月別アーカイブ: 2月 2018

自分の頭の中身と考え方。

「今までできなかったから、次もできない」と考えるか、それとも「今までできなかったけど、次はできる」と考えるか。どちらのように考えるかで自分の将来は大きく変わる。

次もできないと考えると、次へのアクションを起こせなくなる。アクションを起こさなければ、できる可能戦はゼロである。次はできると考えてアクションを起こせば、できる可能性は100%でなくてもゼロでは決してない。さらに成功への展望がはっきりとしていれば、可能性はぐっと上がる。

人間の頭の中身は他人には見えない。しかし自分では頭の中身が見えることは多々ある。自分の頭の中身が見えていれば、次への道筋がおのずと見えてくる。従って自分の可能性は自分が一番把握しているはずだ。可能性の判断を、決して他人任せにしてはいけない。

頭脳ゲーム。

先日の五輪カーリングの試合を観ていて、カーリングとは非常に頭脳を使うゲームであると知った。ストーンをどこに置きに行くかを読むことはもちろんだが、コーチは三投先まで読んでいるらしい。カーリングは頭脳スポーツであると言えよう。

頭脳ゲームと言って真っ先に思いつくのは、将棋であろう。先ほどのカーリングと同じで、次の手を読む「短期的展望」、そして試合全般を読む「長期的展望」が必要になる。この二つの展望は、人生についても同じである。“今どう生きるか”という短期的展望と、“どのような人生を歩むか”という長期的展望だ。人生と将棋とのこのような類似点は、人生が将棋と同じ頭脳ゲームであることを示唆しているのかもしれない。

頭脳ゲームと言って絶対に外せないのが数学である。数学は言うまでもなく学問であり、ゲームとは離れたところにあるように思う人もいるかもしれない。もちろん、数学者の数学に対する姿勢も様々かもしれないが、数学をゲーム、あるいは遊びと捉えている数学者も少なくない。そして意外と数学をゲームや遊びと捉えている数学者の方が大きな実績を挙げている。とある偉大な数学者は、数学に対して「この遊びはやめられない」と述べている。

身の周りには頭脳ゲームがあふれている。一時のお遊びのようなものもあれば、人生を懸けるに値する頭脳ゲームもある。人生を共に歩む頭脳ゲームを持つことは、あらゆる側面で人生に刺激を与えてくれるに違いない。

強い人間ほど、己の無力を認められる。

多くの人はなかなか自分の無力を素直に認めようとはしない。そしてその中の一部は虚勢を張ろうとする。自分が弱いからこそ、その弱さを隠そうと虚勢を張るのだ。

逆に強い人間は己の無力を素直に認められる。なぜなら自分の強さに裏打ちされた自信があるから、虚勢を張る必要がないからだ。そして強いからこそバカにもなれる。

自分の強みと弱みを自身で把握しておくことは重要だ。しかし弱みは決して直さなければいけないものではない。弱みを直すのではなく、それを強みに変えるのだ。強みに変えることは直すことよりも圧倒的に威力を発揮する。さらに強みをより強くすることができれば盤石だ。

己の無力を認められない時は、自分が弱くなっている証拠だ。いかに弱みをさらけ出してバカになれるか、それができれば自身はより強くなれる。

ポジティブ!ポジティブ!

はっきり言って、ネガティブに考えていいことは何もない。逆にポジティブに考えて悪いことは何もない。ならば何でもポジティブに考えればいいはずだが、ポジティブになれないこともよくある。

笑っていていいことはたくさんある。笑っていれば切り抜けられることもたくさんある。逆に暗い顔をしていては良いことは起こらない。ならば常に笑っていればいいが、笑顔になれない時もたくさんある。

僕は人よりも何倍も笑っていると感じている。笑っていることは多いが、人以上に悩んでしまうこともよくある。無駄な悩みほど悪いことはない。時には悩むことも必要だが、悩んで気を減らしていてはどうにもならない。

最近、悩んで苦しくなりそうな時は「ポジティブ!ポジティブ!」と口ずさむことにした。「何とかなるさ」と思うことにした。この二つの言葉は非常にいい言葉だ。そのような言葉を日ごろから口ずさむことによって、現実も良い方向に進み、気分も無意識的に明るくなるものかもしれない。楽観的になることは生きる上で非常に重要である。

銀メダルをどう捉えるか?

