月別アーカイブ: 11月 2017

佐藤幹夫の一本の道。

佐藤幹夫氏は日本が誇る大数学者だ。数学の中で「佐藤理論」と言われるものは数多く存在する。佐藤幹夫氏が創始した代表的な理論は、ハイパーファンクション(佐藤超関数)、代数解析、佐藤のソリトン理論であろう。これらの理論は理解していない人にとっては一見つながりがないバラバラの理論に思えるが、それらの理論を知るにしたがって全てが一本の道につながっていることがわかる。

僕も昔は、佐藤幹夫とはあらゆる分野で大理論を次々に打ち立てた(これは事実だが)とてつもない大数学者だと思っていたが、佐藤幹夫氏の中では全てが一つにつながっているのである。

佐藤幹夫氏は数学者であるが、数理物理学にも取り組んでおられる。数理物理学という言葉の定義は非常にあいまいで、はっきりと確定した定義はないに等しい。したがって、数理物理学者と言っても皆取り組んでいる分野は違うと言っていい。そして数理物理学に取り組むにあたっては、分野の壁にこだわっていれば身動きが取れなくなる。数理物理学者とは雑食性なのである。

佐藤幹夫氏は(おそらく)すでに引退しておられると思われるが、僕は勝手に佐藤幹夫氏は20世紀最大の数学者だと思っている。もちろん世界を見渡せば、代数幾何学のグロタンディークや微分トポロジーのミルナーのように偉大な数学者は何人かいるが、研究の独創性と多様性に関しては佐藤幹夫の右に出るものはいないと感じている。

物事の相互作用。

物事が上手くいかない時、取り組むことを絞ろうと考えることはよくある。絞ることによって、一つの事に割く時間と気力を増やすのだ。

しかし、全く逆の事も時には効果がある。一つの事に上手くいかない時、あえて複数の事に取り組む。このことは一見逆効果にも思えるが、物事というものは意外と互いが絡み合って相互作用しており、他の事に対するアイデアが元の事に生きることがよくある。複数の事に取り組むことが突破口になるのだ。

もちろん、他の事に取り組むことによって頭がリセットでき、固定観念にとらわれない発想が生まれるという効果もある。

「選択と集中」とは何かにつけてキーワードとされることがあるが、「複数を選択する」という判断をするのも、物事を解決する一つの手段として有用ではないかと僕は考えている。

科学の研究とは?

「科学の研究とは、世界で一番を取ることである。」もちろんそうは言っても、これは科学の一側面を表したものに過ぎないが、科学の研究に二番煎じ三番煎じは存在しないのは確かだ。二番三番は研究ではなく勉強である。

ただ、テーマは様々あるので、一番と言っても色々な一番がある。大きな一番から小さな一番。ただ、二番は存在しない。

科学では一番乗りが全てを取るのだが、なぜそうなるのかは理由は簡単だ。二番三番はただ一番の成果を追試すれば自動的に結果が出るからだ。もちろん事実はそんなに簡単ではないが。

ただ、ビジネスではもちろん話は違う。ビジネスでは初めから二匹目のどじょうを狙う戦略も重要だ。

科学の研究というものにも流行というものがあり、一部の研究者、いや結構多くの研究者はいかに流行を追うかということに全力を尽くしている。それはいかがなものかとも感じるが、ただ他の研究者が口出しするようなことではないのかもしれない。

他の研究者がやっていない独創的なテーマに取り組んでいる研究者の結果は、いつか必ず大きな評価が下される。ただ、流行の研究が即評価されやすいのに対して、独創的研究は評価されるのに時間がかかる。

しかしそんなことを考えずに、自分が重要だと思う研究に打ち込めばいいだけなのかもしれない。

大人になるほど嘘をつく。

多くの人は、大人になるほど嘘をつき、大人になるほど目が曇る。妙に周りの空気を読み、都合の良い解釈をし始める。

最近の大手企業の不正とその後の釈明会見を見ると、つくづくそう感じる。しかしもちろんそのようなことは、不正企業の経営陣だけでなく、多くの大人に言えることだ。

なぜ急にこのようなことを書こうと思ったかというと、テレビで、ある二十歳前後の少女の、あまりにも率直で世論を気にしない意見を聞いたからだ。この少女の意見は世論の風潮とは逆を行くものであったが、僕には少女の意見の方が正論に思えた。この少女は以前、不条理な世論の逆風を浴びていた人物でもある。この少女にはこれからも、透き通った眼で物事を見続け、率直な意見を述べ続けてほしいと思っている。

