月別アーカイブ: 5月 2017

章男TOYOTAが面白い。

今、豊田章男社長率いるトヨタが面白い。

あくまでも外から見た素人の主観でしかないが、豊田章男氏が社長に就任してから、トヨタは大きく変わったと感じている。もちろん、純利益が2兆円にまで大きくなったと言うことなど、ビジネス的に大成功しているということもあるが、そんなビジネスがどうのこうのという問題ではなく”面白い”のである。

章男氏が社長になった当時、僕はどうせトヨタの御曹司が社長になって、良くない方向になっていくのではないかとたかをくくっていた。ところが章男氏が社長になって3年ほど経つと、会社はビジネス的にも上手くいっているようであり、それより何よりも面白くなってきたのである。

「面白い商品を出す、面白い会社、面白いことにも挑戦している」

僕自身、トヨタの車と縁があるとは言えないが、はたから見ていても今のトヨタ・レクサスの車は非常に魅力ある。車はエンジンだ、質感だとは言っても、第一印象のデザインがよくなければ興味が湧かない。そのデザインを見ても、今のトヨタ・レクサスは非常にかっこよく、大人っぽい。もちろん機械的な質に関しては言うまでもない(と思う)。

最近では、レクサスがボートを製品化するとニュースが出た。ラグジュアリーボートである。おそらく値段は億するであろう。無茶な気もするが、今のレクサスならあり得るような気もする。

今のトヨタを一言で表すなら「無難な車から、面白い製品へ」ということになるのかもしれない。

出口だけでなく、ブラックボックスを理解することも重要だ。

最近、何もかもがブラックボックス化されて、ボックスの中では何がなされているかには興味がなく、出口から出てきた結果だけを見て判断される風潮がある。これにはボックスがあまりにも高度複雑化されてきたこともあるが、複雑になったボックスとは言え、ある程度の概要を知ることは可能だ。

そのようなブラックボックスのうちの一つが、最近話題のAI(人工知能)であろう。AIのできる事を見ていると、本当に”知能”であるような錯覚を覚える。極端に言えば”AIは何でもできる”という錯覚に陥りがちだ。しかしAIの中身・仕組みをある程度知ると、AIは知能ではなく”知能もどき”であることに気付くであろう。

最近ではAIによる医療判断までできるようになってきた。しかしAIの仕組みを知ると、AIが得意な事、不得意なことの傾向が見えてくる。不得意なことに関しては、人間の足元にも及ばない。

得意とされる学問でさえも、東ロボ君(AIによる東大合格を目指すロボットのプロジェクト)と言うものがあり、それでも東大に合格できるかどうかである。”所詮”東大入試である。研究者レベルから比べると、お遊び程度の問題と言う意味で”所詮”と書いた。

AI評論を見ると、大きく二つに分かれる。システムを知っている人の評論と、出口しか見ない人の評論だ。僕は絶対に”システムを理解している人”の評論を聞くべきだと思う。出口しか見ない人の評論は、単なる想像でしかない。

ブラックボックスと言うものは非常に便利だ。仕組みを知らなくても望みのものを出すことができる。しかしそれは危険と隣り合わせである。自分が何を利用しているかも理解していないのである。そして何でもできる気になる。しかし本当は何もできていないのである。

しかし多くの人はそんなことはどうでもいいのかもしれない。便利でさえあればいいのかもしれない。しかし人類が知的活動を何も知らずに生活するのは、知的生物である人間の生活行動として何かが欠けているように思えてならない。

自動車評論に対する先入観?

僕は本屋さんでの立ち読みがほぼ毎日の日課になっている。ジャンルはファッションから時計・自動車・釣りなどのアウトドア関連の雑誌など様々だが、立ち読みではできるだけ、科学などの僕の専門分野の本は読まないようにしている。

その中で自動車に関する雑誌を立ち読みしていていつも気になるのだが、ほとんどの自動車評論家は、ドイツ車、特にメルセデスベンツ・BMW・アウディ(VWを含む)を絶賛していて、それに対して日本車は詰めが甘いと批判する人が多い。というより、もうそれが自動車評論のお決まりパターン化している。

僕自身、そんなドイツ車に乗っているわけでもなく、自動車評論をできる立場でもなんでもないが、そのような自動車評論家の評論の根底には、ドイツ車(ヨーロッパ車)がありき、それに対して日本車はどこまで近づけているか、という視点で評論されているようでならない。もちろんドイツ車が最終地点にセットアップされているならば、日本車は確実にその下に位置することになる。実際ドイツ車の方が良いのかもしれないが。

しかし、評論の視点は多面的でなければならない。質感以外にも燃費・安定性・故障の少なさなど、探せばいろいろな視点が見つかる。しかしほとんどの評論家は同じような視点で、同じようなコメントをマニアックな用語で述べている。そもそも皆同じことを言うならば、何人も自動車評論家はいらないと思うのだが。それとも御用評論家なのか?

