月別アーカイブ: 9月 2017

健康を持て余すな!

言うまでもなく、健康は最大の財産だ。健康を崩している人はより健康に、そして健康な人はその健康な体を最大限に生かさなければならない。

とは言え、健康を崩している時は健康であることのありがたさを十分に感じるものだが、日常的に健康である人は、なかなか健康であることのありがたさを感じることができない。

しかし、健康であることは最大の武器でもあり、才能でもある。しかし、それを意識せずに怠慢してしまう人間も多い。すなわち健康を持て余しているのだ。

健康を持て余すのは、最大の浪費である。お金の浪費は、大なり小なりそれに見合う授受があるが、健康の浪費は無駄以外の何物でもない。

どの人間でも、100%健康であるという状態はなかなかないかもしれないが、100%でなくても自分が健康であると感じているならば、その健康な心身を最大限に生かして物事に取り組みたいものである。

最後はやはり、自分を信じ抜けるかどうかだ!

「他人の意見をしっかりと聞くことが大事だ」とは、よく言われる。確かに他人の意見が役に立ったとか、それによって成功したとかいう話はよく聞く。しかし他人の意見一辺倒では、自己が入る余地はない。そのような生き方をしても、それは他人の生き方でしかない。

僕は、「失敗してもいいから自分を信じ抜くこと」を大事にしている。上手くいくかどうかわからない他人の意見に従うよりかは、上手くいくかどうかわからない自分の考えに従うことの方が賢明だと考えるからだ。そして、自分自身で出した判断に従えば、例え結果がどうであろうと納得できる。

上手くいかなくてなかなか結果が出ない時、他人の意見に従いすぎて右往左往している人間を見かける。そうではなく、なかかな結果が出ない時こそ、自分を信じ抜くことによって打開策を模索することが大事だ。

最後まで自分を信じ抜けるかどうか、苦しい時こそそれにかかっている。

来週、ノーベル賞発表。これからの日本の科学の行方。

来週月曜日の医学・生理学賞を皮切りに、ノーベル賞受賞者の発表が始まる。受賞者をニュース速報で知るのもいいが、ノーベル財団公式サイト「Nobelprize.org」で、発表の中継を見るのも面白い。この公式サイトはもちろん全て英語で書かれているが、ノーベル賞のこれまでの歴史や特集など盛りだくさんで、結構面白い。

ところでこれからの日本のノーベル賞、もっと広く日本の科学界はどうなっていくのであろうか。最近しばしば忠告されていることであるが、日本の科学の将来はかなり暗い。そのことは、2015年物理学賞受賞の梶田教授や、去年の医学・生理学賞受賞の大隅教授も頻繁に口にしている。

その原因は、日本の「基礎科学の軽視」にある。最近の日本の科学政策は、圧倒的に応用重視だ。役に立つもの、さらに言えば儲かるものに対して、圧倒的に予算が回される。もちろん、ノーベル賞だけが科学ではないが、ノーベル賞は圧倒的に基礎科学重視である。

20世紀まで、日本は圧倒的に基礎科学に対して寛容であった。それが湯川秀樹をはじめとする基礎科学者のノーベル賞受賞につながってきた。

役に立つ科学・儲かる科学の価値は非常に分かりやすい。しかしそれらの応用科学は言うまでもなく基礎科学の下に成り立っているのであり、基礎科学は国家の科学力の基礎体力である。すなわち基礎科学軽視は、役に立つ儲かる科学の衰退にも結び付いてくる。

iPS細胞研究も、元はと言えば基礎科学の研究であった。それが今では再生医療という圧倒的に役に立つ科学に昇華している。

日本人のノーベル賞受賞が続いているとは言え、科学技術立国としての日本の将来は非常に暗い。そのような展望を修正するには、文科省などの科学政策に関わる官僚・政治家の基礎科学に対する認識を変えるしかない。

麻生副総理の発言。

麻生副総理が、朝鮮有事の際の難民発生に関して、「武装難民かもしれない。防衛出動か。射殺か」(時事通信)という発言をしたことが、物議を醸している。確かに麻生氏の発言は極端にも思え、問題がないとは言えない。