五輪のアイスホッケーで銀メダルを獲得したカナダ選手の一人が、表彰式で銀メダルを首から外したことがニュースになっている。この選手の行為に対して賛否両論があるが、この行為をどう捉えるべきだろうか?この行為を非難する声は多いが、僕はむしろこの選手の行為に対して非常に好感を持った。

まず銀メダルというものをどう捉えるかだが、世界で2位なのだから凄いという声は多いが、見方を変えれば1位を逃したということだ。銀メダルで喜ぶ選手は多いが、1位を目指して取り組んできた選手にとっては銀メダルは屈辱でしかない。2位という地位に満足せず、絶対に1位でないとダメなんだという意識は、プロのスポーツマインドとしては非常に高いレベルにある。2位で喜ぶ選手よりも2位で悔し涙を流す選手の方が圧倒的に将来性がある。

オリンピックではメダルがもらえる3人(3チーム)が特別だという認識がされているが、本来は1位以外は全て敗者なのである。もちろん2位も凄いことなのだが(銀メダルは世界で2位だから凄いのは当然だ!)勝負で勝者というのは1位の人だけを指す。

今回2位となり、敗者となり、メダルを首から外し悔し涙を流したカナダ選手のマインドには称賛の声を送りたい。そして次は1位になって表彰台に戻って来てほしい。

哲学的原点。

最近は哲学書には全然触れていなかったが、思うところがあって本棚にある西田幾多郎の哲学書を手にとって眺めていた。僕にとって哲学とは人間の学であって、理想を貫く生き方をするためには哲学は欠かせないものだ。

哲学と自然科学との関係については、哲学者、科学者双方に対して融和的な印象は受けない。科学者は哲学者を見下し、哲学者は科学者を支配下に置きたがる。とは言え、僕自身は哲学と科学はそもそも守備範囲が異なるのではないかと感じている。哲学と科学を同じ土俵で闘わせるのには無理がある。

だからと言って、科学者は哲学を無視すればいいのかと言えばそうではなく、科学者にも哲学的素養は非常に重要である。また逆に、哲学者も自然界の真理として科学を熟知することは必要である。

僕にとって、非常に重要な哲学的命題が一つある。それは「いかにして生きるべきか」と言うことだ。哲学的に論じるからには、体系的に解決策を築いていかなければならない。

物理学的命題は解決するときはあるだろうが、哲学的命題は人生が終わるまで追い続けるのかもしれない。

フィギュアスケート女子は、表現力に注目だ。

21日、五輪フィギュアスケート女子ショートプログラムが行われた。予想通り、OAR(ロシア)のメドベージェワとザギトワが共に世界最高得点をたたき出し圧倒的な存在感を見せつけたが、日本の二人、宮原知子選手と坂本花織選手も負けてはいない。

初めに登場した坂本選手は、滑り出した瞬間、明らかに今までと違うとすぐに感じた。スケーティングが非常になめらかで、体の動きから出る表現力も非常に柔らかい。そしてその後、ジャンプはノーミスで終え、パーソナルベストをたたき出した。

宮原選手も出だしから非常に良く、日本の和の表現を非常にはっきりと表現されていた。団体戦で指摘された回転不足も全くなかったようだ。

OAR(ロシア)の二人が圧倒的過ぎて、日本人の金銀ははっきり言って絶望的だが、銅の可能性は非常に高い。宮原選手の演技は以前から定評があり、ミスパーフェクトとも言われているが、注目は坂本選手だ。去年の終わりころから坂本選手の大きなミスは見たことがない。圧倒的な勢いもある。しかも弱いと言われていた表現力に関しても、ショートではトップレベルの表現力で魅了するところまで来た。

