月別アーカイブ: 7月 2017

生活はルーティーン化したほうが良い。

日々の生活において、常に考えながら物事に取り組むことは非常に重要だ。しかし、何に対して思考すべきか?その優先順位はしっかりと持っていなければいけない。

普段の行動について考えるのもいいが、重要なのは「何をするか」(これももちろん大事だが)ではなくて、「取組む行為において考える」ことだ。そのためには、普段の生活行動に関してはその都度考えるより、ルーティーン化したほうが良い。そして、取り組む対象に対して思いっきり考える。考える資源を集中するのだ。

とは言っても、もちろん「何をするか」についても、ほったらかしではいけない。定期的に、「より良くするためには何をすべきか」と見直すことも必要だ。

ルーティーン化できるところはルーティーン化して、試行錯誤するところは徹底的に試行錯誤する。そのような頭のメリハリをつけることが、物事を進める上でも大いに力になる。

今のままでは、日本は科学技術立国として勝てない!理研・高橋政代リーダーの対談記事を見て燃えた!

本屋で手に取った雑誌「東京カレンダー」に、理化学研究所・高橋政代リーダーの対談記事が載っていた。その中で高橋氏たちは、「理系で頑張っている人が大金持ちにならない国は、これからは勝てない」と話されていた。それには僕も同感である。

ビジネスと言うと、大学では経済学部だとか商学部のような文系をイメージするかもしれないが、実際は多くのビジネスの根源になっているのは「理系的技術」である。すなわち、理系軽視はビジネスの根源を断つことを意味する。極端な話、文系ばかりの集団ではビジネスを成り立たせるのは非常に困難だが、理系ばかりの集団ではビジネスは成り立つ。実際、アメリカの起業の聖地・シリコンバレーで起業する人は、ほぼ例外なく理系人間である。

文系重視の日本でMBA(経営学修士)の取得に必死になっている間、海外では理系技術の習得・開発に必死になっている。

こんな理系軽視の現状を見ると、どこが「科学技術立国」なのか?と思ってしまう。少なくとも、理系分野で研究開発を行っている人にお金の心配をさせるような国が、科学技術立国として勝てるとは思えない。高橋氏たちが言う「理系で頑張っている人が大金持ちにならない国は、これからは勝てない」という言葉には、理系にお金のことに関する無用な心配をさせてはならない、という意味合いがある。

「仕事は嫌なことをしていることに対する対価である」などと考えている人間は、人間としても4流・5流である。仕事を好んでしている人間には絶対に勝てない。好きで仕事をしている人間の中から一流が生まれる。理系でも、好きで研究開発にのめりこんでいる人しか、一流になれない。もちろん好きなことをしていても、苦しいことは多々ある。しかし苦しみを乗り越えられるのは、好きでやっているからである。これらのことは、多くの理系人間(もちろん文系人間も同じだと思う)が思っていることだと思う。

現在、日本人ノーベル賞受賞者が相次いでいることに日本人は浮かれているが、将来の日本の科学技術の展望は非常に暗いとしか言いようがない。

iPS細胞を使った臨床への応用が、着々と進む。

7月21日、iPS細胞を使った心臓病治療への臨床研究計画が明らかになった。iPS細胞の臨床への応用は、理研の高橋政代グループによる眼科での応用に次ぐものと思われる。iPS細胞に関する研究は、基礎研究から臨床へと、着々と前進しつつある。

今回の心臓に関する臨床は、心筋シート(心臓の細胞からなる、シート状の組織)を、心臓の弱った部分に張り付けて支えるというものであるらしい。iPS細胞による将来の目標として、心臓の臓器を丸々iPS細胞から製作するということが言われているが、それはまだまだ先のことかもしれない。

今回の心筋シートの映像をニュース番組で見たが、シート状の組織がまるで心臓が鼓動するかのように運動していた。この心筋シートは元々、血液から作られたものであり、血液細胞→iPS細胞→心臓細胞、という流れが端的に表れている。

