月別アーカイブ: 12月 2016

数学者は何のために研究するのか。

数学者に限らず、研究者は何のために研究するのか?もっともらしく、一番世間受けするのは間違いなく「世の中に役立てるため」であろう。その理由自体、僕も否定するつもりはない。実際、科学”技術”というものは、人に役立てるための研究がほとんどだ。

しかし、数学はどうであろうか?あるいは基礎科学はどうであろうか?数学が人の役に立っているというイメージは、一般には希薄かもしれない。とは言え、人の役に立つ数学(数理科学というべきか)は、最近飛躍的に増えてきている感もある。しかし、ほとんどの数学者はおそらく社会の役に立つ研究をしているなどとは思っていないはずだ。それに、数学の本質は、社会に役立てるためではない。格好良い言葉で言えば「知の地平線を広げるため」にやっているのだ。これは数学に限らず、多くの基礎科学研究について言える。

とは言え、様々な研究者の研究を見ていると、「研究のための研究」をしている印象も非常に受ける。ポストに就くための研究、研究費を稼ぐための研究。しかしそんな研究に大きな価値があるはずがない。

東京大学数理科学研究科の研究科長・坪井俊教授の、3年ほど前のインタビュー記事を見た。そこで坪井教授はこのように述べている。

「飛び抜けた、特に優れた研究が、少しだけ出ればいいんです」

数学の論文だけでも、一年で膨大な数の論文が世界で”生産”されている。しかしそのような論文のほとんどは、一年、いや数か月で忘れ去られる運命にある。いったい坪井教授の言うような「飛び抜けた、特に優れた研究」をしている研究者は、どれだけいるのであろうか?

とは言え、結果を出さなければ、研究環境を与えようにも評価のしようがない。そういう意味ではまず「研究のための研究」をすることも必要なのかもしれないが、今の日本に少しの飛び抜けた研究をすることができる環境はどれだけあるだろうか?

多くの研究現場では、短期的に成果を挙げられるような、近視眼的研究が幅を利かせている。年間に十本近くの論文を書く”生産者”もいる。もちろんその中にも大きな成果はあるのであろうが。坪井教授の言うような研究を少しだけでいい、そのような懐の深さも必要ではないだろうか?

偉大な数学者・岡潔は、生涯に数本の論文しか書かなかったという。しかし岡潔の偉大さは今でも伝説的である。今本当に必要なのは、論文生産者ではなく、第二・第三の岡潔ではないだろうか。

 

希望の同盟・・・安倍首相の真珠湾訪問で。

「希望の同盟」、安倍首相は27日午前(日本時間28日早朝)に訪れたハワイ・真珠湾で、日米同盟についてそう述べた。

アメリカの大統領と日本の首相が同時に太平洋戦争開戦の地に立つという、歴史的な日となった。

僕は映像では見なかったが、新聞で安倍首相のスピーチ全文を読んだ。オバマ大統領が5月に広島に訪れた時に行ったスピーチと同様に、安倍首相のスピーチも未来志向を強く表現したものであった。

今回のスピーチ内容は、非常に文学的表現であり、名スピーチであるように思える。もちろん安倍首相一人が作ったものではなく、側近・官僚・そして翻訳者・作家などが制作に関わった大作であることは容易に想像つく。とは言え、安倍首相の思いがつまったスピーチであることには変わりはない。

今回の安倍首相の真珠湾訪問は、5月のオバマ氏の広島訪問に対する返礼だと言われている。オバマ氏は広島では謝罪はしなかった。それに準じて安倍首相も今回は謝罪しなかった。しかし現在の強固な日米同盟下では、そんなことを気にする人は少ないのではないか。もちろん外交的には謝罪するかしないかは大きな問題になってくる。しかし日米両首脳は、過去への謝罪ではなく、未来への発展を取った。

今回の安倍首相のスピーチには、タイトルが付けられている。

「和解の力」

世界のどこかで戦争や紛争が起こることはいつの時代でも同じであるが、考えてみれば非常に不思議でもある。世界から軍隊が全て無くなればいい、そう思う人が大多数であろう。しかし悲しいかな、いつの時代も侵略をたくらむ国家・組織が必ず存在する。それらから防衛するためにも軍隊、あるいは自衛隊は必要不可欠だ。しかし必要悪だとは言いたくない。そんなことを言ったら、国家を守る任務に就いている自衛隊員に失礼である。自衛隊員様、いつもお疲れ様です。