ところで僕は、フィギュアスケートの演技を観るとき、ジャンプよりも表現を感じることを楽しみにしている。そういう意味では宮原選手の和の表現は非常に魅力的でもある。そのような目でテレビ中継を見ている時、非常に残念なことがある。今季から演技中にテレビ画面左上に表示されている「技術点カウンター」だ。フィギュアスケートではもちろん点数は重要であるが、演技者の演技、特に選手の表現力を集中して感じたいのに、技術点カウンターが気になる。だからあえて技術点カウンターは視野に入れないようにしているが、それでも技術点カウンターは目障りだ。

ジャンプはもちろんフィギュアスケートの醍醐味ではあるが、表現力にはジャンプ以上の魅力が詰まっている。特に女子の演技では、男子にはない女子特有の魅力ある表現が醸し出されているので、23日にあるフリーではそのような所を感じるのも非常に面白い。

結果が分かっていることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組む。

確実に結果が出ることに取り組むのではなく、可能性に懸けて取り組むからこそ大きな飛躍が生まれる。確実に結果が出ることに対しては、改めて取り組む重要性は少ない。真に革新的な結果は可能性から生まれるのである。

もちろん安定性という視点から言えば、確実に出ることが分かっていることの方が堅いし無難である。もちろんそれも一つの生き方であろう。もしかしたらほとんどの人はそちらの方を選ぶかもしれない。

可能性に懸けるということは、ある意味ハイリスクかもしれない。そしてハイリスクだからと言ってハイリターンだとは限らない。割に合うか合わないかといえば割に合わないかもしれない。

しかし可能性に懸けて出した結果に対して、無難に過ごしてきた人間が口をはさむ資格はない。可能性に懸けた人物の境遇は、可能性に懸けた人物にしかわからないからだ。

可能性に懸けるか?確実に出ることに取り組み無難に生きるか?それはそれぞれの人生観によるのだろうが、可能性に懸ける方を取る生き方をする人間も世の中には少なからず必要であろう。

周りの目を気にするな!

周りの目を気にしすぎては、自分が本当に打ち込むべきものに真剣に打ち込めない。周りの目は周りの目、自分の目は自分の目としっかり区別することが必要だ。周りの目を全く気にするなとは言わないが、過度に周りの目を気にしすぎると没個性的になってしまう。

人生とは自己表現である。だからこそ自己の意思決定が非常に重要になる。重要な意思決定を他人に任せてはいけない。自分の人生は自分でコントロールしないといけない。

周りの目ではなく、自分の目を徹底的に信じ抜くこと、その先に生きるべき人生が展開するものだと信じている。

好きなことを貫くって、すごく苦しい。

好きなことを貫くっていうことは、決してイコール楽なことではないし、いつもイコール楽しいことであるわけでもない。何に取り組んでいる時も必ず苦しい時はあるが、好きなことに取り組んでいて感じる苦しみは尋常ではない。

好きなことに取り組んでいる限り、言い訳はできないし、逃げることもできない。もちろん言い訳をするつもりはないし、逃げるつもりもないのだが。

好きなことができるということは、非常にやりがいのあることであるし、充実感も半端ない。ただ結果が出るまではそれと比較にならないくらい苦しい。ただ逃げるつもりはさらさらない。なぜなら結果を出す自信はあるし、時間はかかるけど、その先にある成功を想像した時、その興奮からの高揚感はたまらないものがある。

なぜこうなってしまったかは偶然と、時には必然の積み重ねであるが、後悔などは全くしていないし、人生に感謝している。

小平奈緒、王者の金メダル。

18日の夜、五輪スピードスケート500mで小平奈緒選手が金メダルを取った。17日の羽生結弦選手もそうだが、二人とも取るべくして取った金メダルと言えよう。

しかし難しいのは、取るべき人が取れないことが多々あるということだ。王者が金を取るとは限らない、しかし今回、羽生選手と小平選手のメダルは王者が取った金メダルである。

