月別アーカイブ: 10月 2017

理論は正しいのか?間違っているのか?

最近何かと話題の「ダークマター(暗黒物質)」。観測データに照らし合わせると、ダークマター・ダークエネルギーが宇宙の質量のほとんど(90%以上)をせめるという。ダークマターの候補になる物質はいくつか考えられているが、現在ではまだそれを特定するには至っていない。

ただそれらは既存の理論に基づいたデータであり。理論そのものが間違っているという可能性も否定できない。実際、現在の宇宙モデルの基になっている一般相対性理論は不完全である(量子論でないという意味で)というのは物理学者の間では共通の認識であり、一般相対論が量子化(量子重力理論)されれば解決されるという可能性も否定できない。また、既存の理論を修正するという試みも行われている。

いずれにせよ、現在の観測データは既存の知識だけでは説明できない状況が起きている。現在の理論は正しいのか?間違っているのか?また間違っているのならば修正すれば観測と一致するのか?あるいは根本的書き換えが要求されるのか?まだ結論は出ていないが、根本的書き換えによって物理の世界に大変革が起きる可能性は否定できない。

未来の物理理論の風景はどうなっているのか?その風景を作り上げる物理学者には強い野望が求められるところである。

打ち込むべきことに没頭して、苦しい時を乗り越える。

苦しい時、ストレスを感じている時、気分発散して乗り越えるということが多いであろう。確かに気分発散して乗り越えるというのも一つの手だ。しかし、気分発散だけが乗り越える手段であると、常に気分発散をせざる負えない状況に陥る。

しかし苦しい時を乗り越える手段は気分発散だけではない。打ち込むべきことに没頭して乗り越えるというのも手だ。頭を使って没頭していると、余計なことに頭を使わずに済むので、意外と精神的にも落ち着いてくる。ストレスも劇的に軽減されることもある。

しかも、打ち込むべきことに没頭するので、物事が、あるいは人生がより良い方向へと前に進みだす。ある意味、打ち込むべきことに打ち込むというのも気分発散であると言えるのかもしれない。

もちろん、適度にお酒を飲んだりして気分発散するのも悪くはないが、精神的に苦しい時を乗り越えるのには、何かに没頭するのが効果的で前向きな解決の手段だ。

努力を押し付けるのは時代に合わないけれど。

努力が手放しで称賛される時代は終わり、現代はある程度ゆとりを持った多様な生き方が求められている。努力を押し付けるということもほとんどなくなり、皆リラックスして生きているようにも思える。

確かに努力を押し付けるのは時代に合わず、努力のごり押しは間違った考えかも知れないが、自分で努力することに関してはまた話は別だ。努力は苦しいもので、できる事なら努力なんてしたくないと思う人も多いのかもしれないが、自ら努力に突っ込んでいく人も少なからずいる。

自分には目指すところがあり、それを成し遂げるためには努力することは必須だ。他人に努力を押し付けようとは全く思わないが、自分は限りなく努力をもって追求していきたいと思う。

情報過多の時代、いかに必要な情報だけを抜き取るか。

情報過多な現代では、必要な情報だけではなく、無駄な情報、または悪意のある情報が氾濫している。ネットを使えばほとんどの情報はいくらでも入手できるが、問題なのは見ないほうが良い情報までごり押しのように飛び込んでくることだ。

ところが、必要な情報だけを手に入れ、不必要な情報を全てシャットアウトするのは不可能だ。必要な情報と不必要な情報はセットでやってくる。いかにして情報に対するフィルターを作るか、なかなか難しいところである。

そして現在のビックデータを駆使したネットシステムでは、自分に都合の良い情報しか流れてこないという欠点もある。無駄な情報は必要ないが、広い視点から見つめた多角的な情報は必要である。

それらの解決方法の一つとして、ネット中心の生活ではなく、活字中心の生活に重点を置くということが有効かもしれない。活字を中心とした紙媒体では、幅広く質の高い情報を手に入れつつ、かなり取捨選択もできる。

ネット社会と言えども、紙媒体の存在は無視できない。ネットに重心が移りつつある現在でも、紙媒体からの入手源を常に確保することは重要である。

「勝った、負けた」だけが全てではない。

先日の衆院選が終わり、各党は結果について総括をしている。大勝した自民党では安倍首相が足元をより固めつつあるが、苦戦した希望の党、維新の会では、代表の責任問題が問われている。