大人というものは、良くも悪くも大人だ。子供の嘘は可愛いが、大人の嘘は時には卑劣である。透き通った眼をいかにして持ち続けることができるか。それには自分の信念をどこまで維持できるかにかかっている。

単独でするのが良いか?共同で行うのが良いか?

「一人でできる」と言えば格好いいが、実は「一人でしかできない」というのが正しいこともある。僕自身、人と協調することが苦手で、一人で物事に取り組むことが多い。一人でしかできないということは、利点でも欠点でもありうる。

勉強というものは、人に教えてもらうものという意見も多いだろうが、僕自身は過去に、授業で習うよりも独学でやる方が圧倒的に吸収できて効率的であると感じてきた。そういうこともあって、高校を中退して一人で大学を目指して取り組んだ過去は自分に合っていたのかもしれない。ただ、教えてもらうことと自分で独学ですることは、どちらが良いということではなく、自分のスタイルに合った方を選べばいい。

研究の世界では、多くの研究者が共同研究という形を取っている。新たに出る最新の論文を見渡すと、単著(一人で書く)論文よりも、共著論文の方が圧倒的に多いように感じる。

単著でも共著でも内容が良ければそれでいいのだが、ある研究者は、「共著論文の実質的な成果の九割は一人の研究者が負っていることが多い」と言っていた。実際、僕が周りで観察していた例では、一人の研究者が成果を出して、他の研究者が執筆を担当しているように感じたものもあった。

単独研究と共同研究のどちらが優れているかということは、研究分野・テーマにもよるであろうが、数学・基礎物理などのような基礎的分野では単独研究の影響力の方が大きく、応用・実用分野では共同研究が幅を利かせているように感じる。

日本では協力することの美徳が称賛されるが、単独で物事を進める醍醐味も非常に大きな魅力である。

複雑化と単純化。

世の中には二つの大きな流れがある。複雑化と単純化だ。それは科学においても言えることだ。大雑把に言えば、基礎科学の大きな流れは単純化であり、応用科学は複雑化であると言える。

複雑化の代表的なものは生物、特に人間であると言える。人間は膨大な数の細胞からなっており、複雑化の集大成である。しかしその複雑化の結果、マクロなレベルで非常に秩序のとれた単純化の様相も持っている。この様に一概に単純化か複雑化かとは一方には決められない。

基礎物理は単純化の作業の代表例である。特に素粒子論などの分野では、その単純化の作業を「還元主義」と表現される。この還元主義は科学の体系全体にも言えることであり、

マクロ生物学→分子生物学→化学→物性物理→素粒子物理

という還元的体系を構成している。従って、一番根本的な位置にある素粒子論を理解することは、還元主義的には科学全体を理解することにあたる。

複雑なことを理解することは個々の事象の理解につながるが、単純化をして理解することは物事の本質の理解につながる。単純化と複雑化はどちらが偉いというわけではなく、双方が両輪となって科学の理解は深まっていく。

トランプをめぐる、アメリカ軍指揮系統の麻痺。

先日、アメリカ軍の司令官が、「トランプ大統領が核攻撃を指令しても、それが違法なら従わない」という趣旨の事を発言したという。これはアメリカ軍の指揮系統の一部が麻痺状態であることを意味している。

この発言の重要な所は「違法なら」という部分であろう。何をもって違法と言うかは微妙で難しいところだ。そしてトランプ大統領の核攻撃の指令を否定するために、司令官が違法性を作り上げることもできる。

とは言え、このような状態は、アメリカにとって不利益な事であり、トランプアメリカと密接な関係にある日本にとっても不利益極まりない。その一方、北朝鮮にとっては願ったりかなったりであろう。

確かに、トランプ氏自身に問題があることは否めない。しかし一度選挙という民意によって作り上げた指示系統を内部の人間が否定することはそれ以上に危険だ。

アメリカ大統領という存在は非常に強力な権威・権力であり、「任期付の独裁者」とも言われる。この独裁的なシステムが吉と出るか凶と出るか、我々日本人は吉と出ることを願う他はない。

選んでばかりはいられない!

