月別アーカイブ: 4月 2017

理想論は実行が伴ってこそ価値あるものになる。

理想論は非常に重要である。将来の展望、あるいは希望をより良いものにするためには、常に理想はどうあるべきかというビジョンを持たなければならない。

しかし、実行が伴わない理想論は空論である。理想はそこへ向かおうという実行が前提となって価値あるものになる。

また、理想論をバカにする人もあるが、理想をバカにする人に残されたものは、良くて現状維持、ほとんどは衰退である。

理想をもってそこへ向かって実行する、理想と実行は希望への原動力の両輪である。

物事を立体的に俯瞰する。

最近、雑誌でいけばな(生け花)に関する記事を読んだ。僕はいけばななんて全くやったことないし、何の知識もなかったので、いけばなの世界観を少しだけ垣間見ることができて面白く感じた。

そこで、いけばなの師範が「対象を立体的にとらえることが大事だ」ということを言っておられた。もちろん花(植物)は立体的に成長するものなので、いけばなに奥行き感を出すためには立体感覚は大事だが、あらゆるものに対して立体的にとらえるのは簡単ではないのかもしれない。

数学でも平面図形は図を見てすぐに理解できるが、立体図形を理解するには持前の立体感覚が物を言う。さらに言うと、数学者は4次元以上の図形をも扱う。5次元・6次元、さらに一般のn次元という世界と格闘している。

もちろん、4次元以上の図形を書いてみるわけにはいかない。しかし数学者は高次元を縦横無尽に駆使できなければ使い物にならない。

物事を平面的にしかとらえられないと、どうしても画一的な考えしか出てこない。柔軟に奥行きのある考えを出すには、どうしても物事を立体的に俯瞰することが必要になる。しかし、物事を立体的にとらえる事とはどういうことか、ということを定義するのは非常に難しい。なので、平面的にしかとらえれらない人に、立体的にとらえるとはどういうことかということを教えるのは至難の業だ。

立体的にとらえる技術は、生まれつきの天性がかなり物を言うのかもしれないが、多くの事象をとらえて経験を積み重ねることなしにはこの天性も生かし切れない。才能は努力があって初めて開花するものである。

読書について。

「なぜ読書をするべきなのか?」と言う問いは、いつの時代も答えを模索されているみたいだ。先日もネット上に、一つの答えが書かれていた。

「そんなバカな質問をしないためよ」

何とも的を得た答えのようだが、よくよく考えてみると、はたして答えになっているのかどうかわからない。

なぜ読書をするべきなのか?という問いは、百数十年前、哲学者ショーペンハウアーによってもなされていた。ショーペンハウアーはこの問いに対しての見解を、短編書「読書について」という書物に書いている。

読書とは”インプット”である。しかし生きるとは”アウトプット”することである。従って、読書についても、それをアウトプットに生かすことが求められる。

もちろん、読書によるインプット自体にも意味はあるが、インプットするだけで自己満足しているようでは成長しない。成長とはアウトプットすることによってもたらせられると僕は思う。

考えることも非常に大事だが、考えたら即行動、即アウトプットするために動かなければならない。

震災復興大臣に見る、政治家の資質。

今村雅弘・震災復興大臣の辞任を受け、吉野正芳・新大臣の就任が26日決定した。

今月に入って、今村前大臣の失言が相次いだ。政治家の失言は珍しいものではない。しかし今村氏の二度の失言は復興大臣としての資質と直接かかわる部分であり、今村氏が復興大臣としての資質を全く持ち合わせていないことを証明するものであった。今村氏を任命した安倍総理は、何年も今村氏を見続けたはずだ。にもかかわらず、今村氏の資質を見抜けず、今村氏を任命したことは、安倍氏の任命責任が大きく問われる。

26日の深夜のニュース番組に、自民党の石破茂氏が出演していた。そこで、問題の発言の部分だけ切り取って報道するのはいかがなものかという話題が出たが、石破氏は「政治家は言葉を切り取られるという前提で発言しなければならない」という趣旨のことを発言された。それはもっともなことである。なぜなら、政治家の発言一つが国を動かす力があり、政治家の一言が国を良くも悪くもする。従って、政治家は自らの発言には慎重に慎重を期すべきだ。メディアに対して「その部分だけを切り取って」と不満を言う時点で、政治家としての資質がないと言える。

そして復興大臣に関してだが、震災復興大臣にはやはり被災地域からの選出議員がふさわしいのではないかと思う。佐賀出身の今村氏にはなかなか被災者の現状が感じられなかったのではないか(もちろん佐賀出身だからというより、今村氏自身の資質の問題ではあるが)。吉野・新大臣は福島出身(選出)、被災地出身者が震災復興大臣に任命されたことは非常に歓迎されることである。

吉野・新震災復興大臣の被災地・被災者のための政策実行を期待しよう。

現時点のAI(人工知能)と人間の頭脳の差は?

