月別アーカイブ: 8月 2017

型を極める人、型を破る人。

物事を極めていくということは、物事の型を理解するということである。将棋にも、柔道にも、そして野球にも、歴史あるものには全て型が存在する。そして科学においては、基礎理論が型であると言えるのかもしれない。

最終的にトップに君臨するには、型を極めなければいけない。そしてそれでも先を目指す人は、型を破るという行為に出るのかもしれない。型を極めるか、型を破るかは、人それぞれであろう。

しかし型を極めずに型を破ろうというのは、それは単なる奇策でしかない。そんな奇策には何の意味もない。

型を極め、型を破った時、そこに新しい型が生まれる。すなわち、型というものはトップに君臨する破壊者が生み出すものだとも言える。

科学でも、既存の理論を否定し、新理論が打ち立てられたとき、その新理論が新しい型になる。

新しい型を作り上げることを夢見る人は多いが、まずは型を知り、型を極めることに邁進しよう。

科学者とは探検家だ!

あるテレビ番組(クレイジージャーニー・TBS、再放送)で、高橋大輔さんという日本人探検家が出演されていた。そこで高橋さんは、マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムのことに言及し、「現在マチュピチュを訪れる人々は、ビンガムの発見の追体験をしている」と言われた。マチュピチュに限らず、現代人は第一発見者の追体験していると言える。

それは科学でも同じだ。現代において相対性理論を学んでいる学生、あるいは相対論のユーザーである研究者は、アインシュタインの発見を追体験しているのだ。そして科学者とは、もちろん第一発見者である探検家であることは言うまでもない。

科学者に限らす、プロフェッショナルと言われる人は、大なり小なり探検家的要素があるのではないか。プロフェッショナルというものは、自分が第一人者であるという意識を持つことによって、そしてそのような意識が前進していく原動力になる。

そして人生においても、常に人生を開拓していく探検家であり続けることが大事である。

物事を甘く見ず、かつ過剰にも反応せず。

物事を正確に理解するのは、意外と難しい。人によっては甘く見てしまい、あるいは過剰に反応してしまったりする。

甘く見て失敗してしまう話はよく聞くが、かと言って過剰に用心するのも良い効果はない。正確に物事をとらえるためには、まず物事に対する先入観を排除しなければいけない。そして感情的にならないことも大切だ。起きたことを純粋にとらえて冷静に判断できるか、それにかかっている。

 

1位でないと評価されない世界がある。

8月27日、バドミントンの世界選手権で、奥原希望選手が金メダルを獲得した。去年のオリンピックでタカマツペアが金メダルを取ったことが記憶に新しいが、それに続く金メダルは日本人として誇らしく思う。

世の中には1位でないと評価されない世界が存在する。多くのスポーツもそうだし、科学の世界でもそうである。2位を取って伝説になる人はいない。岩崎恭子・里谷多英・北島康介、そしてイチローなど、伝説の選手は皆1位の選手である。

2位を取って狂喜する人、2位を取って悔し涙を流す人、それぞれいるが、圧倒的に可能性を秘めているのはもちろん悔し涙を流す人である。また、2位を取って非難されるのは、期待の表れである。

ところで余談だが、僕が個人的に観てみたいのが、野球世界一を決めるリーグだ。もちろんWBCのような世界大会もあるが、プロ野球常設チーム世界一を決める戦いを観てみたいのである。そこまでいかなくても、日本を本拠地とするメジャーリーグチームが1チームだけでもできないものかと思ってしまう。サッカーで言う、バルセロナのような世界一を決める試合を観たいのである。

本題に戻るが、もちろん初めから2位を目指している人はいない。あえて言えば、1位になれなくて悔し涙を流すからこそ、2位にも価値があると言える。そして、1位を目指せる人は、1位を目指せる幸せを感じながら、自分の手で1位をつかみ取ろう!

ルールを守ることは必要だが、ルールに固執しすぎないことが大事だ!

野球などのスポーツでは、まずルールありきでプレーが始まる。そもそもルールなしではスポーツは始まらない。スポーツにおいてルールは絶対的である。

しかし、世の中で生きていくうえでは、ルールに固執しすぎないことが大事だ。とは言え、世の中でもルールを守ることは非常に大事だ。基本はルールありきである。

しかしルールに固執し過ぎるあまり、物事の本質が見えなくなることがよくある。そんな時はいったん白紙に戻して、真っ白なところから物事を考え直す必要がある。ルールがあるが故に、先入観に縛られては元も子もない。

とは言え、何でもかんでもルールを無視すればいいというわけではない。しかし、物事を打開しなければいけない局面において、いったんルールという前提条件から離れてみるのが有効である。

若者の活躍には期待するが、中年たちも負けられない!