小平選手のことは以前から気になっていた。なぜかと言うと、出身大学が僕と同じ信州大学だからだ。これも何かの縁だと思い、小平選手を応援してきた。

縁と言えば、フィギュアスケート女子個人の坂本花織選手は僕と同じ神戸出身だ。僕も昔、ポートアイランドのスケートリンクには何度も遊びに行った。そのスケートリンクからオリンピック選手が生まれたということは非常に身近に感じて嬉しいものである。

王者小平奈緒が勝つべく臨んだ五輪で本当に勝った。技術・体力的な側面は言うまでもないが、「小平が金を取れなかったらサプライズだ」とも言われた五輪で金を取った小平選手のぶれないメンタルの強さは驚異的である。そのぶれないメンタルを少しだけでも分けてほしいものである。

二人の羽生さん。

17日五輪フィギュアスケートで、羽生結弦選手と宇野昌磨選手が金銀独占を成し遂げた。以前、欲を言えば二人で金銀を、と言っていたが、まさかそれを成し遂げるとは本当にびっくりした。銀も銅ももちろん凄いが、やはり金は別格である。特に今回の羽生選手の演技は、ショート、フリー共に横綱相撲という感を強く受けた。

この羽生結弦選手が金メダルを取った同じ日、将棋の世界ではもう一人の羽生さんが注目を浴びていた。羽生善治永世七冠と藤井聡太五段(対戦時)の対決だ。その結果は羽生さんが藤井さんに敗れ、決勝でも藤井さんが勝利し優勝した。藤井五段はわずか半月で藤井“六段”へとステップアップすることになった。

王者・羽生結弦さんが優勝し、史上最強・羽生善治氏が次世代最強の藤井総太さんに敗れる。二人の羽生氏(と、もちろん藤井氏)が同じ日に時代を象徴する対戦を繰り広げた。羽生善治氏は今回負けたとはいえ、これで将棋羽生時代が終わるとは思えない。現在、スケートと将棋の両方で羽生時代が続いている。二人の羽生氏の存在からは目を離せないが、ポスト羽生時代はどうなるのか?非常に気になるところである。

数学は科学なのか?

数学は科学なのか?科学ではないのか?この問いの結論は真っ二つに分かれる。狭義の意味では数学は科学ではないし、広義の意味では科学と言える。

数理科学という言葉があるように、数学は科学のスタンスでとらえられることが多いが、科学とは本来は自然科学のことを意味し、そういう意味では数学は科学ではない。自然科学はこの世界(宇宙)の実在の本質を究める学問であるのに対し、数学は数的世界の実在を究める学問と言える。自然科学の対象は目の前に広がっており、数学の対象は脳の中に広がっているとも言える。

そして数学のもう一つの大きな特徴は、数学は科学に対する強力な武器となるということである。科学、特に物理学の世界では、数学を武器として前に進められる。科学は数学的体系を装うことにより、確実に前に進められる。実際、物理学者の多くは、数学は強力な武器である(しかし単なる道具に過ぎない)というスタンスを取っている。

そして数学と物理学の中間点に位置するのが数理物理学だ。数理物理学をどうとらえるか?その答えはそれぞれの数理物理学者によって千差万別である。数学を道具としてフルに活用する物理学と捉える人もいれば、物理世界を一つの数学的体系と見て、数学の一分野と捉える人もいる。

結論を言うと、数学は科学か?という問いは答える人によってさまざまであると言えるだろう。だから結局個人的見解になるが、僕自身は科学(物理学)を数学の一分野と捉えている。しかし、物理学は明らかに数学ではない。なぜなら物理学は現実世界(自然・宇宙)の法則(実験)に合致しないと正しいとは認められないからだ。それに対して数学は非常に自由である。

数学と科学の位置関係をどう捉えるか?それを自分の中で明確にするだけでもサイエンスに対する視野は広くはっきりしたものになるだろう。

どのように注目を浴びるべきか。

現在、冬季オリンピックが開催されているが、その中で注目を浴びているうちの一つが女子アイスホッケーだ。女子アイスホッケー韓国代表が北朝鮮選手と合同チームを結成した。悪いことではないのかもしれないが、韓国・文大統領による政治パフォーマンスだとも言われており、本当はもっと違った意味で注目を浴びたかったのではないだろうか。

