月別アーカイブ: 1月 2018

人間は考える葦である。

「人間は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉であるが、広大な宇宙の中の小さな人間の存在を考えるとき、全くその通りで上手く言い表しているなと感じる。

現代の物理学では、マクロに宇宙を見通し、ミクロに原子よりはるかに小さいスケールを見通している。「見る」と言えば望遠鏡で宇宙のかなたを観測することを想像するかもしれない。あるいは顕微鏡で小さな世界を覗くことを想像するかもしれない。

しかし「見る」とは何も目で観測することだけを意味するのではない。理論的に理解することも、それらの世界を見ていることになる。その際に望遠鏡や顕微鏡に相当するのが数式である。数式は世界を理解する道具としては万能である。人間は宇宙の大きさに比べれば米粒より何十桁も小さな存在であるが、机上の計算によって宇宙を包み込んである。

人間は宇宙スケールの物理を理解し、ミクロの世界の物理も理解しているが、それらの二つのスケールの物理の融合(量子重力理論)はまだ成し遂げられてはいない。

人間の理解には限界はあるのか?それとも宇宙の全てを理解してしまうのか?人間が手にした道具(数式)の威力は非常に強力であり、少なくとも理論的には理解できる可能性を大きく秘めていると感じる。

セルフコントロール。

自分をコントロールするのは半分は自分であるが、半分は周りの環境である。自分の人生を自分の目標とするところへ導くためには、できる限り自分で自分をコントロールしなければならない。

自分の人生を特徴づけるもの、言い方を変えると“個性”と言えるかもしれないが、それらを彩るためには自己思想を構築しなければならない。そのためには外的要因を可能な限りなくすことが重要である。

自分で自分を完全に操るということは、意外に難しいものである。しかしセルフコントロールを完全に実行するということは、自分の人生をものにするということを意味する。

周りに影響され長い物に巻かれるか?それとも自分を完全にコントロールし周りを巻くか?そのどちらを選ぶかはそれぞれのスタンスにもよるが、生産的な人生を構築するためにはどちらを取るべきか?それは言うまでもない。

数値で示して、質を極める。

物事を極めるのには順序がある。まず量、すなわち数値で力量を示して、質を極めていく。とある高級車の歴史を見てそのようなことを感じた。

数値で力量の高さを示すとは、車で言えば最高速度、馬力、あるいは静粛性であろう。それらの事は、技術を高めていくことによって達成は可能である。

しかし技術を高めて数値で示すだけでは熟成はされない。数値を高めた後、次の段階は“質を高める”ことである。車で言うと、質感を高めることにあたる。しかし、この質感というものは物差しで測れるものでなく、客観的評価が難しい。感じる人によって千差万別であるが、質感のレベルというものが存在することはほとんどの人が理解できる。

質の高さは一朝一夕で出来上がるのもではない。時間もかかるし労力もかかる。そしてどこを目指しているかによっても大きく変わる。車を例にとって簡単に述べたが、このような過程は人間にも当てはまる。

自分が何を目指し、どう取り組んでいくか。最高を目指して極めるのなら、数値を高めるだけではなく、質を追求するところまで求められる。

誰のための学校か?誰のための教育か?

読売オンラインによると、今月23日に、北九州市の市立小学校で男性教諭が小6男児の顔を蹴り、意識を失わせたうえ鼻を骨折させ、その結果男児は現在も入院しているという。教師の生徒に対する暴力は定期的に耳にするが、今回の事例はその中でも特に悪質な部類に入るだろう。

教師の暴力に対して毎回思うことだが、学校はいったい誰のものなのか?全ての暴力教師はほぼ間違いなく学校は自分のものだと思っているに違いない。あるいは結果を考えるとそう捉えざるを得ない。

確かに学校教師という仕事は非常に苛酷である。モンスターペアレントの問題あり、度を越した超過勤務ありと過酷を極めており、学校教師には過度なストレスがかかっていることは想像に難くない。しかしそのはけ口を生徒に向けるなどということは絶対にしてはならないことであり、今回の事件を含め弁解の余地はない。

そして今回の事件で、警察の対応にも疑問が残る。警察は教諭に対して事情を聴いているとあるが、この事件は明らかに傷害事件であり、もしこれが学校外の事件ならかなり重い対応になるはずだ。