このような状況の下、希望の小池代表、維新の松井代表の辞任を求める声が上がっているが、選挙に負けたからといって即辞任を求めるのは非常に短絡であるように思える。辞めるのは簡単であるし、いつでもできる。しかし現在小池氏、松井氏に求められているのは、辞任ではなく党の立て直しである。党を立て直すことによって責任を果たすということではないだろうか。

世の中、「勝った、負けた」だけが全てではない。ましてや選挙というものは水物であり、偶然に左右されるところも大きい。もちろん、政治においては選挙に勝って発言権を得ないことには何も始まらない。しかし党の代表レベルの人には、もっと高い視点、政略だけではなく長いスパンで見通した大局的な政策で物事の判断を下してほしい。そのようなことを考えると、今求めるべきことは「辞任」ではないことは明白であろう。

今日を生きる。

人間誰しも、必ず明日を生きれるという保証はない。もちろん、ほとんどの人は99.9%明日を無事過ごすことができるであろう。しかし100%ではない。明日の事は明日にならなければわからない。だから、今日を真剣に思いっきり生きなければならない。

そう考えると、悩みの先取りなんかしている場合ではない。十年後・二十年後、どのように生きるかということを考えることも、もちろん重要だ。しかし今日・明日を生きなければ十年後はない。

未来を自分らしく生きるためにも、まずは今日を真剣に生きることに全力を出そう。

最新か?古典か?

科学の研究でもそうだが、どうしても最新の結果が気になってしまう。最新の結果を知ることによって、その先端に新たなる結果を継ぎ足していく。それを繰り返すことにより実績が積み重ねられる。

しかし、革新的な結果というものは、最新の結果の継ぎ足しというよりも、過去の重要な古典的結果を利用する、あるいはそれを基に覆すことによってもたらされることが少なくない。古典的結果を熟読し、深く理解することは、最先端の研究を進める上でも非常に重要である。

ファッションでもそうである。雑誌に書かれた最先端のファッションばかりを取り入れた着こなしは、どことなく奇抜であまりお洒落に見えない。ファッションの基本を押さえたうえで、長期的スパンの流行と、短期的スパンの流行を適度に取り入れるのが、適度にお洒落でしっくり落ち着いて見える。

話しは初めに戻るが、古典を軽く見るのは明らかに間違っている。古典を知らないで、最新の結果を深く見渡すことはできない。どの分野に関しても、まずは古典を熟知することから先への進歩が始まることになる。

トリプル選挙(衆院選・神戸市長選・神戸市議補選)を終えて。

22日の衆議院議員総選挙を終えて、少し世の中が落ち着いた頃かもしれない。僕の住んでいる神戸市では、衆院選の他、神戸市長選・神戸市議補選もあり、トリプル選挙となった。

今回の選挙に関してはいろいろ感想はある。まずは愛知7区の山尾志桜里氏が当選したことが個人的にはうれしかった。山尾氏は選挙前のスキャンダル報道で劣勢に立たされたが、山尾氏の政治的手腕に関しては高く評価されており、スキャンダルに関しても政治とは全く関係のない色恋沙汰であり、今回の山尾氏の当選は愛知7区の市民をはじめ、国民が見るべきところをしっかりと見据え、良識ある判断を下したものだと僕個人的には感じている。

そして何より今回の衆院選の結果についての最大の関心は、自民党をはじめとする与党が3分の2を取るかということであろう。安倍首相率いる与党は3分の2を獲得したわけであるが、これからは改憲についての話題が最大の関心事となるであろう。

改憲に関しては、真っ先に第九条が論争されるが、改憲は何も第九条に関してだけではない。その他の事項に関しても改憲の対象となっているが、僕が恐れているのは第九条の混乱のどさくさに紛れて、その他の事項に関して特に論争もされずに改憲が成し遂げられてしまうことだ。

最も恐れるのが「条文の拡大解釈・拡大適用」である。極端な例で言うと、戦前の治安維持法のような状況がもたらされることを、最も恐れる。もちろん、第九条に関しても然りである。

ただ、安倍一強による強権政治は、メリットも大きい。特に対北朝鮮をはじめとする安全保障の分野に関しては、安倍首相の強腕による効果は計り知れない。そして対米関係に関しては、安倍首相だからこそトランプ氏に対して対等に渡り合えることができると言えるだろう。

