月別アーカイブ: 6月 2017

「俺が、俺が」のフォワード。

今日、サッカーの元日本代表で、最近Jリーグの神戸に入団した、ハーフナー・マイクの対談を見た。

ハーフナーのポジションはフォワード(FW)、つまりゴールを決めてナンボのポジションだ。

ハーフナーは言う。FWに必要なのは「俺が、俺が」の精神。つまり独善的思考が必要なのだと。これはどこの国のFWでも同じ。FWがアシストしても評価の対象にならない。ゴールを決めて初めて評価されるのだ。

独善的と言っても、悪い意味は全くない。それどころか独善的でなければならないのだ。独善的でないFWなど必要ない。

「俺は、俺は」という言葉を聞いて、自分と全く同じだと感じた。僕も常に「俺が、俺が」という気持ちで前に進んでいる。ハーフナーと同じ独善的思考だと言えるが、自分も独善的でなくなったら、僕の価値はないと思っている。

もちろん、人にはそれぞれ特性がある。サッカーでもディフェンダー(DF・守備的ポジション)の選手には、奉公の精神が求められる。要は、自分の特性に合ったプレーをすればいいのだ。

「俺は、俺は」のプレー(生き方)を選べば、必ず目に見える結果を出さなければいけない。結果を出すまでは確かに苦しい。しかし、自分をしっかりと見極められていれば、自分を信じて我慢ができる。

あとは結果を出すのみ。それまで何とか耐えて見せよう。もう少しの我慢だ!

苦手なことを克服するのではなく、得意なことで勝負せよ!

今回も命令口調だが、やはり自分への命令である。

一般的に、苦手なことは克服しなければならないという風潮が強いが、苦手なことを克服することに気を使って悩んでいる暇があれば、得意なことを磨いて勝負することに力を注いだ方がいい。もちろん苦手な事を克服するのに越したことはないが、人生は苦手なことで勝負するのではない。得意なことで勝負するのだ。

今苦手なことを克服しても、それは延命治療でしかない。しかし、苦手な事の克服を捨てて得意な事だけに絞るにはかなりの覚悟が必要だ。なぜならば得意なことで必ず結果を出す必要があるからだ。

もちろん、社会で生きていくためには、様々な苦手を克服することが要求される。しかし今さらそんな世界で人生を過ごそうというつもりはないので、得意なことに全力を注ごうと思う。

かなりの賭けではあるが、自分の狙うことはそこにこそあると思うので、そこを目指して突き進む。

またまた人生のギャンブルだ!

気合だけではどうにもならないけど。

気合と言えば、アニマル浜口が懐かしい。「気合だ!気合だ!気合だ!うぉ!うぉ!うぉ!」と言うアニマルさんの言葉が耳をこだまする。浜口京子さんは、そんなアニマルさんの気合フレーズに後押しされて、オリンピックでメダルを取ったのだろうか。

何かで落ち込んでいたり、上手くいかない時は、何とか気合で乗り越えたいと思うが、そんな時ほど気合が入らない。そもそも気合を入れれば上手くいくというものではないが、それなりの気合くらいは入れたいものだ。

最近は、明確な展望はあるのだが、生理的な側面に引きずられてなかなか前に進めない。睡眠のコントロールとか。普通の人はこれくらいのことは気合で乗り切れるのかもしれないが、僕の場合気合で乗り切れるレベルじゃない。

しかし、あきらめたらそれで終わり。何とか乗り切るか、他でカバーするか、あらゆる手段を考えなければいけない。

来年、吉と出るか凶と出るか。まだわからないけど、ギリギリまで頑張ってみよう。

人格と精神。裁判の判定理由において。

重大事件の裁判において、”精神鑑定”がよくされる。犯罪の原因が精神疾患なのか、人格によるものなのかを見極めようということであろう。

しかし、人格というものは精神から来るものであり、そういう意味で精神と人格を区別しようというのは的を得ていないように思う。

精神には自分でコントロールできる部分と、自分でコントロールできない部分がある。精神はコントロールできるという意味で、人格形成もある程度自分の意識次第でコントロールできる。

精神とは人間の中枢であり、人間そのものと言っても過言ではない。即ち、人間を高めるためには、精神を高めなければならない。自分はどのような人間になりたいのか?それは人さまざまではあるが、自分のなりたい人間になるためには技術的な事を向上させるだけではダメで、人間性も高めなければならない。

