月別アーカイブ: 1月 2016

負けて記事になる凄さ

1月29日、レスリングの伊調馨選手が試合に負けたという記事が出た。オリンピックで負けたのではない。通常の国際大会で負けたのである。普通なら記事にも何にもなるようなことではない。この負けは伊調馨選手だから記事になったのだ。伊調選手が試合で負けるのは、なんと13年ぶりだということだ。

今回の伊調馨選手の敗戦に記事を見て、改めて負けて記事になる選手の凄さを感じた。思えば2年前、プロ野球の田中将大選手が24勝0敗というとんでもない偉業を成し遂げた。こうなってしまえば、敗戦を伝える機会もない。マー君(田中選手)は伊調馨選手の上を行っている。しかしレスリングの日本人選手にはレジェンドがいる。吉田沙保里選手だ。女子選手に対してこのような表現は失礼かもしれないが、彼女は怪物だ(試合の時はね)。もちろん普段は人間の女性だが。最近の若手では、女子スキーの高梨沙羅選手も注目を浴びている。

しかし伊調選手も、吉田選手も、高梨選手も、皆女子プレイヤーだ。一部の競技を省き、男子競技と女子競技のレベルは数段以上違うのが普通だ。体力が影響するスポーツだけでなく、将棋なども同様だ。プロ棋士は今まで多数出ているが、女子棋士のプロ棋士(奨励会4段以上)はまだ一人も出ていない。そのため女子棋士には別枠で女流プロ棋士という女子だけのプロ組織がある。しかし現在、男子と同じ世界(奨励会)でプロになろうとしている女子棋士がいる。里見香奈棋士だ。彼女は奨励会3段。男子のプロ世界である奨励会4段まであと一息だ。彼女は現在23歳。奨励会には年齢制限があり、時間との勝負でもある。

ほとんどの競技に関して、男子と女子は別物だ。しかし里見香奈棋士のように、男子に混ざって堂々と渡り合っている選手がいる。女子選手が男子トッププロを撃破する。そのようなことが起こるのかどうか、これからが楽しみである。

別府市がパチンコ(ギャンブル)で生活保護を停止したことについて

別府市がパチンコや競輪場などに出入りし賭け事をする生活保護受給者に対し、数か月生活保護費の支給を停止することが明らかになった。この別府市の対応について、賛否両論がある。

まず、一般市民感情として、生活保護者が働かずに税金から出た約7万円という現金をもらっていることに対し、批判的な人は多い。確かに感情的にそう考えるのは仕方がない。しかし「生活保護なのに、~~~している」と非難を浴びるせることは、僕は的外れだと思う。生活保護者が図書館に行こうが、旅行に行こうが、それは生活の質を上げる行為であってむしろいいことだと思う。

しかし生活保護費でギャンブルをするとなると、話は全く別だ。生活保護費は基本的人権を尊重し、健康的な最低限の生活を保障するものだ。しかしギャンブルをすることなどは、生活の質を上げるどころか、むしろ下げること以外の何物でもない。さらにギャンブルにつぎ込むことは、それは自らまだ生活保護費を下げられても生活が成り立ちますよと宣言しているようなものである。一般市民が生活保護者のギャンブルのために税金を出していると思うと、憤慨するのも無理はない。

最近は何でも権利権利の時代である。生活保護者にもギャンブルをする権利があると言う声もある。しかしはっきり言って、生活保護者にギャンブルをする権利はない。そもそも基本的人権にパチンコは全く関係ない。と言っても生活保護者の権利を何もかも否定するつもりはない。先ほど言ったように温泉旅行に行きたいのなら温泉で思う存分リラックスしてくればいいと思う。しかしギャンブルなどは百害あって一利なし。生活保護者でなくても問題視されているのに、生活保護費でギャンブルに行くことを納得する国民がどこにいるのか?

知識人は、今回の生活保護費でギャンブルに行くことに、法的観点から意見を述べている。それによると、「生活保護費でお菓子を食べようが、酒を飲もうが、ギャンブルをしようが、一切それを制限されるような法的根拠がない」と述べている。しかし誰がお菓子を食べるなと言ったであろうか?誰が酒を飲むなと言ったであろうか?ほとんどの人はそんなことは何も言っていない。知識人が勝手にそういう文句をいう市民の存在を想定しているだけである。

しかしギャンブルとなると話は全く別である。知識人は法律を持ち出して生活保護者のギャンブルを正当化する。ではそもそもギャンブル自体合法的なものであろうか?パチンコも競輪の賭けも、法的に言えばほとんど黒に近いグレーである。そもそも法的に違法性が強いものに対して、そのことには全く触れずに生活保護者の権利だけに注目して合法だと主張するのは、あまりにも議論が片手落ちではないか。初めは生活保護者のギャンブルについて書き始めたが、このような全く単眼視的な議論しかできない知識人の存在に嘆いてしまう。知恵のない知識人だ。

甘利明・経済再生担当相の辞任に思う。

1月28日、違法献金疑惑が疑われている甘利明・経済再生担当相が自ら辞任を表明した。甘利氏は経済関係担当の閣僚として、アベノミクス、そしてTPPの推進を任された重要閣僚であった。安倍首相が「支持率が10%下がってもとどまってほしい」と言うほど、安倍内閣の重要人物で、安倍首相からの信頼も厚かった。

この甘利氏の違法献金疑惑、現時点では不明な所が多く、本人が関わっていたかどうかも定かではない。だから現時点では推測で書かざる負えなく、事実関係を書いたところでそれが合っているか間違っているか判断できない。

とは言えメディアとしては、違法献金疑惑があり、かつ甘利氏がそれを認識していたという論調が多く、またその方が世論としては盛り上がる。しかし真に大事なのはメディア・世論が盛り上がるかどうかではなく、疑惑の正確な真偽である。甘利氏の全く知らないところで違法献金が処理されていたという可能性も否定できない。

これから甘利氏に対して野党のきつい尋問が始まるであろう。野党は疑惑があったという前提で尋問する。それは野党として当然のことである。その尋問をすることに対して否定しようとは思わないが、一方野党にも国政に参加している役割から、国益が大きく損なわれるような動きは止めてほしい。以前の「言うだけ政権」だった民主党のような無責任政治だけはやめてほしい。

甘利氏の後任には石原伸晃・元自民党幹事長が就任することとなった。石原氏にはこの騒動で日本経済が停滞するようなことは避けるべくうまく立ち回って、経済再生に尽力してもらいたい。一国民として期待する。

ホーキング博士「100年以内に人類は滅びる」に同感

宇宙物理学者、スティーブン・ホーキング博士が、「100年以内に人類は滅びる」と予言している。これには僕もかなり同感している。もちろんこの予想が外れることを願うのは言うまでもないが。

ホーキング博士が予想する絶滅の原因は、「人工ウィルス、軍拡競争、核戦争、地球温暖化、加速器を使った素粒子の実験」だ。核戦争などはほとんどの人が容易に推測できるが、人口ウィルスとは僕も全く予想できなかった。

この原因予想で物理学者らしいのは「加速器実験」だ。これは数年前にも世界的に話題になった。その時の結論から言うと、加速器が原因で絶滅することはないというものだが、確信は持てない。

なぜ加速器なのか?加速器というのは電子などの素粒子同士を高速(ほぼ光の速さ)で衝突させ、その崩壊の過程を観測するものだ。この加速器のエネルギーは年々高くなり、将来は加速器でブラックホールが作れるとも言われている。数年前に問題になったのは、この瞬間的にできたブラックホールが地球もろとも飲み込んでしまうのではないかというものである。果たしてそうなるのか?

