月別アーカイブ: 8月 2016

最後の巨大フロンティア、アフリカ。援助からビジネスに軸足を移す意義は。

安倍首相がアフリカ訪問から日本へ帰ってきた。台風10号の日本接近を考慮して、1日早い帰国となった。安倍首相のアフリカからの帰国に伴って、アフリカでのビジネスが話題になっている。

これまでアフリカに対しては、援助一辺倒の感があったが、今回の安倍首相の思惑はアフリカへのビジネスについての可能性を広げる意味合いが強い。アフリカを援助の対象からビジネスの対象へと軸足を移すものだ。

ではなぜ今、援助をビジネスへと移さないといけないのか?それには日本、アフリカの双方の立場があるが、どちらにしても双方にとって非常に意義あるものだ。ビジネスへ乗り込む日本にとってはビジネスチャンスの拡大という大きな利がある。そしてアフリカにとっても日本と同じようにビジネス創生という大きなメリットがある。

しかしそれだけではない。日本がアフリカで関わるためには、その基盤を作らなければならない。治安の改善、医療・保健の確立などである。しかしこれらのことは日本に対してだけではなく、アフリカ諸国自身の発展、アフリカ市民の生活の発展のためには不可欠なものだ。

そしてアフリカでのビジネスにとって非常に大切なことは、win・winの関係をつくること。お互いに利があってこそ飛躍的な発展が期待できる。

それから援助からビジネスへと移すことは、アフリカの自立にとっても欠かせないものだ。ビジネスに移すことによって、アフリカ市民の意識も変わる。援助とは強者が弱者に行うものだ。しかしこれからはビジネスによって「対等」な関係を結ぶことが必要なのである。

ヨーロッパは成熟期を過ぎ、アジアはこれから絶頂期を迎えようとしている。それに対してアフリカは取り残された大陸であった。しかしだからこそこれからの大きな発展が期待できる「最後の巨大フロンティア」である。

これからの日本の対アフリカビジネスの成功と、アフリカ市民の生活の発展を祈るばかりである。

リオで突き抜けた安倍首相。これがこれからの日本のあるべき姿だ!

リオデジャネイロオリンピックが閉幕してから数日経つ。恥ずかしながらリオの閉会式を今まで見ていなくて、今日YouTubeでリオの閉会式、そして東京への引き継ぎセレモニーを見た。

今回の東京への引き継ぎセレモニーを見て、ある種の爽快感を感じた人は多かったのではないか。日本特有の文化を保ちながら、新しいクールな日本を前面に打ち出すという、非常に高度なセレモニーだと感じた。特に、何かと前例主義にとらわれる日本に対して、セレモニーでは全く新しい、突き抜ける日本の姿を感じた。それはセレモニーにサプライズで現れた安倍首相もそうだったのではないかと思う。

このようなセレモニーに政治家が現れることに難色を示す人もいるが、今回のセレモニーは安倍首相あってのものだった。安倍首相の登場は派手なものではなかったかもしれないが、非常に突き抜けたものだと感じた。日本と言えば「出る杭は打たれる」と言われるように、目立たずにひっそりとすることが美徳とされているが、安倍首相をはじめとする日本のセレモニーは「とにかく突き抜けろ」と訴えているようにも感じた。これこそこれからの日本のあるべき姿ではないか!

継承していくべき文化や美徳を大切にしながらも、新しいことに挑戦して突き抜けていく、海外で言われている「クール」な日本。それを日本のトップの安倍首相が示した意義は大きいのではないか。

安倍首相の政策は成功したのか失敗したのかよくわからないものが多い。しかし政策の行方などは長い年月をかけて動いていくもので、すぐに結果を求めるのもおかしな話なのかもしれない。まだよくわからなくて当たり前なのだ。

安倍首相の最大の功績は、これからの日本の方向性を示したことだと僕は思っている。その方向性が成功するかどうかはわからない。しかしいつも前例主義で停滞していた事柄を前進へと向けたことは明らかだ。

出る杭を打つ社会から、出る杭をさらに突き抜ける日本へ、そんな変化の予兆をリオのセレモニーで感じた。

AI(人工知能)への依存と危険性。人類はいつまで存在できるのであろうか。

最近、何かと話題になるAI(人工知能)。AIには大きな可能性を秘めており、ここ2、3年の間に、AIの利用、AI技術に対する投資が飛躍的に増えた感がする。具体的に挙げると、自動車の自動運転から医療における診断まで、様々な分野へAIは進出しようとしている。

