月別アーカイブ: 12月 2017

世の中の一年、僕の一年。

あっという間に大晦日になってしまった。この今年最後の日、簡単に一年を振り返ってみようと思う。

世の中、社会の一年はどうだったか?世界的に見ると、1月にトランプ大統領が就任、そして北朝鮮は定期的に弾道ミサイル発射を続け、地下核実験を強行してきた。2017年の社会情勢はトランプと金正恩との対立が際立っていたように思う。金正恩はミサイル・核という物理的手段の開発を猛スピードで進展させたが、これからアメリカはそれをどこまで制御できるか?注目である。

国内の政治面では、衆議院議員総選挙で安倍自民が圧勝。麻生氏が自民圧勝の理由を「北朝鮮のおかげ」と失言したが、現実問題としてこれは正しいだろう。もちろん現役の政治家が言う言葉ではないが、北朝鮮のミサイルが何発も飛んでくる中、それに対処する能力が最もあるのは、基盤がしっかりし、パイプが太い安倍自民であると言わざるを得ない。

また、将棋界は空前の話題に沸いた。藤井四段の29連勝、羽生氏が永世七冠を獲得、加藤一二三さんの人気など、将棋とはあまり縁のない一般市民にも注目された。藤井四段、そして羽生氏共に、来年からも目が離せない。

僕個人の一年に関しては、はっきり言って不完全燃焼だったとしか言いようがない。燃えようにも燃えきれなかった。やはり自分を制御し、時には解き放つというメリハリができなかったように思う。できる時は無意識にでもできるものだが、できない時はどうしてもできない。

その一方、毎日の日課に関しては、相変わらずコンスタントに実行している。筋トレ、そしてこのブログの執筆とアップ。また日課ではないかもしれないが、毎日アップされる「釣りよかでしょう」という15分程の釣り動画を観ることが些細な楽しみである。

来年は完全燃焼できるように、暴れまくりたいと思う。

ではでは、良いお年を。

今年のスポーツを振り返って。

スポーツ界でも、今年一年いろいろあった。その中で特に印象に残ったのは、陸上100m・桐生祥秀選手の9.98秒だ。一昔前ならば、9秒台は世界でトップレベルのタイムだが、それを日本トップ選手が記録したことは感慨深い。とは言え世界的に見れば、一昔前のカール・ルイスから今年引退したウサイン・ボルトへと飛躍的にタイムは伸びてきている。桐生選手がこれからどこまで記録を伸ばすのか、注目だ。

そして、今年は満足のいく結果を残せなかったが、元日本ハム、現エンゼルスの大谷翔平の潜在能力には人を惹きつけるものがある。来年メジャーでどこまで二刀流を極めるか、これも注目だ。

逆に個人的に残念なのが、阪神タイガースだ。今年の阪神は成績的には決して悪くはない。しかし日ハム・大谷とは対照的に何か惹きつけるものがない。そして今年のドラフトでも清宮などの注目選手の獲得に失敗し、来年に対してもあまりワクワク感がない。昔の新庄剛志のような華のある選手が出てきて、グラウンドを思いっきり“シンジョイ”してほしいものである。(僕は阪神ファンである)

そして来年初めには冬季五輪が開催される。女子ジャンプ・高梨沙羅がリベンジを果たすのか?フィギュアスケート・羽生結弦が五輪二連覇を果たすのか?いろいろ見所があるが、自分にゆかりのある選手も気になる。同じ神戸市民の女子フィギュア・坂本花織選手、同じ出身大学のスピードスケート・小平奈緒選手などである。

いろいろ挙げてみたが、来年一番気になるのはやはり大谷翔平だ。彼の規格外レベルの二刀流がメジャーでどこまで通用するのか?いや通用するというレベルではなく暴れまわってほしい。そして日本人と米国人の度肝を抜くような活躍を期待している。

「日韓合意破棄」は、韓国が国家としての体を成していないことを意味する。

慰安婦問題の日韓合意で「最終的かつ不可逆的な解決」としたことに関して、韓国・文大統領は「この合意で慰安婦問題は解決されない」という見解を述べた。まだ日韓合意が破棄されたわけではないが、もし破棄となれば、それは現在の韓国が国家としての体を成していないことを自ら宣言するものであると言える。

いくつもの問題を抱えながらもこれまで日本政府が対韓関係を重視してきた理由は、一番に「隣国である」という揺るぎない事実からだ。日本という国は韓国との関係なしには成り立たない。しかしこれには「韓国が国家として成り立っている」という前提があってのものだ。しかし日韓合意が破棄となればこの前提は崩れ去る。日韓合意破棄により韓国が国家と見なされなくなれば、対韓関係は大幅に見直さざるを得ない。

現在、朝鮮半島は、北朝鮮問題という非常に大きな問題を抱えている。もちろん日本もこの問題に対して無関係ではない。今、日韓関係は非常に重要な局面にあるのである。

韓国、そして日本もだが、国家の問題に対して優先順位をはっきりとさせないといけない。今優先すべき課題は何か?冷静に考えればそれは明確に見えてくるはずだ。

「被害者も悪い」の論理はおかしい!

