月別アーカイブ: 5月 2018

自分で自分をコントロールする。

自分を目標へと近づけるために、自分の精神と行動をコントロールすることは重要だ。

目標がはっきりしているのならば、その目標へたどり着くためにはどの道を、どのような手法で、どれだけやればいいかを計算し、適切な手法を取る必要がある。しかし、いつも思い通りにいくとは限らない。アクシデントが起こることは日常茶飯事である。そこで重要なのは、そのアクシデントにどう対応するかである。アクシデントや失敗は決してマイナスではない。それに上手く対処することによって自分を一段高め、その結果目標への近道へと変化する可能性もある。

昔から「急がば回れ」という言葉があるように、回り道が結果的に近道になることがよくあるのである。そして回り道はそれだけ経験の豊富さにもつながってくる。

少し話が逸れたが、アクシデントや失敗が起きた時こそ自分に対するコントロールが威力を発揮する。それは学問に取り組んでいる時もそうであり、また人付き合いにおいてもそうである。

自分をコントロールできる人間は総じて強い。自分をコントロールすることによって、自分の人間性を、そして社会的地位を高め、もしかしたら金銭的な面でも優位に立てるかもしれない。マインドコントロールという言葉は日本ではネガティブな意味で使われることが多いが、自分に対してマインドコントロールできる人間は逆境に遭っても決して倒れないであろう。

安倍首相はトランプ大統領に対してイエスマンになってはいないか?

最近の森友・加計問題を見ていると、安倍首相周辺は安倍首相に対してイエスマンの集まりになってはいないかと感じる。もちろん、何に関しても首相に対してノーと言えばいいという訳ではないが、最近の報道を見ていると、与党及び官僚の答弁・コメントは安倍首相に追従するものばかりだ。唯一、石破茂氏が自民党内で孤軍奮闘して安倍首相に対して苦言を呈しているように思える。

そして上の階層に目を向けると、今度は安倍首相がトランプ大統領のイエスマンになっているように感じる。最近の北朝鮮問題に関しても、安倍首相自身の意見をほとんど感じない。安倍首相の見解のほとんどはトランプ大統領に追従するものばかりだ。

トランプ大統領の北朝鮮に対する対応には疑問に感じるものもあるが、それに対して安倍首相がノーを突きつけたところを見たことがない。確かに日本とアメリカが連携することは重要だが、盟友に苦言を呈することも必要だ。いや、盟友だからこそ苦言を呈するべきだ。

危険じゃないと意味がない!

もし人生の岐路に立った時、どちらを選ぶか?僕は危険な方を選ぶことにしている。もちろん、危険な方を選ぶことに不安がないわけではない。しかし危険な方がより大きな可能性が潜んでいると思うし、より大きな自由度が存在していると思う。もちろん、危険な方を選んで失敗した場合、最悪は死という可能性もある。

とは言っても、まだそれを100%実行できる状態ではない。精神的にもそこまで強くなり切れてはいない。そこはこれからの課題である。

なぜそこまで危険な方にこだわるのか?それは危険性よりも、自分の身動きが取れなくなることの方が恐ろしいからである。そしてこれからいろいろと実行したいことがある。そのためには危険に飛び込むことが必要であるからだ。

危険は裏を返せばエキサイティングということである。エキサイティングに生き、とてつもなく大きな成果と実績を挙げ、目標とすることを達成するためにも、これからどんどん危険に飛び込める人間になろうと思う。

非常に気になる研究者、高橋政代・理研プロジェクトリーダー。

現在、日本の研究レベルの低下が叫ばれ、それに対する有力な打開策を見出されずにいるが、それでも日本にも世界トップレベルの魅力的な研究者は少なからず存在する。その中でもiPS細胞関連の研究に関しては日本の山中伸弥教授のiPS細胞発見が起点になったこともあって、この分野は日本が世界トップレベルを維持しているのではないかと感じる。

理研の高橋政代プロジェクトリーダーもその一人だ。高橋氏はiPS細胞の臨床への応用研究では世界トップの研究者と言ってもよく、日本国内では非常に良く知られた存在だ。ちなみに、旦那さんの高橋淳氏は京大iPS細胞研究所で教授をしており、夫婦そろってのiPS細胞研究のトップ研究者だ。

普段から高橋政代氏の研究に関しては、僕が分かる範囲でチェックしているが、今日なぜここで記事にしたかというと、雑誌ゲーテ7月号で高橋政代さんのことが記事になっていたからだ。研究の一般的な事も書かれているが、高橋さんの人柄などに関しても書かれている。

雑誌上で高橋さんは、自分に関して面白い表現をしている。自分の事を「ブルドーザーに乗ったサッチャー」と評しているのだ。さすが、一流の研究者というのはこういうものなのかと感心してしまった。学生時代の高橋さんは非常におとなしい女性だったと言っているので、もしかしたら研究に向き合うと人格が変わるのかもしれない。

僕は生命科学に関しては門外漢で、専門的知識を持っているとは言えないが、iPS細胞研究のこれからに関しては非常に期待しており、研究の発展、そして山中伸弥教授や高橋夫妻をはじめとするトップ研究者による尽力を非常に願っている。これからどのような研究結果が出てくるか楽しみである。

前へ!前へ!