実は現在の理論ではこの問いに厳密に答えを出せない。ブラックホール理論の基礎になっているのは、アインシュタインの一般相対性理論だ。しかしこの一般相対性理論はマクロな世界の理論であり、これをミクロの世界に適用するためには「量子重力理論」すなわちミクロな一般相対性理論が必要なのである。しかし現在、量子重力理論は完成していない。ついでに言うと、現在多くの物理学者が目指しているような量子重力理論が存在するかどうかも確かではない。量子重力理論が完成していない限り、加速器でできるブラックホールがどのような振る舞いをするか、正確には結論は出せない。

話を戻すが、僕は現在の人類文明は絶滅への要素をあまりにも多く持ち合わせていると考えている。ホキング博士が挙げている原因以外にも、人工知能がかなり危ないのではないかと僕は考えている。これは簡単に言うと、映画「ターミネーター」の世界である。多くの人は所詮映画の中の世界ではないかと思っているかもしれないが、現在の人工知能の発展はまさしくターミネーターの世界へまっしぐらなのである。そのXデーはいつか?それは人工知能が自分自身で学習していき、人間の知能を超えた時である。その後のことはどうなるか予測不可能である。しかし、人類は絶滅するということは僕には確かに思えるのである。

プロに弱者はいらない

最近、何かと「プロ」に関することを書いている。昨日26日、「プロ」テニスの錦織選手と世界ランク一位のジョコビッチの試合があり、錦織選手はストレート負けした。昨日の錦織選手の試合前には、僕も応援のメッセージを込めて錦織選手に対するブログを書いたのだが、非常に残念だ。確かに残念だが、今回の試合で強者が弱者を食っていく、弱肉強食の醍醐味を見たようで、プロスポーツの世界の厳しさを感じた。

これからも錦織選手に応援していきたいが、その一方、僕としてタイトルにあるように「プロに弱者はいらない」という思いがある。

最近何かと弱者を助けるにはどうすればいいかということが問題になるが、別にそういうことを否定しようとするわけではない。社会の弱者を助ける事は大事だし、セーフィティネットを設けることは基本的人権を尊重するうえで必要だ。

しかし「プロ」の世界では話が別だ。何もスポーツに限ったことではない。全てのプロの世界では弱肉強食が大原則である。たまにプロでも弱者を助けるみたいなことを言う人もいるが、プロの世界でそのようなことを配慮すれば、その分野でプロの魅力は半減する。プロという世界では弱いものは消えていく運命なのである。

以前「ハルウララ」という競走馬が絶大な人気を集めた。勝って人気が出たのではなく、100連敗以上という負けっぷりにハルウララという陽気な名前がマッチして一般受けしたのだと思う。僕は、まぁそんなこともあるのだなというくらいにしか思わないが、ハルウララはプロという範疇の外にあるものだと思う。と言っても、馬にプロという概念が存在するかどうかも分からないが、競走馬は全て「プロ馬」と僕は思っている。

プロの世界を盛り上げるに必要なのは、弱くても応援することではなく、強者を応援することである。強者を応援することが、その世界をよりたくましく魅力的な世界にする。こんなことを言う僕は、90年代の阪神タイガース暗黒時代に阪神タイガースを懲りずに応援し続けていたので、偉そうなことは言えないが。

21世紀になって15年、今世紀中にイチローのようなナンバー1にたどり着く日本人はどれだけ出るだろうか。今日は負けたけれど、錦織選手のナンバー1への道のりをまた応援しよう。

錦織圭選手、世界一位ジョコビッチを倒して主役になれ!

今日、テニス全豪オープンで、世界ランク7位の錦織圭選手が世界ランク1位のジョコビッチと対戦する。錦織選手が世界のトップレベルで戦うようになってから、日本人として誇らしく思い、プロテニスが非常に面白くなってきた。二年前の全米オープンでは、世界ランク1位のジョコビッチを倒し、錦織選手が世界トップレベルの選手であることを証明した。

しかし錦織選手は「世界トップレベル」であり、「世界トップ」ではない。現在も日本ではジョコビッチ戦を前に大いに盛り上がっているが、世界的に見ればジョコビッチの脇役でしかない。錦織選手が主役になるためにはジョコビッチを倒すことが不可欠なのである。2年前の全米ではジョコビッチを倒したが、決勝戦で負けてしまい、4大大会初制覇を逃した。今回こそはジョコビッチを倒し、決勝で勝ち、優勝を勝ち取ってほしい。日本人としてのひいき目もあるだろうが、多くの日本人は錦織選手は世界のトップ、すなわち1位に立てる力を持っていると信じている。

錦織選手を信じて応援しているからこそ、「トップレベル」では喜べない。4大大会制覇、そして世界ランク1位が錦織選手の到達点であり、また新たな出発点となるであろう。

26日の夕方に(日本時間)に錦織選手とジョコビッチ選手の対戦がある。我々には応援して信じるくらいしかできないが、地球の南半球にいる錦織選手から力をもらって、我々も自分の取り組んでいる分野で活躍できるように頑張りたい。

このブログは2ちゃんねるじゃない。それから僕は荻上チキのような社会評論家が大嫌いだ。

先日、驚くべきコメントが来た。何に驚いたかというと、そのコメントの文章の言葉使いだ。具体的には、

「~~~なんじゃないかにゃ?m(ΦωΦ)/」

「~~~したからぢゃにゃくって♪」

「~~~あったんぢゃにゃいかにゃ?」

このコメントのどこに驚いたか、説明するまでもないだろう。このコメント作者に言いたい。「このブログは2ちゃんねるじゃない!」

内容が合っている間違っている以前の問題として、人間性が問われるのではないか?そして僕のブログのタイトルを見てもわかるように、僕は本名・素性を明かしている。なぜ明かしているかというと、自分のコメントしたことに責任を持つことと、扱っている事柄に真正面からぶつかるためだ。もちろん僕の書いた内容に間違いがあるかもしれないし、不完全であるかもしれない。そういうことにはできるだけ気を付けているつもりではあるが。

以前コメントいただいた方は、自分を明かし、丁寧なメールだったので、こちらからも懇切丁寧に返信のメールを出さしていただいた。もちろんネットの一番の特性は匿名性にある以上、匿名で書き込む方がむしろ常識なのかもしれない。しかし匿名でいい加減な言葉使いで(ネット言葉?)いい加減な書き込みをしたければ、2ちゃんねるでしたいだけすればいい。少なくとも僕はそんないい加減にブログを執筆しているつもりはない。たしかにたいしたことを書いているわけではないが。