確かにAIによる高度な技術に対する自動化は非常に魅力的である。しかし、AIの大きな可能性は破壊的な可能性も秘めている。このことは今でも多くの人が気付いているようだが、便利な可能性への成果が目に現れてきている現在、なかなか話題になることはない。

このAIの破壊的な可能性とはどういうことか。例えて言うと、映画「ターミネーター」のような世界と言うとわかりやすいだろうか。ターミネーターでは、人工知能をもつ殺人アンドロイドが人類を滅亡させようとしている。以前は所詮映画の中の世界に過ぎないと多くの人が思っていたが、今では非常に現実味のある話である。

もちろん、そのようなターミネーターを作ろうとしている研究者は(おそらく)いないだろう。しかし、AIの一番恐ろしいことは、コンピューターが「自我」を持つことである。自我をもったAIは人間の制御から解放され、暴走していくだろう。もちろん人類を敵にまわすAIが出てくるのも時間の問題だ。

なぜ研究者はAIを作ろうとするのか?それはもちろん人類の役に立てるためということもあるだろうが、一番の理由は単にAIの研究が面白いからというものであろう。

AIの研究が危険をはらんでいることは誰にでもわかるが、しかし誰もそれを制止することができない。まさに科学技術はパンドラの箱なのである。

はたして人類はいつまで存在することができるのであろうか。

捨てなければいけないプライドと、持ち続けなければいけないプライド

よく、「プライドを捨てなければいけない」という人がいる。では、プライドとはいったい何なのだろうか?

僕はプライドには2種類あると思っている。

一つは、過去の栄光に対するプライド。

もう一つは、「これから絶対に結果を出して活躍してやる」というプライド。

一つ目の、過去の栄光に対するプライドは捨てた方がいいのかもしれない。しかし過去の栄光も次へのステップのきっかけになることがあるので、すべてを捨て去る必要はない。しか余計なものは捨てて、身軽になった方がいいのかもしれない。

そして二つ目の「これから何が何でもやってやる」というプライドは、絶対に捨ててはならない。自分は誰にも負けないんだというプライドは、トップを目指す者にとっては必要不可欠なプライドだ。

「握りこぶしの中に しまっておいた勇気と わずかなプライド握りしめたら」

という歌詞を歌ったシンガーソングライターがいる。僕はこの歌詞を常に胸の中に秘めている。

プライドの塊ではダメだけど、努力やビジョンに基づいたプライドは絶対に持ち続けなければならない。

勝負に立派な負けなど存在しない。吉田沙保里選手の論

こんな記事を見つけました。

「よく、試合後に負けはしたけれど強敵相手に善戦できて満足みたいなコメントをする人がいますが、冗談じゃありません。勝負は勝たなければダメ。」

(プレジデントオンライン、吉田沙保里の言葉より引用)

そうです。勝負に立派な負けなど本来は存在しないのです。

僕もオリンピックを見ていて、日本人選手が銀や銅メダルを取ると正直うれしい気持ちはあります。しかし銀は敗者なのです。銀や銅の選手に対しても「頑張った」と褒め称えるのは優しさかもしれません。しかしその一方、これは吉田沙保里選手のように勝つことが全てとストイックに戦っている選手に対する侮辱ではないかとも思うのです。

吉田沙保里選手のような論を、なにもサラリーマンに対しても当てはめろとは全く思いません。しかし何かしら「勝負」の世界で生きている人間にとっては、吉田沙保里選手の言っていることが一番の正論だと思います。

吉田選手は「勝負に優しさは邪魔」とも言っています。

普段の生活で吉田選手の言っているようなことを言うと、非常に冷酷な人間ととらえられるかもしれません。しかし勝負の世界は別、吉田選手は勝負の世界の何たるかを教えてくれているのです。

このような論に、吉田選手の並外れた強さの秘訣が隠れているのかもしれません。

とは言え、日本人が銀メダルも銅メダルを取るとうれしいけど・・・

 

批判されてナンボ

最近、世の中全体が批判の恐怖におびえているように思う。有名人のネット炎上から、一般市民の周りからのバッシング。そんな僕も一時期批判されることに臆病になっていたことがあった。

しかし、ネットが発達したコミュニケーション社会では、むしろ、誰にも非難されないことの方が珍しいのかもしれない。もし誰にも何も批判されないのならば、それは自分が何もやっていない証拠、あるいは何も行動を起こしていない証拠。批判されないことはむしろ恥ずべきことなのかもしれな。