自分はまだまだ若いと思っているが、そうは言っても年齢を見れば立派な中年だ。しかし、歳を取っても熱い闘志は常に持ち続けなければいけない。

サッカーのポジションには、GK(ゴールキーパー)・DF(守備手)・MF(中盤)・FW(最前線の攻撃手)がある。僕自身のタイプは、絶対にFWだと認識している。しかしFWでありながら、なかなか点を取れないでもがいている。

FWは、点を取ってナンボのポジションである。いくら内容が良くても、点を取れないFWは評価されない。

FWと言ってまず思い浮かぶのは、キング・カズこと三浦知良であろう。カズは十代の頃に単身ブラジルに渡り、Jリーグ誕生時からのスター中のスターである。彼はまさしく挑戦者の中の挑戦者と言えよう。そしてFWとして多くのゴールを決め、点を稼いできた。

そんなカズも今では50歳。中年であるが、今でも現役Jリーガー(J2)であり、FWとして最前線で戦っている。

歳を取るとどうしても守りの思考に入ってしまう人が多い。人生のそれぞれの時期によって、自分の置かれる位置は刻々と変わるかもしれない。しかし攻めの姿勢は常に持ち続けなければいけない。自分のタイプがFWならなおさらだ。

点を取れないでいるとき、どれだけ我慢できるか。そしてそんな時にも準備を怠らすにコンディションを保てるか。それがトンネルを抜けた時のパフォーマンスに大きくつながる。

宝くじは最も”センス”のないお金の回し方だ!

米国において、宝くじで829億6000万円を当てた当選者が出たというニュースがあった。

僕は宝くじは、最も”センス”のないお金の回し方だと思っている。確かに、宝くじによって、国・自治体には大きな収益が入るだろう。そういう意味では、目先の数字だけを見れば社会にプラスに映るように見えるかもしれない。

しかし、中・長期的に見ればどうだろうか?あるいは国民の意識的な観点から見ればどうだろうか?こういう視点から見れば僕は決してプラスにはならないように思う。

一流プロ野球選手が、数億円という年棒を得るのは当然のことだ。ビジネスに成功して、数百億円の利益を得るのも当然のことだ。そして彼らがそのお金で豪遊しようが、高額な宝飾品を買おうが、何ら批判されることでもおかしいことでもない。

しかし、宝くじという手段によって収益を稼ぐ国・自治体の行為は、極めて”センス”がないとしか言いようがない。良い悪いという話ではない。センスがないのである。中国では国民のレベルを”民度”という言葉で表すそうだが、まさしく民度の低さを表すものである。

別に宝くじに当選した人がどうしようが、全く興味がない。しかし一つ腹立たしいことがある。それは、宝くじを買うことを「夢を買う」と言うことに対してだ。

自分のすべきことに打ち込んで、本気で夢をつかもうと夢を追っている人からすれば、宝くじを買って夢を買うなどと軽々しく言われることに、言いようのない怒りを感じる。

夢ってそんなものではない。夢って、宝くじを買って数百億当てるなんていうくだらないことではない。このことは、本気で夢をつかもうと夢を追っている人なら理解できるだろう。

読書と実行は車の両輪である。

小学生・中学生・高校生ならともかく、大人にとって読書自体は勉強でもなんでもなく、ましてや仕事でもなんでもない。読書は実行を伴って初めて勉強・仕事になるのである。

読書自体は目的そのものではなく、実行するための原動力である。逆に言うと、実行するのに読書は必ずしも必要ではない。ただ読書は実行する際の大きな威力になるかもしれないということである。

読書と実行は車の両輪。この二つが揃うことによって、威力が3倍・4倍になる。娯楽と割り切っているのならともかく、何とかしようというのならば、目的意識を持ち、実際に実行してみなければいけない。そうでないと何とかはならないだろう。

安全策を取るか?それともリスクを冒して挑戦するか?