スポーツにとって一番の名誉は、強くなって勝つことである。そして勝って注目を浴びたいというのが本音であろう。勝負とは直接関係のないところで注目を浴びるのは、選手たちにとっても複雑な思いではないだろうか。

注目を浴びるのには、大きく二つに分けられる。一つは大きなことを成し遂げてポジティブに注目を浴びること。もう一つは奇抜でネガティブに注目を浴びることだ。オリンピックで勝って注目を浴びることがポジティブの代表だとするならば、犯罪を犯して注目を浴びるのがネガティブの代表であろう。

16日は、フィギュアスケートの羽生結弦君が登場する。二連覇がかかる羽生君には一番高い所を目指してポジティブに大きく注目を浴びてほしいものである。もちろん、宇野昌磨君にも大きく期待はしているし、欲を言えば二人で金銀独占を達成してもらいたいものである。

夢とは?希望とは?

夢とは将来の自分であり、また達成すべき目標である。希望とはそれが達成できる可能性である。夢と希望は人生の原動力であり、どちらが欠けても空虚なものになってしまう。

現代人はどれだけ夢と希望を持っているだろうか?街にはたくさんの人間が行き交っているが、どれだけの夢と希望が溢れているだろうか?

お金は非常に大事である。しかし間違ってはならないのは、お金は夢ではなく手段である。お金があることによって自由度が増え、できる事が増える。もちろんビジネスにおいてはお金は最も重要な要素である。どれだけ稼ぐかは重要な目標である。しかしお金自体は紙切れに過ぎず、あるいは単なる数字に過ぎないので、それをどう活用するかがセンスの問われるところである。

「一円を笑う者は、一円に泣く」とよく言うが、「夢をバカにする者は、人生に泣く」と言えるだろう。なぜこんなことを言うのか?それは夢をバカにする者が一定数いるからだ。

何も動かずにただ待っているだけの「夢見る乙女状態」にはなってはいけない。夢に向かって強引にも着実に前に進むブルドーザーにならなければならない。

自信家であり続けるということ。

自信はある程度過剰なくらいがちょうどいい。さらに自信に根拠があればなおさらいい。しかし、根拠のない自信というのも時には必要なのかもしれない。

根拠のある自信を持つためには、まず展望と構想をじっくり練る必要がある。日本人お得意のハードワークだけでは建設的な進歩はなかなかできない。ビジョンとハードワークは建設の両輪なのである。ビジョンを持ち、ハードワークをこなすことによって自信は深まっていく。

そしてそれらの自信を継続的に持ち続けなければならない。持続的な自信を持ち、その自信を原動力にすることによって、一歩一歩成功へと近づいていく。

中身がない自信は妄想に過ぎない。具体論が伴ってこそ、意味のある自信になる。そのような中身のある自信を持ち、自信家であり続けることは簡単ではないが、“考える”という行為を常に心がければ不可能ではないはずだ。

最高に才能のある者が、最高に努力をした結果。

12日夜、五輪で日本代表選手のメダルラッシュに沸いた。スピードスケートの高木美帆選手が銀、スキージャンプの高梨沙羅選手が銅、スキーモーグルの原大智選手が銅。欲を言えば金メダルでないことが悔しいが、日本選手のメダルは素直に嬉しい。

僕は何事も、一番と二番とでは天と地ほどの違いがあると思っているが、最高に才能ある者が、最高に努力して獲得した銀メダル、銅メダルはこの上なく価値がある。

とは言え、高木選手は1500mで今季W杯4戦4勝で負けなし、そこでの五輪銀メダルは本当に悔しい思いがする。僕と同じ出身大学の小平奈緒選手は6位入賞。短距離で圧倒的強さを誇る小平選手には、1000m、500mに期待だ。

五輪で銀・銅は非常に価値あるものだが、一番でないと見えない世界がある。一番でないとダメな時がある。これから行われる競技で、一番でないと見えない世界を見る選手が現れることを大いに期待してしまう。

大相撲はスポーツなのか?