犯罪・事故などが起きて必ず出てくるのが「被害者も悪い」という声だ。時には加害者以上のバッシングを受けることもある。はたして「被害者も悪い」は正しいのだろうか?

確かに被害者にも落ち度があることは多い。いや、落ち度がないなんてことはほとんどない。しかしそれは、落ち度がある被害者が悪いというものではなく、落ち度などは探せばどうにでも見つけられるということだ。

普段の行動において、全く落ち度がない人などいるのだろうか?おそらくいない。交通事故などはその典型的な例だ。自動車は走っている(完全に止まっていない)限り、ほとんどの場合被害者にも責任が生じる。時には殺人事件の被害者に対しても、こじつけのような悪意の感じられる責任を押し付ける声を聞くことがある。

人間は落ち度を持ちつつ暮らしている。したがって人間の落ち度を過度に指摘するのはナンセンスだ。ましてや事件の被害者の落ち度を追及するのは、ほとんどの場合社会的に間違っている。

現代の日本社会では「自己責任」という言葉だけが独り歩きしている。

たった一回の人生に何を懸けるか?

当たり前の話だが、人生はたった一回しかない。そのたった一回の人生に何を懸けるか?

もちろん何かを懸けるとかそんな覚悟なしに、流れに身を任すという人生もあるだろう。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。それはそれぞれの人生のスタイルと言えるのかもしれない。

ただ、人生は一回しかないのだから、複数の事を掛け持ちするのにも限度がある。そして人生の軸というものははっきりとしておいた方が良い。その「人生の軸」が懸けるものであろう。

人生の軸などというものは、時にはぶれる時もあるだろう。しかしそのような時にどう立て直すか?その時、何かに懸ける強い思いが方向性を明確にしてくれるに違いない。

防衛力と攻撃力の狭間で。

自衛隊の護衛艦「いずも」を空母化するというニュースが流れた。そこで問題になっているのが、「攻撃型空母」は保有できないという政府見解だ。

憲法第九条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という条文がある。したがって日本国は建前上、軍隊を持てないということになっている。だから日本の軍事組織は軍隊ではなく「自衛隊」と呼ばれている。したがって自衛する軍備は持てるが、攻撃力は持ってはならないということになっている。おそらく今回の「いずも」の空母化に関しても、そこが問題になっているのだろう。

“攻撃力”と“自衛力”とを区別して使っているが、そもそも攻撃力と自衛力は表裏一体であり、明確に区別できることではない。攻撃することは自衛することにもつながる。また、攻撃は最大の自衛であるとも言えるかもしれない。そのようなことから、軍事に関する問題では、事あるごとに憲法に引っかかり、足かせになっている。安倍首相が九条改正に前向きなのも、そのようなことが一番大きな理由である。

最近の北朝鮮問題では、北朝鮮のミサイル施設を攻撃することが日本の自衛につながるかという論争がされている。これは攻撃か?自衛か?こんなことはいくら議論しても結論は出てこない。

まさに攻撃力と自衛力の狭間で揺れているが、唯一の解決方法は九条改正しかない。九条を改正するのが良いのか?九条を改正せずに毎回議論するのが良いか?近い将来にあると思われる憲法改正の国民投票に、国民の意思表示が問われるところである。

実感はないが、自信はある。

何かを成し遂げようと取り組んでいる時、自信があるかないかによって結果も大きく変わる。自信はないよりかはある方が絶体によい。根拠に基づかない自身もある程度あってもよいが、根拠のある自信は非常に大切である。

根拠のある自信を持つためには、大局的な展望が必要だ。目の前にある課題をクリアしていくことももちろん大事だが、それと同時に長期的な展望に基づく計算とアイデアが必須である。

自信はあっても、まだ成し遂げていないからには、実感がないのは当たり前である。実感がないので本当にできるのかどうか不安だが、それは全く問題ない。実感などは達成した後に感じればいい。

実感はないが、自信はある。そんな気持ちで前に進もうとする毎日である。

神戸から世界の舞台へ!フィギュアスケート・坂本花織さん。

24日夜、フィギュアスケート・五輪代表が発表された。全日本選手権の結果が重要視される選考であったが、女子代表は宮原知子選手に次ぐ二人目の枠に、2位の坂本花織選手と4位樋口新葉選手のどちらが選ばれるか、発表があるまで全くわからないという状況だった。結果を出した坂本選手か、実績の樋口選手か、固唾をのんで発表を聞いていたが、坂本花織選手が選ばれることになった。

坂本花織選手と、有力視されながら今回の結果が振るわなかった三原舞依選手は、二人とも神戸の同じリンクを拠点とするライバルだ。三原選手が選ばれなかったのは残念だが、坂本選手が選ばれたことは、同じ神戸市民としては非常にうれしい。

はっきり言って、今回の選考までは、三原選手の方に期待しており、坂本選手は神戸二番手という意識だった。もちろんどちらが選ばれても非常にうれしいのだが、三原選手ではなく坂本選手が出てきたことは、非常に失礼な言い方だが意外であった。

坂本選手が選ばれた現在は、坂本選手を思いっきり応援しようと思う。神戸から世界へ!坂本選手には思いっきり暴れまわってほしい。

とは言え、坂本選手の活躍を全く他人事だとは僕は思っていない。坂本選手が世界で暴れるのなら、もちろん僕も負けずに自分の専攻分野で暴れるつもりである。

神戸から世界の舞台へ!

