月別アーカイブ: 7月 2017

趣味ってなんだ?

趣味は本当に必要なのか?

最近の日本では、良くも悪くも趣味が美徳とされ、趣味は持つべきだという強迫観念があるように思える。しかし趣味は本当に必要なのか?と問われると、僕はどっちでもいいと答える。

趣味が生きる原動力になるのなら、その人にとって趣味は素晴らしいものであるし、暇つぶしに趣味をやっているのなら、はっきり言ってどうでもいい。

ただ一番問題なのが、世間が、社会が、趣味を強要している場合だ。世間が強要しているとは、人と会うと「趣味は何?」とお決まりのように質問することだ。もちろん話のネタ、話の入り口として軽い気持ちで聞いているのだとは思うが、特に趣味を持っていない人には迷惑であり、ストレスにもなる。

しかしもっと深刻なのは、社会が強要していることだ。例えば、入社面接で「趣味は何ですか?」と聞かれることが多いようだ。しかし、仕事をすることと趣味とは何も関係ないし、何の相関関係もない。こう言うと、面接官は「趣味が豊かな人の方が社交的で、円滑に仕事を進めることができる」などという後付としか思えない理由を付けるかもしれないが、僕には全くそうは思えない。少なくとも仕事内容・スキルが重視されるアメリカ・ヨーロッパにおいて、そんなことを入社面接で聞くバカはいないだろう。

それにそんなことを面接で聞く面接官は、本当は「一応定番の質問で、どこの会社でも聞いているだろうから」程度の横並び意識で質問しているのであろう。そんな質問をする面接官・企業は、自らの無能をさらけ出しているだけだ。

面白い人間か?豊かな人間か?という問いに、趣味は関係ない。もちろん趣味を持つこと自体は何も悪くない。しかし趣味がなくてもそれでいい。

ところで、十数年くらい前に田原総一郎氏の書かれた本のタイトルが、僕は大好きだ。そのタイトルは、

「面白い奴ほど仕事人間」

最後に僕自身の事を言うと、釣りが好きなので(最近は休止しているが、ゆとりができれば毎週末にでも行きたいと思っている)釣りが趣味とも言えるし、筋トレも趣味とも言える。音楽を聴くのも大好きだ。こう書くと、なんか趣味が多いような気がする。しかし、そんなことは僕自身の評価には何も関係ないと思っている。

ストレスフルな時代をどう乗り越えるか。

現代社会は、何かとストレスがかかる。もちろん同じ状況でも、ストレスの度合いはかなり違ってくるとは思うが。ストレス耐性の強い人間になることは、多くの人が望んでいることではないかと思う。

ところで、ストレスは記憶力に大きな影響を与えると言われている。記憶力をつかさどる、脳の「海馬」というところが、ストレスに非常に弱いらしい。悪くなった記憶力を回復させるためには、ストレス脳を何とかしなければいけない。

ストレス脳の回復には、運動がいいようだ。僕の場合、起きてから毎日筋トレをしているが、腹筋を何十回としている間ストレスは忘れ、腹筋をしながら前向きな考え事をしている。やはり体を動かして中にたまったものを吐き出すというのは、すごくいいと思うし、絶対に必要だと思う。

極端に言えば、現代社会を乗り越えられるかどうかは、いかにストレスに打ち勝って、ストレスの攻撃をかわすか、と言えるのかもしれない。自分も今は非常にストレス脳になっているが、前に進むためには何とかストレス脳を解消しなければいけない。

あと、余談:ストレスの解消にブラックチョコレートも良いらしい。僕もチョコレートを食べると、少し楽になる(ような気がする)。

自分を信じ抜くこと。

目標に向かって挑戦している者にとって、自分を信じ抜くことは大事だ。挑戦し続ける原動力になる自信と希望を持ち続けるには、自分を信じる心が必要不可欠だ。

極端な話、根拠のない自信でもいい。根拠のない自信でも、自信がないよりかはるかにましだ。根拠なんてものは、後からできてくる。

自分のことは、自分が一番よくわかっている。もちろん周りの人の方が見えていることもあるが、自分の頭の中、自分の心の中は、自分にしか見えないものであり、その自分にしか見えないものを基にして、意志というものが形成される。

周りの人の目を気にしすぎては、自分を縛り付けるばかりだ。もちろん社会で生きていくには、周りの目、周りの評価は気になるところだろう。しかし、自分の進むべき道は他でもない、自分自身が決めることだ。