しかし現実問題として、武装難民の可能性はないとは言えない。韓国難民が武装するとは考えられないが、北朝鮮国家が意図的に難民に武装集団を潜り込ませることは考えられる。

実際、IS(イスラム国)との内戦で混乱している中東では、ISが難民の中に武装集団を潜り込ませて、意図的に混乱を起こしている。麻生氏はそのような事例を念頭に置いて発言したのだと思われる。

日本政府の首脳として、あらゆる事例を想定して対処することが求められる。そのような想定事例として、北朝鮮が武装集団を難民の中に潜り込ませるということも、可能性としては考えなければならない。

麻生氏の発言は行き過ぎた感もあるが、その一方で万全の態勢を取ることの必要性を訴えているようにも捉えることもできる。

”投資をしない”という選択肢も十分にアリだ。

ここ数年、アベノミクスの影響か、投資熱が持続的に熱くなっている。そのような状況の中で、「投資をするのが賢い選択だ」という風潮が蔓延していることが気になっている。

投資をするのが賢いという考えの裏では、「投資は必ず儲かる」という暗黙の了解があるような気がする。そのような了解のもとで、やみくもに投資へと走っていく事例をよく見かける。

しかし当たり前の話だが、投資をしても必ず儲かるという保証はなく、逆に大幅な損失を食らう人も多く出てくる。ウォーレン・バフェットのような”投資の神”ならともかく、一般の人にとって”投資すべき”という一択にするのは非常に危険だ。投資を”する”と”しない”という二択で考えなければいけないのは当然だ。

投資をしないことは賢くないのではなく、熟考した末で”投資をしない”という道を選ぶのは、それも賢い選択だ。

リーマンショックの頃は、多くの人が損失を食らい、投資の危険さを味わったはずだが、それから数年経ち、そのような危険も全く忘れ去られ、何の前提条件もなしに投資すべきという一般市民が多く出ることは、非常に危険であると感じる。

万人に好かれる方法なんてないんだから。

万人に好かれることばかりを考えていれば、当たり障りのない無色透明の人間になってしまう。しかもその結果、万人に好かれるなんてことにはまずならない。万人に好かれるものと言えば、ビートルズのyesterdayくらいであろう。

人に好かれるかどうかということも大事だが、それと同時に「自分自身が納得できるか」ということも大事だ。自分が納得できないことは、人には伝わらない。自分の口から出る言葉には、自分の人間性、そして生き方が現れている。

さらに言うと、同じ言葉でも、誰が言うかによって、意味合い・説得力が全く変わってくる。無責任な人間の言う言葉には、全く重みが感じられないのもそうであろう。

話しは戻るが、万人に好かれること以上に、「自分がどう生きるべきか」ということを考えなければいけない。その結果として、人に好かれればこの上ない。

日本人にとって”アメリカンドリーム”は覚悟が必要だ。

アメリカンドリームとは、アメリカ大陸開拓時代からある言葉であり、壮大なものである。これまで数々の人間が、このアメリカンドリームをものにしてきた。

しかし裏を返せば、アメリカンドリームにはリスクがあり、金銭的、あるいは身の危険的なリスクを承知の上で突き進まなければならない。

これまで、真の意味でアメリカンドリームをものにした日本人はいないと言われている。その原因は、日本人の性質にも大いに関係していると感じる。

日本人は「石橋を叩いて渡る」という言葉があるように、極端にリスクを嫌うところがある。また叩いても渡れば良い方で、「石橋を叩いても渡らない」という言葉も存在するくらいだ。

日本人がアメリカンドリームに挑むためには、アメリカ人以上に覚悟が必要だ。それはもちろん、地理的な制約もあるだろうし、英語圏ではないという制約もある。もちろん、本当にアメリカンドリームに挑む人にとって、そのような制約など些細なことかもしれないが。

現在では、日本に居ながらでもあらゆるドリームに挑むことは可能だ。だからわざわざアメリカにまで出向く必要なはいのかもしれない。しかし、日本国内規格ではなく、何もかもが世界的スケールで物事が進むアメリカという国は、非常にエキサイティングに感じる。もしかしたら、アメリカンドリームの本質は、金銭的な面以上に「エキサイティングを感じるか」という刺激にあるのかもしれない。

いつまでも笑っていこうと!