しかし、ここまで安倍自民が大勝して強権を持つ状況に関しては、正直言って危機感を覚える。

これから近い将来にあるであろう、改憲に関する国民投票に関しては、しっかりと熟考し、適切な判断をすることが国民には求められる。これからの日本に関して安倍一強政権が吉と出るか凶と出るか、それには国民の意志も大きく関わることになる。

眼で世界を見るのではなく、紙とペンで宇宙を見る。

世界を見ることによって見識を深めるということは昨今のブームみたいなものでもあるが、宇宙から見れば地球上の世界は微々たるものだ。それならいっそのこと、宇宙を見て全てを見渡せばいい。

しかし、望遠鏡の性能にも限界があるので、眼で宇宙を見渡すには限界がある。しかし紙とペンさえあれば宇宙を全て見渡すことが可能だ。しかしおそらくまだ誰も宇宙全てを見渡してはいない。初めて宇宙を見渡す人間は誰になるのであろうか?

幾何化予想(ポアンカレ予想)を解決した数学者ペレルマンは、幾何化予想を解決することによって宇宙を見たと言ったという。しかし僕の個人的見解では、ペレルマンはまだ宇宙全体は見ていないと考えている。ペレルマンの3次元幾何だけでは、相対論的宇宙を見るのにはまだまだ不足がある。

宇宙の果てというものは、望遠鏡で見るものではない。紙とペンで見るものであると僕は考えている。紙とペンには限りない可能性が秘められている。

規則を破ることの大切さ。

規則を破ると言っても、やみくもに何でも破れと言っているのではない。「破るべき規則を破ることが大事だ」ということを言っている。

規則というものは全知全能の神が作ったわけではない。規則を守る者が人間ならば、規則を作るのも人間だ。従って、規則の中には明らかにおかしい、理にかなっていない規則というものが多く存在する。そこでやみくもに「規則は絶対的に守らなければいけない」と思考停止するのではなく、「その規則は本当に必要なのか?理にかなっているのか?」ということを、しっかりと自分の頭で考えることが重要だということを言いたいのである。そのうえで、その規則が明らかにおかしい、全く理にかなっていないと判断したのならば、それを主張の上、破ることが重要である。

この、規則を破るという行為は、できれば小中学生のうちから身に付けておきたいスキルである。子供の頃に、一方的に「規則は何でも守らなければいけない」という考えが染み込んでしまえば、大人になると、「支配者の言うことは何でも盲目的に従順する一方、立場の弱い人、あるいは子供に対しては一方的に規則で縛り付ける」という大人になってしまう。

規則を破るという行為は、「自分の頭でしっかりと思考する」という、人間が自立して生きていくうえで非常に重要な行為に直結する非常に重要なことである。

悩む暇があったら実行しよう。

僕はかなりくだらないことで悩むことが多い。特に悩みの先取りは、何のメリットもなく、くだらない。まだ起きてもないことで悩む暇があったら、とにかく実行することが先決だ。

そして悩むには、意味のある悩みと無駄な悩みがある。悩むことから文学や音楽を生み出すクリエイティブな人間は非常に素晴らしい。作曲家のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」はまさに、悩んだ末に生まれた名曲だ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」という名著もある。

しかし、普段我々が遭遇する悩みのほとんどは、くだらない悩みだ。少なくとも僕の場合はそうだ。チャイコフスキーやゲーテのような価値のある悩みというものを体験してみたいものである。そんな貴重な悩みができないのならば、せめて有意義なことに行動を移して、無駄な悩みを頭の片隅に追いやろう。

科学の皮をかぶった嘘に惑わされるな!

非科学的なものは見破るのも簡単だが、科学の皮をかぶった嘘(疑似科学)というものは幾分厄介だ。疑似科学は一見論理的に見える。なので、論理的=科学的、と間違った判断を下す人も多い。しかし多くの疑似科学は、根っこ、すなわち出発点である前提条件が間違っていることが多い。間違った条件から出発した論理は、もちろん間違っている。

そしてよくあるのが「論理の飛躍」。部分部分は論理的でも、あるところで論理の断層が生じている。もちろん論理の断層(飛躍)は単なる思い付きに過ぎない。

そして「嘘の統計」に基づくものもある。初めから嘘をつくつもりで嘘の統計を持ち出すのはもちろん悪質だが、統計サンプル、あるいは統計手法に偏りがあり正確ではないものが多く存在する。これについてたちが悪いのは、話を持ち出す本人もこの問題点に気づいていないことだ。話す本人も統計に基づいた話だから科学的だと思っているのである。