現在の世の中、何でも保険が気になり、安全策ばかりに目が行ってしまう。もちろん、作業現場での安全策は最も重要であり、安全策なしに成り立たない事柄もたくさん存在する。

しかし、自分の人生に対して安全策だけで固めるのはいかがなものだろうか?時にはリスクを冒して挑戦することも大事であろう。なかには、現在の地位に安住せずに常に挑戦し続けている人もいる。

現在の社会を見ると、個人がというより、社会全体が守りに入っているように見える。それはもちろん、日本という国が成熟した安定社会に入った証拠でもあり、むしろ良いことなのかもしれないが、挑戦者に対しては幾分居心地が悪い。

このような現代日本において、リスクを取り挑戦し続けるには、精神的負担がかなり大きいが、安定社会と言えども社会をさらに前進させるには、このような挑戦者の存在は無視できない。

ウルトラCには訳がある。

とんでもない大きなことを成し遂げること(奇跡)を「ウルトラC」とよく言われる。この言葉の由来は、体操競技のC難度の技から来ている。

他人がウルトラCを決めると、不可能なことが奇跡的に起きたという捉え方をよくされる。しかし、決めた本人にとっては、そこまでの道筋がしっかりとあり、決して不可能なことを奇跡的に起こした訳ではない。そこには必ず訳があるのである。

生みの苦しみは、しばしば周りの人にはよく見えない。時には他人からは、「苦労もしないで楽に決めやがって」と見られることもある。とは言え、別に他人に対して苦しみを見せる必要は全くないのだが。

生みの苦しみを経て成し遂げた体験は、必ず自分の財産になる。なぜなら、成し遂げられるべくして成し遂げたのだから。例え他人からウルトラCだとか奇跡だとか言われようとも、地道な道のりを経て成し遂げたことに対して、自分自身が納得できればそれでいい。

流行を追うことと、変わらないものを守ること。

物事には大なり小なり流行というものが存在する。ファッションから言葉遣い、そして科学の研究にも流行のテーマがある。そこで重要になるのが、流行を取り入れつつ、変わらないものを守るということ。

ファッションでも、全てを流行のもので固めると、逆にこっけいに見えてしまう。かと言って、流行を完全に無視すると、それはそれで野暮ったくなってしまう。

科学の研究でも同様のことが言える。流行のテーマばかりを追いかけていると、最先端の結果のわずかな継ぎ足しでしかなくなる。いつの時代にも、過去の重要な結果というものが存在する。そのような基本文献は、昔のものでも無視できないし、それに軸足を置くことは大事なことである。。

しかし、ファッションにしろ何にしろ、流行と変わらないものとの絶妙なバランスを取ることが大事である。これが片方に傾くと、単なる自己満足になってしまう。

言うのは易しだが、このバランスを崩さずに双方に目を向けることが大事である。

負の連鎖を断ち切るには。

長いこと生きていれば、時には負の連鎖が続くことも。そんな時、負の連鎖を断ち切るにはどうすればいいか。

1)当たり前のことだが、まず行動。

動かないと何も始まらない。受け身の状態でいては、負の影響を受けるばかりである。そこから抜け出すには自分から動かないといけない。動くことによって、次に進む道が見えてくる。さらにいくつかの可能性を探るために、複数の行動を同時に起こすことも良い。人間、動いてナンボである。

2)一点突破。

資源と動力を一つのことに集中させる。広く浅くだと、全滅してしまうこともよくある。一点の風穴を開けてしまえば、そこから可能性が広がっていく。

先ほど複数の行動を同時に起こすと言ったが、そこで大事になるのが「物事の優先順位」。常に何が自分にとって重要なのか認識しなければいけない。物事の優先順位を認識するためには、物事の本質を見抜く目が重要になってくる。常に感覚を研ぎ澄まさなければならない。

負の連鎖を断ち切るための、僕の備忘録を書き留めてみた。

今の利よりも、将来の大きな利を取る。

どうしても、現在の自分の置かれた状況が気になり、目の前の利を取りがちである。とは言え、まだ目の前の利を確保できればまだましな方だ。現在、どうしようもない窮地に立たされている人もいる。

こんな時、視界を現在からもう少し遠くへ向けてみよう。そこにはさらに大きな世界、そしてそれを乗り越えることができれば大きな利を得られることがわかる。もちろん、そのような世界、そして大きな利を得るためには、現在において「明確な展望」を持っていなければならない。