教師による暴力は交通事故と違って、社会の取り組みと意識の持ちようによってはゼロに抑えることができると僕は思っている。この様な事件がいまだに起こるということは、まだ学校環境とそれを取り巻く社会環境が未熟であると言わざるを得ない。

政治は、理念だけでも権力だけでも前に進まない。

26日、元衆議院議員で元自民党幹事長の野中広務氏が亡くなった。政治世界を支える人物が一人亡くなったことは寂しい思いもする。

改めて野中氏の経歴を見ると、京都の地方政治から一歩ずつのし上がっていき、真の理念と権力を持ち合わせた実力者という印象を受ける。

ところで、政治は立派な理念だけでは何も動かないし、また権力だけで押し通そうとしても無理がある。これまでの実力者と言われた政治家は、ほぼ例外なく理念と権力の両方を持ち合わせている。現在の首相である安倍総理も、良くも悪くもその双方を強く持ち合わせている。

単に理念と権力と言ったが、この二つを持ち合わせている政治家というのは多くない。これまで強権者と言われた有力政治家の中にも、理念が見えなく消えて行った政治家もいる。僕の浅い見識からではあるが、野中氏は理念と権力の双方を持ち合わせた政治家だったのではないかと感じる。

改めて野中広務氏の冥福を祈りたいと思う。

極めること。

物事を見通すうえで、何かを極めることは非常に強力な武器になる。10くらいの事を習得するより、一つの事を極めるという判断の方が賢明だ。

何かを極めるということは、軸足を作るということだ。そして一つの事を極めることによって、見える世界が大きく変わる。

一つの事を極めれば10の事を、二つの事を極めれば30くらいの事に応用が利く。一つの事を極め一つの軸足を作るだけでも非常に大変だが、二つの軸足を作れば進撃の安定感は桁違いに上がる。

僕自身も、数理物理の世界を極めるのは一番の目標だが、釣りを極めるという第二の目標もある。

一つの事を極め、周りの全てを達観することは、人生を意味づけするためにも非常に重要なことである。

絶対に求めてはならないもの、それは「100%の安全」だ!

100%の安全が保障されている状態というのは非常に理想的に思えるかもしれないが、実は100%の安全が保障されている状態というのは非常に危険な状態だ。

何が危険か?それは行動の自由度が全くなくなってしまうということだ。従って奴隷的状態に陥る。生きることはできるかもしれないが、自発的行動が全くとれなくなってしまう。

そして“リスク対効果”という観点からも、少しのリスクを取ることは多大なメリットをもたらす。社会においても、100%の安全を保障するプランは金額的にとんでもなく跳ね上がる。

ではそのような状態に陥らないためにはどうすればいいか?それは1%だけでもリスクを取ることだ。この1%のリスクが行動の自由度を圧倒的に広げてくれる。この少しのリスクは、“リスク対効果”が非常に高い。確かに大きなリスクを取る必要性はないが、少しのリスクを導入することは、ゆとりと自由度をもたらすことになる。

リスクを取る危険性を取るのか?リスクを取らない危険性を取るのか?それは個々の判断にゆだねられるが、100%の安全を求め奴隷的状態になることは絶対に避けなければならない。

地震・火山研究はどうあるべきか?

23日、草津白根山で火山噴火が起きた。今回の噴火は不意を衝くものであり、“気象庁も全くノーマークの火口”から噴火したものだ。その結果として噴火速報を出すことができなかった。

今回の噴火とは関係ないが、僕は以前から地震・火山研究に対して一つの疑問を持っている。それは、「現在の地震・火山噴火の“予知”に重点を置いた研究体制は本当に正しいのだろうか?」というものだ。

確かに地震・火山噴火の予知に関する研究体制は非常に重要である。しかしそれが故に、地震・火山に関する基礎研究・原理原則の研究が弱くなっているのではないだろうか?もし本当に正確な地震・火山噴火の予知を目指すのならば、まずは原理・原則などの基盤を固めなければいけない。急がば回れということである。

基盤研究なしの予知研究は、目先の処置を施しているに過ぎない。予知研究の成果は万人にもわかりやすいので、ついそちらばかりに手を出しがちになるが、今すべきは基礎研究・原理原則の探究である。

