月別アーカイブ: 11月 2017

「非常識=悪」ではない。

山尾志桜里衆議院議員が、スキャンダルの相手を政策顧問に置いたという報道に対して非常識だという声がある。確かに非常識と言えば非常識だ。普通の人がしないという意味で非常識だ。

しかし「非常識=悪」とは僕は考えていない。

僕はこれまで山尾議員を擁護するようなブログ記事を2度ほど書いたと思う。ではなぜ山尾議員を擁護するのかというと、理由は簡単で、「批判するようなことではない」からだ。

スキャンダルでも、金銭的スキャンダルとなると話は全く違う。金銭的スキャンダルを起こす議員に対しては、議員としてのモラルの欠如が問われるところである。もちろん、政治活動にはお金は付きものであるし、資金を集めることは議員としての宿命であるとも言える。だから、議員がお金を集めること自体はグレーであっても必ずしも悪とは言えない。しかし某議員のように、私腹を肥やすための不正なお金集めをする者は、はっきり言って議員の資格はない。

山尾議員の場合、単なる個人的色恋沙汰に過ぎない。多くの人は良い印象を持たないかもしれないが、政治家としての人間性とははっきり言って関係ない。

今回山尾議員は、そのスキャンダルの相手を政策顧問に置いた。確かにどういう意図なのか理解できないところはある。しかし山尾議員がこの弁護士の手腕を高く評価し、政策顧問として置くことを強行したのならば、僕はこの腹の座った山尾議員の決断を称賛したい。もちろん、個人的な好みで置いたのならば論外であるが。

審美的純文学の重要性。

最近アメリカでは審美的な国文学、つまり英純文学よりも、社会的・人権的主張を訴える文学が人気があり、重要視されているという記事を見た。アメリカでの文学を取り巻く状況がどうなのか、僕には判断はできないが、最近の世界的潮流を見ると、社会的な文学が幅を利かせており、審美的純文学が軽視されているように思える。

社会的文学は人間の生活にもつながるところがあり、ある意味非常に有用であるように思えるが、純文学は国家・国民のアイデンティティーを表現するものとも思え、これもまた非常に重要なものである。

日本で言えば、審美的純文学の代表は川端康成であろう。その一方で、社会的文学の代表例は大江健三郎と言えるかもしれない。どちらもノーベル文学賞を受賞されているが、作風は対照的といえる。

この文学に関する話は、科学についても言えるかもしれない。審美的純文学にあたるのが純粋基礎科学、社会的文学にあたるのが応用・実用科学。実用科学は役に立つのでその重要性はわかりやすいが、純粋基礎科学の科学的価値をどれだけ理解できるか、それは国民の成熟度につながるところである。

純文学と純粋基礎科学の価値を理解できる人間を少しでも多くすることは、今世界的な課題なのかもしれない。

リスクとチャンスの大きさを比較して、行動する。

僕自身、人生において非常に大きなリスクを取って行動していると自分では感じている。なぜこのような大きなリスクを取るのか?それは成功した時の大きさもとてつもなく大きなものになると考えているからだ。もちろん、成功する自信があるからだとも言える。

しかし、普段の日常において、非常にちっぽけなリスクを恐れている自分もいる。リスクしか見えなくなる時があるのだ。しかし、リスクばかりにこだわっていれば、物事は何も進まない。

何事においても、ノーリスクということはありえない。大なり小なりリスクは付き物だ。大事なのはリスクに対して成功の大きさ、メリットがそれを上回るかどうか、チャンスが大きいかどうかである。リスクとチャンスはセットで考えなければならない。リスクとチャンスの大きさを比較するためには、意識的にそのような思考をするように向けなければならない。

時には夢を現実化させるために大きなリスクを取ることもあるが、そんなリスク度外視の行動をとることも人生の醍醐味でもある。

モチベーションを上げるために。

本業でのモチベーションを上げることは、非常に大事である。モチベーションを上げるきっかけが、百貨店で服や時計を見ることであったり、お酒を飲むことであったり、人それぞれであろう。

百貨店で服や時計を見て、「絶対に成功して、こんな服や時計を買うぞ!」と気分が上がるのなら、それは素晴らしいことだと思う。

もちろん、物を買うことが目的で本業に打ち込んでいる訳ではないが、「自分にとって何がモチベーションを上げるきっかけになるか?」ということは把握する必要がある。

もともと気分が乗りやすい僕であるが、何とかモチベーションを上げ、それを持続しようと試行錯誤し、実行に移す今日この頃である。

憧れの人物は、・・・いない。

子供の頃の憧れの人物というのは重要である。憧れの人物がいるからこそその道に進もうと思い、憧れの人物に一歩でも近付こうとまい進していける。僕自身も小学生の頃は、長岡半太郎やアインシュタインといった物理学者に憧れていた。

しかし本格的にその道に取り組む大人には、僕は憧れの人物などはいらないと思っている。もちろんどのレベルを目指しているかによるが、最高を目指す人に憧れはいらない。

普通の結果をコンスタントに出していくか、大きなものを一発狙うか。もちろんコンスタントに結果を出せない者が大きな結果を出すことは非常に難しいと思うが、人それぞれスタイルがある。アインシュタインは重要な結果を非常にたくさん発表している。