僕の考えることを他人に押し付けることは正しくないとは思っているが、自分の考えに自分が従うことは重要だ。

人それぞれ、自分のスタイル、自分の生き方というものを持っていると思う。もちろん僕にも自分のスタイル、自分の生き方がある。いかにしてそれを貫くか。簡単なようで難しくもある。そこで自分に言い聞かせるためにも、それを自分の口で発し、自分の言葉で書きとめるという行為を心がけている。

自分の生き方を書き連ねると長くはなるが、キーワードを並べると、

「前へ」「保険を掛けない」「動く」「攻める」「守るべきところは守る」

こんなところだろうか。

「前へ」は、常に前進することを試みる事と、後ろを振り返らないということである。

「保険を掛けない」とは、常に危険に飛び込むことを心がけるということである。

「動く」は、考えたら即実行するということである。

「攻める」は、常に超攻撃的人生を進めるということである。

「守るべきところは守る」は、大切なものはしっかりと守るということである。

現在、どこまでこれを実行できているか?おそらく半分もクリアできていない。これらの事を常に念頭に置いておかないと、すぐに後退してしまう。現在できる事は、1%前に進める事。1%の積み重ねが10%、20%となってくる。

例え失敗したとしても、前に進んだ結果の失敗でなければならない。

野党は対案や具体策を提示しきれているか?

いつの時代も、野党の主な仕事は与党に対する批判なのかもしれない。それはもっともなことである。野党の一番の使命は、政権交代を起こし与党になることだからである。与党にならない限り、意思決定に影響をもたらすことは難しい。

しかし野党だからと言って、対案や具体策を全く提示しなくてもいい訳ではない。対案や具体策をしっかり示すことが出来るかということは、政権を獲得した時に政権運営能力があるかということに直結するからだ。国民もそこはしっかりと見ている。対案・具体策をしっかりと示さず与党の批判に明け暮れていれば、与党の支持率が下がったとしても野党は政権運営能力がないとみられる。

政権運営能力がないまま政権を獲得してしまったのが、2009年~2012年の民主党政権であろう。野党は野党である間に、政策立案能力及び実行力をしっかりと身に付け、政権獲得時の準備をする必要がある。

現在の政権の状況としては、加計・森友問題で安倍政権が揺れても、それに代わるのは自民党の誰かということにしかならない。実際名前が挙がっているのは、石破茂氏や小泉進次郎氏などの自民党議員ばかりだ。

野党には、近視眼的に与党の批判に明け暮れるばかりではなく、地力をしっかりと身に付け、政権担当政党となった場合の基盤を地道に築いていってほしいものである。

日大・アメフト問題の本質とは?

物事を冷静に俯瞰するのは難しい。現在進行中の日大・アメフト問題を見ていてつくづくそう感じる。僕自身も冷静に見ようと思っても、つい感情的になってしまう。

この日大・アメフト問題は、非常に悪質な問題(事件)だ。しかし事件の悪質さだけで言えば、世の中には傷害事件や殺人事件がそれなりの件数起きている。しかし現在の日大・アメフト問題はどの事件よりも大きな扱いを受けている。それはなぜか?

その理由は、この問題の争点が試合での傷害行為そのものではなく、日本大学という学校組織の体質がどうなのかということに移ったことにある。日本大学は言うまでもなく日本で一番学生数が多い超巨大組織である。しかしその超巨大組織のブランドが地に落ちてしまった。

その原因はいろいろ考えられるが。ここ数日の流れを見ているとそれは、自校の学生である加害者を守ろうとせずに切り捨てようとしていることにあるように思える。もしかしたら加害者をトカゲのしっぽ切りをすれば、自校(日本大学)を守れると考えているのかもしれない。しかし普通に考えて、自校の学生を守らずに切り捨てるような大学に行きたいと思う人はほとんどいないだろう。「傷害行為を起こした」ということ自体ではなく、「自校の学生を守らない」という行為が信用を著しく損なうことになったのだ。

初めにも述べたように、現在問題になっているのは、傷害行為そのものではなく、日本大学の体質に対してである。今回の一連の対応を見ていると、「アメフト部の行為が運悪く大学全体に波及した」というより、「アメフト部の問題を起点に起こるべくして起きた問題だ」と言える。

日本大学のブランドは「運悪く」ではなく、「起こるべくして」地に落ち、自らの首を絞めることになったと感じる。

休憩後に一手も指さずに投了した羽生竜王に、プロフェッショナルの真の姿を見た。

現在、第76期将棋名人戦7番勝負が行われいる。佐藤天彦名人と挑戦者の羽生善治竜王との戦いだ。その第4局が5月19日・20日に行われた。名人戦は持ち時間が各9時間、つまり二人合わせて18時間になるので、2日間に渡る長丁場となる。