経済学的に言うと、現在の利より将来の利の方が価値が小さいと言われている。なぜなら、将来自分が生きているかどうか確実ではなく、将来の利を得られる保証はないからだ。

しかし、将来の利は現在の自分を奮い立たせる。常に未来に目を向け、現在の自分を前進させなければならない。

面倒見の良すぎる学校というのも、問題があるような気がする。

最近、小学校から大学・大学院まで、あまりにも面倒見が良すぎるような気がする。小学校ならまだわかるが、最近の大学院では指導教官がご丁寧に一から十までやるべきことを指示する始末である。

もちろん、面倒見が良いことを批判するわけではないが、面倒を見ることによって伸びる人がいる一方、放置され好き放題にさせることによって才能を開花させる人も一定数いる。そして最も重要なのが、放置して伸びる人の方が将来性が圧倒的に高いということだ。

面倒を見すぎる教育者の下で才能をつぶされる人を、僕は今まで見たことがある。学校はただ面倒を見ればよいという単純な話ではない。放置するというのも、立派な教育の一つである。

華やかな表舞台の陰で。

最近の小学生に人気の職業ランキングの上位に、YouTuber(ユーチューバー)が食い込んでいるようだ。そして最近の人気と言えば、藤井聡太四段の連勝でフィーバーが起こっているプロ棋士だ。

YouTuberもプロ棋士も、表舞台は華やかだが、実際の仕事は非常に地味な作業の積み重ねで、陰では非常に厳しい作業を行っている。

最近、僕の好きなYouTubeの釣りチャンネルをアップしているYouTuberの仕事内容・日常生活内容を知ったが、一週間で釣り3日、編集4日という割合だそうだ。編集は朝から夜まで行う。YouTuberというと、楽しいことをして、それを撮影してアップするという行為しか表には出されないが、実際はそれ以外の地道な編集作業がメインの仕事になっている。

そしてプロ棋士も同様である。対局している時間より対局以外の時間の方が圧倒的に長いが、対局時以外の時間はほとんど研究に時間を割いている。

そして、YouTuberやプロ棋士以外の世界でも、このような事情は同様であろう。いや、YouTuberやプロ棋士で飯を食っている人数の少なさを考えると、YouTuberやプロ棋士の方が圧倒的に厳しい。

どうしても華やかな表舞台ばかり目が行きがちであるが、小学生の人気職業などを見ると少し危機感を抱いてしまうのは僕だけであろうか?

量子コンピューターについて。

先日、日本が量子コンピューター研究に多額の投資を行うと発表し、それを受けて量子コンピューター関連銘柄が高騰しているというニュースがあった。

量子コンピューターとは、従来のコンピューターとは原理が違い、高性能というより全く質的に違うといってよい。従って計算速度も桁違いに速い。

量子コンピューターはまだ研究段階で、実用化はまだ先だと言われている。とは言え、少し特殊な「量子アニーリング」という原理を使った量子コンピューターはすでにカナダの企業により実用化されている。(この量子アニーリングの原理は、日本人が発明した。)しかし、”王道”の量子コンピューターはまだ素子を開発している段階だ。

量子コンピューターの理論研究の現状は、一昔前までは”ニールセン・チャン”と言われる量子コンピューターの教科書が唯一の文献であったが、最近では日本語の教科書も結構出てきている。

技術的な現状は、正直、僕には詳しいことはわからない。しかし、NECなどの日本企業が地道に開発を続けているという話は聞くが、あまりメジャーな研究ではないような気がする。

量子コンピューター・量子情報関係では、「量子暗号」の研究がそこそこ実用化に近づいているようだ。量子暗号は、”絶対に破られない暗号”だと言われている。

この、国による大規模投資がどれだけの成果を挙げられるか?科学的にも経済的にも注目を浴びるだろう。

トランプ大統領の暴言。

先日起きた、白人至上主義を掲げる差別主義者たちと、それを批判する反差別主義者たちが対立していたデモで、差別主義者の車が突っ込み死者が出た事件。この件に対してトランプ大統領の発言は次のような趣旨だ。

”ビジネスが上手く行き、雇用を創出できれば、差別主義などあまり重要ではない”(これは発言そのものではなく、発言の趣旨である)

これはもう、自由主義ではなく、暴言である。

アメリカは自由の国だと昔から言われている。しかしその一方、奴隷解放・黒人差別などに対しては毅然とした態度を取り、撤廃することに成功した。そして黒人大統領誕生(オバマ氏)にまで至った。そのオバマ氏に対する評価は厳しかったが、オバマ氏を大統領に選んだ国民は良識がある人たちだと思っていた。