大事なものを優先的にやる。物事に優先順位をつける。この二つの事は非常に重要なことだ。しかし優先順位にこだわりすぎて前のめりになれないのなら、それは考えなければいけないのかもしれない。

現在の自分は選べる立場ではない。選べる立場になった時に、じっくりと選べばいい。今はやれること、やるべきことに、全力で打ち込むべき時かもしれない。手当たり次第に目の前にある課題を片づけなければいけない。

人生、そんな時は誰でもあるのかもしれない。とにかく全ての事に全力で取り組もう。

“ちょいワルオヤジ”がちょうどいい。

某雑誌のキャッチフレーズにもなっている「ちょいワルオヤジ」。実はこのちょいワルオヤジは、実に理にかなった存在である。

人間、生きていれば何かとグレーな部分が出てくるもので、時には意に反してそれがクロとみなされることもある。しかしそれは悪いことでもなんでもなく、むしろ自然な成り行きだと言える。

グレー、そして‘‘ちょいクロ’’以上に危険なのが「スーパーホワイト」だ。あまりにもホワイトであることにこだわりスーパーホワイトになってしまえば、身動きが取れなくなる。そしてスーパーホワイトは言い換えれば、「何も行動を起こしていない」ということである。何も行動を起こさずに、身動きも取れない状態は、人間の危機であると言える。

極悪になってはいけないが、ちょいワルオヤジはホワイトオヤジよりもはるかに豊かな産物を生み出し、リラックスムードを生み出してくれる。そんな自分の理想とするちょいワルオヤジになりたいと思う今日この頃である。

「体が資本」の意味。

「体が資本である」という言葉をよく聞く。この言葉は何かに打ち込み、その道を極めようとする人にとって、非常に共感する言葉である。そしてたとえ極めようというレベルではなくても、何かに取り組むにあたって、全ての基本はそこにある。

とあるファッション関係の人が、こんなことを言っていた。「お洒落に格好よく見せるのに一番必要なのは、健康的な体だ!」と。イケメン俳優もいいが、どんなイケメン俳優よりも、強靭な肉体を持ったプロ野球・大谷翔平の方がはるかに格好よくスマートに見える。しかもとてつもない結果を出しているのだからなおさらだ。

少し話はそれたが、自分という存在は肉体の存在が前提になっている。精神だけの存在などは現実問題としてあり得ない。

学生時代に数学の研究仲間と、研究をするには必要なものは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものだ。理論系の学問でもそう感じるのだから、実験系の学問ではなおさらであろう。

勉強や仕事に打ち込むのは非常に良いことだが、その前に少しだけ筋トレをすることを日課にするとか、資本である体に目を向けるのもいい。

健康的な肉体を構築することも必要だと感じ、毎日筋トレに励む今日この頃である。

わかりやすいところ、美味しいところだけ取ればいいのか?先端より根っこが大事である。

勉強と言えば、本を読むことを想像する人が多いかもしれない。もちろん本を読むことは勉強のツールとして非常に重要である。

本を読むためには本を手に入れなければいけない。そして本を手に入れるためには本を買わなければいけない。本を買うためには買うためのお金を稼がなければいけない。もちろん図書館で借りるという手もあるが。

学生なら話は別だが、本を読んで勉強するということ以上に、「本を買うお金をどう捻出するか」ということに社会を知る鍵が隠されている。「本を読む」という先端部分より、「本を買うお金を稼ぐ」という根っこに大きなヒントがある。

学問の研究でもそうだ。学術書を買うお金を捻出するためには、研究結果を出してお金を手に入れなければならない。

「投資する(買う)」→「実行する(読む)」→「結果を出す」という‘‘ループ’’を上手く回すことができれば、物事は上手く進むようになる。

根っこが大事なのはIT社会でも同じだ。いくらITツールを上手く使ってビジネスをしても、ITビジネスの手綱はプラットフォームを創出しているgoogleやアップル、マイクロソフト、facebookなどの‘‘根っこの企業’’が握っている。

末端にいそしむことは非常に分かりやすいが、ある意味それは対処療法だと言える。根本的な所に立ち返り、根っこを握りループを作り上げることが非常に重要である。

内閣官房参与は多すぎるのか?

