月別アーカイブ: 6月 2017

体と精神と頭脳を極める。

スポーツでは、「心・技・体を極める」とよく言う。これはスポーツ選手に限らず、仕事を、生き方を、人間を極めようと思う人なら、全ての人に通じるものがあるのではないだろうか。僕の場合、それが「体・精神・頭脳」だと思った。

好きなことを続けるためにも、そして好きなことで結果を出すためにも、この三つを極めなければいけない。

好きなことを仕事にするのは、非常に厳しい道だ。もちろん趣味のレベルならかなり気楽で楽しめるのかもしれないが、もし仕事にしたいのなら苦しいことも覚悟の上だ。仕事と言っても、ただお金がもらえたらそれが仕事だ、などというレベルの話をしているのではない。「プロフェッショナル」のレベルの話だ。

まずは、生活から突き詰めなければいけない。僕にとって一番難しいのが、睡眠のコントロール。そこからかなりストイックに進めていこうと思う。もちろん息抜きにビールを飲むかもしれない。しかしビールを飲むこと一つをとっても、ペースを乱さぬよう、量と時間を計算しなければいけない。

この様なことは今まで何度も考えてきたが、やはり睡眠が足かせになってきた。しかし懲りずに何度でも挑戦することをあきらめない。今度はできる(気がする)。

成功した後のことを想像して、発奮するのもいい。

失敗は悪いことではない。失敗を失敗で終わらさずに次に生かせば、失敗は経験値になる。失敗を繰り返し経験値を増やすことは、非常に大切なことだ。しかしやはり最終的な目標は成功することだ。

失敗を繰り返していると、時にはくじけそうになるかもしれない。そのような時に、成功した暁にはどのような生活が得られるか、どのような対価が得られるか、そのようなことを想像して、自分を発奮させる。ミッションを成し遂げることは夢だ。しかし夢は見るためにあるのではない。夢は成し遂げるためにあるのだ。

そのためには、社会が成功に見合った対価が与えられるかが重要だ。研究者だって対価は重要である。正確に成功の価値を評価される社会であることが重要だ。しかし今の日本がそのような社会になっているか、疑問である。

21世紀に入って以降、日本人のノーベル賞ラッシュが起こった。しかしよく言われていることであるが、それらの業績は20世紀後半になされたものが大半である。20世紀後半と言えば、日本全体がイケイケ、バブルもあった。ノーベル賞のいくらかはバブルの産物であったと感じている。

欧米では研究者のステータスが日本より高いと言われている。トップ研究者を非常に高い報酬で引き抜くということも日常茶飯事である。そのようなことは欧米だけでなく、最近はアジア、特にシンガポールなどではトップ研究者の引き抜きが激しいことで有名だ。

研究者には金は要らないなどという、くだらないたわごとを言っていると、日本の研究レベルは急降下することは目に見えている。研究者はボランティアで研究をしているのではない。プロとして仕事をしている以上、結果を出せば対価を受け取るのは当然であろう。

今の日本の状況だと、異能流出、第二・第三の中村修二が現れるのは時間の問題であろう。

プロスポーツ選手にとって、仕事道具とは。

最近、プロ野球・ヤクルトスワローズの山田哲人選手が、数年愛用してきたグラブを交換するにあたって、今まで使ってきたグラブを道具メーカーに飾るのか、山田選手の実家に飾るのかということが話題になっていた。そのグラブは非常に丁寧にメンテナンスされており、ほとんど汚れていなかったという。山田選手がどれだけ道具を大切にしていたかと言うことが非常に良く伝わるエピソードである。

現在、テニスは全仏オープンが行われている。錦織選手は残念ながら8強で敗退することが決まった。その錦織選手であるが、以前の試合でラケットを叩きつけ破壊したことが問題になった。これも錦織選手の道具に対する考えが伝わってくる出来事であった。

ところで、プロスポーツ選手の道具に対しての扱いは「大切にする」か「いい加減に扱うか」の二分にされることが多い。野球でも、グラブは大切にされるが、バットはへし折られるのがよくあるパターンだ。