そしてついでに言うと、僕は荻上チキのような社会評論家が大嫌いだ。彼のようにペンネーム、すなわち本名を明かさずに社会世論を転がして面白がり、本名を明かしてまともに議論しようとしている人を批判するのは、あまりにも不誠実だ。もしメディアなどで正面から論戦したければ、まず本名を名乗るのが先だろう。自分を明かさない時点で責任を認めずすでに逃げ腰であり、彼と議論する価値はない。

 

中国の術中にはまった韓国

最近、韓国外交があらゆる側面で行き詰っている。中国傾斜でアメリカとの関係が悪化したうえ、北朝鮮の核実験の際には中国は韓国と何の策も取らず、韓国を見捨てた形だ。それを受けて国内各紙は朴クネ大統領の親中政策に対して批判の嵐が吹いているという。

韓国の現状はまさしく中国の術中にはまったとしか言いようがない。中国がこれをはじめから目論んでいたとすれば、中国の戦略はしたたかだ。

数か月前、韓国の外交官は、「中国からもアメリカからもラブコールを受けるのは祝福すべきことだ」と言い放った。しかしその数か月後の現在、韓国は中国からもアメリカからも見捨てられる形になった。

そして経済面では約一年前に韓国側から一方的に破棄してきた日韓通貨スワップを、今になって再開してくれと懇願してきている。もともと日韓通貨スワップは、韓国経済が危機的状態に陥った時に日本が助けると意味合いが深く、韓国に大きなメリットがあっても日本には何のメリットもないシステムだった。それを日韓関係悪化を理由に(もちろん韓国はこんな理由だと言っていないが、これは明らかだ)、一方的に破棄を行い、この一年間で韓国経済が急激に悪化したのを受けて今度は一方的にスワップ締結を懇願してきた。韓国にとっては何とも都合のいい話である。安倍総理はどういう判断を下すかわからないが、多くの日本人のはらわたは煮えくり返っているのではないかと思う。

おそらく人の良い安倍首相は韓国を助けようとするであろう。そして冷静に日本の国益を考えれば、その安倍首相の判断は正しいのかもしれない。しかし日本国民の感情として、もうこれ以上韓国とはまともに付き合えないというのが本音ではなかろうか。安倍首相が韓国を助けようとしても、日本の世論がそれを許すかどうか。とは言え、朴クネ大統領の任期も少なくなってきた。次期大統領になれば今までしてきたことに対して何食わぬ顔でまた反日、あるいは今韓国世論で言われている「用日」を掲げて日本に対峙してくるだろう。しかし同じことがまた同じように通じるかどうか、常識ある知識人なら考えるまでもなくわかるであろう。

プロテニスプレーヤーの40%が1ポンドも稼げていない。「プロ」に対する僕の持論

プロテニスプレーヤーの約40パーセントが、1ポンド(167円)も稼げていないらしい。それに対して現在世界ランク7位の錦織圭選手は年間23億円稼げており、錦織選手は非常に恵まれているという声がある。さらに言うと、フェデラーは18年間で115億円稼いでいるという。野球に目を移すと、最近のメジャーリーグ選手の年棒の異常な高騰に賛否両論がある。

これらの状況について僕の結論を先に言うと、これらのプロスポーツ選手の現状に賛同する。

プロスポーツ選手は会社員・サラリーマンではない。彼らは「プロ」なのである。プロであるからには、結果を出してナンボ、結果を出さなければ何のリターンもないのは当然である。そういう意味では非常に高リスクな道を歩いている人たちである。そして高リスクである彼ら・彼女らには、結果を出せば莫大なリターンを得るのも当然である。正直言って、世界ランク何百位というプロテニスプレーヤーに対して、プロとしての価値はほとんどないのである。確かに世界で何百位と言うのは非常にレベルの高いプレーヤーだ。しかしこれは一般アマチュアから見た目であって、プロの世界では彼らの上には何百人ものプレーヤーが存在するのである。

サラリーマンと「プロ」を同じ目で見てはいけない。「プロ」に対していくつかの定義がある。もちろん社会的な定義としては、プロテストに合格して、その競技で飯を食っている人たちと言える。しかし僕はプロとは「プロ意識」を持っていることが必須だと思う。プロたちは高リスクを覚悟の上でその世界に飛び込んでいる。最近、プロテニスの下部のプレーヤーの賞金を上げようという話があるらしいが、プロの世界に何百位というプレーヤーの存続にほとんど意味はない。僕の持論として、プロとは常に世界トップを目指す人たちであるべきである。初めから100位を目指しているプロなんて存在しなくていい。100位を目指して、金もそこそこくれなどと言うのは勘違いも甚だしい。しかし世界でトップのプレーヤーには莫大な賞金(成功報酬)を与えられるべきである。であるから、錦織選手が23億円稼ぐのも、フェデラーが115億稼ぐのも当然のことなのである。なぜなら彼らは「世界トップ」の選手なのだから。

プロはスポーツだけとは限らない。学問の世界でも同じだと思っている。数学のプロならば世界から注目を浴びるレベルの成果をあげなければならないと思っている。そしてそれだけの成果をあげた数学者はトッププロテニスプレーヤーと同じくらいの報酬を与えるべきだ。

ところが現状は、既存の結果にちまちまと継ぎ足して論文を量産している学者があまりにも多い。言うならば、「サラリーマン学者」とでも言うべきであろうか。もちろん彼らの多くは大学などの教育機関で教育に従事している。報酬はそれらの教育に対する対価と見るべきではないかと思う。

最後に僕自身のことであるが、僕自身は研究で稼いである金額はゼロである。しかしそれは当然のことだと思っている。まだ結果を出していないのだから。かと言ってサラリーマン学者を目指そうとは思っていない。なぜならば、僕は数理物理に対して「プロ意識」を持っているから。今は報酬などゼロでいい。しかし大きな結果を出すことに成功した暁には高リターンを求める。プロとはそういう世界だと思っているから。

ソマリア海賊がマグロ漁師に

面白い記事を見た。

アフリカ北東部、ソマリア周辺では、各国の船舶はソマリア海賊に悩まされてきた。その対処策として各国は艦隊などを派遣して海賊を撃退すると同時に、航行船舶の護衛に努めてきた。日本でも数年前に海賊対策のための自衛隊による船舶護衛の法案が可決したような記憶がある。ところが記事によると、ここ三年ほどは海賊が激減して、派生件数はほぼゼロなのだそうだ。

では海賊をやめた元海賊は現在何をしているのか?マグロ漁師になっているという。しかもその仕掛け人は、日本のすしざんまいの木村社長だそうだ。

もちろん海賊が激減したのは、国連やNATOをはじめとする各国艦隊であることは言うまでもない。しかし他に職がなければ海賊たちは隙を見てまた戻ってくることは想像に難くない。そこでそれらの元海賊の受け皿として、すしざんまいの木村社長は彼らにマグロ漁師への道しるべを付けたというのだ。

この木村社長の活動は非常に本質を突いたものだ。各国が力にものを言わせて攻撃しても、もぐらたたき状態になるのは目に見えている。各国艦隊に追われたソマリア海賊を、木村社長はうまく支援したのだ。

各国艦隊と木村社長、どちらがなくても上手くいかない。両者の働きが非常に上手くかみ合ったのだ。とは言え、艦隊で撃退することは誰でも思いつく。しかし受け皿としてマグロ漁師に仕立て上げる、これは木村社長の非常に機転の利いた発想だ。もちろん木村社長はビジネスで動いたのであろう。しかしそのビジネスが国際貢献に非常に寄与することとなったのである。

木村社長は現地アフリカの政府から勲章をいただいたという。この勲章は木村社長の国際貢献の賜物だ。

大学院卒(修士・博士)は頭が凝り方寄っているって?学部卒は頭が柔軟?