最近、AI(人工知能)関連のことを調べる機会があり、現時点でのAIと人間の頭脳の差が浮かび上がった。

結論から言うと「現時点では、AIは人間に遠く及ばない」ということだ。

しかし、分野を限ればその限りではない。囲碁の人工知能コンピューター”アルファ碁”がその典型的例だ。アルファ碁は、囲碁の世界のトッププロの囲碁士にも勝ってしまう力がある。ましてや素人は手も足も出ないだろう。しかし、このコンピューターは囲碁しかできない。もちろん仕様を変えれば他の事にも対応できるのであろうが、基本的に現時点でのAIは専門分野で威力を発揮するスペシャリストだ。

それに対して、人間が圧倒的に勝るのが、”総合力”だと言えるだろう。人間は日常生活において、あらゆることに対応しなければいけない。総合力に関しては、AIはまだ子供でさえもない。

それからもう一つ、”クリエイティブ”なことも、AIはまだまだ苦手と言えるかもしれない。先ほどの囲碁にしても、AIはしらみつぶしに有利なパターンを検証しているだけだ。

最近のAIの主流は、画像認識である。多くのAIは、画像認識を念頭に置いて構成されている。現在、開発熱が熱い、AIによる自動車の自動運転も、車の周囲の風景・状況の画像認識が基幹となる。画像認識ができる事は凄いが、しかし人間と比べれば所詮画像認識程度なのである。

数億年の時を経て進化した結果、完成された人間の知能は、まだまだバカにできない。

全く意味のない、悩みの生産工場。

誰でも悩みを抱えることはしばしばあるとは思うが、まだ起こっていないことで悩むことほど無駄なことはない。悩むのは、事が起こってからでいい。まだ起こっていない悩みの元は、ほとんどの場合起こらない。そんなことで悩んでも、良いことは全然ない。

しかし、悩みだしたらそれが無限ループになって、悩みの生産工場と化してしまうことがある。もちろん、そんなことにならない人も多いとは思うが、僕はしばしばそうなってしまうことがある。僕の非常に悪い癖である。

物事を始める時、最初から完璧を求めてしまうと最初の一歩が踏み出せない。始める時は多少いい加減なくらいがよい。完璧を求めだすと、またそれで悩み出してしまう。

この様に、いい加減な人間というのもしばしば良いことがある。いい加減と言うと何かだらしなくてネガティブなイメージがあるが、言葉を変えると「楽天的」と言うことになるのかもしれない。とは言え、楽天的な人間になろうと思って、楽天的になれるものではない。しかし楽天的になれなくても、起こっていないことで悩むことはやめにしよう。

グレーを白に持っていく力。今の日本社会と日本企業に足りないもの。

某SNSで、「昔、You Tubeは違法なものだと思って、見ないようにしてた」という投稿があった。この言葉に、日本企業の思想がそのまま表れているようで、かなりひっかかった。

You Tubeは違法かと考えてみると、かなり違法的な要素が多いことに気が付く。著作権なんてあってないようなものだ。もちろん、You Tubeを運営するGoogleはその辺の対策も講じてないわけではないが、規模が大きすぎていたちごっこになって全く追いついていない。

You Tubeを立ち上げた人たちは、もちろんそのグレー性を非常に認識していたことは間違いない。もし日本企業がしようものなら、即消えてしまっていたであろう。しかしそこはグレーゾーンの扱いに巧みなアメリカである。そのグレー性を巧みに潜り抜けて世界最大のメディアにまで高めてしまった。まさにグレーを白にしたと言えるのではないか。

日本企業はグレーゾーンの扱いが下手と言われる。それは企業の力によるものだけでなく、日本社会にも原因がある。社会全体がグレーを避ける風潮があり、グレーを黒とみなす認識が染みついている。自然、企業は少しでもグレーなものに対しては徹底的に避けるようになる。裁判の判決においても、グレーなものを違法とする判決も多い。

日本企業はグローバルスタンダードに追い付いていけないと言われる。特にIT業界では、アメリカがフォーマットを固めた後に参入するケースがほとんどだ。従って手綱はフォーマットを作ったアメリカが握ることになり、日本企業は一ユーザーとなってしまうしかない。

グレーゾーンに対する認識を日本社会全体レベルから変えていかないと、アメリカが握る手綱を奪うことは不可能であろう。これは一個人でできる範囲を超えており、国レベルで法律から見直さなければひっくり返すことはできない。

これらの社会認識を変えることは可能であろうか?