大相撲は他のプロスポーツとはかなり趣が異なる。プロスポーツで一番重要なことは、もちろん勝つことだ。勝てない選手に残された道は引退しかない。それはもちろん大相撲でも同じだ。しかし大相撲はそのようなスポーツ的側面以外の側面がかなり強い。

よく言われるのが、「大相撲はスポーツか?文化・伝統か?はたまた神事なのか?」ということだ。このようなある意味特殊な側面を持ったスポーツは他では見られないし、日本固有のものである。

横綱に対してよく「横綱の品格」ということが言われる。もちろんどのスポーツ選手にも品格は求められるが、横綱には横綱の所作というものが定められている。取り組みにおいても“勝ち方”が問われるのが横綱の宿命だ。

日本特有の文化的スポーツである大相撲にも、国際化の波は大きくやってきた。それについて良いのか悪いのかと問われると、良い面もあれば良くない面もあると言える。国際化は大相撲にとって大きなチャンスであるが、日本固有の文化を継承できるかという問題も発生する。

大相撲が文化・伝統を継承できるのか?それとも「単なるスポーツ」に成り下がるのか?そのバランスの取り方が非常に難しいところである。

科学の原理。

科学の理論を構築する時、まず大事なのが第一原理をどこに置くかということだ。例えば物理学で一番重要な原理はエネルギー保存の法則であるが、これを第一原理(つまりスタート)と置くことによって理論が構築される。エネルギー保存則は第一原理であるから、なぜこの保存則が成り立つかということは一切考えないし、エネルギー保存則がなぜ成り立つかは誰もわからない。(厳密に言うと、対称性から保存則が導けるが。)

スタートに何を置くか?それによってできてくるものが全く変わってくる。時には相反する結果が出てくることもある。理論的に構築することはもちろん重要であるが、スタートが間違えていれば間違ったものができてしまう。第一原理(スタート)をどのように設定するか、そこに科学的センスが大きく問われることになる。

良かった過去も、苦しかった過去も、自分の人生の一部。

「あんなことがなかったら、今頃は」という話をたまに聞く。確かに苦しいことがなかったら今頃はもっと楽な生活ができているのかもしれない。しかし「もしあの時」などと考えていたらきりがないし、人生は良いことばかりなんてことはありえない。

僕は、良かった過去も、苦しかった過去も、それらのことがあっての現在の自分であり、それらは大切な自分の人生の一部であると考えている。もちろんこれからの人生は良いことが多いことを願うが、これからも苦しいことが現れることもあろうと覚悟はしている。

苦しい過去も、乗り越えた後になってはそれも財産である。ものは考えようで、苦しい過去をネガティブにとらえるか、乗り越えた事実をポジティブにとらえるか、考えようによって未来の人生の状況は大きく違ってくるように思える。

問題を広げるか?絞るか?

問題に取り組んでいて壁にぶつかった時に、取るべき方向性は二つある。一つは条件を一般化して広げること。もう一つは条件をさらに課して絞ること。

問題を広げることによるメリットは、より大きな結果を出せること。より普遍な結果を出せること。逆にデメリットは、解決が圧倒的に困難になることである。

問題を絞ることによるメリットは、解決が容易になる可能性が高まること。逆にデメリットは、小さな結果しか出せない可能性が高まること。

フィールズ賞数学者の広中平祐氏はとある研究会で、条件を絞ることを提唱した数学者に対して、逆に一般化して広げるべきだと主張したという。並の数学者にとっては対象を絞って解決を図るべきなのかもしれない。一般化して広げるという困難に立ち向かえるのは、ずば抜けた才能を持ち合わせた広中氏だからこそできる技なのかもしれない。

問題を広げるにしても絞るにしても、それぞれ一長一短で非常に悩むところであるが、今社会で一番欠けているのは、ハイリスク・ハイリターンを取り、困難をものともせずに立ち向かう挑戦者ではないだろうか。

