。

確かに文化的価値に比べると、思想的価値はなかなかビジネスにはならないかもしれない。しかし思想は文化の基盤でもあり、長い目で見れば日本思想を世界に広めることは世界における日本の地位を大きく向上させるものである。

自分への制約をどこまで解放できるか!

現在、サッカー・ワールドカップが開催されているが、サッカーでは守備的なディフェンダーから攻撃的なフォワードまでいくつかの役割分担がされている。それは人間も同じで、守備的な人間から攻撃的な人間まで様々いる。どちらが良いとか悪いとかいう話ではないが、僕自身は超攻撃的人生を攻めていこうと思っている。

超攻撃的に人生を攻めるためには、まず自分に対する制約を取り払わなければならない。制約を無くしどこまで自分を解放できるか、そこでのせめぎ合いは常に付きまとう。

守備的な人生が3を得て1を失うということを目指すのならば、攻撃的な人生では100を得て70を失うということを目指すことであろう。守備的な人生で2を獲得するか、攻撃的人生で30を獲得するか、僕の答えは一目瞭然である。

自分の精神をコントロールするのは確かに難しい。しかし自分の目指すところへたどり着くためには自分をコントロールすることが不可欠だ。超攻撃的人生を心に留めて、危険を冒し続けてみよう!

サッカー・ワールドカップ開幕!

14日(ロシア時間18時)、サッカー・ワールドカップ・ロシア大会が開幕だ!僕自身はどちらかというとサッカーよりも野球派だが、やはりサッカーのワールドカップは見逃せない。野球のWBCもサッカー・ワールドカップのように盛り上がればと思うのだが、これからどうなるのだろうか?

ところで、なんだか日本は少し盛り上がりに欠けているように思う。大会直前の親善試合敗北(開幕前最終戦は勝利)、代表監督交代など、ネガティブな話題が続いているせいかもしれない。日本のW杯予想も悲観的なものが多い。

しかし、予想が低い時の方が意外と活躍するものだ。直前の親善試合だって、言葉を変えれば練習試合である。勝敗よりも選手の連携チェックの方が重要である。メジャーリーグの大谷翔平もオープン戦で散々たる結果だったが、公式戦に入れば大活躍だ!サッカーも大谷翔平に続けばいい。

サッカー日本代表が良い意味で裏切ってくれることを願っている。試合外でダンヒルのスーツを着ている日本代表もカッコいいが、ユニフォームを着てピッチに立っているカッコいい日本代表を見たい!

どうすれば人徳を高められるのだろう。

まだまだ徳が足りない。そう思う今日この頃である。

どうすれば人徳を高めることができるのだろうか?徳というものは油断をしているとすぐに下がってしまう。もちろん徳がなくても普通に暮らしてはいける。ただ自分が目指すところ、目指す人間像に到達するためには、徳を高めることが必要だ。

「自分の専門分野だけできればそれでいい」と思う人もいるだろう。しかし人生を一つの創造作品だと考えた時、備えなければならないものはいくつかある。

その一方、なくて良い物も色々とある。何が必要で、何が必要でないか?それをしっかりと判断し、捨てるべきものは捨てるという決断も重要である。

常に理想を追い続け、死ぬまで理想にはたどり着けないのかもしれない。しかしだからといって、理想を追い続けることを止めてしまえば時の針はそこで止まってしまう。

トランプ大統領と金正恩委員長の首脳会談、そして日本との関係。

6月13日、アメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金正恩委員長による米朝首脳会談が行われた。もちろん会談の詳細はまだはっきりとしていないところもあるが、大筋で会談は成功したと言われている。トランプ大統領の発言を見ても、そう見て間違いなさそうだ。あとは朝鮮半島の不可逆的非核化を確実に進行させ、休戦状態の朝鮮戦争を終戦させた上で平和条約を結ぶことが課題と思われる。

一年前にトランプ氏と金正恩氏が顔を合わせるとは誰が想像しただろうか?僕自身も今回の首脳会談成功に驚がくしており、それと同時に日本を含む東アジアの核危機にどうやら終止符が打たれそうなことに安堵している。