毎日新聞のウェブで、「内閣官房参与、15人も必要?自民野党時は「多すぎる」」という記事を読んだ。内閣官房参与は特定分野のスペシャリストで、総理に助言する非常勤のアドバイザーだ。普段はなかなか表に出ることはないが、国政の鍵を握る人たちだと言えるのかもしれない。

現在、内閣官房参与をされている飯島勲氏はテレビでもおなじみで、飯島氏は内閣官房参与を国民に身近に感じさせてくれる存在かもしれない。

内閣官房参与が15人も必要か?という問いに対して、僕は肯定的だ。特定分野のスペシャリストとしての役割は大きく、存在意義も非常に大きい。ただ、今回新たに任命された二人の参与に対しては、その存在に疑問を抱かざる負えない。

この新しい二人の参与は元国会議員であり(そのうちの一人は衆議院議員総選挙で落選した人だ)、官邸関係者は「政治経験が豊富で、アドバイザーとして適任だ」と語っているようだが、そもそも政治家のトップであり政治のトップスペシャリストである総理大臣が、政治経験が豊富であると元国会議員を置くのは、参与の趣旨からしても明らかにおかしい。しかも一人は、「首相と衆院当選同期で盟友」であるらしく、これでは仲の良い者を近くに置いたと言われても仕方がない。

内閣官房参与は非常に重要なスペシャリスト集団だ。だからこそ、その趣旨に沿った真に有能なスペシャリストを慎重に任命してもらいたい。

配慮ではなく、生徒を盾に取った保身だ!

大阪府立高校での黒染め強要問題。そこで学校側の言い分が次々と出されているが、学校問題で毎回思うことだが、なぜ大人はここまで汚く保身に走るのだろうか。

生徒が不登校になってからクラス名簿と座席表から除名していたということが明らかになった。このこと自身ももちろん問題だが、その除名した理由が「生徒が登校していないことを、ほかの生徒から変に詮索されないよう配慮して載せなかった。登校すればすぐに元に戻すつもりだった」(読売オンライン)であったという。学校側が排除しておきながら登校すれば元に戻すというのも矛盾しているが、生徒を盾に取った言い分には卑劣さを感じさえする。

大人は子供よりも立派であるとは僕は全く思わない。子供の方が真実を見極めていることは良くあることであり、大人になればなるほど汚いことを覚えていく。それにしても度重なる学校問題での大人教師の言い分は毎回卑劣を極める。

このような社会的問題が起きても、教師にとっては学校も生徒もどうでもいいのか?自分の身分さえ保証されればどうでもいいのか?もちろん立派な教師もたくさんおり、むしろ生徒想いの教師の方が多数であるだろうが、生徒を盾に取った卑劣な保身教師には怒りを感じる。

限られた条件の中で、どう生きていくべきか。

あらゆる意味で、自分を束縛するものはなく自由に活動することができればいいが、ほとんどの人は何かしら自分を束縛するものがあり、その限られた条件の中で活動し生きているものだと思う。

そのような中、束縛するものを克服して何とか自由になろうと攻略法を見つけるのは大きな解決法で、それができればもちろん一番良いのだが、ある程度の条件を受け入れ、その条件の中で自分を最大限に発揮するためにはどうすればいいかということを考え工夫することも大事だ。

限られた条件とは、社会的制限、金銭的制限、肉体的制限、思考的制限などいろいろ考えられるが、その制限下でどれだけ自分のパフォーマンスを発揮できるかということも、自分の実力につながってくる。

それらの束縛制限を克服し、自分が取り組む対象をコントロールできるようになった時、それが大きな結果を出すべく一歩となるのではないかと思う。

人を信じること。

世の中には人をだます人たちが存在しており、それに対抗してか、まずは人を疑ってかかることが社会で求められようとしている。しかし、誰もかれもが初めから疑ってかかると、世の中は疑心暗鬼に満ち溢れ、社会も人間関係もうまく回らない。もちろん、現在の社会がそこまでひどくなっているわけではないが、果たしてこのような疑心社会を作ることが本当に正しいのであろうか?