悩んでも腹を立てても、ほとんどいいことはない。それならいつでも笑って生きていく方が良い。

僕自身は、かなり喜怒哀楽は激しい方なので、笑う時は思いっきり笑うし、腹を立てるときは腹を立てる。

悩むことが必要な時ももちろんあるが、悩む暇があれば、その分前に進むことを考えたほうが良い。それもびくびくしながら進むのではなく、笑って天真爛漫に進めばいい。

周りの目など、あまり気にする必要はない。僕は全然出来た人ではないので、これからも周りからは非難ゴーゴーかもしれない。しかし、批難されることに対してのネガティブな考えよりも、これから成功した時に対してのポジティブな考えを常に持ち続けて行こうと思う。

僕はいつまでも笑って生きていくぞ!ワッハッハ!

「人生」という彫刻作品。

自分の人生をどんなものにするか?もちろん人それぞれであろう。人とは違う自分独自の人生を創るという人もいれば、みんなと同じ人生がよいという人もいるだろう。その違いはそれぞれの人生観の違いであって、どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

とは言え、僕自身はやはり、自分独自の人生を創りたいと思っている。

人生とは丸太を彫刻で削っていくようなものだと思っている。生まれたばかりの時は皆同じような丸太である。しかしその丸太に「人生」という彫刻を施していく。そして人生を終えるとき、その彫刻は完成する。

そのような彫刻作品に同じものは二つとない。他人と同じような人生だと思っていても、必ずどこか違いが生まれる。それなら思いっきり人とは違う、思いっきり個性のある彫刻作品に仕上げたい。その細部には、他人にはまねのできない技術も施したい。

これから先、どんな彫刻技術が施されるか、本当にわくわくする。

今おかしいのは、スキャンダル政治家ではなく、メディアと国民の方ではないかと。

最近の政治家の異性スキャンダル報道には、本当にあきれている。スキャンダルを起こした政治家に対してではない。スキャンダルを追及するメディアと、それに踊らされている(一部の?それとも多くの?)国民に対してだ。

良い悪いということと、物事の大小は、ほとんど関係ない。先日、自民党・二階幹事長が、森友・加計問題に対して、「小さな問題だ」という趣旨のことを発言した。それに対して批判もあるが、僕はもっともなことだと思っている。

森友・加計問題に対して、僕自身は真相を知る由はないので何とも言えないが、この森友・加計問題は悪いことではあっても、政治的に大きな問題ではない。なぜなら、現在の大きな問題は、北朝鮮問題であり、さらに経済問題であることは言うまでもないからだ。

メディアの報道によって、国民が森友・加計問題のような(小さいとまでは言わないが)大きくない問題にばかり関心が行き、本当に大きな問題が争点にならないのは、国民が自らの首を絞めることになる。

最近は、民進党・前原誠司代表の北朝鮮美女との2ショットが問題になっているようだが、そんなことが問題の争点になることに対して、そんな風潮が逆に心配になる。野党・民進党と前原代表に対して期待すべきことはそんなことではないだろうと。

とにもかくにも、今の日本と日本国民の風潮が、大変おかしな方向を向いていることが気になる。今おかしいのは、スキャンダル政治家ではなく国民の方ではないかと。

抽出した理想論ではなく、荒削りの現場の経験が重要だ!

自己啓発本の類の本を読む人は多いが、自己啓発本が役に立ったという話をほんとんど聞いたことがない。それはなぜか?

自己啓発本とか、最近流行の「~の言葉」という本には、非常にきれいにまとまった理想論が載っている。きれいにまとまっているので、非常にわかりやすい。

しかし、そこに載っている言葉は、著者が試行錯誤して考え出された言葉だ。その言葉だけを読んでわかったような気になるかもしれないが、本当に必要なのは抽出された言葉ではなく「抽出する作業」である。

そのためには、きれいにまとまった言葉ではなく、現場の荒削りな生の言葉に触れなければいけない。すなわち、たくさんの”事例”に触れながら、自分独自の理想論を作り上げることが重要なのである。

昔のテレビドラマで、映画にもなった”踊る大捜査線”(フジテレビ)の中で、「事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているんだ」と言う言葉があった。まさしくそのとおりであり、名言である。

前線で数多くの事例を扱い、そこから試行錯誤して自分自身の考え・理想を構築していく。それの繰り返しによって、あらゆることのスキルが身に付いていくものだ。

目標設定は適切か?