論理的であるか、嘘であるかは、話を聞かないとわからないことだが、中には話のテーマを聞いただけで非科学的であると即断できることもある。このような即断できるようなセンスと論理力を、日頃から養っておかなければならない。

他人に対して興味を持つこと。自分の事に没頭すること。

他人の事に興味を持つことは、非常に大事である。とは言っても、有名人のスキャンダルとかそんなことではない。そんなことはどうでもいい。興味を持つべきは、他人の生き方、他人の技術、他人の知識など、自分に対してフィードバックできることに興味を持つことが大事である。他人のことなどどうでもいいという姿勢が、自分に対して没落的な方向へと向わせることになる。

その一方、他人のことなどお構いなしに、自分のすべきことに没頭することも大事である。他人の眼ばかり気にしていれば、新しいことはできない。革新的な事を成し遂げるためには、他人の眼ではなく自分の信念を貫くことが大事である。

周りの事のうち何に関心を寄せ、自分の事のうち何に没頭すべきか。それは自分の目指す生き方、そして目指す職人像によって変わるであろうが、どのような像を目指すにしても、基本的なことは共通しているので、その共通する基盤はしっかりと把握しておかなければいけない。

一点集中突破!

物事に取り組む時には、大きく二つに分かれるのではないかと思う。一つは狭い分野を集中的に極めること。もう一つは幅広く大きな問題に取り組むこと。

後者の場合、取り組むべき分野は自然と多くなり、複数の分野の見識が必要になる。しかしだからと言って、専門的な知識が全く必要ないわけではもちろんない。学際的な分野横断型の問題に取り組むときにも、一つの分野を極め軸足をつくることは非常に重要である。いつまでも幅広く普通に取り組んでいれば、いつまでたっても深く掘り下げることができない。

まずは一点集中突破的に一つの分野を極め、そこからじわじわと範囲を広げるのがセオリーであろう。あるいは、極めた分野に他の分野の見識を持ち込み融合する。そうすることによってブレークスルーが生まれることもよくある。

どちらにしろ、自分の専門を作り、そこで一点集中突破を成し遂げ、そこから大局的な視点から幅広く全体を見渡すことが大事である。

福井中2自殺。教師のための学校になってはいなかったか?

福井で起きた中学2年生の自殺事件で、当時の状況が明らかになりつつある。

自殺した中学生は、度々教師から過度の叱責を受けていたという。「聞いた人が身震いするくらい怒られていた」(朝日新聞デジタル)という証言もあるそうだ。このような事例は定期的に起こっているが、その度に思うのが「教師のための学校になっているのではないか?」ということだ。

学校は言うまでもなく子供に対する教育の場であり、子供のための施設でもある。学校というものは「子供ありき」で考えなければいけない。しかし今回の事例などは、「教師ありき」であり、教師の円滑な運営のため、あるいは教師のエゴによってもたらされたと思わざる負えない。

もちろん、昔に比べて状況は改善しているようにも思え、体罰についても昔に比べればかなり減ってきているようにも思える。しかし今回の事例のような悲惨な事件は後をたたない。

昔はこのような事件は今よりもかなり多かったのかもしれない。ただ明らかになっていなかっただけだと思える。今は少なくなったとはいえ、このような事件は一件たりとも起こしてはならない。そして交通事故とは違って、ゼロにすることは不可能ではない。教師の意識次第で絶滅させることは可能だ。そのためには繰り返し述べるが「生徒のための学校」という認識を強くもつことが必要である。

普段、触れない分野に接して。

普段触れるものはどうしても、専門の事ばかりに偏ってしまう。例えば、読む本と言えば専門書に偏り、小説を読むことは最近は皆無になっていた。

先日のブログで書いたが、カズオ・イシグロさんの小説を買って読み始めた。ノーベル文学賞を取ったから読むというのもいかがなものかとは思うが、これも新しい分野に触れるきっかけとしては十分にありではないかと思う。

まだ全部は読んでいないが、話の本質はそこそこ深い。小説であってもただ表面的に流せばいいというものではもちろんない。その背後にある本質、そして描かれている世界の文化、イシグロさんの小説の世界観はこれまでに僕が全く体験したことのないものだ。

小説、それも特に僕からは遠い世界観にある小説を読んで、少しだけ世界観・人間観が広がるように感じている。正直、イシグロさんの小説を理解する自信はなかったし、どれだけ深く掘り下げることができるかわからないが、きっかけはどうであれ、読後に読んでよかったと思える可能性が少しは出てきたように感じる。