そこで一つ気づいたのだが、どの道具が大切にされ、どの道具がいい加減に扱われるのかということを考えた時、大切に扱われるのは時間をかけてなじませ、数年間愛用されるような道具である。グラブもそうであろう。それに対して、テニスのラケット・野球のバットなどは、年間何十本も用意され、プロスポーツ選手にとってそれらは使い捨てに近いのかもしれない。もちろん使い捨ての道具に愛着はわかない。それが道具の破壊行為などのいい加減な扱いにつながるのかもしれない。

些細なことであるが、普段僕たちが使っている物なども、良いものをメンテナンスをしながら末永く使っていくか、安いものを使い捨てるか、それぞれ人の価値観の違いになるが、メンテナンスをしながら「道具(物)を育てていく」という行為は、物に対しての価値観として非常に重要ではないかと思う。

きっと山田哲人選手のグラブも、数年かけて育て、自分仕様に育て上げたに違いない。

さっそく試練が。

一昨日のブログで、汚れた人間の方が強いと言ったが、さっそくその”汚れ”に関して試練があった。具体的な事は書かないが、これは僕が試されているのだと思い、自分がどう対処すればいいのか考えたが、瞬時に出さなければいけない判断だった。

幸い、大きな試練ではなかったが、この試練を(大したことではないのだが)乗り越えたことによって、少し強くなれた気がする。少し汚れた気がする。そんな汚れた自分を大事にしようとも思う。

 

読書について。

とある記事で、読書には”情報系”と”人格系”があると書いていた。上手く表現したものである。

情報系の代表は新聞であろう。もちろん、新聞以外にもいろいろある。情報系の読書は、効率よく速くこなしていきたいものだ。

人格系の代表は純文学であろう。これらの読書は速読すればいいというものではない。じっくりと時間をかけて、内容を自分の中で描いていきたいものだ。

僕は最近はもっぱら情報系に偏っており、人格系はご無沙汰だ。

この二つに分類されるかどうかわからないが、専門書や論文を読むのには非常に時間をかける。内容を書いて、計算などを確かめていけば、膨大な時間がかかる。さらに洋書・英語論文だと、英語が大の苦手な僕にとってはかなり手こずってしまう。

人間の時間は有限である。従って、読みたい本を全部読むというのはあまり現実的ではない。哲学者ショーペンハウアーは「読書について」という本の中で、読書ばかりしすぎるのもよくないと述べている。おそらく”アウトプット”が大事ということであろう。

さあ、たまには純文学も読もうか。と言っても最近はご無沙汰なので迷ってしまう。

潔癖な人間よりも、汚れが気にならない人間の方が絶対に強い!

最近、潔癖な人が多いような気がする。そんな僕も実は潔癖症だ。

潔癖と言っても大きく二つに分けられる。汚いものに触れない潔癖。そして悩みを完璧に消さなければ気が済まない潔癖。簡単に言えば、「体の潔癖」と「心の潔癖」ということになるであろう。

体の潔癖もかなり問題があるが、心の潔癖は深刻だ。悩みがあると、様々なことに対してパフォーマンスが落ちる。そして心の潔癖は、現在の悩みが解決しても必ず次の悩みがすぐに取って代わる。

何かグレーな事(頭の中の汚いこととでも言うべきか)があるから悩みに陥るのであるが、少々の汚れなんて全く気にならない人間の方が絶対に強い。人間、汚れてナンボである。汚れの中を自ら突き進むくらいの精神力を持ちたい。

汚れは決して悪いことではない。汚れを完璧に無くすことよりも、汚れと上手く付き合い、「汚れどんと来い」というくらいの考えで生きていきたいものである。

心を鍛える事、体を鍛える事。

心と体は一体。どちらも同一人物に宿るものである。心(精神)を鍛えなければならないとか、体を鍛えなければいけないとかいろいろ考えるけど、やはり心と体の両方をバランスよく鍛えることが大事だ。