戦後約70年、日本は泰平の世が続いている。これは300年弱続いた泰平の江戸時代に次ぐものではないか。日本は平和国家である。平和は日本の基軸でもある。しかし、日本だけ平和ならば他国はどうでもよい、などという論理は、世界をリードするこれからの日本に対しては通じない。これからは他国の平和に対しても貢献する、そのような役割が求められている。

しかし、他国への貢献に対して、他の先進国と同じことをする必要はない。日本は日本独自のやり方で貢献すればいいのである。そこでどのような形で貢献するべきか、じっくり熟考して議論しなければならない。

好きだ!でも苦しい!でも努力はやめない!

僕は子供の頃から好きなことを続けている。それをやめるつもりはない。おそらくやめる時は死ぬ時であろう。とにかく数学と物理が大好きだ!

しかし、「好きなことをやっている=楽をしている」わけではない。好きなことをずっと続けるということは、多くの場合、非常に苦しいものだ。しかし苦しいからと言って、やめようとは思わない。これほど続けていると、苦しさも快感になってくる。

お金を儲けるだけが目的ならば、人に言われることをやるのが手っ取り早いかもしれない。好きなことで儲けるのは、一部の人を除いて至難の業である。

努力したからといって、必ず成功するとは限らない。しかし成功するためには努力することが不可欠だ。「成功するかどうかわからないけど努力する」そういう人の中から成功者が生まれるのだと思う。

12月27日、テレビ番組で元広島カープの投手・黒田博樹さんのインタビューがあった。あれだけの成功者でありながら、現役時代は楽しいと思ったことがなかったそうである。引退後になって振り返った時、楽しかったと思えたそうだ。しかし、僕の勝手な感かも知れないが、黒田選手は野球が大好きだったに違いない。嫌いなことに世界トップクラスの努力はできないはずだ。しかし、好きと楽は違う。好きだからこそ、自分にムチを打って追い込むことができる。

そんな黒田選手の発言を聞くと、僕なんかはまだまだ甘いと反省させられる。「それだけ好きだったら、もっと追い込んで努力しろよ」と。努力したくても、頭が回らない時がある。体がついてこない時がある。しかしそんなことも、自分に甘い言い訳に過ぎないのか。

僕には目標がある。しかしそれを達成するためには努力は不可欠だ。だから今の一番の課題は、目標を達成することではない。努力することである。努力もしないで目標だけ言っても、単なる甘々である。とにかく努力がしたい。

そういえばそのテレビ番組では、水泳の北島康介選手も出ていた。北島選手もとんでもないくらい努力したそうだ。世界のトップを極めた人が、とんでもない努力を自分の口から言うからには、本当に想像を絶するくらい努力したのであろう。

スポーツは、医療のように直接何かに役に立つというわけではない。しかし現代社会では、スポーツ選手の存在は人類を活気付けるために不可欠なものになっている。北島康介選手の努力を聞いて、自分ももっと努力しないと、と我に返る。

なんだか努力努力と言って暑苦しくなってしまったけど、自分を戒めるためにも努力についてしつこく書いてみた。

安倍首相はただものの政治家ではない。僕はそう思う。

12月18日(日)、午後10時からの情報テレビ番組「ミスターサンデー」に安倍総理が出演していた。最近は安倍首相は積極的にテレビ番組に出ている感があるが、僕はそれは良いことだと思う。国のトップがテレビを視聴している一般大衆に現状を伝え、これからの展望を述べる、民主主義国家にとって非常に大切なことだ。

先日、安倍首相は地元山口に、ロシア大統領プーチン氏を招き、首脳会談を行った。その成果に対して否定的な意見が非常に多い。もちろん、今回の成果だけをピックアップして眺めていれば、安倍首相の一人負けの感がする。ロシアに食い逃げされたと評する人もいる。

もちろん、安倍首相が普通の首相なら「負けた」と評して終わりかもしれない。しかしこれまでの実績、戦略、実行力からみて、これで終わる総理ではないと僕は思っている。今回の首脳会談でプーチン大統領が大幅に遅刻して予定が狂ったと騒ぐメディアもあるが、プーチン大統領が遅刻するなどということは確実に想定内であって、おそらく安倍首相をはじめとする日本政府もそれを前提とした対策を取っていたことであろう。待ちぼうけをしている間、前日の国会が長引いて寝不足の安倍首相は、温泉につかり休憩をとっていたという。その余裕感は頼もしくも思える。