大学院卒よりも学部卒の学生が欲しいという企業が多いという記事を見た。その理由は、大学院卒は専門で頭が凝り方寄っており、学部生の方が頭が柔軟だということらしい。まぁ、こんな意見は昔からあったことであって、いま聞いたからと言って何も驚くことはないが。

しかし大学院生の方が頭が凝り方寄っているという意見にはどうも納得いかない。確かに学部生より大学院生の方がはるかに専門的な事に取り組んでいることであろう。しかし専門的な事に取り組んでいれば頭は固いというという理屈はどこから来るのであろう。

確かに頭が凝り方寄っている大学院生は少なからずいる。しかしそのような頭の凝り方寄った大学院生などは大学院での研究でもしっかりした成果は出せないであろうし、学部生でも頭の凝り方寄った学生は少なくない。

逆に言えば、成果の出している大学院生は、非常に柔軟な頭を持っているといえる。頭が柔軟でないと研究を遂行することはできない。

とは言え、大学院生は専門性にこだわっているという面は確かにあるかもしれない。しかしこだわりと頭の固さは全然別次元の話だ。

僕が見た記事に載っている企業の仕事は、おそらく誰でもできる仕事が多い企業なのだろう。それならばわざわざ大学院生を取らなくても学部生を取った方が経済的だし、年齢も若い。しかし専門的な研究を追求しようとする大学院生の専門性は他の分野でも大いに役立つものだし、大学院で本気で研究しようとした大学院生の専門性と情熱は何物にも代えがたい。もちろん単に就職状況だけを考えて大学院に進学するような学生は話にならないが。記事に載っていた大学院生の話は後者のことだろうか。それならば前者の研究熱心な真面目な大学院生にはとんだ災難なはなしである。

なぜ努力すべきなのか?

なぜ努力すべきなのか?その答えに回答できる権利があるほど僕は努力をしていない。努力をしようと思っても、なかなか努力が続かない。しかし努力しようという気持ちは常に持ち続けているし、自分のできる限りの努力はしているつもりだ。

努力したからと言って、必ず成功するとは限らない。努力が報われるとは限らない。しかしそれは努力をしないことの理由にはならない。どうしても努力をしたくない人、常に楽して生きようと考えている人に対して努力を強制しようとは思わない。まあ、そういう生き方もあるのだなと思っている。

しかし僕は努力をしたいのだ。非常に努力をしたいのだ。しかし努力をしたくてもできない時がしばしばある。そういう時には非常に悔しいし、ふがいない自分が情けない。

もちろん努力する理由は、自分の目標としていることを達成するため、そして自分が目標としている人間になるためである。

繰り返し言うが、努力したからと言って必ず成功するとは限らない。しかしその逆、つまり成功した人は絶対に努力した人だと思っている。もちろん例外もいるだろうが、そんな努力をしないで成功した人のような例外を見て、どうこうしようとは思わない。

努力というものは苦しいものと思っている人が多いかもしれない。確かにほぼ例外なく苦しい。しかし努力は苦しいだけではない。努力にやりがいを感じたり、達成感を感じたり、喜びを感じたりすることもしばしばあるのだ。だから努力にはまればやめられないのである。

しかし何の分野にしてもプロとしてやっていくためには結果を出さなければいけない。プロの世界は結果が100%なのだ。結果を出した人に対して努力が評価される。結果を出していない人の努力など、プロの世界では何の評価もされないのだ。

しかし努力をする価値は非常に大きい。一人でも多くの人たちに努力の快感を味わってほしい。努力は絶対にするに値するものだ。

初めはみんな初心者だ。スキーバス事故で

ここ数日、長野でのスキーバス事故のニュースが大きく扱われている。最近この事故について様々なことが明らかになり、ずさんな管理体制が浮き彫りになってきた。

その中の一つに、今回のバスを運転していた運転手が大型バスの運転に関して初心者だったということが問題になっている。確かに初心者と聞けば不安になるのも仕方がない。しかしどんなベテランの運転手も初めはみんな初心者だ。僕も免許を取ってかなりなるが、免許取りたての頃に初心者だからと言って運転させてもらえなかったことは一度もない。今回のバスの運転手は中型バスメインの運転手で、大型バスの経験は少なかったという。しかし経験を付けるには実際に運転するしか方法がない。初心者だから運転禁止と言えば、この国から大型バスの運転手はいなくなる。

今回の事故はいろいろな要因はあるもの、運転手が初心者だったという点に限っては不運だったとしか言いようがない。このことを過剰に反応すればますます運転者不足に拍車がかかり、さらに危険な状況が増していく。

今回の事故原因は複合的なもので、これから一つ一つ解決しいかなければいけないが、運転手の経験に関しては過剰に問題視するのはやめてほしいものだ。

僕が現在取り組んでいる研究(勉強?)の報告

「ブレークスルーを作り出せ!」僕が15年ほど前に読んだ本に書いてあった、2014年ノーベル賞物理学者・中村修二博士の言葉だ。中村博士と言えば、青色発光ダイオードの研究で量産化に成功し、裁判では中村博士に対する発明対価は600億円というとてつもない判決を勝ち取った男だ。

研究と言ってもさまざまである。大きいものから小さいもの、基礎から応用、そして物理・化学・数学のような様々な分野がある。僕は物理・数学関係の基礎理論に興味がある。実用的なものにはあまり興味はない。こう言うとヘンコツとでも言われそうだが、数学を研究している人に実用を視野に入れている人はほとんどいない。

数学的な物理ということでしばしば「数理物理」と言われるが、この数理物理学という言葉が僕は大好きなのである。数理物理学とは分野の名前というより手法の名前であり、同じ数理物理研究者同士でも全く違う研究をしている人も多い。

現在取り組んでいる武器に「リッチフロー」というものがある。時間と空間の曲率の変化を表す方程式である。リッチフローはポアンカレ予想の解決時に大きく活躍した。多くの数学者が位相幾何学で解決しようというところに、ペレルマンはリッチフローという微分幾何学の手法で解決させ数学界を驚かせた。

そしてもう一つの武器として情報理論、特に「エンタングルメントエントロピー」という概念を習得しようとしている。これは時間の概念を理論的に明らかにするために有用だと僕は考えている。

おおざっぱに言えば、僕は幾何学の人間だ。しかし現在は分野の境界もあいまいになり、多くの研究者は幅広く深い理論を駆使して研究を行っている。

最近、世界の大学ランキングなどという非常にくだらないものが出回っており、そのランキングでは東大・京大という日本の大学のランキングは非常に低い。しかし数学・物理に限ると、東大・京大共に10位以内には確実に入ると言われている。さらに最近は名古屋大学からノーベル賞学者が何人も出ているのは有名な話だ。しかしはっきり言うと、大学名とノーベル賞は関係ないものと僕は思っている。東大に行ったからと言って、本来取れない人が取れるようになるわけでもない。