考える行為、悩む行為を飛ばしていいのか?

現代はネットの発達によって“即答”社会になっているのではないだろうか?疑問や問題があればネットで検索し、すぐに答えが出てくる。答えを出すこと自体が目的ならば問題ないが、そこには考える行為、悩む行為が飛んでしまっている。それが一回や二回ならいいが、人生の中で何年もそのようなことを繰り返していれば、かなり大きな弊害が出てくるような気がしてならない。

確かにネット検索は便利だが、答えを即答しても大概の場合は何も生まれない。多くの場合、考える行為、悩む行為から新しいことが生まれてくる。考える行為、悩む行為は創造の源なのである。

世の中のブラックボックス化によって、益々考える行為の省略化が進んできている。もちろん些細な調べものをネットで検索して調べるのは非常に便利で時間の短縮化にもつながるが、じっくりと時間をかけて思考する行為も、物事、そして人生を創造していくうえでは絶対に欠かせない。

周りをブラックボックス化していけば、いずれは自分の人生そのものをブラックボックス化してしまうことになりかねない。そうなれば、自分の人生を制御しているようで、自分の人生を制御しきれない状況になってくる。

ネット検索は使いようによっては非常に便利で、それを使いこなすことは有益ではあるが、自分の人生を実り豊かに創造していくためにも、考える行為、悩む行為を大切にし、そのような行為を通じて人生を創造していかなければならない。

なぜ数学を勉強するのか?

「なぜ数学を勉強するのか?」これは多くの人、特に数学が嫌いな人にとって何度も考えたことのある疑問であろう。この問いに対して多くの人が答えているが、この問いの答えを明確に答えた人を僕は聞いたことがない。何とか苦し紛れに答えたり、一側面だけを答えたり、万人が納得する答えをほとんどの人は持ち合わせていない。僕自身はこれまで数学に関わってきた人間として明確な答えを持っているので、万人が納得する答えではないかもしれないが、そのことについて述べようと思う。

数学とはその名の通り「数の学問」である。なので、数の計算、数の扱いを考える学問だと思っている人は多いが、実際はもっと深い考察のいる学問である。その深い考察とは、「数の世界の奥に潜む構造・体系」である。まずその一例を取り上げよう。

小学校で掛け算を学んだ人は、2×3と3×2は同じ答えになることはすぐに分かるであろう。すなわち2と3を入れ替えても答えは変わらない。小学校で習う掛け算のこのような性質を、専門用語で「可換」という。可換とはその名の通り「交換可能」という意味である。すなわち掛ける順序を変えてもよいというわけである。

そして小学校で習う掛け算が「可換」であるように、進んだ数学では「非可換」、つまり順序を変えてはいけない掛け算がある。すなわち、小学校で習う掛け算の奥には、可換という非常に重要な構造が潜んでいるのである。

ここで「なぜ数学を勉強するのか?」という問いに戻るが、その一番の理由は「本質を見抜く力をつける」ということである。数学の法則、規則の裏側にある本質を見抜くことによって、本質を見抜く目を養うのである。

もし数学以外の学問、いや学問以外でもよいが、それによって本質を見抜く目を付けることができるのならば、別に数学でなくてもよいのである。国語や社会、ビジネスなどで本質を見抜く目を付けることができれば、それは非常に価値のあることである。

しかしなぜ数学なのか?それは数学が本質を見抜く力を付けるのに一番適した題材であるからである。数学は本質の塊であると言える。数学の構造は本質を見抜くのに一番適している。数学で身に付けた本質を見抜く目は、他のあらゆる分野に適用できる。数学はある意味万能なのである。

これらの事は、小学校・中学校の教師でさえもなかなか認識していない。いや、高校の教師でも認識していない人は多いであろう。

結論を言うと、数学にはあらゆる本質が詰まっていて非常に実り豊かな学問である。そういう意味では数学は勉強をするに値する学問だ。しかし他の学問で本質を見抜く力を付けることができるのならばそれはそれでよい。自分が価値を見出した学問に打ち込むことが一番大事なのである。

新幹線に関する二つの話題。

現代日本において新幹線の存在は象徴的であり、常に何らかの話題を提供してくれる。そこで今日は新幹線に関する二つの話題を取り上げようと思う。

一つ目は、来年3月17日のダイヤ改正で、 東京~博多間、東京~広島間の「のぞみ」計5本の所要時間が3分短くなるという話題だ。この3分間をどう見るか?数字だけを見ると微々たる短縮にしか見えない。たしか「のぞみ」がデビューした時は、速度向上により20分ほどの短縮を行ったはずだ。

では昔の20分と今回の3分は何が違うのか?それは「技術とシステムの成熟」に尽きるだろう。成熟した技術下では、それなりの技術の向上があっても表面的にはそれほどの差は表れない。今回の3分は技術の成熟を示すものである。