科学は間違いを犯しながら発展していく。

科学と言うと、「正確なもの」「絶対的に正しいもの」だと思われがちだが、科学のこれまでの歴史は間違いを修正していく歴史でもある。

例えば、物理学はニュートンにより打ち立てられ、自然の法則を寸分の狂いもなく表すものだと思われていた。ところがそれから200年以上経ったころに、それはアインシュタインにより否定される。そのアインシュタインの理論も現在では完全だとは思われておらず、量子重力理論などのアインシュタインを超える理論の出現が期待されている。

とは言え、物理学は科学の中でも特に精密な部類に入る。生物学や地学などでは修正どころか前時代の理論が完全否定され、全く反対の事が正しいとされることがよくある。

しかし、科学が間違っているととらえるのは間違っている。多くの科学は非科学的なものよりも圧倒的に正しく正確だ。しかも科学には根拠(理論)が存在する。なので、基本的には科学に基づいた考えを受け入れるのが原則である。

もし現在の科学が100%正しいのならば、科学の発展は完全に止まってしまう。現在の正しい科学から、「より正しい科学」へと脱皮していくのが科学の発展というものである。

科学者の探求心は常に深いレベルへと向けられ、継続的発展が行われることになる。

僕には文学的感性はあまりないが。

昨日、本屋に立ち寄ると、さっそくノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロさんのコーナーが設置されていた。まだ十分に仕入れができていないせいか、本の冊数は少なかったが、五タイトルほどの小説が揃っていた。

何気なくイシグロさんの小説を手にとって眺め、裏表紙にあるあらすじを読んでいると、「日の名残り」という本がなんとなく気になった。しかもこの本は文庫で360ページほどで、決して分厚くなく(もちろん薄いわけでもないが)読みやすそうだったので、ノーベル賞を受賞されたことも読むきっかけにはちょうどよいと思い、この本を購入することにした。

最近は小説とは無縁の生活を送り、ここ数年、小説などは全く読んでいなかったのだが、以前小説を読んだのはいつだろうかと考えると、何年も前(たぶん十年くらい前)に島本理生さんの「ナラタージュ」を読んで以来全く読んでいないことに気付いた。もう少し読んでいたと思っていたのだが・・・

半年ほど前に、ナラタージュが映画化されることを知って、これが公開されたら観に行こうかと思っていたのだが(最近公開されたみたいだ)、僕自身、映画は全くと言っていいほど観ないので、行くきっかけがなくてどうしようか迷っている。僕は映画に対する感性もあまりないと思っている。そして映画の料金がいくらするかということも、千円台くらいということしかわからない。

話しは初めに戻るが、イシグロさんの「日の名残り」を読んで面白かったと思えるのかどうかわからないが、読んでよかったと思えることを期待している。

本当に重要なのは、日本で活躍する外国生まれ・外国籍だ!

今年のノーベル文学賞に決まった、カズオ・イシグロさん。彼は日本生まれの英国人だ。日本生まれの外国人受賞者は、青色発光ダイオードの中村修二さん(米国人)、素粒子論の南部陽一郎さん(米国人)がいる。彼らは日本生まれの元日本人だと大きく騒がれた。

しかし、本当に重要なのは「日本で活躍する外国生まれの外国籍」だ。中村修二さん、南部陽一郎さんはいわば頭脳流出組であり、厳しく言えば「日本を見限った」と言える。

これから重要になってくるのは「いかに海外の優秀な人物を日本に受け入れるか」だ。優秀な外国人に、「日本に行きたい」と思わせるような国にならなければいけない。

もちろん、研究の分野に限らず、ビジネスマンなど様々な分野に関してだ。世界の中から日本が選ばれる、そのような国を作り上げることが、これからの日本の発展には欠かせない。

迷った時には、苦しい方を選べばまず間違いない。

進路に迷った時、どちらを選ぶか?もちろん人それぞれの考えがあり、時にはより楽な方を、時にはより苦しい方を選ぶであろう。もちろんどちらが良いとは単純に断定はできず、ケースバイケースで選べばいい。

僕はどちらに進むか迷った時、最終判断としては、楽な方より苦しい方を選ぶことにしている。これは単に自分の信念に基づいたものにすぎないが、ただ経験則として、苦しい方を選べばまず間違いない。特に長い目で見ればそのことは顕著に表れる。