さあ、僕もナンバー1を目指して頑張るとするか。

1.17 歴史的記憶へと移りゆく阪神・淡路大震災

今日2016年1月17日は阪神・淡路大震災が起きてからちょうど21年目にあたる。毎年この日には大震災関連のイベントが行われるが、年々その扱いは小さくなってきているように思う。もちろんその一番の原因は、5年前に起きた東日本大震災という未曽有の大災害が起きたことであることは言うまでもないが、それと同時に21年という月日が阪神・淡路大震災を歴史へと追いやったことも一因かもしれない。しかしこれは、阪神・淡路大震災は「歴史」の一部となるほどの大災害であったことを物語っている。

今の十代の日本人はすでに誰一人として阪神・淡路大震災を体験していない。何とも不思議な感覚である。21年前の大震災がついこの間の出来事のように思えるのだが。もちろん阪神・淡路より東日本の方が時間的に近いし、災害規模も桁違い、それに加えて震災に誘発されて起きた福島第一原発事故問題は現在も進行形である。

僕は神戸の実家のベットの中で大震災を体験した。あの日のことを鮮明に覚えている。そういえば昨日・今日(16日・17日)は、大学入試センター試験が行われている。大震災の時、僕はセンター試験が終わり、一息ついたところだった。センターが終わり、二次試験に向けて頑張るぞ!という時に震災は起きた。

大学受験に向かう道程で、電車が寸断された区間は歩いて次の駅を目指した。途中、焼け野原になった須磨区と長田区の境目あたりは、木の板が立てられ、その板にはそこにあったであろう家の住民の安否が書かれてあった。三宮では代替バスに乗るため、おそらく千人以上であろう人たちが数時間も並んでバスを待っていた。そして代替バスは倒れた高速道路のすぐ下の道を、渋滞でのろのろと走っていた。

今、日本は大災害時代に入ったと言われている。東日本大震災は桁違いとしても、土砂災害・洪水災害・地震災害・火山噴火災害と次々と災害が起きている。そして「想定外」を想定することが当たり前になってきた。もちろん想定外を認識するきっかけになったのは東日本大震災だ。

今年はまだ17日しかたっていない。あと348日残っている。この348日を日本人は無事切り抜けられるか、その保証はもちろんない。世界ではISの地獄の嵐が吹いている。この国外からの脅威と、国内の災害、今年の日本はこの外に対する目と内に対する目を気にしながら対処していかなければならない。

なぜフリージャーナリストは危険地帯に赴くのか

フリージャーナリストの後藤健二さんがISに拉致・殺害されて1年が経つ。後藤さんのようなフリージャーナリストが犠牲になった後も、危険地帯に自ら赴くフリージャーナリストは後を絶たない。それに対して日本国内でも批判の声は大きい。たしかにその批判はわからなくもない。もしフリージャーナリストが拉致でもされれば、日本国首相や政府をはじめ、救出のために多くの人が動かざる負えなくなる。それだけではない。身代金も何十億という桁違いの金額だ。

しかしフリージャーナリストは日本人にとってはた迷惑な存在なのだろうか?フリージャーナリストの意義を考えるときに、テレビ・新聞社などの組織ジャーナリストとの対比抜きには語れない。このフリージャーナリストと組織ジャーナリストはお互い補完し合う存在なのだ。例えばフリージャーナリストにオバマ大統領などの指導者を取材することはほぼ不可能だ。オバマ氏を取材するには組織ジャーナリストの力が不可欠だ。

では組織ジャーナリストが万能かというとそうではない。組織ジャーナリストにはできなくて、フリージャーナリストにしかできないことがあるのだ。その典型が後藤健二さんであった。

組織ジャーナリストには組織の責任が伴う。そのため、シリアなどの超危険地帯には組織ジャーナリストは踏み込めないのである。そこで活躍するのがフリージャーナリストなのである。フリージャーナリストは小回りが利く上に、自己の責任の上で取材を進める。戦場の最前線、そして現地の社会を取材するにはフリージャーナリストの存在は欠かせないのである。そういう意味で組織ジャーナリストとフリージャーナリストは補完し合う関係なのである。

とは言え、日本人の中には、そんな危険な所のニュースなど関係ないよ、という人は多いかもしれない。しかし現地の生の情報がなければ、そのことを議論しても空論で終わってしまう。ドラマ・映画の「踊る大捜査線」風に言うと、「戦争は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」ということなのである。その現場の真の姿を伝えてくれるのがフリージャーナリストなのである。

確かにフリージャーナリストの危険に対する対価は大きい。しかしフリージャーナリストの情報は、現代社会を生きる我々には不可欠なのである。その情報を得るため、フリージャーナリストは命をかけて日々行動している。

北朝鮮の日本人拉致問題と、南北が主張する慰安婦問題の違いは何か

先月、韓国の慰安婦問題に対して日韓合意がなされた。南北朝鮮では慰安婦問題を日本に対する南北共闘と位置付けており、現在まで慰安婦問題に対する保証と謝罪を迫ってきた。そして日本は北朝鮮に対して日本人拉致問題の解決を迫っている。一方は南北朝鮮から日本に突きつける問題として、もう一方は日本から北朝鮮に突き付ける問題として、現在まで様々なこじれを生んできた。

しかしこの両者には決定的な違いがある。慰安婦問題が第二次世界大戦中に起きた問題であるのに対し、拉致問題は現在進行形の問題である。したがって両者には質的な違いがあるのだ。日本が拉致問題解決に対して時間的に差し迫っているのはこの問題が現在進行形だからである。今現在起きている問題なのである。これは逆に言うと、拉致被害者が全員帰還できると完全解決になる。おそらく日本は北朝鮮に対して金銭的な保障などは求めないだろう。

しかし南北朝鮮にとって慰安婦問題は外交カードである。そしておそらくこのカードは100年後も切ってくるであろう。したがって日本がどれだけ保障しようと、南北朝鮮は繰り返しカードを切ってきて、その度に保障と謝罪を求めてくるだろう。

元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏は、慰安婦問題は再びぶり返してくるだろうと述べている。その理由は単純で、相手が韓国だからである。これは非常に単純明白な話であるが、一方慰安婦問題の一番の本質をついているとも言える。

おそらく韓国大統領が交代する数年後、また慰安婦問題はぶり返すであろう。三度目になると、さすがの日本もこの相手には論理も何も通じないことに気付く。しかし今回の日韓合意は世界が注目し、コメントを寄せている。また問題をぶり返せば、さすがの世界も韓国がならずもの国家であることに気付くであろう。

とは言え、慰安婦問題はデリケートな女性の問題であり、現在の強いフェミニスト指向な世の中では、無条件に慰安婦問題を過剰に擁護する勢力がいることは確かだ。フェミニストには慰安婦問題がどれだけ本当であり、どれだけウソであるかなどは関係ない。とにかく慰安婦問題を非難のきっかけにしたいのである。しかしまたそんな状況が訪れた時には、日本の指導者たちは一歩も引く姿勢を見せず、かつ世界を上手く納得させなければならない。たしかにこのことを示すには指導者の高い手腕が問われることであるが。