批判されることが普通であると考えれば、少しは気分が楽になるのかもしれない。しかし間違った批判・誤解には誠心誠意対応しなければならない。しかし低レベルな批判まで対応する必要はない。相手が対応すべき誠実な人か、論理が通じる人かを見分けなければならない。

いっその事、批判大歓迎・バッシング大歓迎くらいの割り切った気持ちを持つことができればいいが、自分を含めてそこまで心が広い人はなかなかいない。心が広くない自分が恥ずかしい。しかし、批判されることが普通で、誰からも批判されないことなどまずないと心に銘ずることは、生きていくうえで大事なことだ。

「批判されてナンボ」これくらいの気持ちで生きていけば、オリンピックに出ても動揺しないような?強い心を持てる(かもしれない)。

オリンピックもいよいよ終盤に。頑張れニッポン

リオデジャネイロオリンピックもいよいよ終盤戦に入ってきた。連日、日本人のメダル獲得に、日本中が沸いている。特に柔道では男子の全階級でメダルを獲得するという快挙に盛り上がった。

男子柔道の全日本の監督と言えば、井上康生監督だ。井上康生監督の指導手腕は僕には判断できないが、今回のオリンピックでしっかり成果を挙げたという事実が、井上監督が名監督であることを証明している。

井上康生の現役時代と言えば、勝つこと以上に「一本」にこだわった非常に男気のあるスタイルが有名だった。勝負である以上、勝つことが最高の価値を持つと言えるが、しかし井上康生の一本という勝ち方に対するこだわりは勝つこと以上の価値を持っているのではないかと僕は思う。

確かに井上康生の現役時代は、一本にこだわるが故、それがあだとなって負けることもあった。しかし井上康生の一本には金メダル以上の輝きがある。もちろん最高は一本を貫き優勝することだ。

どのような分野でも、柔道で言う一本にこだわる姿勢は、選ばれし者しか持てない。なぜならそのような勝ち方・姿勢にこだわるためには、すでに世界一であることが前提条件になるからだ。井上康生も例外なく世界一だった。

オリンピックで優勝する選手は超一流だが、その勝ち方・姿勢にこだわって勝つ選手は超超超一流である。

この後には、金メダル大大大本命の吉田沙保里選手も登場する。吉田選手が既定路線通り金を取るのか、大波乱が起きるのか。勝つものと思っているが、負けて話題になるのは大物の証拠である。そういえば、先日亡くなった千代の富士関も負けが話題になる大横綱だった。

あと数日、日本人選手の活躍を応援しよう!

結論ありきではなく、真理を追究する裁判を。女児焼死裁判再審無罪で。

8月10日、1995年に起きた小学6年女児焼死事件で無期懲役とされた母親ら二人の再審審理が行われ、無罪が言い渡され、検察は控訴を断念し、二人の無罪が確定した。

冤罪事件については、袴田事件の袴田巌さんの件など僕のブログでも数回取り上げたが、今回再び警察・検察の強引な自白誘導事例が明らかになった。検察側は完全に疑義が取り払われたわけでないと謝罪を拒んでいるようだが、このようなことから警察・検察の歪んだ体質が読み取れる。

確かに100%有罪を立件するのは簡単ではない。しかしそれ以上に一度立件された被告の無実を証明するのは難しい。というよりほぼ不可能に近い。検察側にすれば、一度立件すれば、必ず有罪判決を得なければならないという使命感があるようだ。しかし本当にそのようなことを国民は望んでいるのだろうか?国民・市民が本当に望んでいるのは、事件が事実なら罪を裁き、事実でないならば潔白を証明することだ。つまり裁判は真理を追究しなければならない。

もちろん、検察は有罪につながる証拠を血眼になって立証するのが使命だ。しかし証拠もなく、事実でない自白をでっち上げることが間違っていることはだれの目から見てもわかる。

裁判では可能性が焦点になる。黒に近いか、それとも白に近いか。しかし事実は完全な黒か、完全な白しか存在しないのである。もちろん法に触れるか触れないかというグレーゾーンも存在しないことはないが、少なくとも殺人事件でグレーは存在しない。

とは言え、裁判を進める裁判官・検察・弁護士らは事件の当事者ではないので、どうしても可能性を考慮しての判決になってしまう。しかしあくまでも原則は推定無罪である。しかし実態は推定有罪になることも非常に多い。今回の女児焼死事件もその最たるものだ。