ただ苦しい方を選び続けるのは本当に苦しい。それは僕だって同じだ。本当に苦しい。ただ投げ出そうとは思わない。とは言え、自分に合っていないと思ったことは、早い時期に投げ出すこともある。

今の僕の現状も非常に苦しい。しかし、だれよりも希望にあふれている。そして今すべきことは、その希望を実現するために一歩一歩突き進むことだ。

できない気がしない。できる気しかしない。今の苦しみも、そこへと進む道のりの過程にすぎない。あとは時間との勝負だ。しかしだからといって、焦ってむやみに急ぎ過ぎてはいけない。どっしりと腰を据えて取り組んでいくことが大事である。

ゲスの極み乙女。川谷絵音氏は、僕よりも二枚も三枚もうわてだった。

先日、「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音氏らが、週刊文春とコラボして、文春本社で撮影をしたという。川谷氏と週刊文春と言えば、川谷氏のスキャンダルを週刊文春が紙面で暴露したという因縁の関係だ。僕自身はこのニュースを見た時、週刊文春の行為は明らかにプライバシーの侵害であり、川谷氏が週刊文春を訴えてもおかしくないのではないかと思っていた。

しかし川谷氏はそれを逆手にとって、週刊文春とのコラボに出るという大技に出た。川谷氏のこの柔軟な発想と戦略には、僕も本当に脱帽だ。川谷氏は僕よりも二枚も三枚もうわてだったのである。

川谷氏の今回の行動を見て、川谷氏に対する見方が大きく変わった。以前、川谷氏らの音楽を聞いて、素人の僕にも川谷氏の音楽の才能には非凡なものがあると感じていたが、川谷氏はビジネスマンとしても一流であると今回感じた。

これから川谷氏は世の中に対してどう出るのか?注目したいものである。

楽しむこと、結果を出すこと、勝負に勝つこと。

勉強・仕事・物事に取り組むとき、まずは楽しむことが大事である。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、楽しむということは最大の武器である。

しかし、楽しんでばかりではいけない。勉強でも仕事でも、結果を出すことが求められる。楽しむことは最大の武器だと書いたが、時にはストイックに苦しむことも必要だ。しかし、ストイックに打ち込むということは、必ずしも苦しいだけのものではなく、これが快感になる。

そして、時には勝負に出ることもある。勝負ではもちろん勝つことが求められる。例え負け続けても、最後に勝てばいい。最後の勝負が重要である。

楽しむことから始め、そこから結果を出し、そして勝負に勝つ。僕自身このようなことが実践できているかと言えば、はっきり言って心もとないが、これを理想の形として求め続ける姿勢は常に持ち続けたい。

アマチュアの発想と、プロの実行力。

プロと言えども、豊かな発想を持ち合わせている人はあまり多くない。逆に、アマチュアが面白い発想やアイデアを出すことがよくある。ではアマチュアとプロを分けるものは何か?それは実行力である。

例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時、ある哲学者が「私は相対主義者だ。だから私に数学的才能があれば、私が相対論を発見していた。」と言ったという。相対主義というのが相対論を発見するアイデアだとは到底思えないが、百歩譲ってそれがアイデアとする。しかしプロ(物理学者)がプロである所以は、アイデアを実行に移す(数学的な構成を行う)ことにある。相対主義だけで終わらせれば、それは物理でも何でもない。

しかし、豊かな発想を次々と打ち立てるアマチュアがいる。もちろんアマチュアだからその後が続かないわけだが、プロは豊かな発想をするアマチュアを見習わなければならない。

豊かな発想を持ち合わせたアマチュアの感性と、それを構成するという実行力を持ち合わせたプロの技術、その双方を持ち合わせた人間が、新しい境地を切り開いていく開拓者となりえるのである。そのどちらか一方が欠けても大きな成功を成し遂げることはできない。

他分野・他業種の人の話を聞くのが面白い!