ではこれから大きく数値を変えるためにはどうすれば良いか?それは成熟ではなく「飛躍」することである。リニア技術はその典型であろう。これまでの新幹線技術の熟成とリニア技術の飛躍は、多くの事柄に対するモデルになりうる。新幹線モデルは一つの成功モデルである。

二つ目は、最近ニュースになっている悪い話題だ。12月11日に発生した新幹線の台車に亀裂が入った事故。このニュースは新幹線の安全神話に浮かれている日本人にとっては衝撃である。

この事故で衝撃的だったのは、台車に亀裂が入ったという事実以上に、トラブルが発生した後も通常どおり事故車を走らせていたことだ。そしてこのような事実は日本だから起こったとも言える。

日本の鉄道は、非常に精密な運行をすることで世界的に知られている。そしてそれは運行をコントロールする側としても大きなプレッシャーであるに違いない。遅延などした場合には、世間・乗客から猛烈な非難を受けることは間違いない。このような日本特有の社会状況もあり、不備を認め運行停止にするという判断が下せなかったのであろう。目の前の小さなリスクばかりに目が行き、その先にある大きなリスクに目が行かなかったと言える。

この様な状況を変えるには、鉄道会社の意識だけでなく国民全体の意識を変えることが必要だ。安全性を高めるためには、運行の正確さを犠牲にせざるを得ないこともある。このような判断を国民、そして利用者が寛容に受け入れられるか?時間に厳しい日本人にとっては簡単なことではないと思うが。

阪神大震災の時には、新幹線の線路が崩れ落ちたところもあった。しかし幸いなことに時刻的に一番列車が走る前であった。このことは安全性によるものでなく「運」でしかない。しかしこのような幸運から新幹線の安全神話は継続されることになった。

今回の新幹線台車亀裂事故が明らかにしたのは「日本人の鉄道に対する意識のガラパゴス化」ではないだろうか?やはり意識というものは極端に一方を追求するのではなく、ある程度の余裕と寛容さが必要なのではないだろうか。

学校は何のためにあるのか?

学校の一番の役割は、勉強を教えることだと言う人は多いかもしれない。ではなぜ勉強を教えるのだろうか?それは自分で人生を切り開いていける力を身に付け、より豊かで実りある人生にするためである。だから、人生を切り開くきっかけになるのならば、べつに勉強でなくてもよい。

しかし、受験を一番の目的とした学校も少なくない。受験に受かって希望の学校に入ることはもちろん人生を切り開く重要な一手段であるが、青春時代を謳歌することも実りある人生を創るには非常に重要である。

受験などの目の前にある目的を達成することは非常に重要だが、そのような近視眼的な見方と同時に、人生数十年を見通した大局的な目を持つことも必要である。

現在、人生の目的は多様化しつつある。偏差値の高い学校、大会社に入ることだけが良い生き方だという前時代的な価値観は薄れつつある。人間はそれぞれ個性があるのだから、それは当たり前の事である。

「勉強を教える学校」から「人生を創る学校」へと、大きくシフトすべき時ではないだろうか?

巨大地震の発生確率とは?

12月19日、地震の予測に関するニュースが出た。北海道沖でM8.8以上の巨大地震が30年以内に起こる確率が7~40%だという。この数字は極めて高い数字だ。

ところでこの地震に関することはともかく、この発生確率についていつも頭を傾げることがある。今回の予測も7~40%と出ているが、確率に幅があるのは一体どういうことであろうか?この何%~何%という表現の仕方は、本来の確率の体を成していない。確率ならば何%と一つの数字で表現してもらいたいものである。

発生“確率”と出ているが、おそらくこの数字は“危険度”という意味合いが高いのであろう。この危険度を確率と銘打っているのは、予知組織の自己防衛あるいは自信のなさ・保険であると考えられる。実際に発生してもしなくても、確率ならばどうにでも解釈できる。0.1%でも、一応起こる可能性はわずかにあるのだから、実際に起こっても予測は間違いとは言えない。0%と100%だけは設定しなければよいだけの話である。

確率に幅を持たせることは、一般市民が予知の解釈をするにあたっては非常に分かりにくい。確率ならば確率で一つの数字で打ち出してもらいたいものである。

外相専用機は高いか?安いか?

12月18日、河野太郎外相は、外相専用機の導入を訴えたという。総理に政府専用機があるのは当然だが、外相専用機の導入はどうだろうか?

僕は外相専用機の導入には賛成だ。“外務”大臣という職がら、海外を飛び回るのは職務であろうし、外交トップに対する行動の自由度は国民の大きな利益にもつながる。海外での一回の会食に国の行方が決まる可能性もある中、外相専用機は大きな力になるのではないだろうか。

今回話に出ているガルフストリーム社のビジネスジェットは航続距離が長く、アメリカ東海岸、つまりワシントン、ニューヨークにも給油なしで行けるという。

河野太郎外相は中古でもよいと言っている。その点は導入コストもしっかりと検討されているみたいで、河野外相の発言には好感が持てる。今回の外相専用機の候補に挙がっているビジネスジェットは約80億円だそうだが、外相が世界を飛び回り職をこなし、この80億円を一気に回収してくれることを望む次第である。

睡眠を制するためには?