今回の噴火で自治体関係者が「本白根山は噴火記録がないので驚いた」と言っているが、これと同じ見解を気象庁及び研究者が持っているとしたら、非常に危険である。もちろん噴火記録や地震記録は重要な史料であるが、それらに基づく研究は単なる史学でしかない。

「前回の地震から数百年経っているので、もう地震が起きる頃だ」という発言を頻繁に聞くが、このような発言は科学的研究者の発言だとは到底思えない。それこそド素人レベルの見解である。

史学的な研究にのめりこんでいるようでは、地震・火山研究の発展は全く望めない。とは言え、地震・火山の科学的研究は地球規模の研究にもなり、金銭的負担は膨大になるであろうが、現在の目先の予知研究に対する膨大な投資をそちらに回せば、少しは展望が明るくなるのではないだろうか?

山中伸弥所長は絶対に辞めてはいけない!

22日、京大iPS細胞研究所の助教による論文ねつ造不正が発覚した。山中伸弥所長らが謝罪会見を開いたが、そこで山中所長自身も監督責任を問い、辞任する覚悟があるという趣旨のことを発言された。

助教による捏造は意図的なものであり、助教の処分はもちろん免れないが、山中所長自身の辞任は絶対に避けなければならない。

山中伸弥教授はiPS細胞研究所のみならず、日本のiPS細胞研究全体の求心力でもあり、山中教授のリードなきiPS細胞研究は考えられない。もちろんiPS細胞研究自体は山中教授なしでもやっていけるだろう。しかし山中教授は現在はiPS研究・医療のマネジメントに注力されており、現在の日本のiPS細胞研究・医療の方向性は山中教授が導いていると言っても過言ではない。

山中教授は研究者として立派であることはもちろん、人間としての魅力も多大であり、そのような山中教授の人間性に研究者のみならず日本の世論が支持していると言っていい。従って、山中教授が辞任すればそれは日本全体の損失であると言える。

責任感の強い山中教授が辞任を口にするのもわからなくもないが、ここは何が何でも留まってほしい。それが一国民の願いである。

人からは学ばない。

通常、社会では、人から学ぶということを要求される。人の成功、失敗から何かを学び、それを自分の糧とするのだろう。人から学ぶことの重要性は、100人いれば99人、いや100人ともが肯定することかもしれない。

しかし、自分自身で、自分の中からゼロから一を生み出さないといけないこともある。それは独創の境地と言えるのかもしれない。もちろん、他人から学んで一を生み出すという手もあるだろう。むしろその手の方が常套手段かもしれない。

しかし、他人から学ばないという手もある。何も学ばないのではない。人から学ばないだけだ。自分自身の内部の考察から実態を生み出す。そんな人間のあり様を教える人間を見たことないが、そんなあり様も僕はありだと思う。もちろん効率は悪い。しかしそんな人間が一人くらいいてもいいのではないだろうか。

自分の生き方と考え方を信じ失敗を繰り返すこと、それを貫いた先に何があるか?自分には見えているが、それを実現することは急務である。

問題を知る事、問題を見つけること。

世の中では問題を解くことばかりが意識されている。学校の定期試験や入試など、何かと問題を解く能力ばかりが注目される。もちろん問題を解く能力は非常に重要である。しかし「問題を見つける能力」はそれと同じか、それ以上重要である。

問題を解く行為は、問題を見つけ、問題を知ることから始まる。入試では問題は勝手に与えられるが、社会では問題は自分で見つけなければいけない。しかし学校においても、問題を見つける訓練は問題を解く訓練に比べ非常に軽視されているのが現状だ。

質の良い問題を見つけることが、大きな成果を挙げるための第一歩であることに気付かなければならない。

小室哲哉さん、引退について。

19日、音楽プロデューサーの小室哲哉さんが引退を発表した。それについて賛否両論あるが、僕自身も小室さんの今回の経緯について考えると非常に悲しい思いがする。

今回の引退の発端となったのは小室さんの個人的な交友関係の問題であるが、あくまで個人的な問題であって社会的問題でもなんでもない。有名人と言えどもやはり個人的なテリトリーは絶対的にあるわけであって、それを何でも暴露するメディアの横暴は見るに堪えないものがある。