人間が生きるためには、何らかの目標が必要だ。短期目標・中期目標・長期目標、それぞれをリンクしながら人生を切り開いていく。そして目標は高すぎると全く近づくことができないし、低すぎても達成感が得られない。

僕の現在の目標は、他人から見るととんでもなく高い目標に見えるかもしれない。それは自分でも認識している。しかし、とてつもなく高い目標でも、それが崖の上にあるのか、それともそこへ続く階段が見えているのかで、全く事情は異なってくる。

垂直にそびえる崖の上にあっては、例え高さが5メートルでもたどり着くことはできない。しかし階段があれば、着実に進めば100メートルの高さでもたどり着くことができる。

僕には目標への階段は見えている。その階段は現実か、妄想か、それは実現できたときに証明される。それを証明するために、一歩ずつ着実に階段を上っていこうと思う。

実用と教養を使い分ける。

日々物事に取り組んでいると、どうしても役に立つこと、つまり”実用”に偏りがちになる。役に立つとは、非常に分かりやすい。役に立つと言えば、何でもうなずいてくれそうに思う。もちろん役に立つことは素晴らしいことだ。しかし何だか技術的な事に偏りがちのような気がする。

その対極にあるのが”教養”だ。しかし、教養はすぐに役に立つとは限らない。もちろん教養が役に立つことは多々あるのだが、大概の教養は、徐々に熟成されるのもだ。とは言え、教養だけで納得してしまうのは、半分は自己満足であるような気もする。

結局、実用も教養も両方大切なのだと気付かされる。すなわち、これらは車の両輪なのだ。

実用も教養も、現場での実戦があってのものである。実践無き教養など、何の意味もない。ここで実践とは、「人間としていかにして生きるか」という意味もあるし、「社会でどう行動を起こすか」という意味もある。

実用と教養の相互作用によって、新たなる広がりが生まれる。人生を、そして社会をどう切り開いていくか、そのための武器として、実用と教養を使い分けながら進んでいかなければならない。

北朝鮮、核・弾道ミサイルの脅威に対する認識のずれ。

最近の日本国民の、北朝鮮の脅威に対する認識のずれが気になって仕方がない。テレビニュースを観ると、「何度も日本上空にミサイルを飛ばして迷惑だ」とか、「もし飛んでいる途中に失速して日本国土に落下したらどうするんだ」という意見を耳にする。

しかし、現在日本が抱える北朝鮮の脅威は、全くそのようなことではない。むしろ、上の国民の意見のようなことで済んだらいい方だ。

北朝鮮の本当の脅威は、「日本国土に、核ミサイルをピンポイントで狙われること」だ。例えば、東京にピンポイントで核ミサイルを狙われると、犠牲者は数十万人にのぼるという試算もある。もちろん実際は、それより多いか少ないかははっきりしないが、甚大な被害になることは間違いない。

そして先日の北朝鮮による核実験については、原爆ではなく、それより桁違いに強力な水爆であると言われている。その威力は、広島・長崎に投下された原爆の10倍以上はあると言われている。

今の日本が置かれている立場は、想像を絶するくらい危険な状態だ。日米韓の三国が動こうにも、動いた瞬間に水爆を飛ばされるかもしれないと考えると、動くに動けない。現在の立場は圧倒的に北朝鮮の方が強い。アメリカが強硬に出ない理由もそこにある。

確かに、国民が強い危機感を抱いたところで状態が良くなるわけでもない。しかし、くだらないゴシップにうつつをぬかしている日本国民の現状は、日本が置かれた現状を全く認識していないと言わざる負えない。