安倍首相、かみ合わない国会答弁

最近、安倍首相の国会での発言に対して疑問視する声が多い。僕自身、これまで安倍首相を支持し、個人的には応援してきたが、このような発言をされると安倍首相の現状認識に対して疑問を抱かざる負えない。

一つ目は女性のバートに対する発言。これは就業者一人当たりの収入が下がっているという議題。世帯主が50万円稼いでいたところに主婦がパートで25万円稼げば、就業者一人当たりの収入は50万から37万5千円に下がる。すなわち就業者一人当たりの収入が減ったのは就業者が増えたからであって、総額で言えば増えている、というものだ。

ここで野党は「パートで25万円も稼げるなんてありえない。総理はどういう感覚をしているのか?」と突っ込んだ。この突っ込みは議題のすり替えともとれるが、重要な疑念である。首相が政策をリードする以上、一般市民の感覚を的確につかむことは非常に重要だ。パートをすれば25万円稼げる、このような認識は確実に浮世離れしている。このような認識で実態に沿った政策を打てるかというと疑問に思わざる負えない。

そして二つ目は、保育園待機児童が増えたことに関して首相が「女性の就業者が増えたことによる減少で、これはうれしい嘆きだ」と発言したことに対してだ。これに対して野党側は「女性の就業者の増加の主な理由は65歳以上の女性によるもので、20代~35歳の女性に対しては逆に20%以上減少している」と突っ込んだ。この野党議員の主張が本当ならば、首相の発言は勘違いが甚だしい。首相は「そのような突っ込みは枝葉末節的な事だ」と反論したが、この問題は枝葉末節どころか問題の本質である。若者女性の就業者が減少して、さらに待機児童が増加しているとなれば、状況は非常に悪化しているということになる。

さらに首相は女性就業者が増えたことに対して「景気が良くなって賃金が上がったので、働こうという女性が増えた」と発言している。これには僕も怒り心頭になった。働くのは家計が苦しいからで、余裕があれば、働こうという主婦は少ないはずだ。

本当に安倍首相の市民感覚はどこまでずれているのであろうか。この様な感覚で政策の実行を続けていると、行く末が不安になるばかりである。政治エリート一家に生まれた安倍首相と、森永製菓社長令嬢の昭恵夫人には、一般市民の感覚が伝わらないのも無理のない話かもしれないが・・・

これはもう、公権力による犯罪だ!鹿児島強姦冤罪事件

報道ステーションで、鹿児島で起きた17歳の少女に対する強姦事件で捕まった、20代前半の若者に対する判決で、冤罪が認められ無罪となったニュースが流れた。ここ数年、DNA判定などで袴田事件をはじめとする冤罪が発覚することが珍しくなくなった。しかし今回の鹿児島の強姦冤罪事件は、そのDNA判定を逆手に取った、警察・検察側による非常に卑劣な捜査による冤罪であった、

この事件では、初めにDNA鑑定によって元被告が犯人だと裏付けられ、懲役の実刑判決を受けた。もちろん少女に強姦を犯した犯人は非常に卑劣であり、法の裁きを受けるのは当然だ。しかし警察・検察の取り調べを進めるうちにこの事件の捜査は狂っていく。唾液のDNA判定では、被告と違う結果が出たにもかかわらずその事実を隠し、後に検査とはとても言えないずさんな判定で唾液のDANは元被告のものと断定される。精液のDNA判定では、微量であり判定不能であると主張された。

ところが後に弁護側が行った大学の権威によるDNA判定では、検察側が判定不能と主張した精液検査があっさりと成功したのである。しかも驚くことに、その結果は元被告のものではないという結果であった。

警察・検察側は、自分たちの描いたストーリーに合うように都合よく偽装していたのである。これはもう誤捜査というレベルではなく、公権力による犯罪行為だ。無実の人間が突然犯罪者に仕立て上げられる、これはある意味、犯罪に遭うよりも恐ろしいことである。この様なことが起こる社会はとても法治国家とは言えない。しかも検察側は、今回の無罪判決に対して「遺憾である」とコメントしている。とてもじゃないが、検察がそのようなコメントを残すような立場ではなく、検察側が裁かれるべき事態である。検察側の罪が問われないことの方が「遺憾」である。

DNA判定の精度は数兆分の一と言われている。しかし報ステの解説者が発言していたように、精度がこれ以上上がっても、そんなものは意味がない。検察が偽証すれば精度などは何の意味を持たなくなる。もちろん検察側もミスをすることもあるだろう。しかし今回のように意図的に自分たちの都合のいいように偽証し、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるようなことは完全に検察による犯罪行為であり、検察が裁かれなければならない。

依存症の怖さを知らない日本人が多すぎる

ある記事で、依存症の怖さを指摘しているものを見て、いろいろ考えるところがあった。

ここ十年程であろうか、日本でも依存症の害悪を広く指摘され始め、依存症からの脱却をサポートする施設もできてきだした。

依存症と言っても、様々なものがある。アルコール依存・タバコ依存・ギャンブル依存、さらには最近はネット依存なども注目浴びている。これらの依存症に一番怖いところは、自然治癒がほぼ不可能だということだ。依存に無意識でいると、必ず依存はエスカレートする。しかも重症になるのに時間はかからない。

「無意識に」と書いたが、意識したところで必ず治るという保証はない。日本では依存症になるのは意志が弱いからだとよく言われる。依存症に対してそれほど軽い認識しかないのだ。しかし(記事で書いていたことであるが)高血圧だという診断が出たら多くの人が真っ先に治療に取り組むだろう。しかし依存症だという診断が出て真っ先に治療に取り組む人は非常に少ない。高血圧から脳卒中などの重大病になる人はほぼ1割くらいだという。それに比べて、依存症から重大病につながる人ははるかに多い。しかし「依存症」という名前からの印象か、意志が弱い人がなるものだという意識しかない。

しかしアメリカでは依存症は立派な病気とみなされ、依存症患者に対する治療を行う施設も非常に充実しているらしい。

そして一番の問題は、依存症への認識の軽さのせいか、テレビでは酒・たばこ・パチンコのCMがバンバン流され、少し歩けば24時間営業のコンビニでお酒が買える。言わば日本は依存症に落ちるための環境がこれでもかというくらい整っているのである。この様な国は世界でも日本だけである。

これに関連して僕が思っている疑問の一つにカジノがある。これだけギャンブルが問題になり、現行法ではギャンブルは限りなくクロに近いグレーであるにも関わらず、経済活性化を主張し大型ギャンブル施設であるカジノを建設しようとしている。全く理解不能である。

僕自身はアルコールは適度に飲むが、タバコ・ギャンブルは全くしない。二日続けて缶ビールを飲むと、三日目もビールが欲しくなる。その時に依存症の怖さを実感する。アルコールを完全に断つわけではないが、非常に意識して制御している。