勉強でも仕事でもそうだが、普段接する情報は自分の専門領域の事に偏りがちになる。もちろん、専門領域に関する情報は重要であるが、そのようなものは水や空気のようなものである。

そのような時、全く他分野の人の話を聞くと、刺激にもなるし面白い。もちろん視野も広くなる。

誰もが24時間、専門の事だけで生きているわけではない。時間の空いた時には街に出かけることもあるだろう。そのような生活の中で、専門外の世界と触れることは多々あるのだ。従って、自分の世界観・人間観を広げるためにも他分野・他業種の人間と接することは必要だ。

さらに、他分野の話だから自分の専門とは関係ないかと言えば、そうでもない。他分野の情報から、自分の専門に関するヒントを得られるときもある。すなわち、知識に深みと幅を持たせることは、自分の専門に対してもメリットが大きい。

現代は何かと多様性が大事だと言われるが、このように知識にも多様性を持たせることは非常に重要である。

問題を“見つける”ことの大切さ。

学問でも仕事でも、つい「問題を解くこと」ばかりに目が行きがちになるが、それと同じくらい、いや、それ以上に大切なのが「問題を見つけること」である。この「問題を見つけること」の大切さは、成長すればするほど、あるいは極めるほど、その重要性が身に染みてわかってくる。

優秀な受験生が、必ずしも優秀なビジネスマン・研究者になれない一因は、これにあると感じている。入試問題・試験問題というのは、「問題を解くこと」しか評価していない。すなわち、「問題を見つけること」に関してはほとんど手付かずなのだ。入試というものは才能の半分(それ以下?)しか判断していない。そういう意味では、入試というのは‘‘所詮’’入試でしかないのだ。

世の中には、高学歴でなくても優秀な人は数えきれないほどいる。その一方で、学歴しかない人もたくさんいる。優秀な人物は、問題を見つける能力が高い。もちろんそれに問題解決能力があれば百人力だ。

問題を解く力だけではなく、「問題を見つける」というクリエイティブな視点を常に持つことが非常に大切である。

カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞受賞。

日系英国人のカズオ・イシグロさんが、ノーベル文学賞を受賞した。日本人として嬉しい限りだ。その一方、僕はイシグロさんのことを何も知らなかった。そんな無知な自分が恥ずかしい。

前評判では、村上春樹氏の受賞が有力視されていた。それを覆してのイシグロさんの受賞。有力候補が受賞するのはもちろん素晴らしいが、今回のような驚かされる受賞もまた素晴らしい。

村上春樹さんが偉大な作家であることは異論がないと思うが、僕は村上さんの作品に対してあまり感じるところがない。以前、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を読んだが、読み終わっても特に何も感じることができなかった。もちろん、僕自身に文学作品に対する感性がないということなのだろうが、個人的には村上春樹さんの作品を再び読む気にはなかなかなれない。

今回受賞されたイシグロさんの作品はもちろん読んだことはないが、イシグロさんの作品を読んで素晴らしいと思えるかと言われると、正直自信がない。なので、僕自身は村上さんやイシグロさんに対して評論する資格など何もなく、ここで述べる資格もないのかもしれないが、イシグロさんという日本生まれの作家がノーベル文学賞を受賞されたことは、素直にうれしい。そしてこれから先、村上氏が受賞された際は、村上作品の素晴らしさを、この文学感性のない僕に教えてほしい。

4番・ピッチャー、大谷翔平が見せた日本人の夢。

10月4日、日本ハムの大谷翔平が本拠地最終戦で「4番・ピッチャー」で出場した。4番ピッチャーは大谷翔平が「最強打者であり、最強投手」である証であり、プロ野球ファンの夢でもある。そして、大谷選手の日本最終登板の可能性も大いにあり、今回の登板は、大リーグ挑戦前の見納めになる可能性もある。

大谷翔平の凄いところは、このような節目の試合で必ず「魅せる」プレーをすること。去年の優勝を決める試合で締めたのも大谷翔平だった。そして今回は、日本最終登板(の可能性のある試合)で、2安打完封である。

去年は、「1番・ピッチャー」で先頭打者初球ホームランというのもあり、漫画の世界だと言われたが、今回の「4番・ピッチャー」というのも、それだけで漫画の世界である。

来年、メジャーへ移籍の可能性が高いが、もちろん日本人の夢はメジャーでの二刀流、さらに妄想を言えば、「メジャーで4番・ピッチャー」と言いたくなる。しかし、大谷翔平なら、そんな妄想も成し遂げてしまう可能性もあるように感じさせられる。

最速165キロの速球と、超特大アーチを飛ばす大谷選手は、どこまで上り詰めるのだろうか?一ファンとしてもワクワクしてしまう。

重力波観測から、重力波天文学へ。

2017年度のノーベル物理学賞に、重力波を世界で初めて観測した、アメリカの重力波観測施設「LIGO」のワイス博士、ソーン博士、バリッシュ博士の三人が受賞されることが決まった。