睡眠というものは制するためにあるのか?受け入れるものなのか?僕自身もよくわからないけど、おそらく両方とも間違っていないような気がする。人間は絶対に寝なければ生きていけないので睡眠は受け入れなければいけないものであるが、その一方、自分で制御できないと上手く日常生活を送ることはできない。

「寝ている時間は死んでいるのと同じだ」と言う人は非常に多いが、睡眠は起きている時間の準備時間であり、活動的な生活を送るためにも睡眠は欠かせない。

僕自身、睡眠がなかなかコントロールできなくて常に悩んでおり、「睡眠の制御」は僕の人生の一大テーマと言っても過言ではない。「睡眠を制する者は、人生を制す」と言ってもよいのではないかとも思っている。

ナポレオンは3時間しか睡眠を取らなかったと聞くし、フランスの現在の若きリーダー・マクロン大統領も3時間睡眠であるとこの前テレビで耳にした。一方、相対性理論を生み出した物理学者・アインシュタインは10時間寝ていたという。つまり、睡眠時間は何時間が良いということは決まっておらず、人それぞれに適切な時間があるのだろう。

僕には今、大きな目標がある。それも複数ある。人生のマルチタスクとも言うべきかもしれないが、適切な優先順位を付けて柔軟にこなしていくべきだと思っている。しかしそれを達成するためには、睡眠を制することは大前提になると考えている。本当に悩ましい問題であるが、目標を達成するためにも睡眠の問題を何とか解決しようと日々試行錯誤している。

外見は内面を映す鏡である。

「内面が良ければ外見はどうでもよい」という意見をよく聞く。確かにそうである。外見だけを張りぼてのように飾って内面が全然出来ていない人より、外見が疎かでも内面が素晴らしい人の方が圧倒的に良い。とは言え、内面は意外と外見にも表れてくるものだ。

外見と言っても、服装がお洒落だとかそういう話ではない。もちろんお洒落ならばそれはそれで良いことだが。服装の着方から、はたまた顔の表情、姿勢、振る舞い方など、外面のあらゆるところに内面が表れるものである。内面が変われば外見も変わる。あるいは人間としての地位なども外見に大きく関わってくる。

内面を変えることによって外見を変えるのは素晴らしいことだが、外見から入るというのも一つの手である。着ている服装、持ち物、あるいは姿勢、顔の表情を変えることを意識することによって、内面を変えるというものである。

外見を侮るなかれ。外見は意外と内面をさらけ出している。「内面は超一流、外見は1.5流」というのが理想かもしれないが、内面を磨き、外面を整えるという意識を持つことが非常に重要である。

前に進むなら、100%の安全はありえない。

現代社会は、安全社会・保障社会であると言える。何事に対しても100%の安全を求め、もし上手くいかない場合は保障を強く求められる。確かに交通安全だとか治安に関しては限りない安全を求めるのは当然であろう。

現在、自動車の世界では自動運転の開発が活発に進められている。そこで一番問題になるのは、自動運転の試験運転時の安全だ。まだ開発段階であるので、試験運転時に事故が起こることは容易に想定される。もし事故が全く起きなければ、すでに実用化されているはずだ。試験運転時の事故は想定内であると言える。

そして自動運転の実用化に成功した後でも、もちろん事故は起こりえるだろう。問題はどの程度の事故率を容認するかだ。簡単な目安として、現在の(自動運転ではない)交通事故の事故率よりも自動運転の事故率が下回れば大成功であろう。しかしそんなに簡単にいかないことは容易に想像できる。

いずれは自動運転の事故率はかなり低下するであろう。しかしそれまでの過程を耐えられるかどうかだ。試験運転での一回の事故によって開発が停滞するようでは、長期的に見れば安全面においても市民の損失になる。しかし日本の社会的国民性を考えれば、そのようなことが起こりえるような気がするところが恐ろしい。

自動運転に限らず、何かに挑戦して前に進もうとするときには、100%の安全などありえない。挑戦者がどこまでの危険性に耐えられるか。そして周りの社会がそれをどこまで容認できるか。それには日本社会が特に欠けている大雑把さと寛容さが求められるところである。

しかし社会的風土というものはそんなに簡単に変えられない。やはり挑戦者は忍耐強く我慢するしかないというところであろうか。とにかく前を見て突き進んで行くしかない。

数字だけを見て判断するのは危険だ!