怪しいと感じたことは疑うべきなのだろうが、表面的には善良に見えても怪しいことはたくさんある。しかしそんなことばかり考えて疑ってばかりだと、自分の心も荒んでくる。

今の世の中に必要なのは、疑うことではなく「人を信じること」ではないだろうか?疑うことによって自分の安全、自分の金銭を守ることはできるだろうが、自分の心は人を信じることによって守られる。人を信じることは人間の基本であり、人を信じることによって人と人との結びつき、社会との結びつきが生まれる。

人を疑うことは意外と簡単だ。しかし何にでも疑うことを覚えてしまえば、人を信じることができなくなる。一度心が暗くなると、再び人を信じる心を取り戻すのは難しい。

無条件に人を信じろとは言わないが、適度に疑って、信じるべき人に対しては信じるという柔らかい心をを持つことが大事なのではないかと僕は感じている。

周りの人を見るのではなく、取り組む対象を見る。

レベルの高い世界に入り、周りの優秀な人を見て「自分よりレベルの高い人がいることを知って自信を無くした」という声をよく聞く。しかし重要なのは、周りの人が優秀だとかいうことではなくて、自分が取り組む対象に対してどれだけ実績を挙げれるかということだ。周りの人のレベルなどはほとんど関係ない。

「取り組む対象に対して自分はどれだけのことができるか」という展望を立てれば、後はそれを実行するのみだ。周りの人との勝負ではなくて自分との勝負だ。そうしてスキルを上げていけば、初めはかなわないと思っていた周りの人をも、気が付けば抜いていることも多々ある。周りの雑音情報に過度に振り回される必要はない。

「隣の芝生は青く見える」とは少し違うが、周りの人間を見て過度に高く評価をしていることもある。しかしじっくりと判断すれば、周りの人もそんなに高くないのかもしれない。

取り組む対象にのめりこむことができれば、それはもう自分のものである。

政治家の言葉使い。

政治家の発する一言一言は、社会全体から注目を浴びている。そして注目されるのは発言内容だけではない。言葉使いも注目されるポイントだ。その言葉使いに政治家の人柄なり思想がにじみ出てくる。

最近は自党の党首に向かって品の悪い言葉使いで非難したり、あるいは公では到底使ってはいけない言葉を平気で発する政治家も存在する。

選挙時のポスターには、多くの政治家が肩書として「弁士」と名乗っている。弁士であるからには、発言にはプロ意識を持ってもらいたいものである。そして国会では弁をもって物事を正してもらいたいものである。

根拠のない自信はどこまで許されるのか?

例え根拠のない自信でも、ないよりかはある方がいいと僕は感じている。根拠のない自信でも、その自信を原動力に前に進んで行けるのなら、どんどん根拠のない自信を積み上げていけばいい。そしてそれらの実行が徐々に結果として表れていけば、それらの自信は根拠のあるものへと変わっていく。

しかし自信に根拠がなくても、明確な展望を立てることは必要である。明確な展望は、これから進んで行くうえでの道しるべになる。展望は具体的であればあるほどいい。

自分の置かれている世界の事を知れば知るほど、その世界の楽しさ、そして恐ろしさを知らされる。そこで自信を深めるか、自信を無くしてしまうかは、自分の才能がどうというよりも、楽観的になれるかどうかという人間性に関わってくるのかもしれない。とは言え、ある程度慎重に物事を進めることも必要であろう。