実際、超一流の仕事人は、技術とともに人間性も超一流だ。イチローや山中伸弥教授などを見ていてもひしひしと感じる。

どこまで自分を高めることができるか?そのために時間をかけるのはいいことだが、人間には寿命という制限時間があることを頭の片隅に置いておかなければならない。

あれを言ってはダメ、これを言ってもダメ。結局無難な言葉しか残らない。現在の社会と学校教育の現場。

現在テレビを観て、禁止用語が多く、出演者が無難な言葉を選んでしゃべっていることは、多くの人が感じているであろう。禁止用語と関係ないが、目的の人物以外の人物の映像が全てぼかされているのをみると、神経の使う世の中になったもんだと感じてしまう。

学校教育の現場では、”性”に関する話題はタブーであるらしい。本来、中学生や高校生にこそ正しい知識を教えなければいけないが、保護者からの批判などもあり、教師はそのような言葉を発することもできないらしい。

学校で表だって話題にできないことは、結局裏ですることになる。裏で曲がったことをするのなら、堂々と正しいことを議論しなけない。多くの人はそのことに気付いてはいるが、少数の批判だけが表沙汰になり、結局委縮して何もできなくなってしまうのである。

誰がこのような”無難”な世の中にしたのだろうか?

現在、将棋の藤井四段が快進撃を続け、多くの国民の注目を浴びているが、その一方でそのような傑出した才能を養成する土壌を社会は潰し続けているように思える。

学校は社会の縮図である。学校の閉塞感は将来の社会の閉塞感につながる。可もなく不可もなく、そんな社会に魅力は感じるか?平和に暮らせれば魅力なんて関係ないという人も多いのかもしれないが、そのような社会の行く末は”衰退”であるように思えてならない。

 

本当に自分に厳しい人は、絶対に他人には優しい。

最近、他人の欠点ばかり見えてしまう自分が大嫌いだ。他人のそんなところが見えてしまうと、つい突っ込みたくなる。少し他人に厳しく当たってしまうのだ。そんな時は逆に自分に対する厳しさは緩くなっている。

本当に自分に厳しい人は、絶対に他人には優しいと、最近気づいた。僕自身、自分に対して厳しく規律している時は、他人に対しては大概のことは許すことができた。

「自分にも他人にも厳しい」という人の事をよく聞くが、僕はそれは嘘だと思う。他人に対して厳しい人は、自分に対して厳しいように見せかけているだけだと思っている。

学校の教師を見ればよくわかる。厳しい暴力教師に限って、不祥事が起きると保身に走る。成果は自分の物、責任は他人に押し付ける。そのような教師が多かった。

自分に厳しくなるためには、まず他人に優しくなることから始めなければいけないのかもしれない。

いつまでも「自分に厳しく、他人に優しい」人間でいることを心がけたい。

心臓に毛を生やせ!

「心臓に毛を生やせ!」と命令口調で言ったが、これは自分への命令である。

ここ最近、弱腰でちょっとの事で怯える自分がいた。そんな自分にとって、心臓に毛を生やすことは至上命令だ。厳密に言うと、怖いものなしで暴れまくっていた自分を取り戻すということかもしれない。そのためには、精神的な環境を整えないといけないので、自分の置かれた立場のコントロールから、睡眠の質や時間のコントロールなど、いろいろと課題は多い。

そしてこのブログで「木原康明」という本名を打ち出しているのも、関係はある。ニックネームなどでコソコソと評論して、攻められると陰に隠れるということだけはしたくなかった。しっかりと心臓に毛を生やして、堂々と受けて立つ(というほどの事でもないが)姿勢を貫きたかったのだ。

このブログのタイトルは「考える部屋」というように”考える”事に重点を置いているが、一時期は社会評論に偏っていた時があった。しかし評論などというものは、外から言いたいことを突っ込むだけで、本当に自分の考えを打ち出せているかと言われれば少し疑問である。だから最近は、思想とまでいかなくても、自分の考え・生き方を中心に記事を書くようにしている。

”心臓に毛を生やせ!”の話に戻るが、物事を成し遂げるには、何事にも動じない心を持つことが重要だ。そして自分は再び心臓に毛を生やせると確信しているから、自分の理念を確認するためにもこのようなタイトルで記事を書かせていただいた。

これからまた暴れまくるぞ!

長いものに巻かれるな!