この様な状態なので、最近は自動車雑誌を見ても、写真を眺めてうっとりすることはあっても、評論を読む気にはなれない。どうせいつも通りマニアックな言葉を使ってマンネリ化した評論に終始しているのだろうと。

これらの僕の見解は間違っているかもしれない。いや、自動車雑誌ファンからすれば「お前は何もわかっていない」と言われるのはわかっている。しかし自動車評論家の評論に”多面性”という視点が欠けていることは確実だと思う。

体のコントロール、頭のコントロール。

自分の調子を把握するのは、意外と難しい。いや、それが簡単にできる人も多いのかもしれないが、僕にとってはかなり難しい。そしてさらに、自分の調子を把握して、それをもとにコントロールしなければならない。これも簡単にできる人は多いのかもしれないが、僕にとっては至難の業だ。

自分の調子と言っても、大きく二つに分かれる。体の調子と頭の調子。体のコントロールは筋トレでもしていくらでも強固にできるが、僕にとって手ごわいのは頭(脳)の調子だ。

頭の調子を整える上で一番重要になってくるのは”睡眠”であろう。僕にとって、この睡眠のコントロールが難しいのだ。コントロール不能と言ってもいいだろう。

上手く睡眠をコントロールできたときは、一日の質と量が違う。睡眠に一日がかかっている。

一日は寝る前に始まっている。睡眠は僕にとって一番の勝負時だ。適切な睡眠が取れるかどうか。本当に普通の人にとってはなんてことのないことかもしれない。しかし僕にとっては一大事なのである。

ちなみに体のコントロールはバッチリである。

体と頭は車の両輪である。双方上手くいってこそ、飛躍的なパフォーマンスを発揮できると考えている。

金曜の夜、街の中国人パワーに圧倒させられる。

26日金曜日、大阪に用事があって、夜に難波をぶらついた。最近何度か難波に行くことがあったが、毎回感じるのが来日中国人の圧倒的パワーだ。中国人の爆買いが一時期話題になり最近は下火になったと言われるが、そんな現在でもまだまだ健在であるように感じた。

客が中国人なら、店員も中国人だ。ブレスケアを買おうとドラッグストアに行って店員に尋ねると、対応する店員までもがほとんど中国人なのだ。戎橋筋・心斎橋筋は中国人でごった返している。店の看板にはどこも中国語表記であふれている。

普段は神戸三宮で事を済ますことが多いが、神戸と大阪では国際度が桁違いに違う。難波を行きかう中国人が皆非常に活発的に見えたのは気のせいか、それともそれが今の中国の勢いか。

中国人の爆買いで難波は潤っているように見えたが、果たしてこれがいつまで続くのか。中国人パワーに圧倒された、難波での金曜の夜であった。

アマチュアのトップか、プロの端くれか。

アマチュアとプロの違いは何か?という問題は単純ではない。その境目が曖昧なものから、将棋や野球のように明確に規定されているものもある。

とは言え広く一般に、”お金をもらっているのがプロ”という定義もあるが、それならば、給料をもらっているアルバイトもプロになってしまい、明らかに違和感を感じる。

プロとは何か?という定義はさておいて、プロとアマチュアの間には大きな断層が存在する。多くの分野で、アマチュアのトップでもプロの端くれには太刀打ちできないことが多い。その最たるものは、今話題の将棋であろう。

将棋は4段からがプロである。3段まではプロの前段階の奨励会員と言う身分である。言わばセミプロと言う感じかと思うが、完全なアマチュアとは違う感じがする。アマチュアの”4段”が、奨励会の”5級”と同じくらいだと言う話を聞いたことがある。即ちトップアマチュアでも奨励会の一番下にほぼ太刀打ちできないと言うことであろう。

プロとアマチュアのもう一つの大きな違いは”プロ意識”であろう。このプロ意識のあるなしは、その分野で戦っていくうえで大きな違いを生む。取り組む姿勢・時間・こだわりなどによって、プロとアマチュアの間にあった差はますます大きくなっていく。

趣味でやればいいという人はともかく、その分野で戦っていき、トップを目指す者としては、分野を問わず”プロ意識”を持つことは非常に重要だ。そういう意味で僕は、アマチュアのトップを目指すことより、まずはプロの端くれを目指すことの方が計り知れないくらい大きな意義があると感じている。