しかしその同じアメリカ国民は、トランプ氏を選んだ。そしてそのトランプ氏は差別主義を助長している。もちろん、全国民がトランプ氏を支持しているわけではないので、「アメリカ国民は」と一括りにはできないが、トランプ氏に対する失望は日に日に増してくる。

トランプ氏には、「本当に大切なものは何か」ということに気付いてほしい。

同時並行で複数の事に取り組むことを楽しむ。

最近はネット・スマホの進化によって、身の回りの事が多様化され、同時に複数の事に取り組むことが多くなった。それのアンチテーゼからか、身の回りをシンプルにする、断捨離などが流行りだ。

確かにあらゆることに追われ、余裕をなくすことは良くないし、身の回りをシンプルにすることはそれを解決する一手段であろう。

その一方で最近僕が思っているのが、「複雑な身の回りを楽しむ」ということだ。すなわち複雑な現状をゲームのように楽しもうという発想だ。こう考え直すと、いろいろあることもかなり楽しくなる。楽しくなれば自然、パフォーマンスも上がってくる。現在の流行の思考とは逆行するものかもしれないが、これも現状打破の一手段だと思っている。

この”ゲーム化”的発想、意外とあらゆることに応用できる。物事によっては、ゲーム化することを真面目ではないと否定されることもあるが、成果を挙げるためには非常に良い発想だと思う。

人生”楽しんだもの勝ち”である。日々を楽しみ、かつパフォーマンスを上げる。この様な理想的な日々を実現させるための一考として、ゲーム化的な発想をするのはどうだろうか。

終戦記念日で想う、戦争放棄と防衛。

今年の8月15日、終戦72年を迎えた。全国戦没者追悼式での天皇陛下お言葉、及び安倍首相の言葉は、改めて戦禍を再び繰り返さないとの意思表示を述べるもので、日本の戦争放棄の基礎方針を確認された。

ところで現在の防衛政策での主眼の一つは、明らかに北朝鮮問題であろう。もちろん長い目で見れば、中国の脅威も見逃せない。しかし現時点だけを考えると、北朝鮮のミサイル問題は切羽詰った緊急問題である。

戦争放棄と防衛、この二つは決して分離して考えられるものではなく、密接につながっている。防衛には大きく積極的防衛と消極的防衛がある。積極的防衛は敵の攻撃に対して先手を打って、敵の攻撃拠点を狙うということだろう。消極的防衛はあくまで敵が直接攻撃したものに対してだけ防衛するというものだ。

積極的防衛はもちろん戦争放棄に反する可能性が高い。しかし自国防衛のためには積極的防衛という選択肢も念頭に入れなければならない。これらのことを否定して被害が大きくなれば、元も子もない。

しかし、積極的防衛を盾に戦争を開始してしまうということも否定できない。この様なことは断じて許されない。過去の戦争のほとんどは、防衛を名目に戦火の口火が切られている。

戦争放棄と防衛の定義をしっかりと定め、戦争を起こさないで解決するにはどのようにするのが最善策か?という最善手を常に模索していくことが要求される。このことは、政治家だけの仕事ではない。国民の意識にも大きく影響されるため、国民一人一人が常に関心を向けることが必要になる。決して無関心になってはいけない。

差別と区別を混同するな!

アメリカで、差別主義者と反差別主義者の対立デモ集会の人ごみに車が突っ込み、一人の女性が亡くなったというニュースがあった。差別主義者の独善的行動は許されるべきものではないし、特に出時の違いによる差別は決して許されるものではない。

ところで話は変わるが、世の中には差別と区別の違いを認識していない人が多いように思う。簡潔に言うと、差別とは上下に分ける事、区別は横に分けることである。

例えば、学校の名簿で男子が先に並んでおり、女子の名前がその後に並ぶ。これは区別か差別か?一見上下に分けているように思えるが、これは区別である。この並びは何ら優劣を指定すべきものではないからだ。もしこれが差別だというのならば、男子の列の中でも順番によって差別されていることになる。このような事例のように、見かけに騙されてはならない。

