月別アーカイブ: 7月 2017

過ちを犯した者は100%悪なのか?悪のあら探しをする社会とメディア。

犯罪報道などを見て毎回思うのだが、犯罪者と思われる人が明らかになった途端、その被疑者(つまりまだ犯罪者だとは確定していない)が悪の塊のような扱いをされ、犯罪とは全く関係のないことまで全て悪であるかのような報道がされることに、非常に違和感を覚える。犯罪者が明らかになったとたん、メディア・社会は犯罪者のあら探しを始めるのだ。

殺人罪で死刑判決を受け、後に冤罪であることが明らかになり解放された袴田巌さんも、逮捕された当初、犯罪とは全く関係のない個人の趣味にまで悪であるかのような好奇な目を向けられたという。

芸能人でも、一つの過ちを犯したタレントが、過ちが発覚した途端、周りの芸能人が一斉にその芸能人のあることないことを好き勝手に暴露し始める。過ちが発覚した途端、急に豹変する周りの人たちに、僕は卑劣な印象を抱く。

悪のあら探しを望む人たちも多いのかもしれないが、僕はそのようなことを見る度に、もういい加減にしてくれと思う。

聖戦なんてものは断じて存在しない。

もう、IS(イスラム国)が戦闘を起こしてどれだけ経つだろうか。最近はかなり制圧されて、ISの規模もだいぶん小さくなったようだが、先日もISが人間の盾で卑劣な戦闘を行っているという報道がされていた。

ISやイスラム原理主義に限らず、歴史をたどれば昔のキリスト教など、ヨーロッパを含む世界中で「聖戦」という言葉が使われてきた。聖戦という言葉は、戦争を起こす人たちの、そして人間を殺す人たちの”免罪符”として使われてきた。

しかし、多くの人たちは、こう思っているだろう。

「聖戦なんてものは存在しない!」

当たり前である。人を殺すことに”聖なるもの”などは存在するはずはない。現在、ISを壊滅させようと戦闘を行っている西側諸国をはじめとする国々も、”必要悪”として、やむを得ず戦っているのだと思う。

聖戦なんて言葉を掲げて、戦争を美化する集団の存在など、断じて認められない。

人間はグレーゾーンで生きている。

グレーゾーンの真っただ中と言えば、トランプ大統領だろう。ただトランプ大統領ほどではなくても、人間は大なり小なり、グレーゾーンで生きている。

グレーゾーンを上手く白へ持っていけば成功と言えるし、黒になれば失敗と言える。

日本人は白黒をはっきりとつけたがる。グレーが気持ち悪いのである。特に100%白でないと気が済まない人も多い。1%でもグレーが混じっていると、それを徹底的に取り省こうとするのである。

しかし、グレーをグレーのままで物事を進める余裕も必要である。100%白でないといけないとすると、物事が全く進まなくなることがある。グレーを容認することは、心の余裕、そして社会の余裕なのである。そしてその余裕が新しい創造へとつながる。

グレーが気持ち悪いという人も、少しグレーを受け入れると良い。そうすれば心の許容範囲が少し広くなるのを感じるだろう。

風を切る。

某大臣は、「総理の後ろにいれば、風に当たらない」と言ったという。マラソンでも、トップの選手の後ろについて、風の抵抗を避けるのは重要な戦術だ。

風を避けるのも一つの生き方だが、風を切りながら走る生き方も爽快でいい。ただし、風を切り続けるのにはリスクも伴う。成果は自分のものになるが、失敗の責任も自分が背負わなければならない。

「風を切る」ことは、「道を切り開く」ことにもつながる。そこには開拓者精神が宿る。まだ誰も踏み込んだことのない世界へ踏み込むことは、大きな希望とそれなりの不安がある。しかし希望の先にはそんな不安を消し去ってしまうくらいの輝きが待っている。

もちろん開拓者が全て成功するわけではない。途中で野垂れ死にする人もいるだろう。それが不安な人は先行者の陰に隠れていればいい。

評価の定まった事柄ではなく、まだ誰も成し遂げていない事柄へ、風を切りながら走って進んでみよう。

最多敗を記録するのは、最大の勲章だ。

最近、プロ棋士を引退した加藤一二三九段には、数々の偉大な記録がある。その中で最も偉大な記録は”最多敗記録”だ。つまり、一二三九段は最もたくさん負けた棋士なのである。