大学の過度なキャリア教育について。

2016年3月卒の大卒者の一年後の離職率は11.3%であるという。これが高いのか低いのかは別として、就活における現在の「キャリア教育」というものには違和感を感じる。

キャリア教育によって、自分はどんな職業が向いているのか?そしてどのようなキャリアを構築していくのか?ということをディスカッションによって発見したり、またデータを機械分析して判断していく。しかし、キャリア教育によって自分の進路判断を狭めたり、可能性を狭めたりしていないかと僕は杞憂している。

もちろんキャリア教育によって適切な進路を発見・助言してもらうという利点はあるので、一概に悪いものであるとはいえない。しかし現在のキャリア教育は行きすぎな感がする。

キャリアとは働き出す前に構築するものではなく、社会に出て徐々に構築していくものである。現在の大学等でのキャリア教育は、キャリア概念の固定化を招くものではないかと感じる。

最後に、人生とは予想外の出来事の積み重ねであると言っても過言ではない。そんな中、レールの上に固定され、行き先が一つだけに定められている状況、しかもそれを自分ではなく周りの人間に定められるのは、人生を自己表現の一つと考える時、それは少し違うのではないかと思う。

横一線ではいけない!

平等とは言い換えると、横一線ということである。最近は何でも横一線にしようという力が働く。しかし人間にはそれぞれ個性があり、多様性があるからには、横一線に並べるということは平等にしているようであって平等ではない。

「機会は平等に与えるが結果は平等ではない」ということは以前から言われているが、機会、すなわちチャンスの与え方もそれぞれに合った最適な形で与えるべきである。悪しき平等意識が逆にそれぞれの人の芽を摘んでしまうことになりかねない。

特に日本においては、長く続いた総中流社会のせいか、横一線意識が強い。その一方、多様化に対する対応は大きく後れを取っている。みんなと同じことをしないと不安になる人も多いだろう。しかし今必要なのは、みんなと違うことをしようという意識を持つこと、そして社会が脱横一線の意識を持つことである。

物は同一商品大量生産型から、小生産多品種型へと変わってきた。これは何も物だけではない。人間も皆同じではなく、それぞれが他とは違う独自性、オリジナリティを発揮することが、現代社会を生き抜いていくのには必須である。

個性は内面から出すべきだ。

多様化した現代では、画一性よりも個性が重要視されつつある。ただ個性と言っても様々あり、だからこそどのような側面から個性を出すのかは工夫のしどころである。

個性を大きく二つに分けると、外見の個性と内面の個性に分けられる。外見とは身だしなみや服装、身体の外見である。内面は性格、思想、生き方である。

では外見と内面のどちらから個性を出すべきか?僕は外見にも気を遣いつつ、内面からアピールすべきだと思う。外見は他人に大きく印象付けられる。だから個性というよりどう印象付けるかということを意識すべきだ。

例えば大人の基本的な服装であるスーツは、きっちりと着こなせば好印象を与えることができるが、スーツのディティールにはかなり制約があり、奇抜な個性とは対照的な位置にある。その制約下でいかに整えるか、そこがスーツの深くて面白いところでもある。

外見を整えれば、後は内面の独自性を思いっきり出していこう。当たり前の話であるが、内面はその人の人間そのものである。だから個性は内面から出さなければならない。

とは言え、内面は意外と外面にも表れるものである。仕草一つとっても内面がそのまま外面に表れている。

内面の個性と内面から醸し出される外見。その二つを主張できれば社会の中で“人間”としての存在感を主張でき、一目置かれる存在になるだろう。

“ナンバー1”という名のオンリー1。

「ナンバー1でなくてもオンリー1でいい」ということを歌った歌があるように、最近はオンリー1を目指す人は多い。もちろん周りと同じことをして埋もれるよりかは自分だけのオンリー1を持った方が断然良い。オンリー1になることは非常に大事なことである。しかし、オンリー1が注目を浴びる中、ナンバー1の価値が見過ごされているように感じる。

オンリー1はナンバー1ではないが、ナンバー1はオンリー1でもある。ナンバー1を目指してオンリー1になるということが現在の社会に欠けているのではないだろうか。

オンリー1を突き詰めれば、それはナンバー1にもつながってくる。ナンバー1を目指すということは、人と同じことをして競争することではない。手段は自分独自のものでなければならない。

ナンバー1なんてなれないと初めからあきらめる人も多いが、「我こそは絶対にナンバー1になるぞ!」と名乗りをあげるような頼もしい人がどんどん出て来てほしいものである。

歴史から何を学ぶ?