信頼できる政治家がまた一人亡くなった。与謝野馨氏。

また信頼するに値する一人の政治家が亡くなった。与謝野馨氏、78歳であった。

与謝野馨氏は物静かという印象が大きいが、政策通として名が通っており、日本の政界にとって非常に貴重な人材であった。

これまで、財務大臣、内閣官房長官などの要職を歴任し、政界では非常に大きな存在であった。また物静かな印象のある一方、冷静で的確な判断を下す信頼できる政治家の一人だという評価もあったと思う。

また与謝野馨氏と言えば、著名な歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻の孫であるということでも非常に有名であった。

現在の政界を見ていても、与党・野党双方とも、一方的なごり押しで事を進めたり、またノリで批判したりといった好ましくない状況が散見されるが、そのような時代だからこそ与謝野氏のような冷静に判断できる政治家の必要性は非常に高くなっていると思う。与謝野氏の死去は本当に惜しい。

与謝野馨氏のご冥福を祈ります。

今までやってこなかった新鮮さに取りつかれる。

最近、コンピューター関連の事が面白い。今まではずっと数理物理(数学と物理)しか眼中になくて、その他のことは余力でという感じだったが、今、コンピューターにはまっている。Python(パイソン)などのプログラミング言語、ディープランニング、LinuxなどのOS、面白いものは手当たり次第に当たっているが、その先のプランも考えている。

とは言え、やはり数理物理はゆずれない。物事に優先順位を付けることは非常に大事だが、最近は面白いことには全て全力で取り組んでみようと思っている。

とは言っても一日は24時間、睡眠を省くとさらに短くなる。全てを全力で取り組むためには一日の計画をしっかりと考えなければならない。睡眠のコントロールが苦手な僕にとっては至難の業だ。

とは言え、この歳になって新鮮さを感じることは幸せだ。今は遊びの範疇を出ないかもしれないが、それを超えようとも思っている。

人生、修行とエンジョイのバランスが大事だ。修行もエンジョイするくらいになれば一人前かもしれない。

昔、阪神タイガースにいた新庄剛志選手は、常にプレーを楽しみ、ファンにも楽しませてくれた。シンジョイ(新庄がエンジョイする)と言う言葉があるくらいだ。いつかはその境地にたどり着きたいものである。

本は財産。本にかけるお金は人生への投資。

世の中を見ていると、本を読む人と読まない人が極端に分かれるような気がする。もちろん本にお金をかけて読まない”積読”は少し良くないかもしれないが、全く本に接しないよりかはかなりましである。特に専門書は、読むのにかなりの時間と労力がいるので、必然的にある程度”積読”になってしまう。しかし、積読状態である専門書は、研究への自由度の広がりになる。

本の価値は読んだ人にしかわからない。価値がわからないから読まないのか、読まないから価値がわからないのか、鶏が先か卵が先かという問題かもしれないが、人生を価値あるものにするためにもある程度の読書は必要だ。

そして読む本の”質”も重要だ。基本的基礎的文献を読まないで、自己啓発本などの表面的な手っ取り早い本ばかり読んでいては薄っぺらい人間になってしまう。何をするのにも、苦しんでこそ得られるものがある。

ただ、苦痛を感じながら読むのもあまり意味がないのかもしれない。やはり読書も楽しんだ方が圧倒的に良い。そのためには「自分の興味は何か?」ということを自分で認識しなければならない。

本への投資は自分への投資。本は財産。

質の良い価値ある人生にするためにも、人生のお供に質の良い価値ある本を。

結果ありきか?過程ありきか?

物事に取り組むときに、まず目標を掲げることが多いだろう。もちろん目標を掲げることは、非常に意義のあることである。

しかしその目標が、中身のあるものか、外見だけのものか、それらによって大きく意味合いは変わる。

外見により目標、例えば起業であれば「何億円稼ぐ」とか「3年で株式上場する」とかであるが、それだけでは物事は全く進まない。まず「何(なに)で」ということを明確にしないとスタートは切れない。

よくビジネスで成功するためには「”何で”にこだわらないことが大切だ」と言われるが、それは「何で」と言う手段(過程)をいくつも思い描いていて、どれで進めるかこだわらないという意味だ。しかしこの「何で」という手段を定めることが一番難しい。

とは言え、手段を一つに絞る必要は何もない。いくつかあれば、それを全て進めるというのも一つのやり方であろう。全てに全力をつぎ込めるのなら、二兎・三兎の獲物を追えばいい。そうすれば中には大谷翔平のごとく、二刀流・三刀流で活躍する者が現れるかもしれない。