負けと言えばイメージは良くないかもしれないが、負けるためには対戦しないといけない。対戦をしなければ負けることもできないのだ。最多敗の記録は、挑戦し続けてきた男の勲章だ。

この考えはあらゆるものに通じるところがある。ほとんどの人は失敗を恐れる。そして挑戦することを避けるのである。しかし、挑戦しなければ勝つ可能性は0%なのである。そして失敗を重ねることによって成功は生まれる。失敗は挑戦の証であり勲章でもある。

失敗どんと来い!というくらいの気持ちで当たるくらいがちょうどいい。失敗に自分から向かっていくのである。すると稀に光が見えてくる。視界が開けてくる。それによって成功へ一歩近づく。

失敗に向かっていけるのは、それは大きな力である。そんないつまでも挑戦し続けれる人間でありたい。

迷ったら、厳しい方へ進め!

僕はどちらに進むか迷った時は、できるだけ厳しい方へ進むことにしている。厳しい方へ進めば、まず間違いない。もちろん物事に100%ということはないが、99%間違いないと思ってよい。

とはいえ、できない方に進む必要はない。できないのと厳しいのは全く違う。できる範囲で、少しでも可能性のあることには挑戦すればよいのである。

下の上になるか、上の下になるか?これも迷う人は多いと思うが、僕は迷わず「上の下」になることを選ぶ。下の上になればそれ以上、上はないが、上の下に進めば、上は限りなく広がっている。そこから上の中、上の上へと狙うことも可能である。

厳しい方へ進む開拓者精神を、常に持ち続けていたいものである。

目先の利益に惑わされない!

なかなか結果が出ない状態が続くと、どうしても目先の利益を得ようかと惑わされる。僕自身、そんな誘惑にぶれないと言えば嘘になる。

しかし、目先の利益を取り続けることを継続するということも、決して間違った生き方だとは思わない。目先の利益を取り続けることによって、それが大きな利益に発展することもあるからだ。

西川きよしの言う「小さなことからコツコツと」ということであろう。

しかし、不器用な人間にとって、小さな利益を上げつつ、大きな利益に変化させることは並大抵のことではない。

そこでつい、初めから大物を狙おうとなってしまう。非常に危険な賭けであるが、そうせざる負えない。しかし、ほとんどの人は、その大物を得られずに敗退していく運命にある。

ただ、ほんの一握りの人には、大物を得られるチャンスが与えられる。正確に言うと、チャンスは全ての人に平等に巡ってくるのかもしれない。しかし、ほとんどの人はその巡ってきたチャンスに気づかないだけなのかもしれない。目の前に巡ってきたチャンスをつかみとれる人間が、才能があると言われるのかもしれない。

目先の利益に惑わされない生き方は、かなりきつい。しかし、それを貫くことによって、一つの人生哲学が生まれるのかもしれない。

加藤一二三九段「一手に7時間の妙手」の境地とは。

30日、将棋の加藤一二三九段の引退会見があった。そこで一二三九段は、名人を破って初タイトルを獲得した時のことを、「1手に7時間の長考をして天来の妙手を発見した。棋士としてやっていける確信を得た」と語った。

一手に7時間とは、素人からは想像もつかない境地である。やはりどんな分野でも、その道のプロにしかわからない境地がある。その妙手とはどんなものだったのか、僕らが聞いても全く理解できないが、それを自分の守備範囲の分野に置き換えると、そのヒントくらいは得られるかもしれない。

僕は妙手ではないかもしれないが、「妙構想」というものは持っている。かれこれ10年ほど前に得た構想だ。しかし構想とはアイデアに過ぎず、それを具体化することが難事業である。しかしその一つの妙構想があるからこそ、今まで投げ出さずになんとか続けてこれた。

一二三九段の言う「一手に7時間の妙手」の域にたどり着くことは、もちろん目標であり、それもとてつもなく高い目標である。それを目指すところにプロフェッショナルの神髄があるのかもしれない。