楽観的な展望と、それなりの慎重さを持って進める実行力を持って、自分の目標としているところへ一歩でも近付くべく意志を持って突き進んでいくことが大事である。

思考の停止した教師たち。

最近物議を醸している大阪府立高校での髪黒染め強制問題。昔からつくづく考えるのが、規則の妥当性を全く考えずに規則を強制する教師たちの存在についてだ。

どんな世界でも規則は完全ではない。悪法というものは多くの世界で存在する。少し前に「規則を破ることの大切さ」というテーマでブログを書いたが、まさしく今回の問題はそれにあたる。その規則にはどういう意味があるのか?ということを自分の頭で考えて、そのうえでどう考えてもおかしい規則は「破るべき規則」であって、破るべき規則を破ることは非常に重要である。

政治政党の中には「悪法も法である」という立場をとるものもあるが、少年少女の人生を破壊するような規則を放置していいはずがない。

おそらくこれらの教師たちはこれまで、学生時代から従順に規則を守り続けてきた人たちであろう。それ故に「なぜその規則が存在するのか?」ということを自分の頭で考えることを怠ってきたのではないか。

今回の問題を機に、周りのあらゆることに対して「それは正しいのか?どういう意味があるのか?」ということを振り返って考えるきっかけになればと僕は期待している。

人生における想定外に、どう向き合うか。

社会においても人生においても、想定外は付きものだ。東日本大震災の時には、地震の大きさが想定外であったのに加え、原発事故でも想定外の事が連続して起きた。

人生においても、子供の頃に想定していた人生をそのまま送る人は皆無であろう。大なり小なり想定外な事態は起きる。そのような人生の想定外な事態に対して自分はどう向き合うか。

僕自身に関しては、これまで起きた想定外はかなり巨大なものだったと思う。「人生一寸先は闇」という状態を繰り返してきた。もちろん想定外の苦しみはないに越したことはないのだが、ただ、想定外なことが起きたからダメになったという言い訳はほとんどしたことがない。想定外な事態も自分の人生の一部であるから、それをも受け入れなければならない。

ただ僕が心がけていることは、「転んでもただでは起きない」ということだ。例え苦しい失敗が起きても、その失敗をも自分の糧にして、プラスの力に変えて見せようと行動を起こす。それが成功しているか失敗しているかまだ分からないが、失敗を次に生かすか、失敗を失敗で終わらせるかは、自分の人間としての実力に関わるところである。

想定外なことは人生ではどうしても避けられないが、だからこそ想定外なことが起こることを想定内にすることが必要なのかもしれない。

「非常識=悪」ではない。

山尾志桜里衆議院議員が、スキャンダルの相手を政策顧問に置いたという報道に対して非常識だという声がある。確かに非常識と言えば非常識だ。普通の人がしないという意味で非常識だ。

しかし「非常識=悪」とは僕は考えていない。

僕はこれまで山尾議員を擁護するようなブログ記事を2度ほど書いたと思う。ではなぜ山尾議員を擁護するのかというと、理由は簡単で、「批判するようなことではない」からだ。

スキャンダルでも、金銭的スキャンダルとなると話は全く違う。金銭的スキャンダルを起こす議員に対しては、議員としてのモラルの欠如が問われるところである。もちろん、政治活動にはお金は付きものであるし、資金を集めることは議員としての宿命であるとも言える。だから、議員がお金を集めること自体はグレーであっても必ずしも悪とは言えない。しかし某議員のように、私腹を肥やすための不正なお金集めをする者は、はっきり言って議員の資格はない。

山尾議員の場合、単なる個人的色恋沙汰に過ぎない。多くの人は良い印象を持たないかもしれないが、政治家としての人間性とははっきり言って関係ない。

今回山尾議員は、そのスキャンダルの相手を政策顧問に置いた。確かにどういう意図なのか理解できないところはある。しかし山尾議員がこの弁護士の手腕を高く評価し、政策顧問として置くことを強行したのならば、僕はこの腹の座った山尾議員の決断を称賛したい。もちろん、個人的な好みで置いたのならば論外であるが。

審美的純文学の重要性。

最近アメリカでは審美的な国文学、つまり英純文学よりも、社会的・人権的主張を訴える文学が人気があり、重要視されているという記事を見た。アメリカでの文学を取り巻く状況がどうなのか、僕には判断はできないが、最近の世界的潮流を見ると、社会的な文学が幅を利かせており、審美的純文学が軽視されているように思える。