思い込みによる、思考の暗示。

僕はかなり自信家だ。と言っても、今までに何か大きなことを成し遂げたわけでも、人生に成功したわけでもない。

しかしそんな”成し遂げた”とか”成功した”ということは、所詮過去の事でしかない。未来のことに過去のことは関係ない(もちろん関係あることもいろいろあるが)。なので、過去の失敗にとらわれて自信をなくすなんてことはアホらしいと思っている。

例え周りから見て根拠のない自信と思われても、自然に湧き出てくる自信には本人にとっては実際は根拠がある。そして根拠のない自信というのは非常に力になる。心も元気になる。未来を肯定的にとらえられるようになる。

この様に根拠のない自信によって自分を暗示させることによって、成功への道筋が見えてくれば、あとはその道を突っ走るだけだ。

みんなと違っててもいいやんか!過度に協調性を求める日本社会に疑問。

初めに言うのも何だが、僕は協調性がない。取り組んでいることに対する目標も、かなりこだわりがある。とは言っても、何らかの障がいがあるとか、そういうわけではない(睡眠に関してはかなりひどいが)。とは言え、いろいろな意味で自分勝手だとみられることが多いので、周りからの風当たりは強く、精神的にもかなり疲れる。

いろいろ悩み症な所はあるが、陽気でゲラゲラ笑っていることも多い。つい最近、お笑い芸人のカズレーサーさんが、この20年間悩んだことがないという話をしているのを聞いて、悩んで得なことなど何にもないことに気づき、かなり心の持ちようが変わった。少し楽にもなった。

自分は普通の人と比べると変かもしれないし、生き方も普通の人とかなり違う。もちろん、”普通の人”とは何かと問われれば、画一的な答えはないのかもしれないが。でもそんな自分に誇りを持っている。

数学と物理に関しては、すごく真面目に取り組んでいる。数学と物理が大好きだ。

僕は普通の人とはかなり違うかもしれないが、

みんなと違っててもいいやんか!

大きな夢、大きな目標に向かって。

コンピューターって、かなり遊べる。

コンピューターで遊ぶと言っても、ゲームをするわけではない。プログラミングなどの”ソフト遊び”から、機械をいじくる”ハード遊び”があるが、最近それらの面白さにはまりつつある。

学生時代の僕は、パソコンに関してはずぶの素人であった。素人の中の素人だと言っていいだろう。しかし、最近はその反動か、コンピューターにはまっている。

プログラミング言語は定番であるが、超定番のC言語よりもディープラーンニングにも応用できるPythonに興味がある。

ハードに関しては、最近面白いものを知った。「ラズベリーパイ」というコンピューターだ。これは名刺程度の大きさのコンピューターだが、大抵のことは事足りる。嬉しいのが値段で約5千円だ。壊れてもそんなに痛くない。

つい最近、ラズベリーパイでハッキングに成功したという、海外の少年のニュースを聞いた。ハッキングができるほどの仕組みを備えていると言うことは、ハッキングに限らずかなり様々な可能性を秘めていることを示している。恐るべき5千円である。

逆転的発想の勉強法

勉強とはどう遂行すべきか?ほとんどの人が「基礎的な事から始めて徐々に応用的事柄に進めていく」と考えていると思う。それはそれで真っ当なことで、正統的な勉強法であろう。

しかし(分野にもよるが)「いきなり最先端なことに取り組んでみて、足りないところを基礎的な文献で補う」という勉強法が非常に効果的なことがある。まず現場で手を動かしてみて、何が足りないかを理解する、ということだ。

”分野にもよる”と書いたが、この勉強法が非常に効果的な分野の一つが、コンピューター関係であろう。コンピューター関連の事は、実際に手を動かさなければ何も始まらない。分厚いWindowsの教科書をどれだけ読んでもパソコンを動かせるようにならない。まずは実戦である。

物理や数学などの学問でも、基礎的文献を理解することは大事だが、実際に最先端の論文に触れてみることは非常に重要である。

基礎から始めて、初めの何分の一でいつも挫けてしまう人は、思いっ切って最前線の事に取り組んでみるのも一つの手だと思う。

民進党・蓮舫代表、政策が全く見えてこない。

民進党の蓮舫代表が、日々口から火を噴いている。国会では毎日のように答弁している印象を受けるが、蓮舫氏に同調する気になれない。なぜか?