区別を差別だと批判されることが多くなり、何かとやりにくい世の中になってしまっている。区別と差別の違いくらいはしっかりと認識できる思考を持ってもらいたいものだ。

とは言え、差別主義は時代と逆行するものであり、また時代云々ということを別にしても決して許されない。

蓮舫氏の一番の業績。

僕はこれまで蓮舫氏にはかなり批判的なスタンスをとってきたが、蓮舫氏の業績について一つだけ大きく評価していることがある。

それは、民主党政権下で行われた「事業仕分け」での、スーパーコンピューター開発費を巡っての発言、「2位じゃダメなんでしょうか?」だ。

なぜこの発言を評価しているかというと、この発言により「科学というものは1位でないと意味がない」ということを、広く国民に認識させたからだ。

科学というものは、1位だけが100%の実績を得る世界だ。科学(サイエンス)では、二番煎じ、三番煎じには全く価値はない。

もちろん、ビジネスに関わる科学技術(テクノロジー)では少し事情は変わる。三番煎じでも、量産化技術に成功するなどして利益を上げれば、ビジネス的には大きく評価されるだろう。だから技術開発で二番煎じ・三番煎じで突破口を開くことはよくあることだ。

しかし、科学(サイエンス)では、皆、一番乗りを目指して切磋琢磨している。例え小さくても1番煎じが評価されるのだ。

狙いはどうだったか知らないが、蓮舫氏のこの発言はそういう意味では評価されるべき発言だ。

表を見て、裏を見る。

「奇をてらう」という言葉があるが、これは、「表を見ずに裏を見る」ということである。まず初めに「表を見る」、すなわち物事の基本、あるいはスタンダードを知り抜くことが大事である。物事の基本・スタンダードを知り、物事の本質を見抜く。そのうえであえて裏をかくことが大事なのである。

何かにつけ、基本・スタンダードを知ろうとせずに「裏ワザ」的な事をいきなり狙おうという風潮は、良いことではない。「指揮法を知らない指揮者」と「指揮法を無視する指揮者」は全く違う。しかし世の中には、指揮法を知らない指揮者が多すぎる。物事を十分に考察せずに”陰謀論”などを語る人もそうであろう。

裏をかきたければ、表を熟知しなければいけない。桶狭間の戦いで、相手の戦力・状況・地形・天気を熟知したうえで奇襲をかけた織田信長のように。

良心を持ったワルになれ!

ワルとは、世間的に、あるいは社会的・組織的に悪者とされる人間という意味で書いた。

世間から見て、あるいは社会的・組織的に見てワルとはどういう人なのか?このワルとは時代や組織によって定義は変わるし、自分が悪いことをしていないと思っていても悪者というっレッテルを貼られることは多々ある。だから、世間的に良い人間でいようなんてことを考えることにあまり意味はない。自分が正しいと思うこと、自分が悪くないと思うことを貫けばいい。その結果ワルとされても、そんなことは気にする必要はない。

もちろん、極悪のワルになってはいけない。良心を持ったワルにならねばいけない。

世の中の決まり・ルールには、明らかにおかしいというものが多々ある。その時に、それはおかしいからと堂々と決まりを破ることができるか。自分が正しいと思うことを貫くためにルールを破ること、それが勇気である。

ルールをきっちりと守る人には二種類ある。それは、良心から守る人、そしてもう一つは自分の保身だけを考えて守る人。

保身を考えて守る人は、単なるイエスマンでしかない。しかし現実には、ルールというものは保身に訴えかけて守らせるものだという側面は大いにある。

ルールを見て、なぜそうしないといけないのか?という奥に潜む意味を考えないといけない。確かにそんなことを考える人は、取り締まる人・支配者には厄介な存在であろう。逆に言うと、ルールに盲目的に従う人は扱いやすい。

規則の表面だけを見て意味を考えない状態は、パブロフの犬状態だと言える。そんなパブロフの犬に自我はない。

自分が正しいと思うことを正しいと主張できる、良心を持った”ワル”になることが大切だ。

核兵器弾道ミサイル迎撃に対する懸念について。

北朝鮮が、弾道ミサイル発射を宣告した。弾道ミサイルは、島根・広島・高知の上空を通過し、グアム周辺に落下するとの詳細な計画まで予告している。これから発射までの約一か月間、日本とアメリカは、防衛計画を煮詰めることになりそうだ。

そこで問題になるのが、北朝鮮の弾道ミサイルに核弾頭が搭載されるのかどうかということであろう。もし核弾頭が搭載されているミサイルを迎撃した場合、どうなるのか?防衛省局長は「迎撃により起爆装置などの機能は喪失する。核爆発による被害は発生しない」(時事通信)との認識を示している。