「長いものに巻かれろ」僕の一番嫌いな言葉だ。目上の人から言われても反抗する、生意気な奴だと思われているかもしれないが、自我をしっかり持って筋を通すことは非常に大事だ。

くだらない自我を持つ必要は全くないが、これは重要だと思うことはゆずってはいけない。

総理に巻かれる政治家、教師に巻かれる生徒など様々だが、僕が小学生・中学生時代は何とか教師に泡を吹かせてやろうとそんなことばかり考えていた。

ただ勘違いしてはいけないのは、「長いものに巻かれるな」とは、自分の都合のいい意見を押し通すことではない。「正論を突き通せ」と言う意味である。

そのためには、正論を理解できる「考える頭」を持たなければならない。

藤井さん28連勝の陰で、一二三さんが現役引退。

21日、将棋の藤井四段が歴代一位タイの28連勝を記録した。そしてその前日の20日、棋士最年長の77歳の加藤一二三九段が最後の負けを喫し、現役を引退した。藤井・加藤、両人とも、同じく14歳でプロデビューしている。

話しは変わるが、僕は組織階級の仕組みを知るのが好きだ。自衛隊・警察組織など、序列がはっきりしており、昇級には明確な基準がある。そしてキャリア・ノンキャリアなどの昇級システムの圧倒的な違いなどは、部外者から見る分にはなかなか面白い。

組織階級とは少し違うが、将棋も明確な序列がある。プロ棋士のスタートである四段から始まって、序列の頂点である名人位まで、そして最高のタイトルと言われている竜王まで、そのシステムは見ているだけでなかなか面白い。

名人位はC級2組からスタートして頂点のA組まで毎年昇段していっても5年かかる。これらのシステムがなかなか面白い。

藤井さんはどこまで勝ち続けるのか、棋士組織の仕組みと見比べながら結果を見るのも面白い。

上を向いて笑おう。

最近、笑うことは健康にも精神的にも良いというような話をよく聞く。僕自身は昔から常にゲラゲラ笑っている方だが、ストレスを感じている時はどうしても笑うことが少なくなってしまう。

ストレス解消のためにも、最近は特に意識して笑うようにしているが、本当に笑っていることが良い方向に向いているかどうかよくわからない。しかし上を向いて歩くためにも、笑って気分をスッキリして、前進したいものである。

それから、僕はお笑いを観るよりも、自分がお笑いを作る方が大好きだ(ど素人だが)。3年ほど前に、R-1ぐらんぷりの予選に出たことが懐かしい。機会があればもう一度リベンジしたいと思っているのだが・・・

人を笑わせて、自分も思いっきり笑う。そんなことが少しでも多くなるように、少しネタでも考えておこうか。

恩師への想い。

僕には一人だけ、恩師と言える人がいる。大学時代にお世話になった先生(教授)だ。

僕は大学時代、調子を大きく崩した時があり、思うようにいかなかったときに、その先生は何も言わずに僕の好きなようにさせてくれた。研究室に勝手に入り込んで休んでいたことも、日常茶飯事であった。

先生とは専門は少し違うのだが、先生の研究をする姿を見て、研究の現場というものを間近で感じることができた。

その恩師も、今では退官されて、名誉教授になられている。

僕の学生時代はまだ中堅の研究者であった先生も、今ではお歳を取られていると感じると、今まで何も恩返しができていないことがすごく悔しい。

早く結果を出して、先生に報告するのが一番の恩返しだと思っている。そのためにも一刻も早く結果を出さなければと焦っている次第である。

早く胸を張って先生に会いたい!

孤独を愛する。

最近は、友達の多さが充実した生活につながると言った意見をよく聞く。

しかし、四六時中SNSなどでつながっているのもどうかと思うし、独りでいるのが好きな人もいる。そんな僕も、独りでいるのが大好きだ。孤独が好きなのだ。

とは言っても、僕は人と話すのは大好きだし、電話でよく友人と話もするし、友達がいること自体は凄く嬉しい。

孤独を愛することができることは、僕は強みだと思っている。少し前に流行った”何とか力”という言葉で言うなら、”孤独力”とでもいうところか。

飲み会でわいわい騒ぐのもいいが、カフェで独り読書にふけるのもいい。独り論文を熟読するのもいい。

大勢でいるのも楽しいけど、基本は独りでいたい。最近、孤独死を問題にする人が多いが、僕は孤独死っていうのはなかなか良いと思う。僕自身、人に見取られて死ぬより孤独死の方がいいと思っている。死んだ後の事なんかに何もこだわりを持っていない。