社会的文学は人間の生活にもつながるところがあり、ある意味非常に有用であるように思えるが、純文学は国家・国民のアイデンティティーを表現するものとも思え、これもまた非常に重要なものである。

日本で言えば、審美的純文学の代表は川端康成であろう。その一方で、社会的文学の代表例は大江健三郎と言えるかもしれない。どちらもノーベル文学賞を受賞されているが、作風は対照的といえる。

この文学に関する話は、科学についても言えるかもしれない。審美的純文学にあたるのが純粋基礎科学、社会的文学にあたるのが応用・実用科学。実用科学は役に立つのでその重要性はわかりやすいが、純粋基礎科学の科学的価値をどれだけ理解できるか、それは国民の成熟度につながるところである。

純文学と純粋基礎科学の価値を理解できる人間を少しでも多くすることは、今世界的な課題なのかもしれない。

リスクとチャンスの大きさを比較して、行動する。

僕自身、人生において非常に大きなリスクを取って行動していると自分では感じている。なぜこのような大きなリスクを取るのか?それは成功した時の大きさもとてつもなく大きなものになると考えているからだ。もちろん、成功する自信があるからだとも言える。

しかし、普段の日常において、非常にちっぽけなリスクを恐れている自分もいる。リスクしか見えなくなる時があるのだ。しかし、リスクばかりにこだわっていれば、物事は何も進まない。

何事においても、ノーリスクということはありえない。大なり小なりリスクは付き物だ。大事なのはリスクに対して成功の大きさ、メリットがそれを上回るかどうか、チャンスが大きいかどうかである。リスクとチャンスはセットで考えなければならない。リスクとチャンスの大きさを比較するためには、意識的にそのような思考をするように向けなければならない。

時には夢を現実化させるために大きなリスクを取ることもあるが、そんなリスク度外視の行動をとることも人生の醍醐味でもある。

モチベーションを上げるために。

本業でのモチベーションを上げることは、非常に大事である。モチベーションを上げるきっかけが、百貨店で服や時計を見ることであったり、お酒を飲むことであったり、人それぞれであろう。

百貨店で服や時計を見て、「絶対に成功して、こんな服や時計を買うぞ!」と気分が上がるのなら、それは素晴らしいことだと思う。

もちろん、物を買うことが目的で本業に打ち込んでいる訳ではないが、「自分にとって何がモチベーションを上げるきっかけになるか?」ということは把握する必要がある。

もともと気分が乗りやすい僕であるが、何とかモチベーションを上げ、それを持続しようと試行錯誤し、実行に移す今日この頃である。

憧れの人物は、・・・いない。

子供の頃の憧れの人物というのは重要である。憧れの人物がいるからこそその道に進もうと思い、憧れの人物に一歩でも近付こうとまい進していける。僕自身も小学生の頃は、長岡半太郎やアインシュタインといった物理学者に憧れていた。

しかし本格的にその道に取り組む大人には、僕は憧れの人物などはいらないと思っている。もちろんどのレベルを目指しているかによるが、最高を目指す人に憧れはいらない。

普通の結果をコンスタントに出していくか、大きなものを一発狙うか。もちろんコンスタントに結果を出せない者が大きな結果を出すことは非常に難しいと思うが、人それぞれスタイルがある。アインシュタインは重要な結果を非常にたくさん発表している。

偉大な先人のようになることはできないかもしれないが、それは必ずしも偉大な先人を越せないという意味ではない。方向性が違えば、同じような人物になるはずがないからだ。またそこが面白いところでもある。

誰になるのでもない。自分という一人の人間になることが重要なのである。

人生を費用対効果で測る愚かさ。

べつに費用対効果で物事を考えることを否定しようとは全く思わない。ビジネスにおいては費用対効果は最も重要な要素になるし、日常において物事に取り組むにしても、費用対効果という視点で物事を判断することは非常に有用だ。

しかし人生となると話は別だ。当たり前の話だが、人生はビジネスではない。もちろん人生においてお金は非常に重要だが、お金では体験できない経験、そして感情、健康、生きがいなど、お金ではどうにもならないことはたくさんある。逆に言えば、人生においてもお金で解決できることもたくさんあるのだが。

日常を本当に楽しむことができているか?日常は充実しているか?やりがいを感じているか?人生において打ち込むべきことは見つかっているか?