僕自身は実験に関しては非常に疎いので、実験の詳細な内容は説明しきれないが、この三人のうちソーン博士は、理論家の間でも有名な名前だ。

というのは、超有名な重力理論の専門書、マイスナー、ソーン、ホイーラーの三人の著書「GRAVITATION(重力理論)」の著者のうちの一人であるからだ。この「GRAVITATION」は非常に分厚い書物で(日本語版は1324ページある)、研究者の間では通称「電話帳」と呼ばれている。「電話帳のソーンだ」と言えば、ほとんどの理論家でもわかるだろう。

今回の授賞理由となった重力波の観測は、まだ「検出した」という段階なので、これからどう具体的な「観測」へと結びつけるかがこれからの課題であろう。

「重力波天文学」という言葉もでき始めているらしいが、このような分野が発展した暁には、ブラックホールの観測などに大きな威力を発揮するものと思われる。

マルチタスクを楽しむ。

マルチタスク(複数同時作業)という言葉は、最近はパソコンやタブレットで複数の画面を開いて同時作業するということを表す言葉としてよく使われている。しかし現在の複雑化した社会では、仕事や日常生活でもマルチタスクをするような場面に頻繁に遭遇するのではないか。

物事に取り組むとき、一つの事に落ち着いて集中できる環境があることは素晴らしいことである。しかしなかなかそうはいかない。強制的にマルチタスクを迫られる。この様な時、マルチタスクを迫られ、ストレスを感じる人も多いと思うが、そこは開き直って、一層の事、マルチタスクを楽しんでしまうという手も大いにありだ。

僕自身も以前は、一つの事に心置きなく集中するということに憧れを持っていたが、最近は逆にマルチタスクで物事を進めることを楽しむことを覚えた。これが結構面白い。いろんなことに取り組んで忙しい気もするが、そんな状況も楽しめばいい。

マルチタスクで進められることはそれでどんどん進めて、そして一つの事に集中したい時にはその時間も確保する。そのような時間の振り分けを上手くできれば、物事を楽しみながら一層はかどらせることができる。

見る立場が違うと、こうも変わるものか。

IS(イスラム国)兵士を300人以上殺害した、”名”狙撃手がいたという。最近、その名狙撃手が戦闘で殺害されたという。

もしこの狙撃手がIS兵士だったら、どう呼ばれていただろう。「悪の根幹」か?「残虐兵士」か?どちらにしろ、悪魔の存在のように扱われるだろう。

しかし狙撃手は、「正義???」の側の人間である。従って英雄とされている。

IS兵士とISを攻撃する兵士、立場によって見方はこうも変わるものかと妙に納得してしまう。どちらもやっていることは同じなのに・・・

これは必要悪というものかもしれない。納得してしまうと書いたけど、やはり完全には納得できない・・・

なぜ基礎科学が重要なのか?

10月2日(月)からノーベル賞の発表が始まる。文学賞で注目されている村上春樹も気になるが、やはり科学分野3賞がどのような分野に授与されるかは注目されるところである。

ところで、ノーベル賞は基礎科学重視である。もちろん2014年の物理学賞の青色発光ダイオードのような応用分野に授与されることもしばしばあるが、割合で言うと基礎分野への授与が多いのではないかと思われる。

では、なぜ基礎科学が重要なのか?その答えを誤解を恐れずに一言で言えば、「基礎科学の方が純粋に科学的価値が高い」からである。それの対比として応用分野の重要性を一言で言うと「役に立つ」ということであろう。

しかし厄介なのが、この基礎科学の「科学的価値」というものは、なかなか多くの人には理解されない。純粋科学の科学的価値は、数値では表現できないし、言葉でも簡単に表せない。そのせいか、基礎科学を研究している人に対して「道楽だ」という言葉を投げかける人もいる。なかなか基礎科学の重要性をわかってもらえないのが少し悩ましい。

もちろん、応用科学も元をたどれば基礎科学の結果の上に成り立っている。基礎科学がなければ応用科学も存在できない。そう言えば少しは基礎科学の重要性はわかってもらえるかもしれない。しかしそれは純粋に「価値」を理解するのとは少し違う。

ほとんどの基礎科学者は「基礎」を研究していることに誇りを持っている。そして「基礎」の価値と重要性をどこまで理解して受け入れられるか、それは社会の熟成度を大きく示すものである。