月別アーカイブ: 2月 2018

夢とは?希望とは?

夢とは将来の自分であり、また達成すべき目標である。希望とはそれが達成できる可能性である。夢と希望は人生の原動力であり、どちらが欠けても空虚なものになってしまう。

現代人はどれだけ夢と希望を持っているだろうか?街にはたくさんの人間が行き交っているが、どれだけの夢と希望が溢れているだろうか?

お金は非常に大事である。しかし間違ってはならないのは、お金は夢ではなく手段である。お金があることによって自由度が増え、できる事が増える。もちろんビジネスにおいてはお金は最も重要な要素である。どれだけ稼ぐかは重要な目標である。しかしお金自体は紙切れに過ぎず、あるいは単なる数字に過ぎないので、それをどう活用するかがセンスの問われるところである。

「一円を笑う者は、一円に泣く」とよく言うが、「夢をバカにする者は、人生に泣く」と言えるだろう。なぜこんなことを言うのか?それは夢をバカにする者が一定数いるからだ。

何も動かずにただ待っているだけの「夢見る乙女状態」にはなってはいけない。夢に向かって強引にも着実に前に進むブルドーザーにならなければならない。

自信家であり続けるということ。

自信はある程度過剰なくらいがちょうどいい。さらに自信に根拠があればなおさらいい。しかし、根拠のない自信というのも時には必要なのかもしれない。

根拠のある自信を持つためには、まず展望と構想をじっくり練る必要がある。日本人お得意のハードワークだけでは建設的な進歩はなかなかできない。ビジョンとハードワークは建設の両輪なのである。ビジョンを持ち、ハードワークをこなすことによって自信は深まっていく。

そしてそれらの自信を継続的に持ち続けなければならない。持続的な自信を持ち、その自信を原動力にすることによって、一歩一歩成功へと近づいていく。

中身がない自信は妄想に過ぎない。具体論が伴ってこそ、意味のある自信になる。そのような中身のある自信を持ち、自信家であり続けることは簡単ではないが、“考える”という行為を常に心がければ不可能ではないはずだ。

最高に才能のある者が、最高に努力をした結果。

12日夜、五輪で日本代表選手のメダルラッシュに沸いた。スピードスケートの高木美帆選手が銀、スキージャンプの高梨沙羅選手が銅、スキーモーグルの原大智選手が銅。欲を言えば金メダルでないことが悔しいが、日本選手のメダルは素直に嬉しい。

僕は何事も、一番と二番とでは天と地ほどの違いがあると思っているが、最高に才能ある者が、最高に努力して獲得した銀メダル、銅メダルはこの上なく価値がある。

とは言え、高木選手は1500mで今季W杯4戦4勝で負けなし、そこでの五輪銀メダルは本当に悔しい思いがする。僕と同じ出身大学の小平奈緒選手は6位入賞。短距離で圧倒的強さを誇る小平選手には、1000m、500mに期待だ。

五輪で銀・銅は非常に価値あるものだが、一番でないと見えない世界がある。一番でないとダメな時がある。これから行われる競技で、一番でないと見えない世界を見る選手が現れることを大いに期待してしまう。

大相撲はスポーツなのか?

大相撲は他のプロスポーツとはかなり趣が異なる。プロスポーツで一番重要なことは、もちろん勝つことだ。勝てない選手に残された道は引退しかない。それはもちろん大相撲でも同じだ。しかし大相撲はそのようなスポーツ的側面以外の側面がかなり強い。

よく言われるのが、「大相撲はスポーツか?文化・伝統か?はたまた神事なのか?」ということだ。このようなある意味特殊な側面を持ったスポーツは他では見られないし、日本固有のものである。

横綱に対してよく「横綱の品格」ということが言われる。もちろんどのスポーツ選手にも品格は求められるが、横綱には横綱の所作というものが定められている。取り組みにおいても“勝ち方”が問われるのが横綱の宿命だ。

日本特有の文化的スポーツである大相撲にも、国際化の波は大きくやってきた。それについて良いのか悪いのかと問われると、良い面もあれば良くない面もあると言える。国際化は大相撲にとって大きなチャンスであるが、日本固有の文化を継承できるかという問題も発生する。

大相撲が文化・伝統を継承できるのか?それとも「単なるスポーツ」に成り下がるのか?そのバランスの取り方が非常に難しいところである。

科学の原理。

科学の理論を構築する時、まず大事なのが第一原理をどこに置くかということだ。例えば物理学で一番重要な原理はエネルギー保存の法則であるが、これを第一原理(つまりスタート)と置くことによって理論が構築される。エネルギー保存則は第一原理であるから、なぜこの保存則が成り立つかということは一切考えないし、エネルギー保存則がなぜ成り立つかは誰もわからない。(厳密に言うと、対称性から保存則が導けるが。)

スタートに何を置くか?それによってできてくるものが全く変わってくる。時には相反する結果が出てくることもある。理論的に構築することはもちろん重要であるが、スタートが間違えていれば間違ったものができてしまう。第一原理(スタート)をどのように設定するか、そこに科学的センスが大きく問われることになる。

良かった過去も、苦しかった過去も、自分の人生の一部。

「あんなことがなかったら、今頃は」という話をたまに聞く。確かに苦しいことがなかったら今頃はもっと楽な生活ができているのかもしれない。しかし「もしあの時」などと考えていたらきりがないし、人生は良いことばかりなんてことはありえない。

僕は、良かった過去も、苦しかった過去も、それらのことがあっての現在の自分であり、それらは大切な自分の人生の一部であると考えている。もちろんこれからの人生は良いことが多いことを願うが、これからも苦しいことが現れることもあろうと覚悟はしている。

苦しい過去も、乗り越えた後になってはそれも財産である。ものは考えようで、苦しい過去をネガティブにとらえるか、乗り越えた事実をポジティブにとらえるか、考えようによって未来の人生の状況は大きく違ってくるように思える。

問題を広げるか?絞るか?