それらの前提があってから、初めて費用対効果という視点に移るべきではないか。全てにおいて最初から費用対効果で考えるのは明らかに間違っている。

大事なのは、費用対効果で測るべきことと、そのようなことでは測れないことを、しっかりと区別し判断することではないだろうか。

首相動静を楽しむ。

多くの新聞の片隅には、首相動静というものが載っている。首相の一日の行動を事細かに書き表したものだ。

11月3日の安倍総理の首相動静には、トランプ大統領の長女・イバンカさんとの会食の日時が分刻みで記述してある(時事通信の時事ドットコムで確認)。イバンカさんとの会食は、旅館「星のや東京」で行われたと記述されている。何気ないことだが、旅館の名前を聞くだけで会食の様子が想像される。

昔、麻生氏が総理をされている頃、帝国ホテルのバーに通っていたことは有名だ。もちろんその事も、当時の首相動静に書かれていたはずだ。そのような行動からも、麻生氏の趣味なり人となりがうかがえる。

11月5日、トランプ大統領が来日する。安倍首相とトランプ大統領は、鉄板焼きの店で和牛ステーキと海鮮料理を食事するという報道があった。トランプ大統領が肉好きということを受けての事だそうだ。その鉄板焼き屋さんの店名はまだ出ていないが、少し気になるところだ。

以前、オバマ大統領が来日した時は、銀座の寿司屋「すきやばし次郎」で会食をしたことは有名だ。

この様な首相の日常を知るだけでも、日本を背負う公人の考えが伝わってきて意外と面白い。

考古学と最先端科学技術。

エジプト・クフ王のピラミッドの内部に巨大空間が見つかったという(読売オンライン)。この空間は名古屋大学をはじめとする国際研究チームが解明したというが、その解決手法は、宇宙から飛来するミュー粒子を使ってピラミッドの中身を透視するというものであった。

ミュー粒子とは素粒子論でもおなじみで、スピンが2分の1の粒子なのでディラック方程式で記述できるはずだが、一昔前まではミュー粒子を扱うような素粒子論などの純粋科学が何かに役に立つとは、ほとんどの研究者は考えなかったであろう。まさに「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを実証した形だ。

普通の人からすれば変な話かもしれないが、純粋科学に取り組んでいる人の中には、役に立たないことを誇りに思っている人々がいる。しかもその数は少なくない。しかし役に立たないという言葉の裏返しは「科学的価値がある」ということである。実はこれらの人々は科学的価値があることを誇りに思っているのだ。

クフ王のピラミッドの話に戻るが、素粒子論が考古学に利用されるとは、時代も進歩したものである。この先、どのような役に立たない純粋科学が日常で用いられるようになるか、期待するところである。

頭が働かない時は。

体の好不調があるように、頭脳の好不調ももちろんある。頭が働く時は高度な思考を要することに取り組み、頭が働かない時はその分体を動かせばいい。

20世紀のある偉大な哲学者は、「頭が冴えている時は論理学に取り組み、普通の時は哲学に取り組み、働かない時は社会学に取り組む」と言ったという。それぞれの人間に対して適材適所な役割があるように、自分のコンディションにも適材適所がある。

「その時何に取り組むべきか?」という問いに対して適切な判断を下せるかどうかということも、人間としての実力の一部である。そのような適切な判断を下し、その時出しうる最高のパフォーマンスを発揮することが求められる。

型を知り、型を破る。

「型破り」とは、物事の究極である。型を破るためには、型を知り抜き、型を空気のように実行できるレベルにならなければいけない。型を知らなければ、単なる「型知らず」にしか過ぎない。

昔、僕の大学時代の知り合いがよく言っていた、「指揮法を知らない指揮者と、指揮法を無視する指揮者は違う」とは、はまさしくツボを言い当てている。

もちろん、型破りなレベルには並大抵の事では達することはできない。型破りの境地を目指すためにも、自分の専門を極め、かつ専門外の分野に対しても幅広い視野を持ち知り抜くことが要求される。