それは、蓮舫氏が次から次へと討論し攻撃している内容が、相手政治家の足をすくうこと、失態を追及することばかりで、政策関連の事が(実際はやっているのだろうが)全く見えてこないからだ。

もちろん、現政権与党の政治家の落ち度を正すことは、野党議員の重要な仕事だ。しかし、そればかりでは政治家とは言えない。”政治”を中心に政策を議論することが、政治家の一番重要な仕事であることは間違いない。

蓮舫氏は、政治家としての優先順位を全く勘違いしているとしか思えない。この様な状態だと、支持率一桁状態から抜け出す機運にはならないであろう。

人間の”教養”としてのプログラミング知識が必要だ。

最近は、身の回りのほとんどのものが何かしらプログラミングされている。従って、現代社会を理解するうえで、プログラミングの知識が重要になる。プログラミングを知ることによって、「何ができて、何ができないのか」ということを知ることが、非常に重要である。

「物事を知る」と言うことは、「何ができないかを知ること」である。コンピューターによって便利になったことは多いが、しかし世の中がコンピューターに取って代わられたわけではない。

そして最近の風潮で一番危険なのが「AI(人工知能)によって何でもできるようになる」という考えである。この「何でもできる」というところが大問題である。なぜなら、”何でもできる”と考える人は、実は”何も理解していない”からである。

これは科学も同じである。科学を理解している人は、「科学には何ができないのか」ということを理解している。科学を理解していない人は「科学によって何でもできる」と考えてしまう。

プログラミングを少しでもかじれば、”コンピューターには何ができないのか”、そして”AIは何でもできるわけではない”ことが理解できるであろう。

実戦的英語力。

最近、グローバル社会化が急伸し、国際コミュニケーション力、とりわけ英語力が非常に重視されている。僕も英語力はつけたいと思い何度も英語の参考書を開くのだが、全然集中力が続かない。ご想像の通り、僕の英語力は最低レベルである。

とは言え、大学院時代から数学・物理関係の洋書・論文は読んできたので、専門の英文はだいたい辞書なしで読める。専門英語は専門用語と初歩的な文法がわかれば読めるのである。と言っても、僕は初歩的な文法力も非常に怪しい。わからない単語もしばしば出てくる。しかし辞書はほとんどひかない。わからないところは前後の文章の関係から推測するのである。

専門洋書は読めても、子供が読むような簡単な英語で書かれた物語は全く読めない。実は文法的には専門洋書よりも、物語の方がかなり高度である。専門の英語は、世界中のどの研究者が読んでも正確に理解できるようにするため、文法的には非常に簡単になっているのである。

教養としての英語も大事だと思うが、研究や仕事といった実戦的な英語力を付けることは教養英語以上に大事である。英語力のない僕が言っても全く説得力がないかもしれないが、実戦英語は英文を完璧に理解することではなく、わからない部分も推測して解釈することが重要だと思う。それができれば、意外とスムーズに読めるようになるものである。

睡眠から1日が始まる。

ある本で、「1日は朝始まって就寝前に終わる」のではなく、「寝る時に1日が始まる」と考えるべきだという主張がされていた。まさしく、寝ている間には1日が始まっているのだ。

よくよく考えてみれば、この考え方は納得いく。夜の睡眠の質によって、起きてからの1日ががらりと変わる。睡眠時から戦いが始まっているのだ。

なぜこんなことを言うかと言うと、僕自身睡眠で非常に苦労しているからだ。

寝すぎたり寝不足だったり、睡眠のパターンがガタガタで、自分ではほとんどコントロールできない状態が続いている。睡眠障害の部類に入るのであろう。それだけに就寝前は戦闘モードで、しっかり寝てしっかり起きれるかということに対して非常に心を構えてしまう。

普通の人が簡単にできる事ができないということは、非常に苦しいものである。目標に向かって走っているのに、睡眠一つで中断される。極端に言えば、毎日の睡眠に人生がかかっているとも言える。

睡眠は一日の活動の外にあるのではない。睡眠から一日が始まる、そう考えるとうかうかといい加減な睡眠はできない。

YouTuber集団に、新しいビジネスのあり方を見る。

最近、お気に入りのYouTubeチャンネルがある。「釣りよかでしょう」というチャンネルだ。その名の通り、釣りに関する動画を製作して、YouTubeにアップしている”YouTuber集団”だ。

動画の質は非常に高く、内容も非常に面白いものになっている。特に、製作している彼ら自身が、動画製作をすごく楽しんでいる様子が伝わってくる。釣りをして撮影するところから、専門的な動画編集まで、全て彼らがやっている(ようだ)。

メンバーは6人くらいだそうだが、”釣りよかハウス”という家で共同生活をしている。釣りよかハウスは、釣りの準備と、動画製作の仕事場となっている。動画再生数が多いことで、Googleから表彰もされている。

彼らの仕事を見ていると、21世紀のIT社会における、新しい仕事形態が見えてくる。彼らは本当に楽しそうに釣りをし、フランクに(本人たちは真剣なのだろうが)動画製作の仕事をしている。こんな職場?は見たことがない。

釣りメディアと言えば、20世紀末に(関西で存在した)”週刊釣りサンデー”という釣り雑誌が(関西では)有名だが、”釣りよかでしょう”を観ていると、このようなメディアもありなのかと新時代を感じてしまう。

環境は自分で変えるしかない!