自分の進むべき道を決めたら、後は自分を信じ抜いて進むだけだ。

生活はルーティーン化したほうが良い。

日々の生活において、常に考えながら物事に取り組むことは非常に重要だ。しかし、何に対して思考すべきか?その優先順位はしっかりと持っていなければいけない。

普段の行動について考えるのもいいが、重要なのは「何をするか」(これももちろん大事だが)ではなくて、「取組む行為において考える」ことだ。そのためには、普段の生活行動に関してはその都度考えるより、ルーティーン化したほうが良い。そして、取り組む対象に対して思いっきり考える。考える資源を集中するのだ。

とは言っても、もちろん「何をするか」についても、ほったらかしではいけない。定期的に、「より良くするためには何をすべきか」と見直すことも必要だ。

ルーティーン化できるところはルーティーン化して、試行錯誤するところは徹底的に試行錯誤する。そのような頭のメリハリをつけることが、物事を進める上でも大いに力になる。

今のままでは、日本は科学技術立国として勝てない!理研・高橋政代リーダーの対談記事を見て燃えた!

本屋で手に取った雑誌「東京カレンダー」に、理化学研究所・高橋政代リーダーの対談記事が載っていた。その中で高橋氏たちは、「理系で頑張っている人が大金持ちにならない国は、これからは勝てない」と話されていた。それには僕も同感である。

ビジネスと言うと、大学では経済学部だとか商学部のような文系をイメージするかもしれないが、実際は多くのビジネスの根源になっているのは「理系的技術」である。すなわち、理系軽視はビジネスの根源を断つことを意味する。極端な話、文系ばかりの集団ではビジネスを成り立たせるのは非常に困難だが、理系ばかりの集団ではビジネスは成り立つ。実際、アメリカの起業の聖地・シリコンバレーで起業する人は、ほぼ例外なく理系人間である。

文系重視の日本でMBA(経営学修士)の取得に必死になっている間、海外では理系技術の習得・開発に必死になっている。

こんな理系軽視の現状を見ると、どこが「科学技術立国」なのか?と思ってしまう。少なくとも、理系分野で研究開発を行っている人にお金の心配をさせるような国が、科学技術立国として勝てるとは思えない。高橋氏たちが言う「理系で頑張っている人が大金持ちにならない国は、これからは勝てない」という言葉には、理系にお金のことに関する無用な心配をさせてはならない、という意味合いがある。

「仕事は嫌なことをしていることに対する対価である」などと考えている人間は、人間としても4流・5流である。仕事を好んでしている人間には絶対に勝てない。好きで仕事をしている人間の中から一流が生まれる。理系でも、好きで研究開発にのめりこんでいる人しか、一流になれない。もちろん好きなことをしていても、苦しいことは多々ある。しかし苦しみを乗り越えられるのは、好きでやっているからである。これらのことは、多くの理系人間(もちろん文系人間も同じだと思う)が思っていることだと思う。

現在、日本人ノーベル賞受賞者が相次いでいることに日本人は浮かれているが、将来の日本の科学技術の展望は非常に暗いとしか言いようがない。

iPS細胞を使った臨床への応用が、着々と進む。

7月21日、iPS細胞を使った心臓病治療への臨床研究計画が明らかになった。iPS細胞の臨床への応用は、理研の高橋政代グループによる眼科での応用に次ぐものと思われる。iPS細胞に関する研究は、基礎研究から臨床へと、着々と前進しつつある。

今回の心臓に関する臨床は、心筋シート(心臓の細胞からなる、シート状の組織)を、心臓の弱った部分に張り付けて支えるというものであるらしい。iPS細胞による将来の目標として、心臓の臓器を丸々iPS細胞から製作するということが言われているが、それはまだまだ先のことかもしれない。

今回の心筋シートの映像をニュース番組で見たが、シート状の組織がまるで心臓が鼓動するかのように運動していた。この心筋シートは元々、血液から作られたものであり、血液細胞→iPS細胞→心臓細胞、という流れが端的に表れている。

今回のiPS細胞からの心臓治療からは、iPS細胞治療の壮大な可能性を感じるが、ではiPS細胞の限界は何か?専門家でない僕にはそこがまだ曖昧で見えてこない。なぜこんなことを書くかというと、iPS細胞を理解するには、iPS細胞の限界を知ることが必要だと考えるからである。