今回の問題でも、当事者同士にとっては大きな問題であるかもしれないが、それに対して我々市民がとやかく言うことではない。

今回の報道でもそうだが、当事者・小室さんが問題ではなく、メディアの報道姿勢の方が明らかに社会的問題である。個人的事情を全く知らないメディア、そして一般市民が、ただ表面的行為のみを見て、その人の私生活と仕事を破綻させるのはどう考えても間違っている。

90年代に小室サウンドを作り上げ、小室系とまで言われた音楽ジャンルを作り上げた才能ある音楽プロデューサーを消し去った今回の騒動は、本当に無念であるとしか言えない。

ブランディング戦略。

ブランドと言えばエルメスやルイ・ヴィトンのようなファッションブランドが真っ先に思いつくが、何もファッションブランドだけのものではない。トヨタのレクサスやソニーやパナソニックだって立派なブランドである。ではそもそもブランドとは何か?

ブランドとは信用でありイメージである。そしてそれらの特徴として、作り上げるには非常に長い時間と努力、そしてお金が必要だが、崩れ去るのは一瞬であるということである。そこにブランド構築の難しさがある。

ブランド化の大きなメリットは何か?それは大きな付加価値である。ブランド化することによって価値は何倍にもなる。全く同じ商品でもブランド物とそうでない物では値段が桁違いである。ではそこまでしてブランド料を払う価値はあるのか?それは価値があると思う者は払い、価値を感じない者は払わない。ただそれだけである。ただブランド料というものも、全く無意味ではない。ブランド料は信用料であり、満足料である。それで自分が満足できればそれで充分である。

ブランディング戦略は物だけでなく、人にも応用できる。自分をブランド化することによって自分の価値を高め、人付き合い、そして仕事において優位に進めることができる。

iPS細胞の山中伸弥教授が、“VW”、つまり「ヴィジョンandハードワーク」が重要だとよく言われている。ハードワークだけでは量は稼げても質は稼げない。質を稼ぐのに必要なのがヴィジョンだ。そしてヴィジョンを持って質を稼ぐことはブランディング戦略にも通じるものがある。

日本にブランドがなかなか生まれないのは、ハードワークは得意だがヴィジョンをなかなか意識できないというところに原因がある。日本という国が成熟した現在、次に進むにはヴィジョンを持って、人・物・国をブランド化することが必要ではないだろうか。

夜明け前が一番暗い?

「夜明け前が一番暗い」と、ある記事でそんな言葉を見つけた。本当にそうなのか?暗い闇はどんどん暗くなるばかり。とは言っても隙間から一途の光が差し込んではきている。その光に向かって進んでいるところだ。

一番危険なのが「いつまでも夜明け前症候群」。いつかは夜明けを迎えなければいけない。

最近はなぜか努力を否定する論調をしばしば見かけるが、本当にそれは正しいのだろうか?努力するもしないもそれぞれの勝手だ。だから努力をしない自由もある。ただ、努力をしないことを称賛する論調にやすやすと乗せられると、非常に危険であるように思える。夜明けを迎える決定打は、努力のように思えてならない。

副次的なものがあって、主が際立つ。

人生において様々なことに取り組むことになるが、全てのものが平等ではない。自分にとって重要な「主」なものがあり、そして「副次的」なものがある。主なものが非常に重要なことはわかるが、ただ主なものだけをやっていればいいわけではなくて、副次的なものにもしっかりした役割がある。

料理のメインディッシュの前には前菜が出てくる。もちろんメインディッシュが一番の目的なものであるだろうが、前菜があることによって美味しさは倍増する。それは人生でも同じだ。副次的なものがあって、主が際立つのである。

副で気を抜けば、主で輝くことはできない。副は舞台を作ってくれる。その副で作った舞台の上で主がどれだけ演じられるか、主で輝くためにも副に対して頑張って取り組んで行こう。

予定調和をぶち壊す。

昔の日本は予定調和で物事を進めるのが慣例だった。それは学校でも仕事でも私生活でもそうだ。しかし最近は「予定調和をぶち壊す」ことが称賛されることが多くなった。

予定調和とは、言い方を変えると無難だ。したがって予定調和を壊すためには無難な人間でいてはならない。しかし残念ながら、世の中の多くの人は無難である。リスクを極度に恐れる。

何でもリスクを恐れるというのは違うと思うし、また何でもリスクを取る必要もないのかもしれない。重要なのは、自分がどこでリスクを避けて、またどこでリスクを取って前に出るか、そのようなリスクの使い分けを把握することである。

人生を予定調和で終わらせるか、人生を刺激的に創造していくか。それは人それぞれであるが、ただ社会も日常生活も熟成期に入った日本においては、予定調和をぶち壊していくような展開を起こさない限りは前に進むのは難しい。

イチローよ、帰ってくるな!