今、自分は試行錯誤(迷走?)している。特に、精神的に強くなるためにはどうすればよいか?どうすればパフォーマンスを上げることができるか?なかなか答えを出せないでいる。

しかし、目標点は見えている。そこへ向かって走るだけなのだが、それがなかなか難しい。自分にしかできないことがある一方、普通の人が簡単にできる事ができなかったりする。

今が正念場と言いつつ、その正念場がずっと続いている。正念場では力が出るものかもしれないが、これだけずっと正念場が続いているとさすがに精神的に苦しいところがある。でも、乗り切れる自信があるから、試行錯誤して走ろうとしている。

結果が出せないでいると、周りの環境もますます厳しくなっていくが、その環境を変える唯一の手段は結果を出すこと。環境は自分で変えるものだと思っている。

つい、周りに原因を押し付けたくなるが、結局自分の人生の責任のほとんどは自分にある。

精神的な弱さと、苦しくてもぶれずに進む強さ、この双方を持ち合わせていると自分では思っている。自分は弱い人間なのか、強い人間なのか、良くわからないが、結果的に現状を乗り切って、強い人間だったと言えるようにしたい。

読書に何を求めるか?

東洋経済オンラインで、武田鉄矢が「読書に実用性だけ求めても空しい」と述べている。最近の自己啓発本ブームに一言を放った言葉だ。

読書に何を求めるか、それは人それぞれだと思うが、本の内容に自分を丸投げするのはどうかと思う。本に書いてあることを実践すれば必ずうまくいくと思い、本に救いを求める人。まだそれを実行して前向きに歩いているのならばいいが、読んでそれだけで満足する人も多いのではないか。

読書とは、自分形成の手段だと僕は思っている。しかし、本を一冊読んだからと言ってすぐに自分が変われるわけではない。また見方を変えると、今の自分を確固たるものにするために読書をするということもあるだろう。すなわち、自分が変わらないために読むというものだ。

武田鉄矢がメンバーとして活躍していたグループ”海援隊”の名前は、司馬遼太郎の”竜馬が行く”から取ったものだそうだ。

読書とは一期一会だとよく言うが、読書が人生の岐路での進む道への指針となることもあるだろう。

そして読書をもとに、アウトプットすることも大事だ。アウトプットとは、広い意味で、「どう生き、どう表現するか」ということだ。その手段の一つが”働く”ということ。武田鉄矢は「労働者が仕事にやりがいを見つけるためには、給料以上に働かないかぎりは湧いてこない」と述べている。これは何もサービス残業のことを言っているのではない。仕事というものに対してどういう見方をすればいいか、ということを示唆しているのだろうと思う。

好きなことを仕事にするために進んでいくことも一つの手段であるが、今やっている仕事を極めるということも大きなやりがいにつながるであろう。

山中伸弥先生の言葉。

個人的な話ですが、僕は(日本国民の多くもそうだとは思うのですが)、山中伸弥先生のことは非常に尊敬していて、憧れの研究者でもある。言うまでもなく、山中先生とは、iPS細胞を発見した山中教授の事である。山中先生は研究者として超一流であるが、人間としても頭が上がらないくらい素晴らしい人だと思っている。

その山中伸弥先生の言葉(モットー)が、”VW”だそうだ。もちろん車のフォルックスワーゲンの事ではない。Vision and HardWork の頭文字である。Visionとは”展望”、そしてHardWork は”熱心に働く”と言うことである。このどちらが欠けてもいけない。日本人はHardWork は得意だが、Vision がない人が多いと山中先生はおっしゃられている。

VW を少し言葉を変えれば、考えて方向が定まったらすぐに行動しろ、と言うことかもしれない。”頭”と”体”、これは物事を進める上での両軸であり、この両軸を上手く働かせることが、あらゆることに対して成功の秘訣だと言えるのではないかと思う。

本音を言うとたたかれる社会。

社会に建前はつきものだが、本音と建前の使い分けは簡単ではないようだ。現在のネット社会では、本音を言うと炎上するといった事態が起こることは日常茶飯事である。もちろん、政治家に限って言えば、その一言が国の行方を左右されるため慎重に発言してもらいたいが、普通の人が本音を喋れない社会はストレスがたまるものだ。

テレビを観ていても、当たり障りのない建前ばかりで、いつからこのような仮面をかぶった社会になったのやらと、観ている方もストレスがたまる。本音でしゃべっているのはビートたけしくらいではないかと思う。ビートたけしは本音でしゃべっても皆が納得してしまうので、本音を喋るビートたけしはますます貴重な存在になっているのではないか。

社会も家の中もストレスの塊である。ストレスから逃れるためにはどうすればいいのか?精神のコントロールに苦労する次第である。

時間はなぜ過去から未来に、一方向にしか流れないのか?