偉大な先人のようになることはできないかもしれないが、それは必ずしも偉大な先人を越せないという意味ではない。方向性が違えば、同じような人物になるはずがないからだ。またそこが面白いところでもある。

誰になるのでもない。自分という一人の人間になることが重要なのである。

人生を費用対効果で測る愚かさ。

べつに費用対効果で物事を考えることを否定しようとは全く思わない。ビジネスにおいては費用対効果は最も重要な要素になるし、日常において物事に取り組むにしても、費用対効果という視点で物事を判断することは非常に有用だ。

しかし人生となると話は別だ。当たり前の話だが、人生はビジネスではない。もちろん人生においてお金は非常に重要だが、お金では体験できない経験、そして感情、健康、生きがいなど、お金ではどうにもならないことはたくさんある。逆に言えば、人生においてもお金で解決できることもたくさんあるのだが。

日常を本当に楽しむことができているか?日常は充実しているか?やりがいを感じているか?人生において打ち込むべきことは見つかっているか?

それらの前提があってから、初めて費用対効果という視点に移るべきではないか。全てにおいて最初から費用対効果で考えるのは明らかに間違っている。

大事なのは、費用対効果で測るべきことと、そのようなことでは測れないことを、しっかりと区別し判断することではないだろうか。

首相動静を楽しむ。

多くの新聞の片隅には、首相動静というものが載っている。首相の一日の行動を事細かに書き表したものだ。

11月3日の安倍総理の首相動静には、トランプ大統領の長女・イバンカさんとの会食の日時が分刻みで記述してある(時事通信の時事ドットコムで確認)。イバンカさんとの会食は、旅館「星のや東京」で行われたと記述されている。何気ないことだが、旅館の名前を聞くだけで会食の様子が想像される。

昔、麻生氏が総理をされている頃、帝国ホテルのバーに通っていたことは有名だ。もちろんその事も、当時の首相動静に書かれていたはずだ。そのような行動からも、麻生氏の趣味なり人となりがうかがえる。

11月5日、トランプ大統領が来日する。安倍首相とトランプ大統領は、鉄板焼きの店で和牛ステーキと海鮮料理を食事するという報道があった。トランプ大統領が肉好きということを受けての事だそうだ。その鉄板焼き屋さんの店名はまだ出ていないが、少し気になるところだ。

以前、オバマ大統領が来日した時は、銀座の寿司屋「すきやばし次郎」で会食をしたことは有名だ。

この様な首相の日常を知るだけでも、日本を背負う公人の考えが伝わってきて意外と面白い。

考古学と最先端科学技術。

エジプト・クフ王のピラミッドの内部に巨大空間が見つかったという(読売オンライン)。この空間は名古屋大学をはじめとする国際研究チームが解明したというが、その解決手法は、宇宙から飛来するミュー粒子を使ってピラミッドの中身を透視するというものであった。

ミュー粒子とは素粒子論でもおなじみで、スピンが2分の1の粒子なのでディラック方程式で記述できるはずだが、一昔前まではミュー粒子を扱うような素粒子論などの純粋科学が何かに役に立つとは、ほとんどの研究者は考えなかったであろう。まさに「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを実証した形だ。

普通の人からすれば変な話かもしれないが、純粋科学に取り組んでいる人の中には、役に立たないことを誇りに思っている人々がいる。しかもその数は少なくない。しかし役に立たないという言葉の裏返しは「科学的価値がある」ということである。実はこれらの人々は科学的価値があることを誇りに思っているのだ。

クフ王のピラミッドの話に戻るが、素粒子論が考古学に利用されるとは、時代も進歩したものである。この先、どのような役に立たない純粋科学が日常で用いられるようになるか、期待するところである。

頭が働かない時は。

体の好不調があるように、頭脳の好不調ももちろんある。頭が働く時は高度な思考を要することに取り組み、頭が働かない時はその分体を動かせばいい。

20世紀のある偉大な哲学者は、「頭が冴えている時は論理学に取り組み、普通の時は哲学に取り組み、働かない時は社会学に取り組む」と言ったという。それぞれの人間に対して適材適所な役割があるように、自分のコンディションにも適材適所がある。

「その時何に取り組むべきか?」という問いに対して適切な判断を下せるかどうかということも、人間としての実力の一部である。そのような適切な判断を下し、その時出しうる最高のパフォーマンスを発揮することが求められる。

型を知り、型を破る。

「型破り」とは、物事の究極である。型を破るためには、型を知り抜き、型を空気のように実行できるレベルにならなければいけない。型を知らなければ、単なる「型知らず」にしか過ぎない。

昔、僕の大学時代の知り合いがよく言っていた、「指揮法を知らない指揮者と、指揮法を無視する指揮者は違う」とは、はまさしくツボを言い当てている。

もちろん、型破りなレベルには並大抵の事では達することはできない。型破りの境地を目指すためにも、自分の専門を極め、かつ専門外の分野に対しても幅広い視野を持ち知り抜くことが要求される。