アルコールも飲まなければ飲まないに越したことはない。もし仮に軽い依存症かなと思った時には、「たかが依存症」と思わずに、「病気である」と思い、医者にかかる方がいいかもしれない。医者に気軽にかかれる環境を作るためにも、依存症が「病気」であるという認識を国民全体で持たなければならない。

危ない、宗教に対する盲目

フィリピンで行われたキリスト教カトリック教徒の祭りで、大量に信者が押し寄せ、死者が出たという。そこまで信者が押し寄せた原因は、奇跡を起こすと信じられている黒いキリスト像が原因らしい。おそらく想像するには、黒いキリスト像に奇跡を求めて、信者が盲目状態になったものと考えられる。

宗教はしばしば人間を盲目にさせる。普段は論理的に考える人間でも、いったん盲目になると理性を失う。過去には盲目になった信者が起こした社会問題が無数に存在する。

近代日本で一番問題になった宗教問題は間違いなくオウム真理教事件であろう。オウムの幹部信者の中には、東大理系卒の学歴エリートが何人もいたという。もちろん東大卒の人間が全て理性的に物事を判断できる人間ばかりではない。しかしそのような、まともで高度な教育を受けてきたエリートが、何人も麻原のとりこになり、盲目に殺人行為に手を染めていった。このことに対して、これはオウムが特殊だったという人がいるかもしれないが、このことはオウムに限らずあらゆる宗教でみられる現象だ。現在まっとうな宗教と見られているキリスト教でさえ、昔は魔女裁判などで虐殺を行い、科学的主張をした科学者ガリレオ・ガリレイは宗教裁判にかけられた。

宗教に対して一番大切なのは、宗教に対する距離の置き方だ。宗教に対して全てをゆだねると、考えることを放棄してしまう。これはプチ・オウム状態とも言える。しかし宗教は多くの人にとって生きていくうえで必要なものだ。宗教が心の支えになっている人も多いだろう。しかし宗教に対する距離感を間違えると、人生の破滅につながることも多々ある。

僕が言いたいのは宗教に対する批判ではない。問題は宗教を信じる人間の方にある。どんな時も相手に丸投げせずに、考えることを放棄せずに、常に自分の頭で考えることを心がけることが大事なのである。

IS空爆、難民、テロの悪循環

現在のシリア難民の現状を、9日のテレビ番組「報道特集」を観て知った。シリア難民は、国内の悲惨な現状・ISの悲惨な支配から逃れて、ヨーロッパを目指して難民になっていると思っていた。しかしシリア難民が逃れる一番の原因を聞いて衝撃を受けた。ISが一番の原因ではないのだ。一番の原因は「ヨーロッパによる空爆」なのだ。フランスやロシアの空爆によって住処を壊滅され、難民となるしかないのだ。これを聞くとまさしく、ヨーロッパは空爆によって自分で自分の首を絞めているようなものだと感じる。

そういえば少し前、ヨーロッパの空爆によって死亡したイスラム人は数千人に上るというニュースを聞いた。その中にはIS構成員以外の多くの住民も含まれていると思われる。この犠牲者の数は、パリでのテロによる死者数をはるかに上回る。イスラムの人にすれば、ヨーロッパが空爆というテロを仕掛けているととらえるのもしかたない。

パリでのテロの前後、レバノンでもISによる大規模なテロが起きている。死者数も数十人にのぼる。しかしこちらのテロに関しては世界でほとんどニュースになっていない。「忘れ去られたテロ」と言われているという。人種差別をなくそうという動きが起きて数十年にもなるが、やはり現在でも潜在意識の中では人種・民族差別の意識は根強く残っているのかもしれない。あるいは先進国至上主義とでもいうのであろうか、発展途上国ではテロが起きても仕方がないという意識があるのだろうか。

当たり前の話ではあるが、ヨーロッパ人の命もイスラム人の命も重さは同じだ。少なくとも建前は。しかしこのようなテロが起きた時には本音が出てしまうのかもしれない。

日本人は建前と本音を器用に使い分けると世界で評判だ。確かにそうかもしれない。しかし欧米人は全て本音なのだろうか。人類皆平等と掲げながら、緊急時には白人の命とイスラム人の命を差別する。もちろん自国の国民を優先して助けるのは当たり前なのかもしれない。しかし頻繁に思うことだが、テロが起きた時の欧米人の発言・哀悼、どこか建前を表しているように思えてならない。パリの犠牲者を哀悼するなら、なぜレバノンの犠牲者も哀悼しない?もちろんフランス市民が自国で起きたテロの犠牲者を一番に哀悼するのはわかる。しかしアメリカ人も、そして何を言おう日本人までパリのテロ一辺倒でレバノンのテロ、空爆の犠牲者のことなど話題にもならない。

ISに発する世界の混乱は、欧米の心の奥底にある差別的感情が大きな原因であるような気がしてならない。そして地理的に離れているので欧米ほど影響はないかもしれないが、日本人の心も例外ではない。どこかイスラム人を見下しているような気がしてならない。もちろんISを許すことはできない。しかしそこでISに報復する前に、自分たちの心の底にあるものを冷静に顧みる必要があるのではないかと思う。

ヒトラー「わが闘争」、ドイツで再出版される

戦前、ナチスドイツ時代にナチス総統ヒトラーが著した「わが闘争」が、昨年末に著作権が切れ、再出版されることになったようだ。戦後ドイツでは、ナチスを連想するものは表現が禁止され、もちろん「わが闘争」も禁書になっていた。今回の再出版はヒトラーの思想書というよりも、かなり大幅に注釈をつけた歴史的資料という位置づけだ。

「わが闘争」の日本語訳は、以前から日本の出版社から文庫本で出ている。少し大きな書店に行くと、注意深く探せば見つけられることであろう。この「わが闘争」、ドイツの国内事情を考えると禁書になるのは致し方ないが、歴史資料としては非常に貴重な書物だ。「わが闘争」は戦前、何か国語にも訳され、世界で約1200万部売れたそうだ。

しかしこの「わが闘争」といい、ヒトラーが国民を惹きつける表現力は桁違いだ。現在で言うと、アメリカの大統領選候補を争っているトランプ氏に通ずるところがあるのではないかと思っている。移民排除、イスラム弾圧など、ヒトラーとは確かに桁が違うが、根が似たところがあるのではないかと思ってしまう。もちろんトランプ氏はそこまで極悪非道だとは信じたくないが。

現在、フランスではパリのテロを受けて、国粋主義勢力の影響力が強くなっている。国外勢力による攻撃を受けて、自分たちに都合の悪い勢力を排除しようとしている。上に書いたアメリカのトランプ氏の思想もそうであるが。この様に他勢力の排除による国粋主義の台頭は、ナチスドイツ台頭の時に似通っている。まさか今の時代の欧米にナチスのような独裁国家が成立するとは思わないが、かなり気がかりなところである。

サウジアラビアによるイラン大使館空爆。「目には目を」少し勘違いしてはいないか?

