日別アーカイブ: 2017年7月31日

知る権利?

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」(2015年出版)について、購入を控えた神戸市立中央図書館に関する記事(神戸新聞NEXT)を見た。

この加害者による手記に関しては、様々な問題があると思うが、「プライバシーと知る権利のバランスをどう図るか」というのが一番の争点だと思う。

最近は「知る権利」という言葉がよく出されるが、この加害者の手記に関しておかしいのは、被害者のプライバシーに関しては公にされて、加害者に関しては名前が明らかにされていない(当時は加害者は少年だったため名前が公開されず、この手記の著者名も”元少年A”となっている)ことだ。事件当時、少年だった加害者の名前が伏せられるのは法に則ったものだが、手記を出版するにあたって知る権利が叫ばれる中、著者名だけが伏せられているのは明らかに矛盾している。

この著書に限らず、最近世の中のあらゆるところで知る権利が無差別に主張されていることには、疑問を感じてしまう。そもそも知る権利とは、「公的情報に関して市民が知る権利がある」という趣旨がメインだったはずだが、今では個人のプライバシーまで知る権利を押し付けられようとしている。

知る権利があるなら、「知られない権利」もあるはずだ。知る権利が法で定められていると主張するなら、そもそも法をしっかりと勉強しなければいけない(僕自身も法に詳しいわけではないので、あまり強く言えないが)。中身を吟味せずに”知る権利”という法のタイトルだけを用いて主張を押し付けるのは、明らかに間違っている。

社会的に汚い存在ということと、人間的に汚いということは、全く違う。

社会的評価というものは、自分の意図しないところで作られることが多い。いくら品行良く生きていても、周りの評価はそれに比例しない。最近、投資家の村上世彰氏を見ていてそう思った。

社会的評価と人間性は別物だ。村上世彰氏や、あるいはホリエモンもそうかもしれない。社会的立場にある人間は、表舞台にさらされている分、一挙手一投足によって社会的評価が左右される。時には前衛的でありすぎるが故に、刑務所に入れられてしまうことがある。本人は潔白であっても、社会的には汚い存在とされてしまう。

社会的評価というものは、社会の気まぐれであるので、社会的評価を気にしすぎる必要はない。別に社会的に汚い人間でもいいではないかと思う。自分が一人の人間として信じる道を歩けばいい。周りは周り、自分は自分と思えばいい。社会的評価を気にしすぎると、自分を縛り付けてしまうだけだ。

周りから汚いと思われようがどうでもいい。むしろある程度汚い方が生きやすいし、潔癖な人間よりもむしろ健全かもしれない。周りに合わせるのではなく、前衛的に道を切り開くことが大事だ。自分に自信を持って、信じる道を貫くことが大事だ。

選択と集中。

物事には優先順位を付けることが大事だ。そして、優先順位を付けるには、物事の本質を見抜き、どれが重要かを判断しなければいけない。

「選択と集中」が大事だとよく言われるが、選択して集中するためには、まずは広く物事を見通さなければならない。そのためには、幅広い知識が必要だ。大学で言うと、3年次・4年次での専門課程に入る前に、1年次・2年次で一般教養の訓練を受けることにあたる。

社会では、スペシャリストか、ジェネラリストか、という選択を迫られる。しかし重要なのは、スペシャリストでありながら一般的な見識を持つこと、またはジェネラリストでありながら専門的知識を持つことである。