月別アーカイブ: 10月 2017

アマチュアの発想と、プロの実行力。

プロと言えども、豊かな発想を持ち合わせている人はあまり多くない。逆に、アマチュアが面白い発想やアイデアを出すことがよくある。ではアマチュアとプロを分けるものは何か?それは実行力である。

例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時、ある哲学者が「私は相対主義者だ。だから私に数学的才能があれば、私が相対論を発見していた。」と言ったという。相対主義というのが相対論を発見するアイデアだとは到底思えないが、百歩譲ってそれがアイデアとする。しかしプロ(物理学者)がプロである所以は、アイデアを実行に移す(数学的な構成を行う)ことにある。相対主義だけで終わらせれば、それは物理でも何でもない。

しかし、豊かな発想を次々と打ち立てるアマチュアがいる。もちろんアマチュアだからその後が続かないわけだが、プロは豊かな発想をするアマチュアを見習わなければならない。

豊かな発想を持ち合わせたアマチュアの感性と、それを構成するという実行力を持ち合わせたプロの技術、その双方を持ち合わせた人間が、新しい境地を切り開いていく開拓者となりえるのである。そのどちらか一方が欠けても大きな成功を成し遂げることはできない。

他分野・他業種の人の話を聞くのが面白い!

勉強でも仕事でもそうだが、普段接する情報は自分の専門領域の事に偏りがちになる。もちろん、専門領域に関する情報は重要であるが、そのようなものは水や空気のようなものである。

そのような時、全く他分野の人の話を聞くと、刺激にもなるし面白い。もちろん視野も広くなる。

誰もが24時間、専門の事だけで生きているわけではない。時間の空いた時には街に出かけることもあるだろう。そのような生活の中で、専門外の世界と触れることは多々あるのだ。従って、自分の世界観・人間観を広げるためにも他分野・他業種の人間と接することは必要だ。

さらに、他分野の話だから自分の専門とは関係ないかと言えば、そうでもない。他分野の情報から、自分の専門に関するヒントを得られるときもある。すなわち、知識に深みと幅を持たせることは、自分の専門に対してもメリットが大きい。

現代は何かと多様性が大事だと言われるが、このように知識にも多様性を持たせることは非常に重要である。

問題を“見つける”ことの大切さ。

学問でも仕事でも、つい「問題を解くこと」ばかりに目が行きがちになるが、それと同じくらい、いや、それ以上に大切なのが「問題を見つけること」である。この「問題を見つけること」の大切さは、成長すればするほど、あるいは極めるほど、その重要性が身に染みてわかってくる。

優秀な受験生が、必ずしも優秀なビジネスマン・研究者になれない一因は、これにあると感じている。入試問題・試験問題というのは、「問題を解くこと」しか評価していない。すなわち、「問題を見つけること」に関してはほとんど手付かずなのだ。入試というものは才能の半分(それ以下?)しか判断していない。そういう意味では、入試というのは‘‘所詮’’入試でしかないのだ。

世の中には、高学歴でなくても優秀な人は数えきれないほどいる。その一方で、学歴しかない人もたくさんいる。優秀な人物は、問題を見つける能力が高い。もちろんそれに問題解決能力があれば百人力だ。

問題を解く力だけではなく、「問題を見つける」というクリエイティブな視点を常に持つことが非常に大切である。

カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞受賞。

日系英国人のカズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。日本人として嬉しい限りだ。その一方、僕はイシグロさんのことを何も知らなかった。そんな無知な自分が恥ずかしい。

前評判では、村上春樹氏の受賞が有力視されていた。それを覆してのイシグロさんの受賞。有力候補が受賞するのはもちろん素晴らしいが、今回のような驚かされる受賞もまた素晴らしい。

村上春樹さんが偉大な作家であることは異論がないと思うが、僕は村上さんの作品に対してあまり感じるところがない。以前、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を読んだが、読み終わっても特に何も感じることができなかった。もちろん、僕自身に文学作品に対する感性がないということなのだろうが、個人的には村上春樹さんの作品を再び読む気にはなかなかなれない。

今回受賞されたイシグロさんの作品はもちろん読んだことはないが、イシグロさんの作品を読んで素晴らしいと思えるかと言われると、正直自信がない。なので、僕自身は村上さんやイシグロさんに対して評論する資格など何もなく、ここで述べる資格もないのかもしれないが、イシグロさんという日本生まれの作家がノーベル文学賞を受賞されたことは、素直にうれしい。そしてこれから先、村上氏が受賞された際は、村上作品の素晴らしさを、この文学感性のない僕に教えてほしい。

4番・ピッチャー、大谷翔平が見せた日本人の夢。

10月4日、日本ハムの大谷翔平が本拠地最終戦で「4番・ピッチャー」で出場した。4番ピッチャーは大谷翔平が「最強打者であり、最強投手」である証であり、プロ野球ファンの夢でもある。そして、大谷選手の日本最終登板の可能性も大いにあり、今回の登板は、大リーグ挑戦前の見納めになる可能性もある。

大谷翔平の凄いところは、このような節目の試合で必ず「魅せる」プレーをすること。去年の優勝を決める試合で締めたのも大谷翔平だった。そして今回は、日本最終登板(の可能性のある試合)で、2安打完封である。

去年は、「1番・ピッチャー」で先頭打者初球ホームランというのもあり、漫画の世界だと言われたが、今回の「4番・ピッチャー」というのも、それだけで漫画の世界である。

来年、メジャーへ移籍の可能性が高いが、もちろん日本人の夢はメジャーでの二刀流、さらに妄想を言えば、「メジャーで4番・ピッチャー」と言いたくなる。しかし、大谷翔平なら、そんな妄想も成し遂げてしまう可能性もあるように感じさせられる。