その2日目に珍しいことが起きた。羽生竜王が休憩後に一手も指さずに投了したというのだ。羽生竜王は負けることになったが、その羽生竜王の姿にプロフェッショナルの真の姿を見たような気がした。

羽生竜王がどこまで先を読んでいたかわからないが、休憩後に一手も指さずに投了したということは、かなり先まで読んでいたと想像できる。深い考察によって先を読んでいたからこそ、自身の負けを悟ったのであろう。

この羽生竜王の負け方に、羽生竜王の凄さを感じた。ここまで究めないと真のプロフェッショナルと呼べないのであろうか?羽生竜王のこの投了の姿は、あらゆる分野でプロフェッショナルを目指そうとしている人たちにプロフェッショナルとはどうあるべきかということを示している。

強烈な個性の発揮!

以前、服装で個性を出すのは違うということを書いたが、その一方、内面からの個性は強烈に発揮すべきだと思っている。個性とは字の通りその人そのものであり、個性の抑制は自分に対する否定である。

僕自身、個性は強い方だと思うが、それでも満足はしていない。自分のどこかにまだ自分を抑制している自分がいる。その部分を解き放たねばならないと感じている。

最近いろいろな人を観察していると、どこか没個性的なところを感じる。世の中全体が個性を抑圧しているようだ。日本では昔から「出る杭は打たれる」とよく言うが、「個性を出す=出る杭」と考えているのだろうか?

その一方、ブレークスルーというものは強烈な個性から生まれるものでもあるので、個性を否定しながらも個性が作り出した世の中のプラットフォームに乗っているという構図になる。

ただ、強烈な個性が全てブレークスルーを生み出せるわけではない。ブレークスルーを生み出すまでに強烈な個性による多くの失敗の積み重ねがある。

もし最終的に成功することができなければ、その個性は皆の記憶の彼方へと消えることだろう。しかしそれでいいのである。消えることを恐れていれば、挑戦権さえも得られない。そして仮に失敗したとしても、強烈な個性が挑戦した爪痕と事実は消えない。

三段構え。

物事に取り組むにあたっては、三段構えで臨むことが重要だ。初めに最も力を入れるべきことに取り組む。しかしそれが成功するとは限らない。もしそれが成功しなかったら二番目の事に取り組む。それでもだめなら三番目の事に取り組む。このように三段構えで臨めば、何かしら結果を出すことができるであろう。

今僕は、三段構えで物事に取り組もうと考えている。しかし「一番目、二番目、三番目」ではない。「二番目、三番目、四番目」なのである。一番目の事に対しては意地でもあきらめないつもりである。一番目の事に対してはさらに三つの事に細分されるが、そういう意味でも一番目の中で三段構えができているとも言える。

三段構えで「これでもか!」と次々と畳み込んでいくくらいの意気込みを持ちたいものであるが、そこまで積極的に前に出ることは難しい。特に受け身の姿勢で取り組んでいれば、三段構えどころか二番目の事に移ることもできない。

超攻撃的人生を歩むことを決めた今、三段構えの姿勢は必要不可欠であると感じている。

仕事や夢に対するお金の使い道。ヒカキンさんが良い言葉を言っていた。

僕が毎日楽しみにしているのが、YouTube動画「釣りよかでしょう」だ。そして毎日楽しみにしている「釣りよか」動画を観ていた時、「Hikakin TV」の160万円のフルスペックiMacProを買ったという動画のリンクがあった(2018/02/09公開の動画)。以前からiMacProのフルスペックPCには興味があったので、ワクワクしながら観ることにした。

ちなみに、フルスペックiMacProは、CPUが18コアで、メインメモリがなんと128GB(念のために、これはストレージの容量ではない!)。ストレージは4TBのSSDである。

ヒカキンさんの話に戻るが、ヒカキンさんは動画の中で、なぜ160万円もする超高性能パソコンを買ったかということを語っていたが、その中で非常に良い言葉を語っていた。それは、

「自分の夢や仕事に関するものは、その時自分が買える1番良い物を妥協せず買ってきた」

ということだ。さらに、

「本気で目指している夢だったら、全財産はたいても買うべき」

とも言っている。これらのヒカキンさんの言葉には、非常に同感である。僕もそんなに高額なものではないが、今目指していることに必要な専門書などに対しては、どんなに高額でも投資している。専門書は書籍と言っても非常に高いものもあり、一冊数万円するものもある。しかし少しでも必要だと感じた専門書は、即決で投資している。おかげで、専門書エンゲル係数(なんて言葉があるかどうかはわからないが)は非常に高い。

現在の百円は数年後の何千万円に化けると僕は思っている。さらにお金では買えないような経験も得られると思っている。僕が言うより、ヒカキンさんの動画を直接見た方が説得力があるかもしれないので、ヒカキンさんのこの回の動画はぜひ探してみてほしいと思う。この回の動画ではヒカキンさんは色々と良いことを言っている。

思いっきり投資した後は、それを成果へと化けさせるために全力だ!