数学を研究している人に対して、どのようなイメージを持っているだろうか?数学は頭を使う作業なので、体はあまり重要ではない、と考える人が多いと思う。しかし数学の人間同士では「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものである。数学を研究するのにも体あってのもの。数学にも体力は重要なのである。僕の大学時代の恩師(数学者)は、毎日バーベルを持ち上げて、その時に歯に力を入れ過ぎ歯がボロボロになったと言っておられた。

僕も体力の重要性に気づいてから、ここ五年くらいはほぼ毎日筋トレを続けている。心を鍛えることの重要性は言うまでもないが、頭を使う知的労働者こそ、体の重要性を認識しなければいけないのではと思う。もちろん、健康を維持することは言うまでもない。

取るべきリスクと、避けるべきリスク。

人間生きていると、様々なリスクに対して、取るか取らないか決断をしなければならない。リスクは少ない方がいいが、前に進むときにはリスクを必要とするときもある。

しかし、不必要なリスクまで負う必要はない。特に金銭的リスクだが、何かを始める時にそれだけのお金が必要か?よく考えなければいけない。特に起業するには資金は必須だ。しかし初めから完璧にしようとすると、無駄にお金をつぎ込んでしまうことがある。成功する確率は、つぎ込んだお金に比例しない。

リスクは金銭的リスクだけではない。時間的なリスク、立場上のリスクなど様々なリスクがある。人間として上を目指すためには、金銭的リスクは不要でもその他の様々なリスクを抱えざる負えない。そのような時のリスクは”覚悟”であると言えるだろう。

人間としてのリスクを取らずに無難に生きていくことも十分可能であろう。しかし、人間的リスクを取らずに生きていく人生は、表面をなぞるような人生でしかない。深みが生まれない。人間的リスクを取り、それを克服した時に、人間的な深さが生まれる。

深みのある魅力的な人間になるために、どうリスクと向き合うか。試行錯誤の毎日である。

僕は高校中退したことを、誇りに思っている。

今日、このブログサイトのプロフィールに書いてあった僕の学歴を大幅に簡潔にした。大学名・大学院名は削除することにした。しかし、高校中退したことについては、そのまま残してある。

僕にとって、高校を中退したことは汚点ではない。むしろ誇れることだと思っている。中退した理由はいくつかあるが、僕が自分で決断し、実行した。

高校一年の一学期で中退してから大学へ入るまでの二年半は、とてつもなく有意義で充実した時間であった。友人付き合いは、数学少年仲間から悪友まで様々であった。この二年半がなければ、今の自分はなかったであろう。

もちろん物理学者になるという夢は非常に強く持っていたので、数学と物理の勉強は人一倍やっていた。毎日図書館に通って勉強するのも心地よかった。仲間の吸うタバコの煙は非常に嫌ではあったが。

尾崎豊みたいに派手で発散していたわけではなかったけど、自分なりに信念を持って生きていた。その信念は、20年以上たった今でも変わらないが。

レールの上を走るだけが人生じゃない。荒れた荒野を開拓していくことは、非常に困難だけど、そうして切り開いた道は自分だけの道だ。自分の人生に対して他人からレッテルを張られる筋合いはない。しかしすでにある道の名前は他人の名前だ。自分の進む道くらいは自分の名前を付けたいものである。

 

合理主義・論理主義の時代でも、精神論は必要だ。

物事を合理的に考える、論理的に遂行するということは、現代社会において避けて通れない道だ。昔あった、精神論・根性論一本やりでは、この現代社会は乗り切れない。

では、精神論は無用の長物になったのか?僕はそうは思わない。物事を合理的・論理的に遂行するのは、最終的には人間だ。人間の中枢は精神(頭脳)であり、それが故、精神論抜きでは何も進められない。

よく「努力をせよ」と言われるが、努力などはまさに精神論そのものである。精神論は人間が人間らしく生きると言う意味でも重要である。また、そこに人間のドラマが生まれる。

人間はコンピューターでも機械でもない。合理的・論理的考えを上手く取り入れながら人間らしく活動する、それが現代社会で生きていくうえで最も理想的な生き方と言えるのではないか。