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第三者委員会は免罪符か?

最近、企業の不正が立て続けに起き、またビジネス以外でもスポーツの世界をはじめ何かと不祥事が続いている。もちろん、いつの時代でも何らかの不祥事は起きており、社会と不祥事は切っても切り離せない関係になっている。

不祥事が起きた時、最近は多くの場合第三者委員会というものが設置される。言葉のとおり(建前上は)不祥事の当事者とは利害関係のない人たちで構成される調査委員会だ。もちろん、第三者委員会が設置されることは悪いことではない。しかし、第三者委員会に関しても問題がないとは言えない。

一つ目の問題は、第三者委員会が本当に利害関係のない人たちで構成されているかということだ。もし不祥事の当事者が設置したとなれば、何らかの関係があるという疑念が持たれるのは当然のことだ。

そしてもう一つは、第三者委員会を設置することが免罪符になっているのではないかということだ。第三者委員会を設置したという行為が、不祥事の当事者の正当性を保証することだという当事者の主張が感じられる。「第三者委員会を設置してそれで終わり」では何の意味もない。第三者委員会を設置したから、あとはその人達に聞いてくれという責任回避の態度も見え隠れする。

不祥事→第三者委員会→責任回避、という定番のルートが出来上がっているのが良いのか悪いのか意見が分かれるところだろうが、第三者委員会が免罪符になっているのならば、それは明らかに問題があると言わざるを得ない。

英語信奉にとりつかれる前に。

現在、世界の言語のグローバルスタンダードは言うまでもなく英語である。科学の論文でも、英語で書かなければ実績とはみなされない。企業でも社内公用語を英語に定めるところもある。

しかし英語とは多くの場合、本質ではなく手段である。もちろん手段は大事であるが、手段である英語に固執しすぎて本質を見失っては元も子もない。

英語を習得して世界に出ることを否定するつもりは全くないが、日本人としてこれから重要になるのは日本語で勝負することではないだろうか。英語を重視するあまり母国語である日本語を軽視するのは少し違うように思う。

例えば僕の名前“木原康明”を外国で名乗るとき、多くの場合“Yasuaki Kihara”と苗字と名前を逆転させるであろう。しかし日本語、そして日本の文化を主張するならば“Kihara,Yasuaki”と「苗字,名前」とすべきである。アメリカ人が日本に来て、日本方式に「苗字,名前」とはだれも名乗らない。なぜ日本人は外国に行くと「名前,苗字」と逆転させるのだろうか?しかも日本国内でも英語表記にするときには「名前,苗字」と逆転させる。日本人はどこまでお人よしなのだろうか。

多くの日本人は英語神話にとりつかれている。英語ができるだけで仕事ができるように錯覚してしまう。英語信奉にとりつかれる前に、日本語、そして日本の文化に対して理解を深めることが非常に大切である。