神は細部に宿る。

「神は細部に宿る」とはよく聞く言葉だ。物事を構築するには、まず概形を定める。そしてその細部を詰めていく。この二段構えが必要になる。

概形とはいろいろ言えるが、骨格を構築するという意味もあるし、アイデアを見つけるという意味もある。しかしアイデアだけでは何も進歩しないし、形にもならない。その次の段階である「細部を詰める」という作業が必要になる。その「細部を詰める」ことに成功した時、そこに神が宿るのである。

細部を詰めて神を宿らせるためには、専門的技術が必要になる。つまりプロでなければできない。しかし、この細部を詰める作業が完成した時のその喜びは非常に大きい。細部を詰める作業は根気のいる厳しい作業でもあるし、楽しい作業でもある。

僕自身は音楽は全くできないが、ピアノを弾ける人には憧れる。なぜあのように指が動くのか?僕には全く理解不能だ。もしかしたら数学の研究もそう思われているのかもしれない。なぜあのような複雑な数式が理解できるのかと。ピアノを弾く、あるいは数式を操るという作業が、細部を詰める作業だと思っている。そしてそこに神を宿らせる作業だと。

あらゆるジャンルに関して、細部に神を宿らせることができて一人前だと思っている。いずれは大きな神を宿らせて、超一流と言われる人間になることを目指そう!

サッカー日本代表に対する、僕の独断と偏見。

18日、サッカーの日本代表27人が発表された。まだW杯への最終選考ではないが、ハリルホジッチ前監督から西野監督に代わり、少し思うところがあるのでブログで書くことにした。初めに僕はサッカーに関して素人であることを断っておく。

日本代表前監督であるハリルホジッチ氏が解任された時、僕は非常に複雑な気持ちであった。別にハリルホジッチ氏のファンであったわけではないが、解任への経緯がどうしても納得できなかった。

W杯出場が決まり、W杯本番までのこの時期の試合は、野球で言えばオープン戦、言葉を変えれば練習試合である。その練習試合での敗戦を理由に監督を変えるという行為は非常にナンセンスだ。もちろん理由はそれだけではないだろうが、どう考えてもこの時期での監督解任は早計だとしか思えない。

僕の独断と偏見では、ハリルホジッチ氏は危ない橋を渡っていたように思える。W杯であわよくば4強、しかし悪ければグループステージで敗退。それくらいの覚悟があったのではないか。それに対して、西野監督は確実に16強を狙いに来たのではと思える。

もちろん、現実はどうなるかわからない。西野監督のもとで4強まで来る可能性もゼロではない。しかしハリルホジッチ氏は本気で4強を狙いに行っていたように思える。

本田、香川、岡崎のビックスリーを選んだことは非常に順当で、日本人受けする選出でもある。しかしあまりにも順当すぎる。新しい発見がない。

素人である僕の独断と偏見を並べてみたが、僕の勝手な予想が外れてW杯本番で勝ち上がってくれることを祈る。

リスクより怖いもの。

物事に取り組むにあたって、リスク評価は重要である。リスクを軽視せず、かつリスクを過剰に評価せず、正確に判断することが大事である。あるいは多少リスクを軽視したほうが賢明かもしれない。

スタートアップするに当たって、眼に見えないリスクは怖い。そのような時にリスクを恐れて取り組むことを控えることもあるだろう。しかしそこにリスクよりもさらに大きな恐怖がある。それはリスクを恐れるあまり身動きが取れなくなってしまうことだ。

そのようなリスクに対する恐怖は負の連鎖を生む。そしてさらに身動きが取れなくなってしまう。リスクと言うものは何においてもゼロということはありえないので、小さなリスクを過剰評価することは理にかなっていない。

リスクの恐怖に対して負の連鎖に陥っている時は、思い切って飛び出すことが大事である。しかしそれは簡単な事ではない。勇気が必要である。しかしそのように飛び出すことができた時、行動範囲が思いっきり広がることを実感するであろう。

近視眼的にリスクしか見えない時、そこにはリスクより大きな恐怖が潜んでいる可能性がある。そのことを正確に評価し、判断しなければいけない。

攻めの人生。

これからの人生を攻めていくか?それともこれまでの人生を守っていくか?どちらが良いとか悪いとかいう話ではないが、僕自身はこれからの人生を攻めていきたいと思っている。それも普通の攻めではなく、超攻撃的に!