「孤独を愛する人間でいたい」と僕が言っても、おしゃべり大好きな僕を見て周りの人はあまり想像できないかもしれないが・・・

人生を危険にさらせ。

17日、AKB48の総選挙があった。その中であった、NMB48の須藤 凜々花さんの結婚発言が話題をさらった。個人的におめでとうと言いたい。

須藤凜々花さんは、地元関西のアイドルだが、「目標は哲学者になること」だというのが有名だそうだ。実際、哲学書も出されている。その本のタイトルが、今回のブログのタイトル「人生を危険にさらせ」だ。

この言葉、元はと言えば、哲学者ニーチェの言葉であるらしい。僕自身もニーチェは大好きなのだが、この言葉は知らなかった。しかしこの言葉、非常にニーチェらしい言葉である。

「人生を危険にさらせ」という言葉は、「現場に出ろ、大衆の前に姿を現せ」と言う意味なのかもしれない。あるいは「リスクを恐れるな」と言う意味かもしれない。

お金のギャンブルはとうてい推奨できないが、人生のギャンブルは積極的にやっていく方がいい。とは言っても、人生のギャンブルも一般には推奨すべきことではないのかもしれないが、夢を持ち、エキサイティングな人生を望むならば人生のギャンブルは必要不可欠だ。

間違っても、自分だけ安全な所に居ながら口だけを出すような人間にはなりたくない。

須藤さんが教えてくれた「人生を危険にさらせ」と言う言葉は、前に進むためのエネルギーをくれる言葉だ。

人生をどんどん危険にさらして、失敗を繰り返して、最後に自分が笑えばいい。人生を危険にさらさずに、失敗もしない人生に、僕は価値を感じない。

日本はどれだけ自由なのか?

日本における言論・行動などの自由度は高いのか、低いのか。

国際的な評価では、日本の自由度はあまり高くないと言うような報告を聞いたことがあるが、それでも自由度の低い国に比べれば、まだまだましなように思える。

現在、テロ対策法案が国会で審議されている。この法案が監視社会につながるのではという不安が主張されており、僕自身もその危険性は排除できないと思っている。この問題は、テロ対策のメリットと、自由の一部剥奪のデメリットとのバランスがどうなるのかということに尽きるのではないか。

少し話は変わるが、日本は非常に協調性を重んじる国だ。そのことに関しては、世界的に評価されている。しかしその協調性はしばしば”圧力”となって協調性からはみ出るものに対するバッシングとなる。この日本の高い協調性社会が、自由度の低さの元凶になっているように思える。

個人の力で生き抜こうとする人間にとっては、日本の社会は生きにくい国である。

渋い男に憧れる。

僕も今では40歳。いつの時代にも憧れる男性像はあるが、今、どんな男に憧れるかと聞かれれば、「渋い男」に憧れると言う。

若いジャニーズ系のイケメンアイドルは、確かにカッコいいとは思うが、この歳になって目指す男性像ではないし、最近は若いイケメンより良い歳の取り方をした渋男がいい。

具体的に名前を挙げると、俳優の佐藤浩市・同じく俳優の豊川悦志・政治学者で東大名誉教授のカン・サンジュン・iPS細胞の山中伸弥、これらのどの人も生き方も格好よく、人間もしっかりしており(と僕は感じるが)、そして仕事で実績をあげておられる。

この四人は皆僕よりも年上だが、皆生き生きとして渋い。若いイケメンとどちらが魅力的かと聞かれても、単純に比較できない(僕はこれらの渋いおじさんの方に魅力を感じるが)。

渋い男を目指すためには、外見も内面も磨かなければいけない。どれだけ近づけるか、それとも近寄れないのか、わからないが、僕自身は(勝手に)これらの渋い男を目指そうと思っている(少し人間のキャラクターが違う気もするが・・・)。

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、安倍氏支持の僕からしても見るに堪えない。

最近の安倍政権のおごり高ぶりは、自民支持者にとっても見るに堪えないものになっている。

加計学園問題の内部調査の目的は、内部告発者探しとなっているとも言われ、法案はことごとく強行採決という状況だ。強行採決が通るのは数の論理である国会では当然とも言えるが、その責任は選挙で投票した国民にもある。

確かにこれまで日本国は安倍首相・安倍政権に何度となく救われた。特に対韓・対中関係ではむしろ、強権安倍政権によって国益の損失を最小限に抑えられたと僕は思っている。しかし最近の安倍政権周辺、そして安倍首相の答弁を見ていると、そろそろ安倍政権の終焉が近づいていると感じられてならない。