基礎と先端の両方攻め。

物事に取り組むには、基礎を身に付けることが大事だ。基礎なしには応用はできない。とは言え、いつまでも基礎ばかりに気を取られていれば、いつになっても最前線に到達しない。

そこで、基礎を習得しつつも、同時に最先端の事柄にも取り組むことが有効になる。基礎を100%習得する前に最先端を知ることによって、逆にどういう基礎が必要なのかということが見えてくる。それによって、本当に習得すべき基礎だけに集中できるので、時間の短縮にもなる。

このように、基礎の習得に励みつつ、最先端の事柄も視野に入れることによって、効果的な成果を挙げることができる。

今日決められないことは、1年経っても決められない。

僕が最近心がけていることは、「今日、絶対に決めるぞ!」と物事に取り組むことだ。「明日決めるぞ」と思っていれば一か月経っても決められないし、一か月経っても決められないことは一年経っても決められない。そして一生経っても決められないとずるずる引きずってしまう。

とは言っても、「今日決めるぞ!」と取り組んでも、大概今日決めることはできない。それならば、次の日も「今日決めるぞ!」と心がけて取り組む。毎日「今日決めるぞ!」と取り組むことによって、上手くいけば一か月後に成果を出すことができるかもしれない。間違っても、初めから「一か月後に決めるぞ」とは思わないほうが良い。

人生、毎日が真剣勝負。笑ったり、悩んだり、いろいろあるが、真剣に笑い、真剣に悩むことが大切だと思う。そのようにして、一日一日を刻んでいきたい。

「一発逆転」とは、才能と努力で成し遂げるものだ!

「一発逆転」と言うと、棚からぼた餅のように、運(ハプニング?)だけによってもたらされるものと思っている人が多い。お金のギャンブルがまさしくそうであろう。しかしそんなギャンブルでの当たりなど、はっきり言って”事故”でしかない。

一発逆転は、才能を駆使して、かつ、努力を重ねることによって成し遂げるものだ。

失敗に理由があるように、成功にも必ず理由がある。もちろん、運が全く関係ないと言えば嘘になる。運だって絶対に必要である。しかしそのような運は、才能と努力という前提があってのものだ。そして運をつかむのも実力とも言える。

「なんかいいことないかな~」と妄想する暇があれば、これからどのように実行しようかと思考し、行動すればよい。才能・努力・行動は、成功するための三点セットである。

楽しんで取り組める実力。

仕事でも日常でも、楽しんで取り組めるというのは素晴らしいことだし、それは実力でもある。もちろん仕事は楽しいことばかりではなく、時には非常に苦しく、厳しいものである。特に責任がのしかかる仕事は真剣勝負であり、プレッシャーも半端ないであろう。

そんな厳しい環境でさえ楽しめるのは、それは立派な実力だと言える。もちろん気の緩みは許されないが、「真剣に楽しめる」というのは素晴らしい。

とは言え、仕事は人それぞれ様々である。楽しいのが良いとか、苦しむくらいの気持ちでやらなければいけないとか、一括りで断言することはできない。

20年近く活躍した元プロ野球選手は、「楽しいと思ったことは一度もない」と引退するときに語っていた。そんな厳しさももちろん実力あってのものだろう。

自分への厳しさも実力、それを楽しめるのも実力と言える。何事に関しても、中途半端に手を抜くのが一番ダメだ。やるなら全力投球、それが人生を成功させる秘訣かもしれない。

21世紀は”生物学”の世紀になるか?

もう21世紀に入ってしばらく経つが、21世紀の科学はどのようになるのだろうか?

20世紀は「物理学の世紀」とも言われる。19世紀最後の年、1900年に発表されたプランクの量子仮説に始まり、20世紀初頭、量子力学と相対性理論という物理学の二本柱が確立された。その後の物理学はこの二本柱をベースに発展していく。

20世紀の物理学が”革命的”であったのに対して、20世紀前半の生物学は”古典的”であった。その生物学に革命が起きたのはもちろん、ワトソン、クリックによる遺伝子の二重らせん構造であることは言うまでもない。そして20世紀後半、分子レベルから見た生物学、つまり分子生物学が生まれる。