もし守りの人生を歩むのならば、これまでの人生で守るに値するものを作り出しているのが前提だ。守るに値するものもないのに、守りの人生を歩むのもおかしな話だ。

僕自身の人生を振り返ると、大切な事はあり、大切な人はもちろんいるが、自分が何か守るに値するものを生み出したかというとそうは思えない。なのでこれからの人生は攻めざるを得ない。まあ、それは望むところだが。

人生が終わるころになって守りの人生に転ずることができれば、それは幸せなのかもしれない。しかしその一方、死ぬ間際まで攻めるのが僕のスタイルではないかとも思う。そうなればもう精神力との勝負だ。

肉体と精神の状態を万全にして、これから進むであろう攻めの人生を謳歌しよう。

究極の動物虐待は家畜だ。

最近は動物愛護団体などというものがあり、何かと動物虐待のニュースが取り上げられている。僕自身、動物を大切にすることは賛成であるし、無駄な動物虐待は無くさなければならないと思っている。

しかし最近は動物愛護の限度が行き過ぎているようにも思える。例えば以前、和歌山のイルカ漁に対して、イルカに対する虐待だと非難する声が海外で上がった。イルカは確かに普通の魚に比べると知能は高いであろう。そもそもイルカは魚類ではなく哺乳類である。

牛も豚も哺乳類である。しかし食肉用の牛や豚は家畜として育てられている。家畜とは極論を言えば飼い殺しである。要は我々、牛肉や豚肉を食べるときは牛や豚の命に感謝しなければならないということである。牛肉・豚肉を食べなくても生きることはできるが、生き物を食べる行為は自然の摂理である。

それと同時に、人間が特定の動物を食べるということは、その国、その地域の文化でもある。ヨーロッパ人がフォアグラを食べるように、日本人がイルカやクジラを食べるということである。考えようによってはフォアグラの方がよっぽど残酷である。

タイトルで「究極の動物虐待は家畜だ」と書いたが、家畜も人間の文化であり、自然な行為なのである。イルカ漁を非難する人たちは、(おそらく)家畜の牛肉を食べている。人間以外の動物だって、他の生き物を食べて生きている。動物は他の命を食べて生きているのである。

普段はあまり意識することはないが、たまに意識した時は、食する命に対して感謝しよう。

過去を理解して、未来を見通す。

物事に取り組むにあたって、二つの事が重要になる。一つは過去を理解すること。もう一つは未来を見通すことだ。

過去を理解するとは、一言で言うと勉強することだ。勉強とは過去の知識の理解である。過去の理解なしでは次への進歩はない。

未来を見通すとは、ビジョン、すなわち構想・展望だ。ビジョンを立てるためには、勉強をして過去を理解することが前提となる。すなわち順番としては、まず過去を理解して、それを基に未来を見通すということになる。

毎度登場する、山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ハードワーク)」で言えば、過去を理解することはハードワーク、未来を見通すことは言葉通りビジョンとういうことになる。

この二つのうち、片方が優れているとういうことはよくあるが、この二つを兼ね備えている人はなかなかいない。しかしまずは何よりも、勉強することが進歩への第一歩である。それをこなして次への進歩、すなわちビジョンを構築できるように、才覚を磨かなければならない。

無駄な情報を頭に入れないということも大事。

近年、情報社会が発達する中で、いかに多くの情報を手に入れるかということが重要になってきている。特にビッグデータ産業においては膨大な情報を手に入れ解析することが重要である。

しかし人間が生きて行く中で、一人の人間がインプットできる情報量は限られている。その中でいかに必要かつ重要な情報をインプットするかということが問われてくる。それと同時に、いかに害悪な情報を頭に入れないかということも非常に重要である。

害悪な情報を頭に入れたがために、身動きが取れなくなってしまうことがある。本来は手に入れる情報は、身動きの自由度を高めるべきものでなければならない。

情報は自分の身を置いている環境に基づいて、ある程度は勝手に入ってくる。そしてそれ以上の情報は自分から乗り込んで手に入れることになる。厄介なのは、勝手に入ってくる情報の中に害悪な情報が結構混じっていることだ。なので、そのような情報をシャットアウトするための意識を持たなければならない。

情報量で勝負することは、コンピューターに任せておけばよい。一人の人間としては、いかに質の良い情報を手に入れるかということであって、同時にいかに害悪な情報を締め出すかということである。そのためにロジカルで正しい判断力を付けることが求められる。

服装で個性を出すのは違う。

僕は結構、服装とかお洒落に興味がある。そこでファッション雑誌を読んだり、どのような服装をしようかといろいろ考えることがある。

服装やファッションに興味のある人が一度は通る道、それは「どのように服装で個性を出すか?」ということだ。しかし服装で個性を出そうとするほど、どんどん奇抜になってくる。お洒落にしようと思っているのに、何だかおかしくなってくる。テレビでよく見かけるお洒落評論家がその最たる例だろう。ファッション評論家の指南するファッションはほぼ例外なく奇抜で、すごくおかしくてダサい。