14日のサンデーモーニングで、プロ野球解説者・張本氏がイチローに「早く帰ってきて。落ちぶれた姿を見たくない」と発言したという。確かに現在のイチローの立場はかなり厳しいものだ。このままメジャーに残ってもどれだけ出場できるかわからない。張本氏と同様の意見を持っている人も多いだろう。

「去り際の美学」という言葉がよく言われる。綺麗な姿のまま去りたいというものだ。しかし綺麗に去るのが美学ならば、ボロボロになるまで現役にこだわるのも一つの美学だと思う。僕は後者の美学の方が共感を感じる。

イチローに対してはボロボロになるまでメジャーにこだわってほしいと思っている。40歳を過ぎてメジャーに現役で残ることは並の選手では明らかに無理だ。しかしイチローにはそれを実行できるだけの力がある。イチローは日本の枠に収まるような器ではない。何を言おうと世界一の選手なのである。だからこそこう叫びたい。

イチローよ、日本に帰ってくるな!

代数幾何学の何たるか。

頭というものは不思議である。人にもよるだろうが、調子の良い時と悪い時がある。今日、代数幾何学の専門書を眺めてみると、かなり頭に入る。

微分幾何学は幾何学の一分野と言えるが、代数幾何学は代数学の一分野と言える。

現代代数幾何学はグロタンディーク(20世紀で最も偉大な代数幾何学者)が考案したスキームという概念を用いて展開される。これまでスキームは難解なものと思い避けてきたが、その骨格が見えてきた。

代数幾何学が僕の取り組んでいることに利用できるかどうかわからないが、代数幾何学の何たるかを理解して、探ってみよう。

原理がわかれば怖くない!

何かに対して怖がっている時、その大きな理由は無知から来るものである。世の中不思議なことはたくさんあるが、原理を正確にしっかりと理解すれば、大概の恐怖や悩みは解決する。

例えば「幽霊は存在するか?」という問いにどう答えるか?「そんなことは科学的ではない」と否定する人は多いが、そんな理由は理由にもなっていない。そもそもそんな答えは科学的でも論理的でもない。

僕ならば、原子レベルから論理的に非存在を答える。原子論によって幽霊の存在を論破することができる。

今、科学的社会になりながら非科学的なことが横行しているのは、原理を理解しようとしないで何もかもがブラックボックス化されていることが大きな理由だ。

原理を論理的に理解することは、現代の多様な日常を生きる上では欠かせない要素になっている。

一流、二流の判断は誰が下すのか?

世間は格付けが大好きだ。どの世界にも一流や二流の格付けは存在する。しかしこの一流、二流の格付けの判断は誰が下すべきなのか?

判断の種類を大きく分けると、玄人による判断と素人による判断に分かれる。しかし多くの場合玄人による判断が幅を利かすのだが、素人による判断も決して無視はできない。

料理を例にとると、どの料理が美味しいかという判断を下すとき、ミシュランのようなプロによる判断が絶対的に思われる風潮もあるが、単純に素人が食べて美味しいかどうかということは非常に重要である。なぜなら料理を日常的に食べるのはほとんどが素人であり、先入観のない素人が美味しいと思えないような料理は美味しい料理とは言えない。

このような例はいたるところに存在する。音楽、そして小説などは、素人による素朴な判断が重要になる。音楽も小説も、一般市民に受け入れられ、多く売れたものが良いものだというのは重要な判断基準である。

玄人の判断が世界を極め、素人の判断が世に広める。どちらも次元の違う重要な判断基準である。

リスク対効果。

物事の判断を下すとき、リスクばかりに目が行ってしまうことがよくある。確かにリスクを評価することは大事だが、リスクばかりを評価し、メリットを評価できないでいては正しい判断ができない。リスクとメリットを比較して判断を下すこと、すなわち「リスク対効果」を評価することが重要である。

リスクだけを見ていると、そのリスクがたった1%しか起こらない事案であってもそれを過剰に評価してしまう。極端な例で言うと、交通事故に遭う確率はかなり低いが、交通事故に遭うことを怖がって外出しなければ、それによる人生の損失は計り知れない。