確かに迎撃により、起爆装置は作動しないかもしれない。起爆するには、核分裂連鎖反応を起こさないといけないが、核分裂連鎖反応は簡単には起きない。だから、防衛省局長の言っていることは全うなことだ。

しかし核爆発と核物質汚染は話が違う。核爆発しなくても、日本上空で迎撃すれば核物質の飛散は免れない。

確かに、核爆発に比べると核物質飛散の被害は小さいかもしれない。ただし、長期的な影響が残る核汚染に対する懸念は大きい。

もちろん、そのような被害がないことを祈るばかりであるが、ただ迎撃すれば完全に安全だという簡単な話でもないように思える。

核廃絶は100%正しい。

今年も広島・長崎での原爆被災日が過ぎた。原爆投下からもう72年を過ぎようとしているが、核兵器廃絶に向ける議論は一向に決着しない。

原爆の原理(あくまで”原理”である)は、アインシュタインによる特殊相対性理論にたどり着く。しかし、特殊相対論は原爆を作るために考え出されたものでは全くない。あくまで自然の真の姿を解明するために”自然科学の理論”として作られたものである。原爆の原理はあくまでも副産物、しかし最悪の副産物であった。

核兵器の責任を科学者にきせるのなら、誰の責任であろうか?間違ってもアインシュタインでは断じてない。原爆開発に向けた核分裂連鎖の技術的課題に取り組んだ科学者に責任の一部がある。しかし最も大きな責任は、科学者ではなく、科学者を利用して原爆を作成させた政治家にある。

そして現在、核兵器廃絶を進める人、あるいはそれを拒む人も政治家である。すなわち、未来への平和の扉の鍵は、政治家が握っている。

そして核兵器廃絶へ向けて科学者ができる事は、兵器への軍事技術の提供を拒むことだ。

しかし悩ましいのは、自国が核兵器を拒んでも、北朝鮮のように暴走して手を付けられない輩がいることだ。本当にやつらはどうしようもない。しかしそれらの源流をたどっていくと、欧米そして中国・ソ連(ロシア)の核開発競争にたどり着く。すなわち、現在の北朝鮮の核問題の責任の多くは、欧米中ソにあると言える。

この世の中に核兵器が存在する限り、人類の安泰はありえない。

核兵器「削減」を目標にして、核兵器の削減を実行するのはほぼ不可能だ。核兵器「廃絶」を目標にしない限り、削減は進まないであろう。

国連の会議(核兵器禁止条約の決議)で、日本は核兵器廃絶に賛成しなかった(正確には出席を拒み議論もしなかった)というニュースが流れている。被爆国日本が核兵器廃絶を拒否するとは、何とも情けない話である。

趣味も極める。

本職を極めるのは当然であるが、最近は趣味も極めたいと思っている。その極めたい趣味とは「釣り」である。とは言うものの、最近は少し事情があって、全く釣りには行っていない。でも今取り組んでいることで目標としていることを成し遂げると、再び釣りにも打ち込みたいと思っている。

なぜ、またまた釣り熱が熱くなってきたか?というと、毎日アップされる釣り動画に触発されたからだ。やっぱし僕は釣りが好きなんだ!魚が好きなんだ!と再確認された。

釣りを再開した時に、どこの海に通おうか?何をどう釣ろうか?と考えると何だかわくわくしてくる。そして釣りを気楽な趣味ではなく「極める趣味」として、ちょっとした釣り職人にでもなろうかと妄想している。

良い論文は、噛めば噛むほど味が出る。

論文に限らず、一般の本にも言えることだが、良い論文、良い本というのは、噛めば噛むほど味が出る。すごく短い論文や短編書籍などでも、良いものは何度も何度も繰り返し読み、さらにその度に新しい発見がある。同じところを繰り返し読んでいるだけなのに不思議だ。

最近、とある数学の論文(非常に偉大な論文である)を熟読している。この論文は数年前にプリントアウトしていたのだが、最近(と言ってもかなり前だが)になって深く読み始め、同じところを何度も何度も繰り返し読むのだが、その度に新しい発見があり、新しいアイデアが出てくる。まさしく噛めば噛むほど味が出る論文だ。

最新の論文をやみくもに読むのも悪くないが、良い論文を繰り返し読むことは、多くの論文を手当たり次第に読むより得るものは大きい。

論文のことについて書いたが、これらのことは普通の本・小説にも当てはまる。多くの本より、一つの良書を繰り返し読むことでしか得られないものがある。座右の書というものを一冊作るのも悪くない。

基礎科学者はアスリートか?