また男性ファッションの中心であるスーツは自由度が低く、個性の出す余地は少ない。そのような中で無理に個性を出そうとすると、違和感の感じる服装になってしまう。

そのようなことを考えてたどり着いた結果は、「服装で個性を出すのは違う」ということだ。個性とは人間性で、人の中身から出すものであって、外見で出すものではないということだ。間違ってもスーツ姿の中で個性を出そうとしてはいけない。

ファッションディレクターの干場義雅氏は「最高の普通」と表現している。結局、大人の男性ファッションはそこにたどり着くのではないかと僕も思っている。外見で個性を出す前に内面を磨いて、内から醸し出される個性を身に付けることが重要なのである。

生きることに、命を懸ける。

「生きることに、命を懸ける」とは少しおかしな表現だが、要は生きる上での意識の問題だ。全力で生きることが重要なのは当たり前の話だが、この当たり前の話がなかなか実行できない。

全力で生きるためには、心身共に健康であることが必要だ。そのために体と心、そして頭脳のコンディションを高いレベルで保つことが必要になる。数学者の間では「一に体力、二に体力、三、四がなくて、五に知力」とよく言われる。

最近、本で面白い話を読んだ。昔、ヴェイユとセール(二人とも超一流の数学者だ)が日本に来たとき、この二人が池に飛び込んで泳ぎだした。それに負けじと日本人数学者達も池に飛び込んだが、皆、池の水が冷たすぎてすぐに飛び出したという。そしてヴェイユとセールが走り出すと、今度は日本人数学者達は陸の上では負けないぞと走り出したが、皆、全くかなわなかったという。数学者が青白い顔をしてひ弱な体をしていると思っているのならば、それは世間の偏見である。一流数学者はたくましい人が多い。

人生に保険を掛けているようでは、一流になれない。それはどのような分野においてもそうであると思う。そして普通に生きることができればいいと思っていては、普通にも生きれないと思う。

「生きることに、命を懸ける」、そのような覚悟を持てば一流になれるという保証は全くないが、完全燃焼して自分が納得のいく生き方をするためには、これくらいの覚悟は必要だ。

見た目、人間性、社会的地位。

見た目と人間性と社会的地位。この三つを兼ね備えた人間は少ないが、この三つは人間的魅力として非常に重要である。

「人間は見た目ではない」とよく言われるが、見た目は人間の魅力として非常に重要な要素である。見た目だけは努力だけではどうにもならないと考える人はいるだろうが、僕は見た目も自分次第で良くなると思っている。もちろんいきなりイケメンになることはできないが、自分の心の持ちようで若々しさが表情に表れたりしてくる。そして体つきも見た目の重要な要素であるが、筋トレやジョギングをすることによって体形を変えることができる。意外と見た目に人となりが現れるものである。

そして人間性であるが、人間性が非常に重要であることは、おそらく万人が認めるところであろう。いくら社会的地位が高くても、人間性が伴っていなければ幻滅する。人間性は生まれつきの部分もあるだろうが、心構えや人生の歩み方、そして経験によって大きく変えることができる。

最後に社会的地位であるが、もちろん努力によって社会的地位を築くことは可能であるが、運にも左右されるのも事実である。しかし巡ってきた運を掴めるかどうかということも実力のうちである。自分の取り組んでいる分野で実績を挙げ、社会的地位を築くという前向きな努力は、常に心がけておきたいものである。

見た目、人間性、社会的地位、この三つを兼ね備えることは容易ではないが、不可能ではないと思っている。この三つを兼ね備えた、大きな魅力ある人間に成長することは僕の大きな目標であるが、近い将来にそれが達成できるように日々鍛錬を重ねていきたいものである。

実はこの三つの魅力を兼ね備えた人物が、僕の中で二人いる。iPS細胞を発見した山中伸弥教授と、将棋の羽生善治さんだ。お二人とも非常に魅力ある人間である。このお二人と取り組んでいることは異なるが、このお二人に少しでも近づけるように、そして少しでも超えられるように、魅力を重ねながら生きて行こうと思う。

失敗してもいいんだ!

失敗をネガティブにとらえる人は多いが、僕は必ずしも失敗を悪いものだとは思っていない。大事なのは失敗を失敗で終わらせずに次へのステップへとつなげることだ。

僕は誰よりもたくさんの失敗を経験していると思っている。もしかしたら他人の十倍、いや百倍くらいの失敗を経験をしているかもしれない。しかし失敗の数と同じだけフィードバックを行っている。失敗を決して無駄にしない。その努力は誰よりも行っている。

失敗はどれだけ経験してもよいが、失敗を挫折につなげてはいけない。失敗を次の成功へとつなげる努力が大事である。

失敗をしないというのは、それは挑戦をしていない証拠である。失敗をしていないことは何の自慢にもならない。もちろん失敗自体も自慢にもならないが、失敗を次の成功へとつなげることができればそれは自慢してもいいと思っている。