IT社会になりビッグデータが幅を利かす時代になったこともあり、数字だけで判断をする傾向は顕著になっている。ITを駆使すると、ビッグデータをもとに統計を取ることは非常に容易になり、また世界のどこにいても簡単にデータを取得・管理することが可能になった。

しかしそんな時代だからこそ、実物・現実を自分の目で見て判断することは重要であるのではないかと感じる。

数字・データだけで判断するのは容易であり、ある意味正確と言えるのかもしれない。数値で量的判断をするのは、今の時代コンピューターが自動的にしてくれる。そこで生身の人間に求められているのは質的判断だ。

数字はあくまでも統計などの結果であって、実態は現実社会で起きている。そしてそれを見て、感じて、人間は生きている。数字だけで動くのなら、現実社会はいらない。

数字だけですべてを判断することは非常に危険だ。数字によってむしろ実態が覆い隠されることもある。データ社会である今だからこそ、生身の現実に目を向けるべきではないかと感じる。

人間の命が有限であることに救われる。

北朝鮮の金王朝(金日成・金正日・金正恩)は、不老不死を望み、北朝鮮では不老不死の研究がされていると聞いたことがある。しかし不老不死とはいかず、金日成・金正日はこの世を去り、金正恩は暴君として振る舞っている。

ところで、不老不死は本当に理想なのだろうか?希望なのだろうか?僕はそうは全く思わない。人間は命が有限であることに救われていると感じている。

手塚治虫の著書に「火の鳥」という漫画がある。火の鳥の血を飲めば永遠の命が得られるとされ、人々は火の鳥を求め続ける。その中で永遠の命を得た人間が出てくる。そこで描かれているのは、永遠の命を得た人間の気の遠くなるような地獄である。正確に言うと「永遠に生きられる」ではなく「死ぬことができない」と言った方が正しい。死ぬことができないとははっきり言って地獄である。

人間は死ぬことによってリセットできる。もちろんリセットと言っても、死んだ後はもう何もないのだが。良かったこと、うれしかったこと、苦しかったことも死ぬことによって全てが無になるのである。このことを悔しがる人も多いとは思うが、僕はこれは人間の救いだと思っている。

こんなことを言っても、宗教とかそんなことに関連付けようとは毛頭思っていない。ただ、死ぬことをネガティブなことではなくてポジティブにとらえることも大事ではないかと思っているのである。

もちろん、不幸な死を遂げる人もいることは事実だ。そのような死まで救いだとは言うつもりはない。ただ、永遠の命などというものは追求すべきことではない、命は有限であるからこそ価値があるのだと言いたいのである。

有限の命だからこそ、命を大切にしたい。

大谷翔平の二刀流に、夢を期待する。

プロ野球・大谷翔平選手が、大リーグ・エンゼルスに入団することが決まった。若きスラッガー、若きエースの活躍に期待が膨らむ。

大谷選手がどう思い、どう感じ、大リーグ30球団の中からエンゼルスを選んだのか知る由はないが、大谷選手が判断して選んだのだから、エンゼルスが大谷翔平選手の活躍に一番適した球団だったのであろう。

大谷翔平と言えば“二刀流”。もちろん投手としても打者としても誰もが認める超一流であるが、僕を含めたファンが望むのは、投手として、打者としてではなく、二刀流としての大谷翔平であろう。もちろん球団にとってはシビアな判断なので、「投手に専念せよ」とか「打者に専念せよ」という声が聞こえるのだが、これらの声を聞いてもすごいところは、「投手」「打者」の双方で大きく評価されていることだ。

エンゼルスは、大谷翔平の二刀流を全面的に支援すると明言しているし、大谷本人は「最高なのはどちら(初ホームラン、初勝利)も一緒の試合でできることだと思います」と述べていることから、同一試合での投手・打者の二刀流も見られるかもしれない。

大谷翔平が“二刀流”とし世界No.1の選手になるのを、期待するのを堪えられないし、野茂やイチローとはまた違うパイオニアとして、これまでの常識を覆してほしい。

根拠になっていない根拠。

何かを、あるいは誰かを否定するときに用いられる根拠の中には、根拠になっていないものが意外と多い。例えば「前例がない」とか「年齢的に無理」というものだ。確かに場合によってはこれらはしっかりとした根拠になっている。スポーツならば医学的・生物学的に考えて年齢は大きな要素になりえるし、前例が大きな根拠になることもある。

「根拠にならない根拠」を覆すことは、非常にエキサイティングである。スポーツならば、イチローがそれを覆そうとしている。科学・学問の分野でもそのような根拠を根底から覆そうと日々励んでいる研究者がいる。

根拠にならない根拠が根拠になっていないことは、見る人が見ればすぐに見抜くことができるが、意外と世間や社会ではそのような根拠にならない根拠が幅を利かしていることに、落胆してしまうものである。

覚悟を決めて、迷いなし。

悩んでいる時というのは、大概覚悟が決められていない時である。そのような時、強い覚悟を決めるとつまらない悩みなどは吹っ飛んでしまう。そして人間関係で悩んでいる時は「来るものを拒まず、去る者を追わず」という気持ちを固めれば、これまた悩みが消える。こう言うと非常に簡単なことだが、これがなかなか決められないものである。

未練があったり、欲が出たり。中途半端が一番ダメである。「百かゼロか。」そのような強い決断力が何事にも必要である。

命に関する覚悟、人間に対する覚悟、あるいは今取り組んでいることに対する覚悟。何事にも強い覚悟を持って生きていきたい。人付き合いに対しても、相手が男であろうが女であろうが全力投球!