そこで問題になるのは、安倍氏に代わる政治家は存在するのか、という問題だ。この問題に対して、僕は石破茂氏に期待している。

僕は何度もこのブログでも書いているが、石破かぶれだ。石破茂氏には一国民として絶大な信頼を置いている。(僕と石破氏の間で利害関係はもちろん全くないし、接点もない。)しかし、現在の石破氏の状況は孤立している。石破派はわずか19人だ。現状では総理・総裁選には全く太刀打ちできない。辛抱の時だ。

しかし、石破茂氏は総理の器を持つ、現在最も総理にふさわしい人物だと思っている。石破氏の良いところは、何事にも慎重に物事を進めるところだと言える。慎重に物事の本質を見極めようとする。そして防衛に関しては、非常に考えが深い。これは東アジアの軍事状況が不安定な現在では、非常に重要なことである。

ここで断わっておくが、僕は絶対に自民党でなければダメだとは思っていない。民進党でも前原誠司氏(元外務大臣)のような将来有望な中堅政治家も存在する。あるいはたくさんいる若手の中には、器の大きい政治家が埋もれているかもしれない。石破氏には頑張ってもらいたいが、政党にこだわらずニューフェイスの若手政治家の活躍にはさらに期待したいところである。

存在そのものに価値がある、”岩波文庫”。

近年、出版不況と言われているが、今でも膨大な数の新刊本が出版されている。その新刊本のうち、読む価値のある本がどれだけあるかと言われれば、ほとんどない。

しかし、読む価値のある本が集められている文庫がある。岩波文庫である。

岩波文庫には、基本的に新刊本は(ほとんど)存在しない。過去の名著ばかりが集められているからだ。分野の幅もしっかりしている。僕が岩波文庫でお世話になっているのは、主に哲学書。ギリシャ・ローマ時代から、近世・近代ヨーロッパ哲学、そして京都学派を中心とする日本哲学。どれをとっても一冊を何度も繰り返し読むのに値する名著ばかりだ。

岩波文庫の存在は、日本の文化レベルの高さを表している。岩波文庫の存在そのものに価値があるのだ。

どの分野でもいい。岩波文庫の中の一冊を熟読するのは悪いことではない。

靴を磨くこと、心を磨くこと。

僕には大切にしている一足(一対?)のブーツがある。そのブーツを買ってからもう5年ほど経つが、メンテナンスを欠かさずしているせいか、年々艶が増してきている。二週間に一回のブーツの靴磨きが習慣になっている。

靴磨きというのは不思議なもので、磨いて艶が出てくると、心まで磨かれたような気になる。靴磨きというと作業のように考えている人もいるが、靴は「育てるもの」と教えられる。

靴磨きは男のたしなみとも言われる。なぜ靴磨きがたしなみなのか?それは実際に磨いてみないと感じられないだろう。ただ確実に言えることは、靴磨きの習慣は、自分が人ととして上に上がるきっかけを作ってくれる。靴磨きに対する心は、あらゆるものに対する心に通じるものがある。

靴磨きが与えてくれるもの、「物を大切にする心」「物を育てる心」「他人に対する自信」「他人に対する好感」そして「自分に対する自信」。

こんなことを言うと少し大げさかもしれないが、靴磨きをきっかけにして、心も磨くのもいいものだ。

僕はまだ本気で頑張れていない。

僕は常に頑張っている。でも”本気”で頑張っているか?と問われれば「本気では頑張れていない」と答えるしかない。まだまだ甘いのである。心の中では、本気で頑張ろう、と思っているが、本気で頑張るということはなかなかできる事ではない。

しかし、過去に一度だけ”本気で頑張った”と思えることがあった。十数年前の事である。それをやりきった時は「もし結果がダメでもこれだけやったんだから悔いはない」と本気で思った。結果は・・・成功した。やはり”本気”で頑張れたと胸を張れるくらい頑張った時には、結果は嘘をつかないのかもしれない。

今、僕は一つの目標に向かっている。いろいろ雑音もあって信念がぶれそうになるときもあるが、目標に向かって進んでいる。しかし”本気”と胸を張れるかと言われれば、胸を張れない自分がいる。