よく「歴史から学ぶ」という言葉が使われる。歴史を学ぶ理由はいろいろあると思うが、過去の歴史を教訓として現在の状況を考えるというのも一つの理由であろう。とは言え、過去の歴史がそのまま現代に当てはめられるわけではない。

織田信長は現代においても注目の人物であるが、彼はご存じのとおり何万という人間を殺りくしてきた。だからと言って彼を殺人者呼ばわりする人は少ない。それは過去と現代、あるいは歴史と現実を区別して物事を考えているからだろう。

歴史をそのまま捉えるのではなく、現代にマッチするように解釈をアレンジすることが大事だ。歴史からどれだけの事を学べるか?それには深い考察と時代解釈が要求される。

世の中の動きの当事者と、経済の解析屋。

当たり前の事であるが、世の中を動かしているのはビジネスなどのプレイヤーであって、決して解析屋ではない。解析屋とは経済学者や評論家のことである。

解析屋の言うことをまともに受けてはならない。なぜなら当事者でない彼らには責任が全くかかっていないからだ。責任がないから好きな事、言いたいことを何でも言える。その結果、それが間違っていても彼らはそれが無かったかのように次にまた言いたいことを言うだけだ。

では当事者はどうだろう。彼らが判断を誤れば、即刻自分の立場が危うくなる。従って行動や発言も慎重に慎重を重ねるだろう。その結果、当事者の発言や行動は、解析屋の発言よりも圧倒的に信頼がおける。

科学の分野では科学者が当事者であるが、経済、あるいは文学の分野では当事者は経済学者・文学者ではなく、経営者・小説家である。従ってこれらの分野では、学校で習うことは現実社会ではほとんど役に立たない。実践を積み重ねることによって才覚を磨いていくしかない。

考えるより即行動。世の中は動いてナンボの世界である。

バカな生き方が面白い!

多くの人は、賢い生き方をしたいと思っているのかもしれない。しかし僕は賢い生き方などはしたくないと思っている。常にバカでいられるか?バカを突き通せるか?そんなことを思っている。

賢い生き方は無難かもしれないが、バカな生き方の方が断然面白い。賢い生き方は「賢いね」で終わるが、バカな生き方は笑いが取れる。笑いを取ることにどれだけ意味があるかはわからないが、僕はそっちの方に生きがいと面白さを感じる。

人間らしいバカでいられるかどうか?自分が人間である以上は、そんなことを考えバカな生き方を貫いていきたい。

苦しんでいる人が偉いわけではないけれど。

好きなことを貫いて実行するということは、楽しいことであり、その一方非常に根気のいる苦しいことでもある。好きなことをやっている限り決して言い訳できないし、逃げる道もない。全責任は自分にある。

苦しんでいる人が偉いわけでは決してないが、苦しい状況にいる自分に対して何か解釈を見つけようとしてしまう。本当は楽しく思い切ってぶち当たりたいが、実際は苦しく思い切ってぶち当たるというところだ。

問題は、楽しいか、苦しいか、ということではなく、取り組んでいることの中身とそれに対するアウトプットだ。

苦しければやめてしまえばいい。他人にはそう言える。苦しまずに楽しく生きれば一番いい。しかし苦しさの中にも何か生きがいを見出すことがある。他人から押し付けられる苦しさは避けたいが、自分から進んで飛び込んだ中にある苦しさはドンとこい!

とは言え、やはり限界があるので、早く次のステージに進まなければならない。