今回のiPS細胞からの心臓治療からは、iPS細胞治療の壮大な可能性を感じるが、ではiPS細胞の限界は何か?専門家でない僕にはそこがまだ曖昧で見えてこない。なぜこんなことを書くかというと、iPS細胞を理解するには、iPS細胞の限界を知ることが必要だと考えるからである。

まだまだこれらに関する自分の知が小さいことを考えさせられる。それと同時に、iPS細胞の発展に非常に期待する次第である。

安倍首相の「こんな人たち」騒動。

都議選の応援演説で放った、安倍首相の「こんな人たち」という言葉に、多くの国民は悲しんだのではないだろうか。僕もそのうちの一人である。

僕自身は安倍首相に対してそんなに否定的な見方をしていない。安倍首相の残した実績は偉大なものであるし、政治家としての手腕は飛び抜けたものがある。そこは素直に認めるべきだ。

僕は、政治家の一つや二つの失言くらいのことは、そんなに気にはしない。むしろ、些細な失言に対して上げ足を取る政治家に対しての方が悪印象を持つ。

しかし、今回の「こんな人たち」の一言に、「安倍首相は国民に対してそんな目線で見ていたのか」と非常に失望した気持ちにさせられた。まして、安倍首相を支持していた人たちにとってはなおさらだ。この一言で安倍首相のことを全否定しようとは全く思わないが、かなり冷めた気持ちにはなった。

そしてここ最近、安倍首相とともに、菅官房長官の発言もかなりおかしくなってきている。政府の”両輪”がそろって狂い始めてきたように思う。これらは長期政権によるほころびのサインなのかもしれない。やはり政治組織のトップの任期制限というものは、非常に重要なのかもしれない。

現在の国会において安倍支持勢力が多数をせめる中、そう簡単に安倍首相が失脚するとは考えられないが、やはり(僕個人的には)石破茂氏に対する期待は高まる(すみません、石破かぶれなもんで)。そういう意味でも、最近安倍首相とは距離を取り、足元を固めつつある石破氏の行動は、非常にうれしい。

とは言え、現在はまだ安倍政権が続く。安倍氏の一言には非常に冷めたが、総理に就いている以上は、ここぞ挽回とこれからも実績を出し続けてほしい。一国民として期待している。

僕には夢がある。そしてその夢は目標である。

夢を持っている人は多いのではないか。しかし、夢を夢で終わらせている人がほとんどのように思える。

僕にとって夢とは目標であり、夢は成し遂げてこそ意味があるのだと思っている。だから、「夢を見る」という言葉は嫌いだ。夢とは現実であり、現実であるからこそ生きる原動力にもなる。

大人が夢を見ることを否定する人は多い。いい歳して、と冷めた目で見る。もちろん、非現実的で、実現のための努力を実行しないような夢見る人は、論外である。しかし、夢を実現させるためにコツコツと努力する人を否定する権利は、誰にもない。

しかし、夢に向かって走ることは、非常に苦しい。人にもよるが、夢を取ることによって色々なものを犠牲にしなければいけない。しかし、夢を成し遂げた時の達成感と、それによって得られるのものの大きさが、そんな犠牲による苦しさを吹っ飛ばしてくれる。

明日があるさ!

「明日があるさ」と気軽に思いたいが、今結果を出さないと明日がないことも。ダメだった時のために保険をかけるのは重要なのかもしれないが、あえて保険をかけずに自分を追い込むことも。

しかし、過度に自分を追い込むのは良くないと、最近感じている。過度に自分を追い込んで、精神的に追い詰められると、身体的にも良くない。

自分に自信はあるのだけれども、それ以上に追い詰めすぎて生きた心地がしない。

しかし、結果というものは、追い詰めて限界に達する寸前に出るものかもしれない。そう思おう。

周りの意見を過度に気にしすぎてはならない。

日本では、周りの意見を素直に聞くことが美徳とされている。周りの意見を聞く人間は「ものわかりのいいやつ」、聞かない人間は「わがままなやつ」というレッテルを張られる。仕事を進めるうえで、周りの意見をある程度聞くことは必要だが、自分自身のやるべきこと、自分の進む道を周りの人間にゆだねるのはいかがなものか。