体力的・精神的・環境的な様々な要因はあって決して簡単ではないが、また「本気で頑張っている」と胸を張れるように本気で頑張ろう。

過度な対策ではなく、適切な予防を。

最近は情報過多の時代だ。テレビ番組一つとっても、膨大な量の情報が垂れ流されている。それを無意識に聞いていると、危険性を訴える情報に対してあらゆることに対策を講じなければならない。しかしこんなことをしていては、心と体がいくつあっても足らない。

日常を生きていくうえで、危険は数えきれないほど存在する。極端に言えば、今日、歩道を歩いていて車が飛び込んでくるかもしれない。しかしこのようなことに対してどう対策をすべきなのか。実際対策のしようがないだろう。

重要なのは、危険に対してその危険性の度合いを正しく把握することだ。危険性の低いことはあまり気にせずに軽く、危険性の大きなことはできるだけ念入りに対策を。

一番危険な考え方は、大きな危険も些細な危険も同列で考えて、同じレベルの対策をしようとすることだ。そんなことをしたら、非常に息苦しくなるだろう。

危険性に限らず、物事を冷静に評価する頭は非常に重要だ。そしてあまりに考え込むようだったら、起こったら起こった時の事、その時に悩めばいい、というのも一つの手だと思う。しかし悩み多き人にとっては、このように考え方の方向を変更するのは容易ではない。ただ、危険性に敏感になりすぎて、悩みの先取りをすることだけはやめよう。

体と精神と頭脳を極める。

スポーツでは、「心・技・体を極める」とよく言う。これはスポーツ選手に限らず、仕事を、生き方を、人間を極めようと思う人なら、全ての人に通じるものがあるのではないだろうか。僕の場合、それが「体・精神・頭脳」だと思った。

好きなことを続けるためにも、そして好きなことで結果を出すためにも、この三つを極めなければいけない。

好きなことを仕事にするのは、非常に厳しい道だ。もちろん趣味のレベルならかなり気楽で楽しめるのかもしれないが、もし仕事にしたいのなら苦しいことも覚悟の上だ。仕事と言っても、ただお金がもらえたらそれが仕事だ、などというレベルの話をしているのではない。「プロフェッショナル」のレベルの話だ。

まずは、生活から突き詰めなければいけない。僕にとって一番難しいのが、睡眠のコントロール。そこからかなりストイックに進めていこうと思う。もちろん息抜きにビールを飲むかもしれない。しかしビールを飲むこと一つをとっても、ペースを乱さぬよう、量と時間を計算しなければいけない。

この様なことは今まで何度も考えてきたが、やはり睡眠が足かせになってきた。しかし懲りずに何度でも挑戦することをあきらめない。今度はできる(気がする)。

成功した後のことを想像して、発奮するのもいい。

失敗は悪いことではない。失敗を失敗で終わらさずに次に生かせば、失敗は経験値になる。失敗を繰り返し経験値を増やすことは、非常に大切なことだ。しかしやはり最終的な目標は成功することだ。

失敗を繰り返していると、時にはくじけそうになるかもしれない。そのような時に、成功した暁にはどのような生活が得られるか、どのような対価が得られるか、そのようなことを想像して、自分を発奮させる。ミッションを成し遂げることは夢だ。しかし夢は見るためにあるのではない。夢は成し遂げるためにあるのだ。

そのためには、社会が成功に見合った対価が与えられるかが重要だ。研究者だって対価は重要である。正確に成功の価値を評価される社会であることが重要だ。しかし今の日本がそのような社会になっているか、疑問である。

21世紀に入って以降、日本人のノーベル賞ラッシュが起こった。しかしよく言われていることであるが、それらの業績は20世紀後半になされたものが大半である。20世紀後半と言えば、日本全体がイケイケ、バブルもあった。ノーベル賞のいくらかはバブルの産物であったと感じている。

欧米では研究者のステータスが日本より高いと言われている。トップ研究者を非常に高い報酬で引き抜くということも日常茶飯事である。そのようなことは欧米だけでなく、最近はアジア、特にシンガポールなどではトップ研究者の引き抜きが激しいことで有名だ。

研究者には金は要らないなどという、くだらないたわごとを言っていると、日本の研究レベルは急降下することは目に見えている。研究者はボランティアで研究をしているのではない。プロとして仕事をしている以上、結果を出せば対価を受け取るのは当然であろう。