問題に取り組んでいて壁にぶつかった時に、取るべき方向性は二つある。一つは条件を一般化して広げること。もう一つは条件をさらに課して絞ること。

問題を広げることによるメリットは、より大きな結果を出せること。より普遍な結果を出せること。逆にデメリットは、解決が圧倒的に困難になることである。

問題を絞ることによるメリットは、解決が容易になる可能性が高まること。逆にデメリットは、小さな結果しか出せない可能性が高まること。

フィールズ賞数学者の広中平祐氏はとある研究会で、条件を絞ることを提唱した数学者に対して、逆に一般化して広げるべきだと主張したという。並の数学者にとっては対象を絞って解決を図るべきなのかもしれない。一般化して広げるという困難に立ち向かえるのは、ずば抜けた才能を持ち合わせた広中氏だからこそできる技なのかもしれない。

問題を広げるにしても絞るにしても、それぞれ一長一短で非常に悩むところであるが、今社会で一番欠けているのは、ハイリスク・ハイリターンを取り、困難をものともせずに立ち向かう挑戦者ではないだろうか。

大学の過度なキャリア教育について。

2016年3月卒の大卒者の一年後の離職率は11.3%であるという。これが高いのか低いのかは別として、就活における現在の「キャリア教育」というものには違和感を感じる。

キャリア教育によって、自分はどんな職業が向いているのか?そしてどのようなキャリアを構築していくのか?ということをディスカッションによって発見したり、またデータを機械分析して判断していく。しかし、キャリア教育によって自分の進路判断を狭めたり、可能性を狭めたりしていないかと僕は杞憂している。

もちろんキャリア教育によって適切な進路を発見・助言してもらうという利点はあるので、一概に悪いものであるとはいえない。しかし現在のキャリア教育は行きすぎな感がする。

キャリアとは働き出す前に構築するものではなく、社会に出て徐々に構築していくものである。現在の大学等でのキャリア教育は、キャリア概念の固定化を招くものではないかと感じる。

最後に、人生とは予想外の出来事の積み重ねであると言っても過言ではない。そんな中、レールの上に固定され、行き先が一つだけに定められている状況、しかもそれを自分ではなく周りの人間に定められるのは、人生を自己表現の一つと考える時、それは少し違うのではないかと思う。

横一線ではいけない!

平等とは言い換えると、横一線ということである。最近は何でも横一線にしようという力が働く。しかし人間にはそれぞれ個性があり、多様性があるからには、横一線に並べるということは平等にしているようであって平等ではない。

「機会は平等に与えるが結果は平等ではない」ということは以前から言われているが、機会、すなわちチャンスの与え方もそれぞれに合った最適な形で与えるべきである。悪しき平等意識が逆にそれぞれの人の芽を摘んでしまうことになりかねない。

特に日本においては、長く続いた総中流社会のせいか、横一線意識が強い。その一方、多様化に対する対応は大きく後れを取っている。みんなと同じことをしないと不安になる人も多いだろう。しかし今必要なのは、みんなと違うことをしようという意識を持つこと、そして社会が脱横一線の意識を持つことである。

物は同一商品大量生産型から、小生産多品種型へと変わってきた。これは何も物だけではない。人間も皆同じではなく、それぞれが他とは違う独自性、オリジナリティを発揮することが、現代社会を生き抜いていくのには必須である。

個性は内面から出すべきだ。

多様化した現代では、画一性よりも個性が重要視されつつある。ただ個性と言っても様々あり、だからこそどのような側面から個性を出すのかは工夫のしどころである。

個性を大きく二つに分けると、外見の個性と内面の個性に分けられる。外見とは身だしなみや服装、身体の外見である。内面は性格、思想、生き方である。

では外見と内面のどちらから個性を出すべきか?僕は外見にも気を遣いつつ、内面からアピールすべきだと思う。外見は他人に大きく印象付けられる。だから個性というよりどう印象付けるかということを意識すべきだ。

例えば大人の基本的な服装であるスーツは、きっちりと着こなせば好印象を与えることができるが、スーツのディティールにはかなり制約があり、奇抜な個性とは対照的な位置にある。その制約下でいかに整えるか、そこがスーツの深くて面白いところでもある。

外見を整えれば、後は内面の独自性を思いっきり出していこう。当たり前の話であるが、内面はその人の人間そのものである。だから個性は内面から出さなければならない。

とは言え、内面は意外と外面にも表れるものである。仕草一つとっても内面がそのまま外面に表れている。

内面の個性と内面から醸し出される外見。その二つを主張できれば社会の中で“人間”としての存在感を主張でき、一目置かれる存在になるだろう。