1990年代に入り、「ヒトゲノム解析計画」が進められたことにより、生物学に再び革命が起きる。21世紀の生物学の爆発の着火点は、もちろんこのヒトゲノム解析計画であることは言うまでもない。

21世紀の生物学は、革命の連続である。その一つはもちろん山中伸弥博士のiPS細胞の発見であろう。そしてその後、遺伝子を自由自在に操る「ゲノム編集」というとんでもない技術が確立された。これからの生物学では、このゲノム編集が重要な役割をすることは容易に推測される。

現在、物理学は熟成期に入ったと言える。それに対して生物学はまさしく爆発期である。

これから100年近く経ったとき、21世紀は生物学の世紀であったと言われる可能性は非常に高いが、この生物学の爆発的発展を見ると、生物学がこの後どのように発展していくか、全く想像できない。

物事を「理想化」して考えることの大切さ。

考える対象が複雑であるとき、対象をそのまま受け入れるとどうにもならないことがよくある。その時に大切になるのが「理想化」という操作だ。

物理学は理想化の代表例とも言える。物体の運動・現象は非常に複雑であることが多い。そのような時に、運動・現象の本質的な側面だけを抽出して、不要な要素を捨て去るのである。そうすると、非常に見通しが良くなる。この様な操作を「理想化」と言う。

理想化は、何も物理学だけのものではない。多くの学問でも行われているし、身の回りの出来事を考えるときでも理想化は無意識に行われている。

物事の本質を見抜けるかどうかは、理想化できるかどうかにかかっているとも言える。常に理想化的な思考ができるようになると、見える世界も大きく変わるであろう。

100m・9秒台、桐生祥秀に見る勝負の世界。

9日、陸上の桐生祥秀選手が、100mで日本人初の9秒台となる9.98を記録した。9秒台というとアフリカ系の選手の独壇場というイメージがあったが、ついに日本人が、という思いである。

陸上の世界は正真正銘の弱肉強食の世界。勝負に命をかける人間の世界である。だからこそ、強弱が非常に分かりやすい。0.01秒でも速い人間が偉いのである。

桐生祥秀選手は大学4年生、来年は実業団に入るのか、それともプロになるのか、わからないが、日本人初の9秒台を出した男として永遠に名前を刻む桐生祥秀は、これからもさらに上を目指していくだろう。

われわれ外部から見て、非常に華やかな話題だが、100mの世界は想像を絶するくらいに厳しい勝負の世界だと思われる。最近、桐生祥秀のほかに山県亮太、サニブラウン・ハキーム、多田修平、ケンブリッジ飛鳥と数多くの日本人選手が活躍しているように思えるが、逆に言うと世界で渡り合える日本人はこの5人だけとも言える。1億2千万人の日本人のうち、この5人しか100mでは飯を食っていけないのである。

100m走は小学1年生でもできる。世界で最も競技人口が多いスポーツとも言える。走るだけなら僕でもできる。しかしそれで飯を食えるのは日本で5人だけである。この究極の勝負の世界だからこそ、大きな魅力を感じる。もちろん走っている彼らは0.01秒に生死がかかっている。

100mの彼らほどではないが、勝負の世界で生きている人間は多い。さらに言えば、人生そのものを勝負だととらえている人もいるだろう。一度きりの人生、勝負だと思って桐生祥秀のように走り抜けたいものである。

”裏”を読むより、”深く”読むことが大事だ!

”裏”を読むというのは、奇抜であり、インパクトがある。それゆえに自己主張したい時に、裏を読んでアピールするのをよく見かける。

しかし本当に重要なのは、”裏”を読むことではなく、”深く”読むことである。

裏を読もうという姿勢は、自信のなさの表れでもある。地道にコツコツと実績を挙げた人には、自然と深く読む癖がついてくる。深く読んだ結果、たまたま”裏”になることはあるだろう。そうして出た”裏”は価値あるものになる。