ところで日本にとって北朝鮮問題と言えば、真っ先に拉致問題が挙げられる。もちろんこれは日本にとっては大きな問題だ。しかし米朝及び南北朝鮮間でのやり取りに強引に拉致問題を持ち出すのは果たして良い選択と言えるだろうか?僕自身は拉致問題を米国・韓国に現段階で押し付ける事には疑問を感じる。日本が拉致問題に関して早急に解決を急ぐのは逆効果に思えるからだ。米朝及び南北朝鮮の話し合いに拉致問題を持ち出せば、北朝鮮が反発するのは容易に想像できる。拉致問題を解決する最善の方法は、まずは南北及び米朝間による和平を遂行させ、そのうえで日朝で話し合うのが一番効果的だと思うからだ。これは少し回り道に思えるが、結果的にこうした方が早急に解決できるように思える。実際、小泉元首相が訪朝した後、まずは拉致問題ありきの日本の対応に対してこの問題は一歩も進んでいない。確実かつ早急に拉致問題を解決するためにも、今は朝鮮半島の和平を最優先で進めるべきではないか。

何はともあれ、今回の米朝会談により危機的状態を脱する見通しができたことは喜ばしいことである。朝鮮半島非核化と同時に東アジア和平も不可逆的に遂行することを強く望む次第である。

知識はいらない!

書物を読み、知識を習得することは重要な事である。しかし知識を習得することは最終目的ではない。修得した知識を基に、何を構築できるかが重要なのである。

科学を身に付けるとは、自然科学の知識を習得することだと勘違いしている人が多い。しかし科学とは人間の自然に対する思想である。科学的実在は人間の存在と関係なく実在するものであるが、科学理論は人間が構築した自然記述であると同時に人間の自然観を表した思想なのである。

自然科学の歴史は、既存の科学への部分否定の繰り返しである。ただし全否定ではない。否定されると言っても、既存の科学が見捨てられたわけではない。既存科学はその時代の人間の自然観として未来へと残っていく。

さらに科学というものには階層というものがある。生物学や化学、物理学と言われる区別は一種の階層分けであり、物理学で言うと物性物理、原子核物理、素粒子物理へと進むにしたがって深い階層へと入り込んでいく。

6月11日のNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、辞書作りに携わる日本語学者・飯間浩明氏の特集がされていた。辞書作りのプロとは一言で言うと「言葉を扱うプロフェッショナル」と言えよう。そんな「言葉」というある意味知識的な要素に対しても、辞書作りの専門家にとっては思想とか哲学があるようだ。そのような言葉に対する思想や哲学に対して、科学者の思想や哲学に通じるものを感じた。

科学というものは決して知識の羅列ではなく、その根底には思想や哲学が深く流れている。そのような思想や哲学を持っているかどうか、そこがプロフェッショナルのプロフェッショナルである所以と言える。

人間を持った男。

最近、どのような男であるべきかということをよく考える。もちろんその答えは一つではない。それぞれの男によって目指すものはまちまちであろう。

その一つの答えとして「人間を持った男」ということがあるように思える。その人間とは誰か?自分という人間である。自分という人間を持つためには、精神的に自由である必要があるし、自分を完全にコントロールできる必要がある。

そのような人間を目指すために、現在試行錯誤している。非常に考え抜いている。もちろんそのようなことを常に意識しないと、そこへはたどり着けない。でも最近、そこへたどり着くための手応えを感じている。

自分という男を自分の思う高いレベルに持っていくために、まずは自分という人間を手に入れることに挑戦してみよう。

層を二つくらい重ねてから、細部の計算に進む。

数学や物理の理論を勉強をするとき、初めから細部にこだわって厳密な計算のチェックをしていると、全体図が見えなくて迷走することが多い。もちろんそのような厳密計算を重ねて理解していく人もいるのだろうが、僕にはそれができない。

そこで初めは全体図を把握するため猛スピードで流す。そして次はもう少し詳しく見直す。そのように二層くらい重ねてから細部の計算へと進むと、何の計算をしているのか非常に意識することができ、理解がより一層深まる。