周りの人間の意見を聞いて失敗したら、周りの人間は責任を取ってくれるだろうか?そんなことは100%ない。周りの意見がどうであれ、責任を取るのは自分自身なのである。大切な自分の人生は、自分が判断して進む道を切り開かなければならない。そのためには、わがままであることも必要だ。

僕は自分のことは、できるだけ自分で考えて進むことにしている。自分の人生は、”自分の頭”で考えて判断することが重要なのである。

自分の精神と肉体をコントロールする。

「何をするにも体が資本」と言われるように、健全なる肉体を維持することは非常に大切だ。それと同時に、健全なる精神を維持することも非常に大事だ。精神と肉体は人間の両輪である。

とは言っても、この両輪を常に良好に保つことは易しいことではない。

僕自身、調子を崩すことはよくあるが、そういう時は試行錯誤の連続である。そうして試行錯誤していくうちに、自分にはどういう処方が合うかということが薄々感じられてくる。それが明確になると、自分のコントロールの範疇に入ってくる。

精神と肉体は常に意識しないと落ち込んでしまう。精神を常に研ぎ澄ますには、常に高い意識を保たなければいけない。肉体を高いレベルで保つためには、トレーニングを怠ってはいけない。

と、何か大げさなことを書いたが、日常を怠慢なく過ごせば、精神も肉体も大きく落ちぶれることはあまりない。しかし高い目標を持って何かに挑戦している人間には、精神と肉体を高いレベルで維持すべく、自己をコントロールしなければいけない。

昔は学問は”人の生き方”そのものであった。

2015年のNHK大河ドラマであった「花燃ゆ」。大河ドラマでは珍しく、”学問”がテーマであった、幕末の物語である。

ところで、江戸時代以前の学問と、現在の学問は、かなり性格が違う。昔の学問は”人間の生き方”を追求しようという意気込みが感じられる。そして学問は実践を伴って初めて意味をなし、当時の学問に命をかける若者の姿は非常に美しい。

吉田松陰はペリーの船に乗り込み、投獄され、伊藤博文・高杉晋作など時代を動かす中心人物を育て、最後には打ち首になって死んだ。彼らの行動は、”学問の究極”と言えるだろう。

現在の学問はどうだろうか?学校では指導要領で定められたマニュアルによって教えられることが決まっており、受験のために必死になって勉強する。それはそれでいいのだが、受験のためと言えども、何か目的意識が軽いように思える。そして、学問を学べる”ありがたさ”も希薄である。

現代でも、吉田松陰のような”生きるための、そして時代を変えるための塾・学校”を現代でも、と思うのだが、このような考えは時代錯誤であろうか?

情報の信頼性には、最大限の注意を払わなければいけない。

何ともお粗末な事案が発覚した。フジテレビがネット上の虚偽の情報をそのまま番組で垂れ流したという。情報を全国に流し、報道も担うメディアとして、素人レベル以下の失態だ。テレビメディアの信頼性の失墜にも大きくつながる。まさかテレビ業界でここまで放送モラルが低下しているとは想像もしていなかった。

情報を読み解く時に一番重要になるのが、情報の信頼性だ。具体的には、情報源(ソース)はどこか、あるいは情報の執筆者は誰か。この二つは情報に接するにあたって注意しなければならない、基本中の基本である。

フジテレビの行った行為は、その辺の井戸端会議レベルの話である。本当の井戸端会議ならば、曖昧なうわさで盛り上がるのもよくある話だが、テレビがそれをやっちゃ終わりでしょ、ということである。

現在、ネット上ではフェイクニュースが飛び交い、社会問題化している。それに対応するためにもメディアは情報の出所と信頼性に慎重にならなければならない。今、新聞・テレビメディアに求められているのは、まさしく”信頼性”これに尽きる。信頼性無視で情報を入手するだけならば、今の時代ネットで無限に手に入れられる。だからこそわざわざお金を払って、信頼性の高い新聞などの情報記事を購入する意味があるのである。

メディアに関する話をしたが、我々一般人も注意しなければいけない。信頼性のないネットニュースで仕入れた情報を安易に流したり話したりすると、自分の信頼性の破滅を招くことになる。