当たり前の話だが、時間は過去から未来にしか流れない。未来から過去には流れることはない。たまにタイムマシンの話題も出てくるが、少なくとも現時点で未来から過去に流れる現象は観測されていない。

時間が過去から未来にしか流れないことを、「時間の矢」という。時間の矢の問題は、人類誕生以来数万年(もっと長いか?)の謎である。実はこの問題は古くから物理学者たちも、科学的に説明しようと試みてきたが、現在も解決の決定打は出ていない。

時間の矢の問題の謎に関するキーは、”エントロピー”という物理量にあることは、多くの物理学者の認識するところだ。しかし、エントロピーとは関係ないところから時間理論が出てくることも、十分に考えられる。

昨今の物理界は、超弦理論などの流行りの理論に飛びつく傾向があるが、古くからある根源的な重要問題に取り掛かることも非常に重要である。

未解決の数学の話。

数学の未解決問題と言えば、真っ先に、クレイ数学研究所が提示した7つの”ミレニアム懸賞問題”が思いつく。この7問には、1問につき約1億円の懸賞金がかけられている。現在までに解決されたのは、ペレルマンによる”ポアンカレ予想”の一問だけだ。

この7問は数学の未解決問題となっているが、中には物理に近いものも含まれている。流体力学の”ナビエ・ストークスの方程式”も物理に近い一問であろう。

そのほかに、”4次元ヤン・ミルズ理論”と言うものが含まれている。この問題は簡単に言うと、ヤン・ミルズ理論という物理(素粒子論)の理論を数学として厳密に構成しろ、という問題だ。

ヤン・ミルズ理論の”物理”としての研究は非常に発展して盛んに行われているが、”数学”としての研究は現在は行き詰っているようだ。状況としては2次元・3次元理論でもがき苦しんでいるという感じで、とてもじゃないけど4次元まで手を出せないというところか。

この理論は、幾何学的アプローチと言う観点からは数学としても非常に完成度が高い研究がされている。問題は関数解析的観点からの理論の存在証明だ。

ヤン・ミルズ理論の数学的構成の問題などは、懸賞問題になるほどのオープンプロブレム(公開されている問題)であるが、そのような問題以外にも、誰にも知られていない”問題を発見して”取り組むのも非常に価値ある研究である。と言うより、むしろ知られていない問題を見つけること自体が重要な研究と言える。

愛媛・今治殺人事件で参考人自殺。報道の論調がおかしい。

愛媛県今治市で起こった母子殺傷事件で、参考人として”任意”で事情聴取されていた、30代の女性が自殺した。そのことに関するテレビニュースなどの報道の論調があまりにもおかしい。

女性が自殺したことに関して、「警察はなぜ見張りをできなかったのか」とか、「女性警察官を付き添うべきだった」と言うような論調が繰り広げられている。

それに対して警察は、「それをすると、捜査の任意性が保てなくなる」というコメントをしている。

このやりとりに関して、僕は警察のコメントの方が真っ当であり、報道があまりにもおかし過ぎると考えている。

警察が言うように、捜査はあくまでも”任意”であり、自殺した女性が犯罪者だと確定したわけでもなんでもない。任意事情聴取である限り、任意性を保つことは絶対的に必要であり、聴取時点で女性の身の自由は保障されている。

日本では特に、”容疑者”=犯人、とみなす風潮が強いが、容疑者はあくまでも容疑であって、犯人と断定されているわけではない。ましてや、今回の女性は容疑者でさえもなく、社会的報道があたかも”犯人”とみなしているようなことは明らかにおかしすぎる。罪を確定させるのは裁判所であり、報道マスメディアでは断じてない。

精神的に得をするには。

「得をする」と言えば、お金や物に関しての事だと考えてしまう。それはそれでいいが、「”精神的”に得をする」事を考えるのは非常に大切だ。精神的な得が、あらゆることのパフォーマンスを上げる。

では、精神的に得をするとはどういうことか?単純な考えではあるが、「いかに精神的負担を少なくして行動できるか」ということだ。ストレス・プレッシャーなど、現代社会ではあらゆる精神的負担を受けながら生きていかなければいけない。大なり小なり、精神的負担は避けられないものだ。しかしそれをゼロにすることはできなくても、小さくすることはできるはずだ。

精神的負担を少なくするため、僕はいろいろなことを考え、行動して、模索している。もちろん簡単なことではないが、普段の思考パターンを工夫すれば、少しずつではあるが良くなってきているのを実感している。

最近は悩み症の僕であり、”すーだら節の無責任男”というほど陽気になるにはまだまだではあるが、度量のでかい人間を目指したい!