今の日本の状況だと、異能流出、第二・第三の中村修二が現れるのは時間の問題であろう。

プロスポーツ選手にとって、仕事道具とは。

最近、プロ野球・ヤクルトスワローズの山田哲人選手が、数年愛用してきたグラブを交換するにあたって、今まで使ってきたグラブを道具メーカーに飾るのか、山田選手の実家に飾るのかということが話題になっていた。そのグラブは非常に丁寧にメンテナンスされており、ほとんど汚れていなかったという。山田選手がどれだけ道具を大切にしていたかと言うことが非常に良く伝わるエピソードである。

現在、テニスは全仏オープンが行われている。錦織選手は残念ながら8強で敗退することが決まった。その錦織選手であるが、以前の試合でラケットを叩きつけ破壊したことが問題になった。これも錦織選手の道具に対する考えが伝わってくる出来事であった。

ところで、プロスポーツ選手の道具に対しての扱いは「大切にする」か「いい加減に扱うか」の二分にされることが多い。野球でも、グラブは大切にされるが、バットはへし折られるのがよくあるパターンだ。

そこで一つ気づいたのだが、どの道具が大切にされ、どの道具がいい加減に扱われるのかということを考えた時、大切に扱われるのは時間をかけてなじませ、数年間愛用されるような道具である。グラブもそうであろう。それに対して、テニスのラケット・野球のバットなどは、年間何十本も用意され、プロスポーツ選手にとってそれらは使い捨てに近いのかもしれない。もちろん使い捨ての道具に愛着はわかない。それが道具の破壊行為などのいい加減な扱いにつながるのかもしれない。

些細なことであるが、普段僕たちが使っている物なども、良いものをメンテナンスをしながら末永く使っていくか、安いものを使い捨てるか、それぞれ人の価値観の違いになるが、メンテナンスをしながら「道具(物)を育てていく」という行為は、物に対しての価値観として非常に重要ではないかと思う。

きっと山田哲人選手のグラブも、数年かけて育て、自分仕様に育て上げたに違いない。

さっそく試練が。

一昨日のブログで、汚れた人間の方が強いと言ったが、さっそくその”汚れ”に関して試練があった。具体的な事は書かないが、これは僕が試されているのだと思い、自分がどう対処すればいいのか考えたが、瞬時に出さなければいけない判断だった。

幸い、大きな試練ではなかったが、この試練を(大したことではないのだが)乗り越えたことによって、少し強くなれた気がする。少し汚れた気がする。そんな汚れた自分を大事にしようとも思う。

 

読書について。

とある記事で、読書には”情報系”と”人格系”があると書いていた。上手く表現したものである。

情報系の代表は新聞であろう。もちろん、新聞以外にもいろいろある。情報系の読書は、効率よく速くこなしていきたいものだ。

人格系の代表は純文学であろう。これらの読書は速読すればいいというものではない。じっくりと時間をかけて、内容を自分の中で描いていきたいものだ。

僕は最近はもっぱら情報系に偏っており、人格系はご無沙汰だ。

この二つに分類されるかどうかわからないが、専門書や論文を読むのには非常に時間をかける。内容を書いて、計算などを確かめていけば、膨大な時間がかかる。さらに洋書・英語論文だと、英語が大の苦手な僕にとってはかなり手こずってしまう。

人間の時間は有限である。従って、読みたい本を全部読むというのはあまり現実的ではない。哲学者ショーペンハウアーは「読書について」という本の中で、読書ばかりしすぎるのもよくないと述べている。おそらく”アウトプット”が大事ということであろう。

さあ、たまには純文学も読もうか。と言っても最近はご無沙汰なので迷ってしまう。

潔癖な人間よりも、汚れが気にならない人間の方が絶対に強い!

最近、潔癖な人が多いような気がする。そんな僕も実は潔癖症だ。

潔癖と言っても大きく二つに分けられる。汚いものに触れない潔癖。そして悩みを完璧に消さなければ気が済まない潔癖。簡単に言えば、「体の潔癖」と「心の潔癖」ということになるであろう。

体の潔癖もかなり問題があるが、心の潔癖は深刻だ。悩みがあると、様々なことに対してパフォーマンスが落ちる。そして心の潔癖は、現在の悩みが解決しても必ず次の悩みがすぐに取って代わる。

何かグレーな事(頭の中の汚いこととでも言うべきか)があるから悩みに陥るのであるが、少々の汚れなんて全く気にならない人間の方が絶対に強い。人間、汚れてナンボである。汚れの中を自ら突き進むくらいの精神力を持ちたい。