費用対効果という言葉があるが、費用も一種のリスクと考えれば費用対効果もリスク対効果の中に含まれるだろう。すなわちリスク対効果はより広い概念であると言える

リスク対評価をすることによって物事を正確に判断することができ、また自分の行動の自由度もかなり広がり可能性が飛躍的に大きくなる。

リスクを冒して挑戦するということは、そのリスクに勝るメリットがあるということである。リスク対評価を行動原理とし、リスクに挑戦し続けたいものである。

「科学」、それは普遍的なもの。

なぜ科学を研究するのか?そして科学の価値とは何なのか?それの一つの答えは「科学の普遍性」である。

多くの人にとって、科学の理論よりもエベレストの登頂の方が夢を感じるかもしれない。あるいは社交パーティーのような華やかな世界の方が憧れるかもしれない。確かに世界一高い山への挑戦は非常に分かりやすい。それも人間の挑戦の一つとして価値があるだろう。

では科学世界への挑戦はどうとらえられるだろう。科学は実験室の世界の話に過ぎないのか?あるいは単なる紙上の計算に過ぎないのか?その上辺だけを見れば科学は非常に小さな世界の話である。

しかし科学の最も大きな特徴は「普遍性」である。どう普遍なのか?それは机の上で計算して出した理論は、宇宙のどこに行っても通用する。即ち、机の上で、あるいは実験室の中から宇宙全体を達観しているのである。このスケールの大きさは半端ではない。そう考えるとエベレストも地球上の小さな世界の話である。

この科学のスケールの大きさと普遍性に気付けるかどうか?それに気付けることができた時、世界観は大きな変貌を遂げるだろう。

他人からの評価。

「人間」という言葉があるように、人は人の間で生きている。したがって他人からの評価が気になるのは当然である。他人の評価なんて気にするなとは言われても、社会の中で生きている限り他人からの評価からは逃げられない。自分一人だけの評価で生きようと思えば、もう仙人にでもなるしかない。

とは言え、他人の評価を過剰に気にしすぎるのも良くない。自分の価値観を確立し、自分の物差しを持つことは重要である。自分の評価というものをしっかりと持たないと、他人に振り回されるだけだ。

自分の観る世界と他人が観る世界は違う。同じものを観ても色が違う。だからこそ同じ世界に生きていても多様な価値観が生まれるのである。多様な価値観は世界を実り豊かなものにする。多様な価値観を認める世界は懐が深い。単一的な価値観だけで物事を進めても、どこかで行き詰ってしまう。そのような限界を突破するためにも他人の評価というものは必要である。

自己評価と他人からの評価、その双方からの評価をもとに、バランスのとれた実行力を身に付けることが必要だ。

最も小さく、最も大きな夢。

「素粒子」、それは最も小さい世界の話であり、最も大きな夢の話でもある。

素粒子の定義は時代によって変わる。百年以上前の素粒子とは分子・原子であったが、時代が進むにつれ、原子核・電子、そしてクォーク・レプトンへと微小になっていく。最近はもっと小さい世界の話もある。

素粒子の世界を記述するのが「素粒子論」。素粒子の科学は、理論が実験を先行している。その大きな理由は金銭的理由だ。素粒子実験の施設である加速器は建設するのに数百億円、数千億円かかると言われている。それに対して実用的対価は事実上ゼロ。そんな科学の存在を世間は簡単に認めない。

素粒子物理の実用化は考えられないが、素粒子物理は人間の知的活動の集大成だと言える。素粒子への挑戦は、人間の知性への挑戦である。

この最も小さい世界への、最も大きな挑戦に、科学の壮大な夢が存在する。

日本に居ながら世界一を目指す!