そして本題のプーチン大統領との会談内容であるが、もちろん安倍首相が話している内容が全てであるなんてことは誰も思っていないであろう。プーチンに食い逃げされただけだと評するのは、まさしく愚の骨頂だ。僕はそう思う。なぜなら安倍首相は普通の総理ではないからだ。安倍首相は確実に二手・三手先を読んでいる。そしてロシアに対しても何かを仕掛けている(良い意味で)に違いない。

ミスターサンデーの番組内で、キャスターの宮根氏と評論家の木村氏は安倍首相を「猛獣使い」だと評していた。プーチンやトランプという猛獣を上手く操っている。しかし、その猛獣に襲われないように気を付けてもらいたい。

そして僕が安倍首相が信頼できる首相だと確信している理由の一つに、何を問われてもまず「安全保障」を真っ先に挙げて重要視していることだ。普通の政治家なら、国民の顔色をうかがって、金銭的・福祉的政策など国民がすぐさま実感できるような政策をばら撒く。安全保障はいざ危機的状況に陥ると誰もが危機感を持つが、普段の平穏な時代には身をもって感じることがなく、ほとんどの国民が自分に関係ないことだと思い、気を留めない。しかし安全保障は国家の根本的土台だ。ビジネスも教育も、安全保障機能のしっかりした土台がないと成り立たない。そういう意味で、安全保障を真っ先に訴える安倍首相は信頼に足る首相だと思う。

もともと石破茂かぶれだと言われてきた僕だが、こんなことを書くと安倍かぶれと言われるかもしれない。しかしそれも、安倍首相がただものの首相ではないと確信しているからだ。これからも一国民として安倍首相に期待している。

世の中はお金だけでまわっているのではない。人間はお金を稼ぐためだけに生きているのではない。深みのある人間になろう!

今日、某記事で、日本の教育について批判する記事を見た。勉強することに優先順位を付けろというものだ。それだけなら僕自身も思うことがある。しかしその順位が僕とは全く正反対なのである。

その記事の著者は、数学なんて役に立たない。買い物の時の値段の計算さえできれば事足りる。鎌倉幕府がいつできたなんてどうでもいい。そんなくだらない教育より、株の売買の仕方やビジネスの仕方など、どうすればお金を稼ぐできるかということを教える方がはるかに実利にかなう、というものだ。

僕は空いた口がふさがらなかった。

現在、日本は世界の先進国のトップレベルの基準を満たしている。経済が不景気だと言っても世界第三位の経済大国だ。経済だけではない。最近、海外で注目されている日本人の文化水準の高さもそうだ。これらは長い年月をかけて作り上げてきた高度な教育文化の賜物だ。経済大国になったのも、株やビジネスに知識を全てつぎ込んだからではない。その根底には幅広く高度な教育が横たわっている。株やビジネスで儲けることは、その上澄み液をすくい取ることに過ぎない。高度な教育と幅広く深い教養人が積み上げてきた知恵がなければ、ビジネスの土台さえおぼつかない。

もちろん、ビジネスに打ち込むビジネスマン、金融エリート、経営者を否定しようなんて毛頭思っていない。しかし今まで出会った優秀なビジネスマンはほぼ例外なく勉強熱心で、興味の幅も広く、様々な知識に対して貪欲だ。金さえ儲けられれば他はどうでもよいという考えのビジネスマン、経営者に一流はいない。

現在、世界はスペシャリストの時代に入った。何か一つのことで飛び抜けた知識や技術を求められている。しかし同時にジェネラリストの時代であるとも僕は考えている。スペシャルな知恵や技術は、ジェネラルな土台に裏付けられていることが多い。実際、分野のトップを走る人間は博学かつ哲学的でもある。それはスポーツであっても例外ではない。プロ野球の大谷翔平選手の人間性を見ても良くわかる。イチロー選手も然りだ。

お金だけ儲けてそれだけで満足ならば、中学で勉強をやめ、投資やビジネスに打ち込めばよい。それで成功するならの話だが。しかし僕はそんな薄っぺらい人間になってほしくない。今日見た記事を書いた著者のように、薄っぺらい大人が薄っぺらい次世代の大人を作ってしまう。