雇用の保証よりも、社会の流動性が必要だ。

この様なことはわざわざ僕が言う必要もないかもしれないが、あえて書くことにした。

日本は世界的に見ても非常に雇用が保障されてきた国だ。このことは労働者にとって非常に恵まれているように思えるが、見方を変えると企業側にも、労働者側にもデメリットが高いことがわかる。

企業側から見ると、簡単に解雇ができない。労働者側から見ると、就職のハードルが高いということになる。この二つのことは独立的な事象ではなく、互いに絡まり合っている。

企業側が簡単に解雇できないから、社員を採用するときには非常に慎重になる。履歴書に空白はあるか?過去の退職の理由は何か?しかしそのようなことはたいてい仕事のスキルとは関係ない。しかし企業側はいかに戦力になるかということよりも、いかにリスクが少ないかということを優先してしまう。このことは企業側にも労働者側にも非常に損失が大きい。

これらの原因は、社会の流動性のなさにあることは言うまでもない。企業がより簡単に解雇できるようになれば、採用するときのハードルも低くなる。採用のハードルが低くなると、もちろん入社もより容易になる。流動性のなさゆえ、それまで退職に踏み切れなかった人たちも、容易に退職し、より力を発揮できる他の会社に移籍できる。有能な人たちにはより大きなチャンスが与えられるようになる。

雇用の強い保証は、才能のない人にとってリスクの回避になるが、それらの人たちの保証が故、有能な人たちが犠牲になっている。有能な人材の犠牲はもちろん、企業の損失、そして社会全体の損失になる。

今、日本の社会形態は転換期にある。いや、転換しなければいけない。有能な人材がしっかりと才能を発揮できる場を与える事、それが重要である。そのためには社会の流動性を高めることは必要不可欠である。

企業・社会側も、リスクを恐れ、履歴書のあら探しをするということは止めなければいけない。いかに戦力になるか、そして有能な戦力にはそれに相当する対価を与える。そうでないと、グローバルに事が進む現在では企業も立ち向かっていけないだろう。

これからは、ディープラーンニングと量子コンピューターの時代だ!

ディープラーンニングと、量子コンピューター。いま注目を浴びている、将来の有力候補情報技術だ。正確に言うと、ディープラーンニングは最近急激に熱くなったAI(人工知能)関連の技術で、量子コンピューターはさらにその後にブームになると思われる新形式のコンピューターシステムだ。

なぜ、この二つを取り上げたか?双方ともそれぞれ今最も熱い分野だが、この双方を結び付けた記事が見当たらない(少しはある)からだ。しかし近い将来、この二つの技術は共に相補的に結びつくことは間違いない。

現在はIT教育熱が高くなり、小学校でもプログラミング教育が行われていると聞くが、僕は今プログラミング教育を始めるのは、時代的に多少遅れているのではないかと思う。20年前だと最先端の有望技術教育となったであろうが、現在では職業訓練教育と言う意味合いが大きいのではないか。

20世紀に入ってIT産業は爆発的に発展した。IT長者と言われる人も何人も出てきた。マイクロソフトのビル・ゲイツ、facebookのザッカーバーグ、アップルのスティーブ・ジョブズ、国内に目を向ければソフトバンクの孫正義からホリエモンまで、様々な人がITで名を馳せてきた。しかしそれらの人に共通するのは、ITブームが爆発する以前にIT技術に親しんできたと言うことだろう。ブームが爆発した後の現在では、競合者も多く、二番煎じ、三番煎じでしかない。今の小学生が普通のプログラミング技術を身に付けたからと言って、それで長者になれるかと言うと、極めて難しいと言わざる負えない。

では、何に注目すべきか?それが前述に上げた二つの技術だ。もしかしたらディープラーンニングについては今では少し遅いかもしれない。しかしまだまだブレークスルーは残っているかもしれない。量子情報については今からでも間違いなく第一人者になれるチャンスがある。特に商用・ビジネスへの応用は全くされていない(特殊な量子コンピューターについては例外的に商用化されたものはある)。

今の子供にとって、この二つの技術には非常に大きなチャンスがあると思えてならない。

国民的アイドル?

最近、フィギュアスケートの浅田真央さんが現役を引退された。惜しまれながらの引退だ。浅田真央さんと言えば、誰もが認める国民的アイドルである。トップスケーターはこれまでにも何人か出てきたが、国民的アイドルと言えるスケーターは浅田真央さんだけであろう。

舞台は変わって、この人も国民的アイドルと言えるかもしれない。iPS細胞の発見でノーベル賞を受賞された、山中伸弥教授。いやいや、山中先生に対してアイドルと言うのは、非常に失礼かもしれない。国民的研究者とでも言うべきか。

最近、日本人のノーベル賞受賞が相次いでいる。小林誠教授・益川敏英教授、そして去年受賞された大隅良典教授。これらの先生はどの先生もすごい人ばかりではあるが、アイドルとは全く違う。しかし、山中先生は人気がありすぎて、アイドルのような存在にも思えてならない。またまた失礼。僕個人的にも山中先生には憧れを持ってしまう。こんな研究者は、日本人では初めてではないか。精悍な体つき、清潔感のある人柄、そして人格者でもある。それでもって、世界トップの研究者である。さらに山中先生の研究はとてつもなく人の役に立つ。

アイドルと呼ぶのは失礼かもしれないが、このようなスター研究者の存在は、日本の研究の底上げ、子供たちの将来の夢などに非常に良い影響を与えるのではないか。

あまりにも山中先生を尊敬してやまないので、研究者に対してアイドルなんていう失礼な視点で書いてしまった。これからの山中先生のますますの研究の発展を願ってやまない。