日本に居て日本一を目指すのは、全ての分野で可能だ。スポーツであっても学問であっても、あるいは芸術・お笑いであっても、日本国内で一番になれば日本一である。しかし多くの分野で日本に居ながら世界一を目指すのは不可能だ。

例えばプロ野球では、日本でどれだけ結果を出してもそれは世界一とは認められない。王貞治はホームランの本数が世界一だと国内ではよく言われるけど、アメリカではそんなことは誰も口にしない。イチローが世界一と言われるのは、メジャーリーグに渡って結果を出したからこそだ。王さんが海外で世界一と認められないのは、王さんの実力が足らないというより、そもそも舞台が違うということによるものだ。

このように世界一を目指すには、日本国内に居てはまず世界の舞台に立てないということから、原理的に世界一を目指すのは不可能だ。

しかし、分野によっては日本に居ながら世界一を目指すのは可能だ。その最たるものが学問であろう。現代では海外の情報は即時に手に入る。そして日本国内で出した結果であろうが、アメリカで出した結果であろうが、良い物は良いのである。学問に国境はない。

芸術だってそうかもしれない。海外でスキルを身に付けるかどうかという問題はあるが、日本で作り上げた作品が優れていれば、それは世界で評価される。

日本人は舶来信奉主義的な考えにとらわれている。同じものでも欧米で出たものの方が優れているという幻想に包まれている。しかし今必要なのは、日本発でも世界一になれるんだということを証明することではないだろうか。

セルフマネジメント。

最近強く感じているのが、「自分をどうマネジメントしていくか」ということだ。自分のマネジメントを甘くしてしまうと、どうしても油断ができ、ついだらけてしまう。もちろん僕がそういう人間だからなのかもしれないが、目標に向かって進んでいる身としてはセルフマネジメントをしっかりと行い、課題をこなしていくことが必要である。

セルフマネジメントの中で特に重要なのは時間の管理だ。無料の娯楽があふれている現代において、少しでも油断をしてしまえばずるずると娯楽にはまってしまう。そうなれば時間の浪費はあっという間だ。

時間のマネジメントは大事だが、その一方で自分の人生は束縛することなく解き放ったほうが良い。人生を計画で固めるのは面白くない。ある程度の方針は立てたほうが良いが、人生に自由度を持たせることは大事である。

セルフマネジメントは、しっかりとした展望を持たせながら、かつ、思考や行動に幅を持たせることが肝である。

「回り道」が近道。

目の前の課題に対して、それは無駄ではないかと思い避けてしまうことが多い。「他に何か近道はないか?」と最短ルートを模索してしまう。もちろん最短でたどり着くことができれば最もいいのかもしれない。しかし最短ルートだと思う道が本当に近道かどうかはわからない。

目の前の課題に対して地道に取り組むことが、近道への一歩だ。目の前に飛び込んできた課題というのは多くの場合無駄ではない。特に先が見えない時は、まず目の前の課題を乗り越えるとよい。

僕は今までたどってきた道に対してほとんど後悔することはないが、ただ一つだけ後悔していることがある。それは英語を避けてきたことだ。英語という目の前の課題を避けてきたばかりに、かなりの遠回りを強いられてきた。やはり目の前の課題にしっかりと取り組むことは大事だ。

そして、自分の行動、自分のやるべきことを自分でしっかりと考えて導き出すことも近道への一歩だ。他人に言われたことしかやらなければ、自分という人間の基盤は築けない。

自分の考えたことをやると言えば、他人の言うことを無視して自己中心的だと見えるかもしれない。しかし「自分のやりたいことしかやらない」という自己中心的な考えと、「自分の考えたことをやる」という意志は全く違う。自分の意志を持って人生を切り開いていくことが大事なのだ。

近道を通るということは、かなり強い意志を持つことが必要である。そして自分で自分の人生を構築していくこと、それが人生の近道と言えるのかもしれない。

「紅白歌合戦」は落ち目なのか?

2017年の紅白歌合戦の視聴率が、ワースト3を記録した。この事実だけを見ると紅白歌合戦が落ち目になっているような印象を受けるが、それは本当だろうか?

かつての紅白歌合戦は視聴率50%越えは当たり前。国民全員が大晦日には紅白を観ていたと言っても過言ではない。しかし2017年の紅白の視聴率は40%を切っている。

紅白の低視聴率化の原因として真っ先に思いつくのは、国民の興味の多様性とネットの台頭であろう。「大晦日は紅白」という固定観念から、お笑い・格闘技へと興味の分散が広がった。そしてネットの普及により、テレビで見なくても「後でYou Tubeで好きな歌手の所だけを観ればいいや」ということになってしまう。