以前のブログでも述べたが、事件に巻き込まれる社会は恐いが、無実の人間が突然犯罪者に仕立て上げられる社会はそれ以上に恐ろしい。

この様な冤罪を一刻も早く撲滅するためにも、取り調べの可視化、そして推定無罪の原則を徹底的に進めてほしい。

憲法改正、賛成か反対か、論理的・理性的に考えよう

昨晩、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」で、改憲についての是非が討論されていた。真夜中の番組とあって、僕は数十分しか見なかったが、今日本国民は憲法について真剣に考える時ではないかと思う。

国会で衆参両院で改憲勢力が改憲可能な三分の二を超え、改憲の是非を問う国民投票が現実的になった。ある意味、改憲勢力がここまで勢力を伸ばすことを許した国民の総意ともとれる。とは言え、改憲に対して非常に抵抗がある国民も多いことは間違いない。

現時点で改憲に賛成と決めている人、反対と決めている人、まだ決めかねている人、それぞれいると思うが、もしかしたら自分の感情や思い込みだけで決めてはいないだろうか?例えば、賛成の人は「現憲法は敗戦後にアメリカ駐留軍が勝手に作ったものだからけしからん」とか、反対の人は「改憲すれば、戦前の軍国主義に戻り、再び戦争を起こしてしまう」というふうにだ。

僕も以前は自分の中でどちらかに決めていたが、冷静に理性的に考えるとそんなに単純な問題でないと思い、現在は賛成・反対を決めかねている。一国民として正しい判断をするために、それぞれ最低限のことは勉強しなければいけない。

僕は法律の専門家でないので厳密な議論はできないが、しかし専門家ではないからと言って考えることを放棄していいわけではない。

今一度「論理的・理性的」に憲法改正について考え直してみよう。

勝負の世界では、ただ一人の勝者のみが全てをつかみ取るべきだ

間もなく、リオデジャネイロオリンピックが始まる。われわれ一般人にとってはスポーツの祭典であり、テレビで楽しむくらいだが、出場するアスリートにとっては4年に一度の大舞台であり、最大・最高の勝負の舞台である。

オリンピックには上位3人にメダルが授与される。2位や3位に入って銀メダル・銅メダルを獲得して喜んでいる選手も多い。もちろん2位も3位もすごいことなのかもしれない。しかし僕はその喜びに違和感を感じる。なぜなら、勝者は1位のみだと思っているからである。2位は敗者なのである。そして勝者のみが全てを手に入れるべきなのである。銀メダルを取って喜んでいるうちは(もちろん非常にレベルの高い選手であることはわかるが)そのレベルの選手なのだということである。本当に勝ちを狙っている選手は、2位では絶対に喜ばないはずだ。

分野は変わるが、物理や数学などの学問の世界は勝負の世界ではないのかもしれない。それに単純に1位2位を付けられない。(もちろん、学校のテストの点数などのような次元の話をしているわけではない。)しかし、僕は学問の世界でも世界一の成果を出すことが重要だと考えている。あえて物理や数学の世界も勝負の世界だと考えている。だから学問の世界でも勝者のみが全てをつかみ取るべきだ。

学問の世界を含めて、オンリーワンであることが大切だと言われることが多い。しかしオンリーワンであることなどは当たり前のことであって、わざわざオンリーワンであることを強調するほどのことではない。ナンバー1はオンリー1でもある。しかしオンリー1は必ずしもナンバー1ではない。だから、ナンバー1を目指すべきなのである。ナンバー1になれば、オンリー1は必然的についてくる。

僕は現在は、数理物理の世界でも完全に敗者の方にいる。立ち位置としては底辺にいるといってよい。しかし、僕が目指しているのは学問の世界で食っていくことではない。ナンバー1の成果を出すことである。だから、まだ全然結果の出していない現在は、何一つ要求することはない。今は無でもいい。しかしナンバー1の結果を出すことに成功すれば、すべてをつかみ取ろうと思っている。

もちろん、何かを取るために研究しているのではない。数理物理の研究は生きがいであり、ライフワーク、人生におけるミッションである。そして、解決を目指しているテーマも、明確に定めている。しかし人生をかけて取り組むからには、絶対にナンバー1になるというくらいの覚悟は必要だ。

勝者は一人だけなのである。間もなく始まるオリンピックの選手も2位ではなく、「勝つ」ことを目指してほしい。