二層が面倒なら一層でもいい。まずは全体図の把握、あるいは全体の雰囲気を掴むことが大事だ。このことは数学や物理の理論を想定して書いたが、数学や物理だけでなくあらゆる分野にも適用できると考えている。

「木を見て森を見ず」とはよく言う言葉だが、細部の計算にはまり全体図を把握しないのはこのような事だと思う。

まずは高速道路を猛スピードで走るがごとく理論の初めからあるところまで(最後でなくてもいい)飛ばしてみよう。その後に同じ道を下道で色々な店に立ち寄るがごとくじっくりと味わってみよう。

アリバイを作らない。

白洲次郎は決してアリバイを作ろうとはしなかったという。アリバイは時には大事だが、多くの場合保身でもある。結果的にアリバイはあればいいが、決してアリバイを作ろうとは思わない方がいい。

現在の政治家問題に関しても、あるいは日大問題に関しても、大人たちは大人のアリバイ作りに必死になっているように思える。もちろんそれが正しいアリバイならまだいいかもしれない。しかし現在のアリバイの応酬は偽りのアリバイに思えてならない。偽りのアリバイなら、まだ何もない方がましだ。

アリバイを作らないということは、考えようによっては非常に危険に思えるかもしれない。しかしアリバイを作らないという姿勢で一貫すれば、長い目で見れば信頼度も増し、決して悪いことではない。目先の事ばかり見て判断するのではなく、長い目で見て判断することが大事である。

危険に危険を重ねれば、ある意味感覚も麻痺してくるが、判断基準になるラインが変わり高い所を目指すことができるようになる。そのように意図的に自分の感覚を麻痺させることも、非常に重要な人生戦略である。

アリバイ作りに精を出し、コソコソと生きるような真似だけはしたくはない。とは言え、現段階でそれが完全にできているかといえばまだそこまではいっていない。

アリバイを作らないという行為も、自分の生き方の自由度を上げるための重要な戦略だ。そのような自分の目指す生き方をするためにも、今は一歩一歩自分のラインを上げていくしかない。

「学ぶ」のではなく、「落とし込む」。

人生において学ぶことは非常に重要だが、ただ無目的に学べばいいという訳ではない。重要なのはフレームをしっかりと構築したうえで、その枠組みに「落とし込む」ことだ。

「学ぶ」と「落とし込む」は何が違うのか?学ぶことに対してはスタイルはあまり関係ないが、落とし込むためには自分のスタイルを確立していなければならない。自分がどのような人間か?そして何を目的に生きているか?そのように、自分という人間をしっかりと認識していなければ落とし込むことはできない。

もちろん落とし込むという作業の前段階には、学ぶという作業が必要だ。何かを学んだうえでそれを落とし込むか、排除するか、そのような判断力を身に付けていなければならない。

落とし込むという技術を身に付けるためには、それなりの訓練が必要だ。あるいは経験が必要かも知れない。しかし落とし込む技術を身に付ければ、学ぶという行為に対する効率が飛躍的に向上する。

学ぶときには、落とし込むことを想定して先読みしなければならない。

継続は力なり!

「継続は力なり」とはよく言う言葉だが、なかなかそれができない人が多いのかもしれない。結果が出ないと、他の事に変えようかと迷うことも多いだろう。取り組んでいることに思い入れがなければなおさらだ。

では、継続へと突き進む原動力は何か?それは「好きだ」という気持ちであったり、「面白い」という気持ちである。それがなければ継続することは難しい。

もちろん、好きでもないことをやらざるを得ないこともあるだろう。しかしそこも考えようだ。好きでもないことも、周り巡って本当にやりたいことにつなげることもできる。意外と全ての事はつながっているものだ。そのように考えるためには、思考をコントロールすることが必要だ。しかしそのような思考のコントロールは他人から導かれるものではない。自分自身で導くほかはないのだ。

思考のコントロールをするためには、自分の環境を整えることも必要だ。そしてお金の使い道も考えなければいけない。本当に必要なものにお金を投資できているか?目先の事ばかり考えていないか?自分の知性・知識を高め、行動の自由を獲得するためにお金を投資しなければならない。

話しは戻るが、継続を力に変えるために、それを促進させるために環境を整え、お金を投資し、人間関係を構築していくことが必要だ。僕自身、そのために非常に重要視しているのが書物への投資だ。本は大切にしなければならない。しかしそれは本の「紙(ペーパー)」を大切にするのではない。本の中身の「情報・知識」を大切にするべきなのである。

また今から書物との格闘が続く。そのような格闘の継続が力になると信じている。

自分の精神力と勝負だ!