今の子供たち、青年たちには、人間として深みのある教養人になってほしい。そして深みのある国を支え、深みのあるスペシャリストになる、そのような土台を作ることが、現在の大人の仕事のうちの一つでもある。

一次情報を握ることの大切さ。

物事を判断するうえで重要になるのが、一次情報を握ることだ。一次情報とは、自らが直接関わって得た情報、もしくは情報源に非常に近いところから得た情報のことだ。

一次情報を得るのに一番手っ取り早いことは、仕事をすることだ。仕事とは一次情報との接触だと言えるからだ。

最近は、ネット上に情報が氾濫しており、知りたいことがあると手軽にネットで検索して簡単に情報を手に入れられる時代だ。しかしネット上に氾濫している情報のほとんどは二次情報・三次情報である。SNS上の情報などはその最たるものだ。

とは言え、ネットでもより一次情報に近い情報を得ることもできる。例えば首相官邸サイト、省庁のサイトなどには、非常に信頼できる情報が開示されている。

また他の例で言うと、研究する時に一次情報になるのは原論文である。解説書ではなく原論文に当たることの大切さはそこにある。解説書は原論文と併用して用いるのが効果的である。

何かを論じる時には、信頼性の低い二次情報ではなく、自ら苦労して得た信頼性の高い一次情報をもとに見解を述べるべきである。又聞き情報とも言える二次情報に依存するのは、非常に危険な行為である。

とは言え、全てのことに対して一次情報を得るのは現実的に不可能である。そのときは持っている情報を非常に吟味して判断しなければならない。

科学と哲学を分けるもの。

現代学問において、哲学と科学は全くの別物と考えられることが多いが、この両者には通じるものも多い。とは言え、似て非なるものと言える。実際に科学は理系、哲学は文系と区別されることからもわかる。

しかしこれらの源流をたどれば、両者は共通の起源にたどり着く。「ギリシャ哲学」である。

古代ギリシャ時代、数学や科学(もどきと言うべきか)はまだ細分化されておらず、これらは哲学の一部とみなされていた。当時、哲学者とは学問における万能者であった。アリストテレスもアルキメデスも現代では数学における成果で有名だが、彼らは哲学者であった。さらに日本では三平方の定理と言われている数学で一番有名な定理である「ピタゴラスの定理」(こちらの名前の方が世界標準の名称である)のピタゴラスに至っては、新興宗教の教祖だったという。ピタゴラスは無理数を発見したが、これは神の過ちによってできたものだと考え、信徒達に口止めさせていたと伝えられている。

では、科学と哲学が分岐した時代、すなわち中世に話を飛ばす。厳密な科学は15世紀に芽生えた。一般には物理学を創始したニュートンが本格的科学の祖と言えるが、それまでの道筋はケプラーの精密な天体運動の観測に始まり、ガリレイの地動説、同じくガリレイの相対性原理を経て、ニュートン力学、そしてニュートンの万有引力の法則が生まれた。

そして18世紀の産業革命によって科学は急速な進歩を遂げる。化学(化け学)は当時の錬金術に対する試みによる知識の蓄積と言える。残念ながら錬金術は全て失敗したが、その副産物として化学(化け学)は大きな進歩を遂げた。

そして20世紀。この世紀は「物理学の世紀」とも言われるくらい物理学が驚異的な膨張を見せた。それは1900年のプランクの量子仮説に始まり、1905年のアインシュタインの特殊相対性理論、1916年の一般相対性理論、そして1925年頃のハイゼンベルグ・シュレーディンガーらによる量子力学の完成によって土台が整う。

この様に科学は哲学とは独立の道を突っ走り始める。しかし哲学も科学もその根本には思想と論理が横たわっている。哲学はこれだけでいいのかもしれない。しかし科学にはこれに加えて「数学的構成」を行わなければいけない。

約100年前、アインシュタインが相対性理論を発表し世の中の注目を浴び始めた頃、とある哲学者がこう言ったという。

「私は相対的主義者だ。だから私に数学的才能があれば私が相対性理論を発見したであろう」と。しかしこの数学的構成力こそが科学の核であるのだから、「数学的才能があれば」などと言うのは見当違いも甚だしい。しかも相対的な理論ならアインシュタインを持ち出すまでもなく1600年頃にガリレイが相対性原理を完成させている。

哲学と科学の関係を歴史的視点から書いてきたが、これらを見ると

「科学者は哲学者であるが、哲学者は科学者ではない」

と言えるのではないだろうか。