とは言え、深く読むことが大事なのは、誰が考えても当たり前のことだ。わざわざ僕がこの場で言うことでもないのかもしれない。

陳腐な表面的な事象を見るだけで、陳腐な結論を出して満足するのではなく、まずは定石を踏んで、きちんとロジカルに結論を導くことが大事である。

昨今の日本人による日本称賛に、危機感を感じる。

最近メディアでは、何かと日本称賛をテーマとする話題が多い。テレビ番組然り、ネット記事然りである。

海外で日本が称賛されることは、非常に喜ばしいことである。それによって、日本の美徳が発見されることもある。日本がこれからも世界で評価される国であり続けることは簡単なことではないが、不可能な事でもない。これからも日本が世界で評価され続けることを願うばかりである。

しかし、最近の日本人自身による日本称賛はいかがなものかと感じてしまう。自分で自分を称えるのは、大概の場合自己満足である。このような日本人自身による日本称賛に酔いしれている日本の現状に、危機感を感じる。

確かに現在の日本の文化的・国民的水準は高いレベルで維持している。しかしその水準をこれからも維持するためには、自らを厳しい眼で見つめることが大事である。

これまで日本人は、自らに対して過度に厳しいくらいの態度を取り続けてきた。時にはそれは自虐的とも言えるくらい厳しいものであった。しかし最近はそのような厳しさは緩んでいるように思える。

人に対する優しさは、自分に対する厳しさである。そしてその逆も言える。他人に対して厳しい人は、大概自分に対して甘く保身的である。最近の日本及び日本人は、残念なことに後者の方に傾きつつある。

他人・他国からの称賛などは、軽く流していればいい。その一方、自分・自国に対する厳しさは常に持ち続けなければならない。そうでないと自分・自国に対する高い水準は維持できない。

当たっても、砕けるな!

「当たって砕けろ」とはよく言うものである。しかし、失敗して砕けてしまえば、どうにもならない。もちろん、砕けても何度でも立ち上がるという意味なのかもしれないが、そうなら「当たったくらいで砕けずに、何度でも立ち上がれ」ということだろう。

砕けてしまうことを過度に恐れて、当たることさえしない人も多い。「当たらずに、砕けずに」という考えだ。そんな無難な考えに魅力を感じるか?と僕などは思ってしまうのだが、そんな無難な生き方も現代人の処世術なのかもしれない。

アントニオ猪木氏の訪朝。

参議院議員のアントニオ猪木氏が、7日から訪朝する。猪木氏の訪朝に対して与野党などから批判的な意見が出ているようだが、僕は個人的には猪木氏に対して期待している。

確かに現在の対北朝鮮関係は難しく、微妙な時期であることは間違いない。僕自身も、訪朝するのが猪木氏でなければかなり危ういのではないかと感じる。

しかし、猪木氏の対北朝鮮のパイプはかなり太い。先代の金正日時代から何度も訪朝を繰り返し、独自の北朝鮮人脈を築いてきた。北朝鮮指導部からの信頼も厚いと思われる。

猪木氏と言えば言うまでもなくプロレスラーである。それに対して猪木氏の政治手腕に疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし僕は、猪木氏の政治手腕はかなりのものではないかと感じている。もちろん彼の人柄もあるのだろう。もしかしたらプロレスラーという立場も、彼の手腕に有利に働いているのかもしれない。

そういえば、猪木氏が政界に進出したころを思い出す。彼は「スポーツ平和党」、略して「スポ平」を立ち上げた。そして彼は国会議員になることに成功した。初めはバカにする人も多かったが、政治家として地道に活動を続けている。その中でも北朝鮮との対話は、彼の政治家としてのライフワークと言える。

現在、国会議員としての猪木氏をバカにする人を見かけない。なぜなら、現在の彼には今まで積み重ねた実績がある。そんな彼にここはひとつ、対北朝鮮危機の回避を期待したいところである。

遊びも本気、仕事も本気!