突然だが、雑誌で白洲次郎の記事を見た。終戦直後、GHQは白洲を評して「従順ならざる唯一の日本人」と言ったという話は有名だが、白洲次郎の姿に一つの目標とする人間の姿を見た。

人生常に勝負であると言えるが、勝負といえば他人との戦いを思う人は多いと思う。いや、ほとんどの人にとっては勝負とは他人との勝負であろう。もしかしたら、スポーツにおける勝負、受験における勝負、仕事上での勝負を想像するかもしれない。しかし、白洲次郎の姿を見ると、他人との勝負などちっぽけな事のように思える。最大の勝負は「自分との勝負」である。

自分の何と勝負するのか?それは自分の「精神力」である。ある高レベルのラインを超えると、他人よりも自分の中身・精神の方が最大の味方であり、最大の敵であることに気付く。他人と勝負している間はたかが知れている。自分の精神力との勝負に勝利すれば、自分の全てを手に入れることができる。

今自分はどのレベルにいるのか?まだ他人との勝負に明け暮れているレベルかもしれない。しかしそのレベルであっても自分の精神力と勝負することはできる。

自分がたどり着くことができる最高のレベルに向かって、自分の精神力との勝負に真剣に向き合う。そのような姿勢を取ることができれば、これまでの世界は非常にちっぽけなもののように思える。

日本にはいない才能。

世界でナンバーワンの才能は日本にいるのか?日本には錦織圭はいるが、ナダルはいない。湯川秀樹はいたが、アインシュタインはいなかった。中田英寿はいたが、メッシはいない。世界トップクラスの日本人は少なからずいるが、世界で圧倒的なトップに君臨する日本人はいただろうか?

僕の尊敬する山中伸弥教授は世界トップの研究者と言える。山中教授が日本に拠点を置いているのは奇跡だ。しかし現在の山中教授は研究よりもマネジメントに翻弄されている。もちろん世界のiPS細胞研究界をマネジメントしてリードできるのは山中教授しかいないのだが。

これから日本に必要なのは、世界トップクラスの日本人ではなく、圧倒的にインパクトのある世界トップの日本人だ。研究者でもスポーツ選手でもなんでもいい。とにかく圧倒的にインパクトのある世界トップの人材が一人欲しい。もしそのような日本人が出てくれば、日本人の思考から文化まで大きく変えることができる。

繰り返し言う。世界トップクラスではなく、圧倒的な世界トップだ!

行動の自由度を高める。

自分の行動の自由度は、大きく二つのものに由来する。一つは物理的なものから来る自由度。もう一つは精神的なものから来る自由度だ。

物理的な自由度は非常に分かりやすい。例えば自動車を手に入れることによって自由度を高めることができるし、さらにはお金を手に入れることによってできる事が増える。また社会的地位なども一種の物理的な自由度と言えるかもしれない。

問題は精神的な事から来る自由度だ。これは一見わかりにくいが、誰もが非常に左右されるものだと思う。自分の考え方、行動指針によって、行動の自由度は大きく変わる。また周囲をどれだけ気にするかということにも影響されるだろう。

当たり前の事だが、精神的なものから来る自由度は、お金ではなかなか解決できない。そのため、自分で自分の精神をコントロールするしかない。そのためには、自分が自分の精神・自分の考え方にどれだけ束縛されているかを知る必要がある。普段はあまり意識することはないが、意外と自分の考え方によって行動が束縛されていることが分かる。

行動の自由度を高めると、世界観が変わる。物理的にも精神的にも世界の大きさが変わる。もしかしたら自分の度量も大きくなるかもしれない。自分を新しいステージに進めるためにも、まずは行動の自由度を高めることを意識してみよう。

錦織圭選手は帰ってきたか?