最速165キロの速球と、超特大アーチを飛ばす大谷選手は、どこまで上り詰めるのだろうか?一ファンとしてもワクワクしてしまう。

重力波観測から、重力波天文学へ。

2017年度のノーベル物理学賞に、重力波を世界で初めて観測した、アメリカの重力波観測施設「LIGO」のワイス博士、ソーン博士、バリッシュ博士の三人が受賞されることが決まった。

僕自身は実験に関しては非常に疎いので、実験の詳細な内容は説明しきれないが、この三人のうちソーン博士は、理論家の間でも有名な名前だ。

というのは、超有名な重力理論の専門書、マイスナー、ソーン、ホイーラーの三人の著書「GRAVITATION(重力理論)」の著者のうちの一人であるからだ。この「GRAVITATION」は非常に分厚い書物で(日本語版は1324ページある)、研究者の間では通称「電話帳」と呼ばれている。「電話帳のソーンだ」と言えば、ほとんどの理論家でもわかるだろう。

今回の授賞理由となった重力波の観測は、まだ「検出した」という段階なので、これからどう具体的な「観測」へと結びつけるかがこれからの課題であろう。

「重力波天文学」という言葉もでき始めているらしいが、このような分野が発展した暁には、ブラックホールの観測などに大きな威力を発揮するものと思われる。

マルチタスクを楽しむ。

マルチタスク(複数同時作業)という言葉は、最近はパソコンやタブレットで複数の画面を開いて同時作業するということを表す言葉としてよく使われている。しかし現在の複雑化した社会では、仕事や日常生活でもマルチタスクをするような場面に頻繁に遭遇するのではないか。

物事に取り組むとき、一つの事に落ち着いて集中できる環境があることは素晴らしいことである。しかしなかなかそうはいかない。強制的にマルチタスクを迫られる。この様な時、マルチタスクを迫られ、ストレスを感じる人も多いと思うが、そこは開き直って、一層の事、マルチタスクを楽しんでしまうという手も大いにありだ。

僕自身も以前は、一つの事に心置きなく集中するということに憧れを持っていたが、最近は逆にマルチタスクで物事を進めることを楽しむことを覚えた。これが結構面白い。いろんなことに取り組んで忙しい気もするが、そんな状況も楽しめばいい。

マルチタスクで進められることはそれでどんどん進めて、そして一つの事に集中したい時にはその時間も確保する。そのような時間の振り分けを上手くできれば、物事を楽しみながら一層はかどらせることができる。

見る立場が違うと、こうも変わるものか。

IS(イスラム国)兵士を300人以上殺害した、”名”狙撃手がいたという。最近、その名狙撃手が戦闘で殺害されたという。

もしこの狙撃手がIS兵士だったら、どう呼ばれていただろう。「悪の根幹」か?「残虐兵士」か?どちらにしろ、悪魔の存在のように扱われるだろう。

しかし狙撃手は、「正義???」の側の人間である。従って英雄とされている。

IS兵士とISを攻撃する兵士、立場によって見方はこうも変わるものかと妙に納得してしまう。どちらもやっていることは同じなのに・・・

これは必要悪というものかもしれない。納得してしまうと書いたけど、やはり完全には納得できない・・・

なぜ基礎科学が重要なのか?

10月2日(月)からノーベル賞の発表が始まる。文学賞で注目されている村上春樹も気になるが、やはり科学分野3賞がどのような分野に授与されるかは注目されるところである。

ところで、ノーベル賞は基礎科学重視である。もちろん2014年の物理学賞の青色発光ダイオードのような応用分野に授与されることもしばしばあるが、割合で言うと基礎分野への授与が多いのではないかと思われる。

では、なぜ基礎科学が重要なのか?その答えを誤解を恐れずに一言で言えば、「基礎科学の方が純粋に科学的価値が高い」からである。それの対比として応用分野の重要性を一言で言うと「役に立つ」ということであろう。

しかし厄介なのが、この基礎科学の「科学的価値」というものは、なかなか多くの人には理解されない。純粋科学の科学的価値は、数値では表現できないし、言葉でも簡単に表せない。そのせいか、基礎科学を研究している人に対して「道楽だ」という言葉を投げかける人もいる。なかなか基礎科学の重要性をわかってもらえないのが少し悩ましい。

もちろん、応用科学も元をたどれば基礎科学の結果の上に成り立っている。基礎科学がなければ応用科学も存在できない。そう言えば少しは基礎科学の重要性はわかってもらえるかもしれない。しかしそれは純粋に「価値」を理解するのとは少し違う。

ほとんどの基礎科学者は「基礎」を研究していることに誇りを持っている。そして「基礎」の価値と重要性をどこまで理解して受け入れられるか、それは社会の熟成度を大きく示すものである。

できないのが悔しいのではなく、努力できないのが悔しい。

努力してできなかったことは諦めがつくが、努力できないことに対しては非常に悔しいし、情けない。最低限の努力は何ともしておきたいものである。

最近は、根性論だとか精神論を何かと否定する風潮が強い。確かに根性論・精神論を他人に押し付けるのは間違っている。だからと言って精神論が全く不要かと言われればそうではないように思う。ましてや自分自身を鼓舞するための精神論を他人に否定される筋合いはない。

現在は、集団主義から個人主義に移りつつある。そのような個人主義の中で、他人に自分の考えをごり押しするのは確かに間違っている。努力するもしないもそれぞれの自由である。しかしその結果は火を見るより明らかである。

そのような悔しい思いをしないためにも、努力をして悔いの残らないように取り組みたいものである。