人生は有限である。そんな有限の人生を悔いのないように生きていくために、強い覚悟を持って生きていきたい。

ネット・ITより、リアルな体験に価値がある。

現代のネット万能社会において、ネット・IT崇拝はビジネスにおいても私生活においても非常に顕著になりつつある。昔は数千円出して買っていたビデオだったが、現在では無料で限りなく動画を見れるし、情報も限りなく手に入る。そのようなことは確かに便利だが、それは本当に望むべき姿なのだろうか?

現在の30代以上の人間は、アナログとデジタルの双方を体験してきた。だからこそ、その双方の良い面・不便な面を比較することができる。しかし20代よりも若い‘‘ネットネイティブ”と言われる若者たちは、生まれた時からネット社会にどっぷりと浸かり、デジタルな世界が当たり前だと感じているのかもしれない。

‘‘ネット・ITネイティブ”と言うとITを使いこなせる優秀なイメージがあるかもしれないが、その一方、現在の技術の中身・仕組みを知っている人はほとんどいないと思われ、ブラックボックスの入り口と出口だけを見て利用しているだけだとも言える。便利に利用できればブラックボックスでもなんでもいいと思うかもしれないが、周りの全てをブラックボックス化することは非常に危険だ。

このようなネット・ITへのアンチテーゼからか、アナログ世界への回帰があらゆる所で起こっている。例えば腕時計がそうである。最近の腕時計の最新技術はスマートウォッチであろう。スマートウォッチは時計という枠組みを超えて、メールから電話まであらゆることができる。このようなスマートウォッチが人気を集める一方、昔ながらの機械式時計も現在ブームである。100万円を超える機械式腕時計が人気を集めているという。このような機械式時計に魅力を感じるのも、現在のネット・IT社会へのアンチテーゼと見られるし、実際時計だけに限らず古典的な物・古典的なリアル体験が非常に注目を浴びている。

ネット・ITは総体的には莫大な価値があるが、単体で見るとそれらの価値は下がっているのではないかと感じる。その一方、アナログ的な物・体験は現在見直されてきており、これからはアナログ的な価値への追求がより盛んになるのではないかと感じられる。

“人生設計”から外れるほど面白い。

子供の頃、若い頃、あるいは現在も、将来を想像して人生設計を立てる人は多いかもしれない。しかし現実は、一部の人を省いてほとんどの人は人生設計通りにいかないと嘆いている。

しかし、人生設計通りにいかないことを悲観する必要は何もない。人生設計通りにいかない時は、目標を修正あるいは変更すればいい。そして人生設計通りにいかないからこそ、予想外の出会いがあり、予想外の人生展開が繰り広げられる。

もし何もかもが人生設計通りにいく人生があったらどうだろう。そんな人生に魅力を感じるだろうか?設計通りに進む人生などは、機械とまるで変わらない。設計通りに行くのは機械だけでいい。

人生設計から外れて予想外のハプニングが起きることが人生の醍醐味でもあり、エキサイティングさを演出させる。確かに人生設計から外れることは、多くの場合苦境に立たされることになる。しかし、苦境に立たされた人間はかなり強い。苦境に立たされるからこそ打開策を模索し、思い切った行動に出る。それによって大きな飛躍がもたらさられる。

僕自身、人生設計通りにいったことなどほとんどないと言っていい。それが故に非常に苦しい立場に立たされてきたことは事実だ。しかしそのような展開になったことを悔やんだりしたことはほとんどない。むしろそれがきっかけで新しい展望が広げられたことに夢が広がり、刺激を感じる。

党首討論。

報道番組で、「今年は一回も党首討論が行われなかった」というニュースを見た。この背景にはもちろん森友・加計問題の影響があるのだろうが、与党党首である安倍首相が疑惑に対して逃げの姿勢をとるのは、国家元首として恥ずべきことだ。

もし森友・加計問題がクロだと認識しているのならば、首相のとるべき道は逃げではなく、「クロをシロである」と論破することではないだろうか。確かにこのような論破は道義的に問題はあるだろうが、しかしこのような論破ができる言論力は国家元首として必要な能力である。

国会は「国権の最高機関であり、唯一の立法機関である」と定められているが、それと同時に「言論機関である」ということは一般的な認識として認知されている。国会は「最高の言論機関である」と言える。したがって、国会で論破するのも大いにありなのである。

選挙時のポスターでは、候補者は「弁士」と名乗っている。弁士ならば弁士らしく言論で戦ってほしいものである。

複数の目標を持ち、畳み掛ける。

目標は一つではなく、複数持つことが望ましい。目標が一つだけだと、不測の事態が起こり立ち消えになった時に行き場を失うので、そのような時にすぐに次の目標に取り掛かれるように複数の目標を持つことが重要だ。

目標を定める時、どのような基準で目標を見つけるか?その重要な基準として、自分の思考・行動・努力によって、ある程度自分で制御できるものを選ぶことが必要だ。自分で全く制御できないことだと、それは単なる運任せでしかない。もちろん何かに取り組むにあたって運は重要な要素だが、初めから運を当てにするのは愚かな判断である。