人生はマラソンのようなものである。マラソンではペース配分が大事だ。それと同じで、人生もペース配分が重要になる。時には本気で、時には手を抜いて、というように、物事にメリハリをつけることであろう。

しかし、長い人生と言えども、人生は有限である。何事にも本気で取り組むことも重要である。仕事に本気で取り組むことは重要であろう。そして遊ぶときも本気でぶつかることが大事だ。仕事も遊びも本気で取り組むことによって相乗効果が生まれる。

仕事も遊びも人生の重要な一部分である。そんな人生の一部分を適当に過ごすのはもったいない。とは言え、疲れた時には気を抜くことも大事だ。本気で続けることと、緩急のメリハリをつける事とのバランスは難しいかもしれないが、もっと本気で生きてみようと思うこの頃である。

目の前に本がある。

今、目の前に本がある。和書・洋書、専門書が並べられており、その中には積読?状態の本も少なくないが、本に囲まれている。

それらの本をどのように生かすか?それらの本の何冊かを上手く利用すれば、新しい結果が生み出せるのかもしれない。何冊もの本を前にして、結果を出せないこともある。要は、本があるかないか、本を読むかどうかではなく、自分でどう解釈し結果へと変化させるかだ。

大学時代から、かなりの数の書物を買いあさってきた。本の数が多ければよいというものではないということは、頭では分かっている。それでも定期的に本を買ってしまう。

本は物質的にみればただの紙だが、僕にとっては宝物である。

”タブー”による思考停止。

世の中には”タブー”がたくさん存在する。そしてそのタブーの話題になると、突然思考停止になる。タブーな話題に対しては議論さえもできなくなってしまうのだ。

”タブー”の中で最も大きな国家レベルの話題は、核に対する議論だろう。核廃絶を目指すことは正しい。しかし現実問題、核をいきなり廃絶することは非現実的で、不可能に近い。とは言え、核廃絶へ少しでも進むことは可能であるが。

日本人は核というものに対して非常に敏感だ。その理由はもちろん、広島・長崎という核被害に遭った、唯一の被爆国であるからだ。唯一の被爆国として核廃絶に向けて世界をリードしていける国は、日本をおいて他にはない。

しかし核へのアレルギーからか、核抑止力など核を少しでも肯定的にとらえられるようなことに対しては、議論することさえも否定する風潮が強い。

日本には”非核三原則”というものがある。非核三原則自体は素晴らしいものであるが、その結果、日本はアメリカの核の傘の下へと入らざる負えず、自分たちの手を汚さずにアメリカに丸投げするという事態になっている。

とは言え、日本のこの反戦争・反核兵器の徹底した姿勢は世界からも評価されており、日本が世界から信頼される大きな理由にもなっている。

核廃絶を唱えながら世界の現状に合わせていくのは非常に難しく、矛盾も多く出てくるが、日本及び日本人は反核を主張しつつも、核の話題をタブーとせずにオープンな議論をしていかなければならない。

前原民進党の行方は。

9月1日、民進党の新代表に前原誠司氏が選ばれた。そして夜の報道番組(報道ステーション)に、前原氏が出演されていた。

番組での発言を聞くと、もっとも当たり前のことを言われていた。しかし、当たり前のことを当たり前に進めるという意思表示には、前原氏の誠実さを感じる。

もちろん政治とは誠実さだけではどうにもならないので、当たり前のことを着実に前に進めることができるか、それには前原氏の手腕にかかっている。

とは言え、現在民進党は野党の身であり、野党にできる事は非常に限られている。野党民進党にできる事を着実に積み重ね、国民の信頼を着実に獲得していくことが求められる。

蓮舫・前民進党代表のスキャンダル追及一辺倒の姿勢には辟易していたが、前原氏なら政策的展望に基づいた活動をしてくれると期待している。

背水の陣は最強である。

背水の陣とは、最も危険な状態であることは言うまでもない。しかし背水の陣から大逆転を収めることが多々ある。それはもちろん危機的意識から来る底力によるものである。

我々のような一般人は、危機意識がないとどうしても怠慢してしまうことが多い。そんな時はいっその事、自分で危機的状況を作り上げればいい。自分を背水の陣へと追い込むのだ。それはもちろん、精神的には非常にきついことである。しかしそうでもしないと、自分の置かれている立場はより一層厳しくなる。

自分を背水の陣へと追い込むのには、勇気がいる。なぜならば、それで失敗したら残るのは”死”しかないからだ。しかしそこまでしなくても、時には自分を奮い立たせるために自分を追い込むことも必要だ。