まだまだこれらに関する自分の知が小さいことを考えさせられる。それと同時に、iPS細胞の発展に非常に期待する次第である。

安倍首相の「こんな人たち」騒動。

都議選の応援演説で放った、安倍首相の「こんな人たち」という言葉に、多くの国民は悲しんだのではないだろうか。僕もそのうちの一人である。

僕自身は安倍首相に対してそんなに否定的な見方をしていない。安倍首相の残した実績は偉大なものであるし、政治家としての手腕は飛び抜けたものがある。そこは素直に認めるべきだ。

僕は、政治家の一つや二つの失言くらいのことは、そんなに気にはしない。むしろ、些細な失言に対して上げ足を取る政治家に対しての方が悪印象を持つ。

しかし、今回の「こんな人たち」の一言に、「安倍首相は国民に対してそんな目線で見ていたのか」と非常に失望した気持ちにさせられた。まして、安倍首相を支持していた人たちにとってはなおさらだ。この一言で安倍首相のことを全否定しようとは全く思わないが、かなり冷めた気持ちにはなった。

そしてここ最近、安倍首相とともに、菅官房長官の発言もかなりおかしくなってきている。政府の”両輪”がそろって狂い始めてきたように思う。これらは長期政権によるほころびのサインなのかもしれない。やはり政治組織のトップの任期制限というものは、非常に重要なのかもしれない。

現在の国会において安倍支持勢力が多数をせめる中、そう簡単に安倍首相が失脚するとは考えられないが、やはり(僕個人的には)石破茂氏に対する期待は高まる(すみません、石破かぶれなもんで)。そういう意味でも、最近安倍首相とは距離を取り、足元を固めつつある石破氏の行動は、非常にうれしい。

とは言え、現在はまだ安倍政権が続く。安倍氏の一言には非常に冷めたが、総理に就いている以上は、ここぞ挽回とこれからも実績を出し続けてほしい。一国民として期待している。

僕には夢がある。そしてその夢は目標である。

夢を持っている人は多いのではないか。しかし、夢を夢で終わらせている人がほとんどのように思える。

僕にとって夢とは目標であり、夢は成し遂げてこそ意味があるのだと思っている。だから、「夢を見る」という言葉は嫌いだ。夢とは現実であり、現実であるからこそ生きる原動力にもなる。

大人が夢を見ることを否定する人は多い。いい歳して、と冷めた目で見る。もちろん、非現実的で、実現のための努力を実行しないような夢見る人は、論外である。しかし、夢を実現させるためにコツコツと努力する人を否定する権利は、誰にもない。

しかし、夢に向かって走ることは、非常に苦しい。人にもよるが、夢を取ることによって色々なものを犠牲にしなければいけない。しかし、夢を成し遂げた時の達成感と、それによって得られるのものの大きさが、そんな犠牲による苦しさを吹っ飛ばしてくれる。

明日があるさ!

「明日があるさ」と気軽に思いたいが、今結果を出さないと明日がないことも。ダメだった時のために保険をかけるのは重要なのかもしれないが、あえて保険をかけずに自分を追い込むことも。

しかし、過度に自分を追い込むのは良くないと、最近感じている。過度に自分を追い込んで、精神的に追い詰められると、身体的にも良くない。

自分に自信はあるのだけれども、それ以上に追い詰めすぎて生きた心地がしない。

しかし、結果というものは、追い詰めて限界に達する寸前に出るものかもしれない。そう思おう。

周りの意見を過度に気にしすぎてはならない。

日本では、周りの意見を素直に聞くことが美徳とされている。周りの意見を聞く人間は「ものわかりのいいやつ」、聞かない人間は「わがままなやつ」というレッテルを張られる。仕事を進めるうえで、周りの意見をある程度聞くことは必要だが、自分自身のやるべきこと、自分の進む道を周りの人間にゆだねるのはいかがなものか。

周りの人間の意見を聞いて失敗したら、周りの人間は責任を取ってくれるだろうか?そんなことは100%ない。周りの意見がどうであれ、責任を取るのは自分自身なのである。大切な自分の人生は、自分が判断して進む道を切り開かなければならない。そのためには、わがままであることも必要だ。

僕は自分のことは、できるだけ自分で考えて進むことにしている。自分の人生は、”自分の頭”で考えて判断することが重要なのである。