何かの目標に向かい、それがだめなら次の目標へ、あるいは今の目標を達成したから次の目標へと畳み掛けていくことを心がけたいものである。

実力と可能性。羽生永世7冠と藤井聡太四段。

12月5日、将棋の羽生善治氏が竜王位の奪取に成功し、永世7冠の称号を得ることになった。羽生氏は実力・実績共に誰もが認める史上最高の棋士であり、今回竜王位に返り咲いたことでさらに実績を積み上げていく予感を感じさせる。

羽生善治氏の永世7冠と共に、今年の将棋界での大きな話題は藤井聡太四段の快進撃であろう。藤井聡太氏の29連勝は非常に大きな実績であることは間違いないが、現段階ではもちろん何のタイトルも取っていないし、実績もまだほとんど出ていない。

羽生善治氏と藤井聡太氏をそれぞれ一言で表すのならば、“実績の羽生”、“可能性の藤井”ということではないだろうか。羽生氏の実績はこれから100年間破られることはないかもしれないが、藤井氏が将来それを破る可能性ももちろん大きい。

“これからの人間”である藤井聡太氏がこれからどれだけ大きな実績を積み上げるか、非常に楽しみであるが、羽生善治氏の大きすぎる実績には感服させられるのみである。

非公式戦では藤井氏は羽生氏を破ったが、公式戦での羽生対藤井の勝負が今から非常に楽しみである。その勝負が竜王戦7番勝負のタイトル戦になるかどうか、羽生氏がその座に就いた今、後は藤井氏の類まれな才能によってその舞台に上がってくるのを待つのみである。

対応原理。

対応原理と言えば、物理では量子論と古典論の対応が思い浮かぶが、この対応原理はビジネスから私生活まであらゆることに言えるのではないかと感じる。なぜあらゆることに対応原理が適応できるのか?それはそれぞれの物事の構造に類似があるからだと思われる。

この構造の類似による対応から、ある一つの分野を極めた人間がその他の多くの分野でも技術を発揮するということが起こる。例えば一つのビジネス分野を極めた人間は、その他の分野でも才覚を表す。

いま取り組んでいることが自分のやりたいことと関係なくても、できるだけ現在取り組んでいることに注意深く取り組むことは重要である。何の関係もないと思っていても、それが本当にやりたいことに応用できることがよくある。他の物事を、本当にやりたいことに結び付けることは、非常に重要である。

物事に取り組むとき、この対応原理を認識することは、あらゆることへの柔軟性と機能性を発揮することにつながる。

三分野の異分野融合。

最近は何かと学際分野が注目を浴びている。一つの分野で突き詰めていくのも手ではあるが、やはり一分野だけで勝負するのは非常に熾烈な争いであり、その他の策として二つの分野の学際分野において分野を融合するのは突破口として非常に有用な手である。

しかし学際分野という言葉が市民権を得た今、二分野融合も一般的になりつつある。そんな時、さらに視点を広げ“三分野融合”という超学際分野で勝負するのは、これからの解決策として大きな力になるのではないだろうか。

三分野まで広げれば、ライバルもかなり少なくなる。そして異分野を融合することによって新たな分野創始に繋がる。数学だと、代数幾何・幾何解析・代数解析など二つの分野を名乗る分野が市民権を得ているが、これからは代数・幾何・解析の三分野にまたがる研究も活発になるかもしれない。数理生物学という分野もあるが、生物学の数理的な考究に物理学的視点を持ち込むという手法もあるのかもしれない。

まだ現在は三分野まで広げてみようという機運ではないが、21世紀後半くらいになれば、三分野融合はあらゆる分野で打開の解決策として大きな市民権を得ているかもしれない。

「良い物を安く」は本当に正しいのか?

もちろん誰だって良い物を安く欲しいものである。良い物を安く提供するとは、日本の美徳のようなものかもしれない。しかしそのことに対する過度な追求は、間違った方向へ進むように感じる。

この様な安さへの過度な追求は、20世紀終わりから21世紀初めへの「失われた20年」につながっていく。市民への優しさを追及した結果、国民全体を考えるとそれが厳しさへと変わっていったのである。

当たり前の事だが、市民が安くで買えば、生産者はその分苦しくなるのである。

やはり、良い物を手に入れた時は、提供者に対してそれに値する対価をしっかりと支払うということは非常に重要なことである。しかし、そのような余裕がないこともあるであろう。その時はせめて提供者に対して感謝の気持ちを持ち、それを伝えるようにしよう。

リスクを取ることが、飛躍への第一歩だ!

ビジネスで大きな成功を収めるためには、リスクを取ることが必要だ。しかしリスクを取る重要性は、ビジネスの世界だけのものではない。学問でも恋愛でもリスクを取ることは非常に重要である。

しかし、何もしないでリスクだけを取るのは無謀である。リスクは努力することによって最小化しなければいけない。例えば、受験ならばレベルの高いところを狙えばリスクは高まるが、努力することによってリスクを最小化できる。恋愛ならば頑張って仕事をすることによってスタイリッシュな洋服を買うことができるし、あるいは努力して内面を魅力的にできるかもしれない。

リスクを取らずに無難に生きるか、リスクを取って飛躍を遂げるのか、それは人間としての思想に大きく関わってくるが、リスクを取らない人間にリスクを取って挑戦する人間を責める資格はない。