以前、「超対称性はスポーツだ!」(超対称性とは素粒子論に出てくる理論の一つである)という声を聞いたことがある。これはどういうことか?

基礎科学もスポーツも、直接何かの役に立てるためにやっているわけではない。基礎科学者は純粋に、「自然の仕組みを解明したい」という思いから自然を追及している。これはアスリートの「速く走りたい」という気持ちと似ている。

科学と言うと、役に立てるために研究していると思っている人は多いが、基礎科学に関しては役に立てるという目的意識は希薄だ。特に素粒子物理に関しては役に立てるという意識は皆無と言っていいだろう。とは言え、現段階で全く役に立たなくても、何十年後かに大きく役に立つということは歴史が示している。

基礎科学をスポーツだと認識できる人がどれだけいるかわからないが、僕は、「基礎科学者とは頭を使うアスリート」だと思っている。

自分の調子を制御する。

自分の体調、自分の思考の調子、自分では知っているようで意外と把握していないことも多い。

毎日最高の調子で過ごしたいが、調子の波はどうしても避けられない。ならば、波の低い部分をできるだけ抑えて、高い部分はできるだけ高くもっていかなければならない。すなわち、自分の調子を制御するということだ。そのためには、毎日毎日試行錯誤。わかったと思っても、次にはそれが通用しないことも。

調子を制御するためには我慢も必要だ。例えば断酒したり、精神的健康を得るために筋トレなど体から整えることも有用だ。

明日調子よく過ごすために、前日から自分を制御して頭と体を整えておかなければならない。

電気自動車(EV)は、本当に環境に優しいのか?

現在、自動車を取り巻く環境が劇的に変わっている。ガソリン車から電気自動車(EV)へと急激に移行しているのだ。

そもそもの発端は、フォルックスワーゲン(VW)による、ディーゼル排ガス不正問題。もちろん理由はこれだけではなく複合的要因があるが、排ガス不正問題はEVへの口火を切ることになった。

排ガスを出すガソリン車に比べて、EVは排ガスゼロで環境に優しいと言われている。しかしちょっと待て。EVに使用される電気は、もともとは発電所で作られたものではないか。ということは、発電所で排出される排ガスを考慮して比較しなければいけないのではないか?EVを排ガスゼロというのはフェアではない。

最近はガソリン車でも、ハイブリッド(HV)など劇的に燃費の良い車も出てきている。これらの排ガスと、EVで使われる電気の(火力発電所などによる)発電排ガスと比較するとどうなのだろうか?

もちろん、エネルギーは分散して作るより大規模に集中して作る方がエネルギー効率が良いと言われている。なので、EVの方が圧倒的に環境に優しく効率的である可能性は高い。

しかしEVは、

燃料→電気→動力、

と二回変換しているのに対し、ガソリン車は、

燃料→動力、

と一回の変換で済む。変換が少ない方が効率が良いのは明らかだ。

本当にEVは環境に優しいのか?一度数値的な検証をすることが必要ではないか。

安倍改造内閣に想う。

8月3日、安倍首相が内閣改造を行った。メディアの評判は、「目新しさがない」とか「閣僚経験者が多すぎる」など、保守的な姿勢を批判するものが多かった。

しかし僕は、今回の改造は特に悪いものではないと思っている。とは言え、現段階では「良い」とも言えないのが事実だ。

安倍首相は、今回の改造内閣を「仕事人内閣」と呼んでいる。確かにそんな目で見ると、(先入観からか?)仕事人の集まりのように見えなくもない。

都議選での自民惨敗により、にわかに次期自民党総裁・次期首相をめぐる動きが水面下で進んでいる。野田聖子・総務大臣は、次の総裁選出馬に関して前向きに考えているとの発言がある。しかし、何と言っても注目は、石破茂氏であろう。水月会(石破派)を二年前に立ち上げ、入閣要請を拒み虎視眈々と次期総裁の座を狙う姿は、3期目を目指す安倍首相には不気味に映るであろう。

今回の仕事人内閣、安倍氏は「結果本位の」と付け加えている。実際にしっかりと結果を出してもらえば、内閣支持率もしっかりと向上するであろうし、安倍氏の政治手腕には見るべきものがあると常々感じている僕自身も、「結果を出す内閣」になることを期待している。