ものは考えようで、同じことを経験してもそれに対するとらえ方は人それぞれである。失敗に対する意識を変えるだけで、物事の動き方は大きく変わるに違いない。

信じるべきところで信じる。

何もかも疑っていてはきりがない。疑いが疑いを呼び、疑心暗鬼に陥り身動きが取れなくなる。信じるべきところでしっかりと信じることが大事である。

とは言っても、盲目的に信じることは危険だ。物事、そして人を的確に判断を行い信じることが大事である。

もちろん、すべてを「正確」に判断することは不可能だ。だからこそ正確ではなくても「的確」に判断することが大事なのである。

「的確」という言葉を辞書で調べると、

「的を外さないで間違いがないこと。また、そのさま。」

とある。何だか正確と的確は同義語のように思えるが、少しニュアンスが違うようにも思える。そういうニュアンスを込めて「的確」という言葉を使った。

物事を論理的に判断できても、人間を的確に判断をするのは非常に難しい。だからこそ信用が重要になってくる。自分が相手を信用していることを伝えれば、上手くいかないことも上手くいくことがある。そういう意味でも、人を信じるべきところで信じることが大事である。

物事を、そして人間をどれだけ信じれるかということは、その人の人間としての度量が問われているのかもしれない。

リスクを取るべきところと取らないところを、はっきりさせる。

僕は人生においてかなりリスキーな道を歩んでいると自覚している。とは言っても何も金銭的なリスクを取っているわけではない。もちろん金銭的なリスクも取ってはいるが、僕自身の人生そのものがギャンブルだと思っている。

お金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは取り続けている。しかし、リスクを避けるところは避けている(と自分では思っている)。全てにおいてリスクを取り続ける必要なはい。リスクを取るべきところで取って、リスクを避けるべきところで避けることが大事である。

人生の中で前に進むためには、どうしてもリスクを取らなければならない時がある。そのような所でいつもリスクを避け続けていれば、永遠に前進はない。

自分が自滅しない程度にリスクを取ることが大事なのかもしれない。そして時には保険を掛けることも必要である。そのようなことができる自信はないが。

危険な香りのする男。

どのような男を目指すのか?人それぞれ目標とする人間があり、そして男としてどうあるべきかと考えているだろう。僕が目標としているところは「危険な香りのする男」だ。

危険な香りとは何か?生き方がハイリスク・ハイリターンであったり、あるいは薬にも毒にもなるとか、いろいろ言える。この様な人間の対比としては「人畜無害」であると言えるだろう。

僕は人畜無害な人間にはなりたくない。全力で生き、いつ死ぬかわからない。100歳まで生きるかもしれないが、明日死ぬかもわからない。そんな生き方をしたいと思っている。

ただ現在、危険な香りのする男になれているかと言われれば、まだそこまではなれていない。超新星のように輝けるか?それとも自滅するか?それでいいと思っている。人間誰しもいつかは必ず死ぬのだから。

自分が人生を懸けていることに全力で当たり、そして私生活でも危険な香りを振りまき続ける。そんな僕の理想とする生き方に思いっきり近づけるように、そして近い将来、僕が危険な香りのする男だと皆から感じられるように、危険を冒し続けたいと思う。

新しい境地。

新しい境地を切り開くことが「進歩」というのかもしれない。いきなり大きな進歩を成し遂げ、とんでもなく新しい境地を切り開くことは稀かもしれないが、昨日より今日、今日より明日と、日々進歩を続け、一歩ずつ小さな境地を切り開いていくことは不可能ではない。

多くの人は安心と安定を望んでいるのかもしれない。しかしそれは言い換えると「現状維持」ということになる。もちろんそういう生き方は悪くないのだろうし、むしろ世間ではそちらのほうが推奨される生き方なのかもしれない。

新しい境地を目指すのは「開拓」を続けることである。そのためには大きな危険が伴うことも少なくない。ハイリスク・ノーリターンになる危険性も大いにある。しかしそれでも新しい境地を目指して危険を冒すことを止められない人がいる。

世の中を進歩させるには、どうしても危険を冒して新しい境地を切り開いて行く人間が必要だ。しかし世の中はそのような人に対して少し冷たいような気もする。他人の目を気にしすぎても仕方ないが、少なくともそこへと突き進む環境だけでも整えたいものである。

クレイ数学研究所の一億円ミレニアム賞問題。

物理や数学の問題と言うと、学校で解く問題や入試問題を思い浮かべる人は多いかもしれないが、世の中には最先端の数学者や物理学者が血眼になってかかっても解けない未解決問題が存在する。その中でも有名なのが、アメリカのクレイ数学研究所が2000年に一問1億円の懸賞金を懸けたミレニアム賞問題であろう。

クレイ数学研究所のミレニアム賞問題は、以下の7問である。

・リーマン予想

・バーチ&スウィンナートン-ダイア予想

・P vs NP問題

・ホッジ予想

・ポアンカレ予想

・ヤン-ミルズ理論の存在と質量ギャップ

・ナビエ-ストークス方程式

この7問のうち、現在までに解かれたのは、ポアンカレ予想1問のみである。(ポアンカレ予想を解決したペレルマン博士は1億円の受け取りを拒否している。)