そして僕が一番大きいと思うのが、紅白の4時間ぶっ続けというのが、お手軽社会である現代ではあまりにも長すぎるのではないかということだ。現在のネット動画の主流は10分程の短編動画だ。僕自身も1時間のテレビ番組はほとんど観ないが、You Tubeの13分程の釣り動画は毎日チェックしている。

現代では何もかもが手軽に済ませることが好まれる。先ほどのネット動画もそうだが、小説でも大部なものより短編が好まれる。また数学や物理などの学術書でも大部なものは敬遠され、コンパクトにまとまったものが人気を集めている。

紅白の低視聴率化の理由はいろいろ思い当たるが、これは紅白だけの問題ではなく社会全体の性質の変化が表面的にあぶりだされているのではないかと思う。

紅白に対する考え方の変化は、日本人の国民性の変化を映す鏡ではないだろうか?

書籍を集める?

僕は学生時代からかなりの書籍(数学・物理関係の専門書)を購入してきた。いや、“収集”していると言った方が正しいかもしれない。コレクターのような気質のところもある。以前、そんな書籍のコレクターでもある自分に対して、果たしてそれで良いのか?という疑問を持ったこともある。本を集めたからといって、それが全て役に立つとは思えない。そもそも読んでいない本の方が多い。

しかし、昔コレクトした本が最近になって意外にも役に立つことが多い。本を購入することで現在取り組んでいることが前進するのなら、安いものだ。

いや、専門書は全然安くない。和書でもだいたい四千円くらいは平気でするし、洋書は平気で一万円はする。したがって普通に買っていれば出費はかなりデカい。そこで古本・中古本の出品をまめにチェックし、必要かつお買い得な本は見つけ次第、即注文している。とは言え、専門書は中古本でもかなり高い。特に絶版本は定価より高いのは当たり前だ。

確かに購入した全ての書籍が役に立つわけではない。しかしある時、過去に購入(収集?)した本が突然役に立つことがよくある。そういう意味では。本は人生の財産であると言えるのかもしれない。

「評価がない」のが一番苦しい。

社会の中で生きている限り、周りからの評価は付きものだ。何かのアクションを起こしている限り、何らかの評価が下される。時には、いや多くの場合、周りからダメ出しを食らったり、厳しい評価を下される。

確かに厳しい評価を下されるのは辛いかもしれないが、少なくとも周りから注目され評価を下される状況に立たされており、まだましと言えるのかもしれない。一番つらいのは、評価を下されることさえされない状況だ。

評価を下されない、つまり評価がないのは、それを続けるモチベーションを保つうえでもかなり厳しい状況だ。そのような状況を耐え、何とか日の目を浴びるところまで継続できるか?これはもう気力と興味を持って何とかたどり着くしかない。

最近話題の職業であるYou Tuberであるが、人気You Tuberと言えども、最初から何十万もの再生回数があるわけではない。とある人気You Tuberは、「最初の何か月、あるいは何年、再生回数が5回とか10回という状況を耐えられるか」ということを言っていた。即ち、評価されない時代をどう耐えるか?ということだ。

ネットで炎上という話題もよく聞くが、少なくとも彼らは炎上するほど注目されているということだ。少なくとも彼らはアクションを起こしている。

評価がないという「死のトンネル」を潜り抜けられるかどうか?そのためには周りの評価に一喜一憂しない「鈍感力」が必要だ。

あけまして、おめでとうございます。2018!

あけまして、おめでとうございます。

2017年、いろいろあったな~。と言いたいところだが、あまりパッとしない一年だった。はっきり言って、不完全燃焼。何もかもが中途半端。

2018年は成し遂げる年。完成する年。結果を出す年。

背水の陣である。

結果を出すまではあらゆることを我慢できるけど、我慢もそこそこにして、結果を出して解き放たねばいけない。

ところで、平成は31年の4月末までと決まった。あと1年4か月で今上天皇は上皇になられる。上皇という存在は歴史上の存在だと思っていたが、まさか現代に上皇が現れるとは思わなかった。

おそらく今年中に次の元号が発表される。昭和天皇が崩御された時、「平成」の元号を発表したのは当時の小渕官房長官(後の首相)。次の元号は菅官房長官が発表するのだろうか?

僕の現在の状況を打開するには、克服しなければいけないことがたくさんある。克服できるかどうかではなく、克服しなければ明日はないと思っている。

平成30年、悔いのないように思いっきり暴れまくるぞ!