現在行われているテニス・全仏オープンで、錦織圭選手が16強まで進んでいる。錦織圭選手は去年から今年初めまでけがで欠場していたが、最近の結果を見るとかなり復活してきたようだ。

ところで最近はあらゆる分野で若手日本人の活躍が目覚ましい。メジャーリーグの大谷翔平選手、卓球の張本智和選手、そしてスポーツではないが将棋の藤井聡太七段など、皆頼もしい限りである。

ところで、錦織選手が世界のトップクラスに躍り出て、面白い大会があることを知った。テニスで最もメジャーな大会と言えば四大大会を思い出すが、毎年シーズンの締めくくりに、ATPワールドツアーファイナルという大会が行われる。これはその年のランキング上位8人だけが出られる大会で、室内で行われる。錦織選手がこの大会に出るようになって試合の中継を見るようになったが、演出とが凝っていて非常に面白い。さすが世界のトップ選手だけしか出られない大会だけある。

これから全仏オープンも後半戦に入るが、錦織選手がどこまでトップに迫れるのか楽しみである。もちろんトップに迫るだけではなく、トップを取って欲しいと願っているが。

錦織選手もここ最近の活躍で、欠場時に下がった世界ランキングがうなぎ上りである。年の終わりに上位8人に入ってATPワールドツアーファイナルに出場できるか。今からワクワクしている。

なぜ哲学を修得すべきか?

「哲学は古い」とか「哲学は科学的ではなく間違っている」と言って、哲学を学ぶのは全く無駄だと言う人が多い。特に日本では哲学を軽視する風潮が強いように思える。

確かに哲学の絶頂期であったギリシャ哲学などは、科学的に見ればほとんどの事が間違いである。それどころか近代哲学の金字塔であるカントやニーチェなどのドイツ哲学だって正しいとは言えず、とても役に立つとは思えない。

しかし僕は声を大にして言いたい。

「哲学は極めて重要であり、習得すべき学問である」

ではなぜ哲学を修得すべきか?もちろん哲学の内容自体も意味があると思うが、それ以上に大事なのは「哲学の構造とメソッド」だ。

哲学を構築していく作業というのは、生きていく全ての事に応用が利く。哲学を構築できるかどうかということは、人生を構築できるかどうかということにつながるのである。もちろんあらゆる学問やビジネスへの応用にも非常に威力を発揮するであろう。

そして哲学的手法、すなわちメソッドは、あらゆることに対するアプローチの原型になっている。これは「いかにして生きるべきか?」という問いにつながってくる。またこれもあらゆる学問やビジネスへの応用に威力を発揮する。

哲学は役に立たないどころか、生きること全てに対して関わってくるのである。極論を言えば、哲学をせずに生きることはできない。「いかにして生きるべきか?」と問いかけながら生きていくには、哲学は必要不可欠だ。

哲学は決して難しい学問ではない。まずは身の回りの事に対して「なぜ?」という問いかけを始めればいい。その「なぜ?」という問い自体が哲学的行為そのものである。そうして小さな哲学を積み重ねていけば、徐々に体系的な哲学を構築していくことができるであろう。

まずは目次を理解する。

本を読む時、何をもってその内容を理解したと言うのか?その一つの目安は目次を理解できたかどうかということだ。

目次を理解するというのは、一つは目次に書かれている見出しの内容を理解するということだが、その他にも、なぜそのような見出しがその順番、その流れで書かれているかということを掴むということでもある。内容を理解していないと、その流れの意味が掴めない。逆にポイントをしっかり掴めば、目次を見るだけで本の内容のほとんどを理解できる。

本を読む時、まずは目次にしっかりと目を通してみよう。読む前はおそらく目次に書かれている必然性を理解できない。しかし本のおおよそを理解した後には、目次の必然性を理解できるだろう。

目次を理解するということは、本の内容を理解することとニアリーイコールである。逆に本を読んだ後になっても目次を理解できないのならば、それは本の内容を理解していないということである。