この7問の中には、純粋数学的問題だけでなく数理物理学的問題も含まれている。

クレイの問題のような大問題に取り組みながら、その周辺で研究結果を出していくという道も凄く面白いと思うが、この7問に限らず、大きな未解決問題を解決するのは多くの数学者・物理学者の夢である。

少年だけでなく、大人にも大志を抱くことは凄く大事だし、エキサイティングなことである。

健康は最大の実力である。

若い頃は健康であることが当たり前のように思っていたので、あまり健康のありがたみがわからなかったが、最近は健康であることのありがたみがひしひしと感じる。なぜこんなことを感じるかというと、これまで調子を崩したり不健康であったことを経験し、健康でないとできないことが多くあることを強く感じたからだ。

健康とは最大の実力である。世間では「頭がいい」とか「運動神経が良い」という表現でその人の才能を称えるが、健康であるとはそれと匹敵するくらいの、あるいはそれ以上の才能である。

つい最近亡くなったホーキング博士のように、病と闘いながらも大きな才能を発揮する人間もいる。もちろん、ホーキング博士の大きな業績は病で薄らぐものでもなんでもない。

とは言え、社会活動の多くは健康であるかどうかに大きく左右されることが多い。健康であることを最大限発揮して大きな業績を出せばそれは大きな才能であるし、ホーキング博士のように病と闘いながらも巨大な才能を発揮する人間もいる。

とは言え、やはり健康でいるに越したことはないし、健康であることを願うばかりである。ホーキング博士を敬いながら。

物理学と生物学、二つの領域。

物理学と生物学は両方とも科学の基礎である。しかしその特性は大きく違う。物理学は自然の一般性の基礎であり、生物学は自然の特殊性の基礎と言える。

科学には還元主義という考えがある。還元主義とはその名の通り、現象をより根本的な要素に還元してく思想である。例えば、生命現象を還元していけば化学にたどり着き、その化学をさらに還元していけば物理学にたどり着く。その物理学の中で最も還元していった極限にあるのが素粒子論である。

すなわち、還元の矢の先端にあるのが生物学で、矢の根っこにあるのが物理学である。還元の矢の先端に近ければ特殊的性質の色が強く、矢の根っこに近ければ一般的性質の色が強くなる。(紛らわしいが、矢印の根の部分を最初の部分という意味で“先端”と呼び、矢印の先端を最後にたどり着く部分という意味で“根っこ”と言っている。)

生物学の面白さはその特殊性にあり、物理学の面白さはその一般性にある。とは言っても特殊科学である生物学の研究においても、その中にある普遍性を突き詰めることが最も重要になる。ワトソン・クリックの遺伝子の二重らせんはその最たるものであろう。

物理の研究者にとっても生物学的知見は素養として重要であり、生物学者にとっても物理学的素養は重要である。それを行動において強く示したのが量子力学を打ち立てた物理学者・シュレーディンガーの著書「生命とは何か」であろう。

細部を極めるのも必要であるが、広く科学の一般的知見を身に付けることもそれに劣らず重要である。

データは助けにはなるけれど、全てではない!

近年、非常に高度な情報社会になってきたが、それと同時に起こっているのがデータ万能主義だ。データは確かに大きな力にはなる。だからと言ってデータに溺れてはいけない。データは助けにはなるけれど、全てではないのだ。

近年、ビッグデータが非常に注目を浴び、データサイエンティストの活躍が注目を浴びている。しかしこのような情報社会下でも、独創的な仕事を中心とした世界ではデータだけではどうにもならない発想が重要だ。

例えば単純作業や、多くのデータを解析することによって成り立つ世界では、すでに人間は太刀打ちできない。だからこそ、人間はコンピューターが活躍するところとは別世界で勝負せざるを得ない。

自分はどこで勝負すべきか?現在の状況ではなく、十年後、二十年後を見据えて勝負を懸けることが重要になってくる。

プロ意識を持っている人が好きだ!

例え社会的地位としてプロであろうとなかろうと、僕は常にプロ意識を持つことを心がけている。自分が打ち込んでいることに対して、決して甘えないという覚悟を持って取り組んでいる。

僕自身、プロ意識を持つことを心がけていると同時に、世の中でプロ意識を持って生きている人は素敵だと思うし、そのような人が大好きだ。直接陽の当たらない縁の下の力持ちから、テレビで脚光を浴びている有名人まで、プロと呼ばれている人はたくさんいるが、その中で強くプロ意識を持って取り組んでいる人は非常に魅力的に見える。

何に対してもプロになるためには非常に厳しい道を歩まないといけないし、時間もかかる。しかし“プロ意識”はすぐにでも持つことができる。将来プロになることを目指す人にとって、まずはプロ意識を持つことがそれに向かう第一歩になるのではないかと思う。