汚れは決して悪いことではない。汚れを完璧に無くすことよりも、汚れと上手く付き合い、「汚れどんと来い」というくらいの考えで生きていきたいものである。

心を鍛える事、体を鍛える事。

心と体は一体。どちらも同一人物に宿るものである。心(精神)を鍛えなければならないとか、体を鍛えなければいけないとかいろいろ考えるけど、やはり心と体の両方をバランスよく鍛えることが大事だ。

数学を研究している人に対して、どのようなイメージを持っているだろうか?数学は頭を使う作業なので、体はあまり重要ではない、と考える人が多いと思う。しかし数学の人間同士では「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものである。数学を研究するのにも体あってのもの。数学にも体力は重要なのである。僕の大学時代の恩師(数学者)は、毎日バーベルを持ち上げて、その時に歯に力を入れ過ぎ歯がボロボロになったと言っておられた。

僕も体力の重要性に気づいてから、ここ五年くらいはほぼ毎日筋トレを続けている。心を鍛えることの重要性は言うまでもないが、頭を使う知的労働者こそ、体の重要性を認識しなければいけないのではと思う。もちろん、健康を維持することは言うまでもない。

取るべきリスクと、避けるべきリスク。

人間生きていると、様々なリスクに対して、取るか取らないか決断をしなければならない。リスクは少ない方がいいが、前に進むときにはリスクを必要とするときもある。

しかし、不必要なリスクまで負う必要はない。特に金銭的リスクだが、何かを始める時にそれだけのお金が必要か?よく考えなければいけない。特に起業するには資金は必須だ。しかし初めから完璧にしようとすると、無駄にお金をつぎ込んでしまうことがある。成功する確率は、つぎ込んだお金に比例しない。

リスクは金銭的リスクだけではない。時間的なリスク、立場上のリスクなど様々なリスクがある。人間として上を目指すためには、金銭的リスクは不要でもその他の様々なリスクを抱えざる負えない。そのような時のリスクは”覚悟”であると言えるだろう。

人間としてのリスクを取らずに無難に生きていくことも十分可能であろう。しかし、人間的リスクを取らずに生きていく人生は、表面をなぞるような人生でしかない。深みが生まれない。人間的リスクを取り、それを克服した時に、人間的な深さが生まれる。

深みのある魅力的な人間になるために、どうリスクと向き合うか。試行錯誤の毎日である。

僕は高校中退したことを、誇りに思っている。

今日、このブログサイトのプロフィールに書いてあった僕の学歴を大幅に簡潔にした。大学名・大学院名は削除することにした。しかし、高校中退したことについては、そのまま残してある。

僕にとって、高校を中退したことは汚点ではない。むしろ誇れることだと思っている。中退した理由はいくつかあるが、僕が自分で決断し、実行した。

高校一年の一学期で中退してから大学へ入るまでの二年半は、とてつもなく有意義で充実した時間であった。友人付き合いは、数学少年仲間から悪友まで様々であった。この二年半がなければ、今の自分はなかったであろう。

もちろん物理学者になるという夢は非常に強く持っていたので、数学と物理の勉強は人一倍やっていた。毎日図書館に通って勉強するのも心地よかった。仲間の吸うタバコの煙は非常に嫌ではあったが。

尾崎豊みたいに派手で発散していたわけではなかったけど、自分なりに信念を持って生きていた。その信念は、20年以上たった今でも変わらないが。

レールの上を走るだけが人生じゃない。荒れた荒野を開拓していくことは、非常に困難だけど、そうして切り開いた道は自分だけの道だ。自分の人生に対して他人からレッテルを張られる筋合いはない。しかしすでにある道の名前は他人の名前だ。自分の進む道くらいは自分の名前を付けたいものである。

 

合理主義・論理主義の時代でも、精神論は必要だ。

物事を合理的に考える、論理的に遂行するということは、現代社会において避けて通れない道だ。昔あった、精神論・根性論一本やりでは、この現代社会は乗り切れない。

では、精神論は無用の長物になったのか?僕はそうは思わない。物事を合理的・論理的に遂行するのは、最終的には人間だ。人間の中枢は精神(頭脳)であり、それが故、精神論抜きでは何も進められない。

よく「努力をせよ」と言われるが、努力などはまさに精神論そのものである。精神論は人間が人間らしく生きると言う意味でも重要である。また、そこに人間のドラマが生まれる。

人間はコンピューターでも機械でもない。合理的・論理的考えを上手く取り入れながら人間らしく活動する、それが現代社会で生きていくうえで最も理想的な生き方と言えるのではないか。