根性精神主義は、全肯定でも全否定でもいけない。

最近の科学的分析主義によって、昔の根性精神主義が否定されることが多くなった。スポーツでは、肉体の科学的(医学的)な観点から過去のトレーニング方法が否定され、最新の科学的方法が提唱されている。否定されていることの代表例としては、うさぎ跳びや野球の先発投手100球制限であろう。

科学的見地から、より負担が少ない効果的なトレーニングが考案されることは非常に歓迎されることだ。しかし、それと同時にそれまでの精神論を”全”否定されることには少し疑問に思える。

最近はあらゆることにおいて、スマートに事を成そうという考えが強いように思う。特にIT社会による便利な社会化がそれに拍車をかけている。

しかし、努力することは絶対的に必要だし、泥臭く物事を遂行することは非常に重要である。いくら科学的に考えようとも、最後の最後に根性で乗り切らざる負えないこともあるだろう。

根性論は時代遅れかも知れない。しかし、根性論・精神論なき人生は無機質にも思える。最新の見地を上手く利用しながら精神をコントロールすることが、非常に求められる。

妄想力100%!

妄想は活力の源である。

僕はかなりの妄想家(そんな言葉があるのか知らないが)である。特に研究に関しては妄想力全開!ああだこうだと妄想して、構想を練る。ただ、妄想を妄想で終わらせないことが大事だ。そして周りからはいつまで妄想してるんだと言われるかもしれないが、そんなことお構いなし。妄想するのは自由である。

妄想が夢へと広がっていく。そしてその夢を実現するためにさらに妄想を続ける。

人生のギャンブラー。

ギャンブルと言えばお金の賭け事を連想する人が多いと思うが、賭けるのはお金だけではない。人生を賭けるのも一種のギャンブルだ。僕はというと、お金は賭けないが、人生は常に賭けている。いや、自分の信念を貫くためには賭けざる負えないのだ。

平穏より、エキサイティングを求めてしまう。非常に危険なことはわかっているのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際で攻防するのはやりがいも非常に大きい。成功しているかと言えば全くそうではないが、自信はある(根拠のない自信?)。根拠があろうとなかろうと、自信は必要だ。自信がないと、人生のギャンブルはできない。

1%の可能性があるとき、1%可能性があるじゃないかと考えるのと、99%失敗してしまうと考えてしまうのでは、結果が全く変わってしまう。さらにその思考が様々な事にも波及する。

可能性がある限り、常にあらゆることに取り組んでみようと思う。間違ってはならないのは、暴挙には出てはいけないということだ。暴挙とは不可能(0%)なことに打って出る事。1%でも可能性があれば、ギャンブルに出るのも悪くない。

IQで才能を測る風潮に、少しあきれる。

IQに関する話題は、定期的に出てくる定番の話題だ。頻繁に耳にするのは「どこどこに、IQ200を超える天才少年が現れた」というものであろう。IQというのは偏差値と同じで、明確に数値で表されるので、非常に分かりやすく、皆がすぐに飛びつきやすいトッピックなのであろう。

別に、IQで人の能力を測ることに対して全否定するつもりはないが、人の能力というものはそんなに単純ではない。数学が得意でも英語が苦手な人もいるだろうし、さらに才能は学問に対するものだけではない。絵画の才能もあれば、音楽の才能もあるだろう。

しかし、数学などに関しては、IQが非常に有効だと考える人は多いかもしれない。確かにある程度の相関関係はあるかもしれないが、既存の問題を解く能力と、新しい理論を創造する能力は必ずしも一致しない。数学業界では”数オリ崩れ”(高校時に数学オリンピックに出るくらいの秀才だったが、研究では結果を出せない)という言葉もあるくらいだ。

最もあきれるのは「誰々はIQでアインシュタインを超える数値であり、アインシュタインを超える天才だ」というものだ。そもそもアインシュタインがIQを測ったことがあるとは考えられないし、実際アインシュタインの方がIQが低いとしても、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。一つ言えることは、その高IQ者は所詮IQで測りえる程度の人間だということであり、アインシュタインの創造的才能はIQとは全く別次元のものだということである。