現在、サウジアラビアとイランの対立が激化している。6日夜、サウジアラビア軍はイエメンにあるイランの大使館を空爆した。この空爆は、イランのサウジアラビア大使館が焼き打ちにあったことによる報復だ。サウジアラビアはイラン大使館の空爆に対して、「目には目を」と主張しているらしい。この主張は完全に間違っているわけではないが、この言葉の意味を少し勘違いしているのではないかと思う。

もともと、「目には目を、歯には歯を」という言葉は、やられたらやり返すという積極的な報復の意味ではなく、目をやられたら相手の目を傷つける以上の刑をしてはいけないという自制の念という意味合いが強い。言わば戒めの言葉なのである。ところが現在は、この言葉の意味を積極的な報復の意味としてとらえている人が多い。

日本の裁判では、一人の人間を殺した犯罪者に死刑を言い渡されることはほとんどない。ほとんどの場合は犯した罪よりも軽い量刑を言い渡される。そのような判決に不満を持つ国民は多いと思うが、このような量刑も本来の「目には目を」の原則に則ったものではないかと思う。

時の権力者は、犯罪者に対して犯した犯罪の大きさを大きく超える刑罰を与えてきた事例が非常に多い。目には目をは、そのような権力者に対しての戒めでもある。犯罪者の犯罪を大きく超える刑罰を与えることは感情的であり、思想の後進性を明白に示すものである。目には目をという言葉と対照的な言葉に「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」というものがある。この言葉に対しての是非は僕自身は何とも言えないが、思想の豊かさを発展させていくにはこのような言葉の意味を受け入れることが必要なのかもしれない。

オバマ氏の銃規制策は甘すぎる

オバマ氏は銃規制策として、銃販売者への免許の厳格化と購入者への身元調査の徹底化を打ち出し、大統領令を発令するという。しかしこの策、外国人の目から見ると非常に甘すぎるように見えるのではないか。

どんな住民であれ、一般住民が銃を所持できること自体が完全に間違っている。銃はナイフや他の凶器とは違って、人を殺傷すること以外の目的がない。すなわち人間殺傷専用機器なのである。もちろん殺傷能力もナイフの比ではない。またパリのテロのように大量殺りくも可能である。アメリカ人は銃を所持する「自由」を主張する。しかし治安の悪化を避けるためにはこのような自由は制限されるべきものである。

日本人から見れば、街に拳銃ショップがあるという事実だけでも衝撃的である。購入者の身元調査を徹底させるというが、当たり前のことだが初犯を犯す犯罪者に前歴はない。すなわち初犯で殺人を犯しても、初犯だから仕方ないとでも言いたげである。アメリカ人の銃に関する感覚は完全にマヒしている。これが世界一の大国の現状であることに衝撃を受ける。

そして「大統領令」を発令するというが、この大統領令に強制力はない。法律ではないからである。一刻も早く銃規制法案、いや銃廃止法案を成立しなければならない。もちろん全米ライフル協会のような圧力団体からの圧力は強烈であろう。オバマ氏はその圧力に屈したのであろうか。このような圧力に屈しないような強い大統領の出現を熱望する。

iPS細胞のもととなる細胞の作製に成功。iRS細胞とは?

京都大学再生医科学研究所のグループが、「再プログラム化中間細胞・iRS細胞」というものの作成に成功したというニュースが入ってきた。iRS細胞とはiPS細胞になる前の、iPS細胞のもととなる細胞だ。

iPS細胞は、山中ファクターと呼ばれる4つの遺伝子を細胞に注入し作成される。今回のiRS細胞は、その4つの山中ファクターを注入した後、その細胞がiPS細胞になりきる前の細胞のようだ。iPS細胞になる前の中間状態だから、中間細胞と呼ばれる。

このiRS細胞は、非常に扱いやすい性質を持つということで注目を浴びている。具体的には遺伝子操作がしやすい、そして非常に効率よくiPS細胞を作ることができるというものだ。

iPSとiRS、一文字違いで言葉は非常に判別しづらいが、iRS細胞はiPS細胞の赤ちゃんというところであろうか。

そしてこのiRS細胞の解析で非常に期待されているのが、(僕も個人的にかなり注目している)普通の細胞に山中ファクターを注入してiPS細胞ができるメカニズムの解明だ。現在、山中ファクターを注入するとiPS細胞ができる事がわかっているが、なぜその方法でiPS細胞ができるのか、その詳しい過程は現在でもわかっておらず、ブラックボックスとなっている。すなわち実験では知られているが、理論はわからないのである。

実用的には効率よくiPS細胞が作成できるようになるということで、iRS細胞によってiPS細胞による創薬、臓器作成などの治療などの臨床が早まることも期待できるのではないかと思う。

山中伸弥教授によると、iPS細胞の研究は日本の1勝9敗だという。しかし今回のiRS細胞の成功などのように、中核となる基礎研究では日本の底力を見せることができていると言えるのではないかと僕個人的には思っている。

これからのiPS細胞・iRS細胞の研究の発展、特に日本の研究グループの活躍に期待したい。

サウジアラビアとイランが対立、ISに漁夫の利を与えるな

先日、サウジアラビアがイランの聖職者数十人を処刑し、サウジアラビアがイランに断交を通告した。サウジアラビアとイランの対立、これはイスラム教の派閥、スンニ派とシーア派の対立であるが、この二国(二派)の対立で利を得ているのがISなどの過激派だ。

今、世界でISの猛威が吹き荒れており、世界は一枚岩になってISに対処しなければならない。そのようなときにイスラム教の二派による対立でアラブの大国二国がバラバラになれば、ISに対処するどころかISに付け入る隙を与えるだけだ。

少し前にはトルコ軍機によるロシア機撃墜によって、ヨーロッパの中でもIS対処に対する足並みが乱れつつあった。そこに今度はISの拠点アラブ内での足並みの乱れとくれば、IS対処どころか、IS外部での紛争にもなりかねない。

周辺国が乱れている間に、ISは一人勢力を強めていく。ISに向けられていた矛先が違う方に向いてしまう。今回のサウジアラビアとイランの間でどのような経緯があったのか僕には詳しいことはわからないが、ISに漁夫の利を与える事だけはしてはならない。

「役に立つかどうか」ということ以外の物差しを持つことの大切さ

物事が重要であるかどうかを判断するとき、多くの場合「役に立つかどうか」という物差しで判断されることがほとんどだ。しかし、「役に立つか」ということと「重要か」ということは同じではない。

20世紀初め、科学の世界で最も重要だと言われる理論が出された。「相対性理論」と「量子力学」だ。しかしこの二つの理論の科学的重要性は言うまでもなく大きいが、その一方全く役に立たないものであった。一般相対性理論などは理論から出る結論は従来のニュートンの重力理論とほとんど変わらず(しかし後にはブラックホールの存在など独自の結果を出していったが)「大山鳴動鼠一匹型の理論」とバカにする人もいたようだ。もちろん後談として、20世紀終わりには両理論とも社会に役立つ技術となり、特に量子力学に関しては社会の根幹に位置すると言っても過言ではないくらいである。しかし後に役に立ったからという理由から重要であると判断するのではなく、理論の科学的価値を判断して重要性を判断できるようにならなければいけない。

去年ノーベル賞を取られた物理学の梶田隆章さん、梶田さんの研究は「ニュートリノ振動の存在を確認することによって、ニュートリノに質量があることを示した」というものだ。この研究などは100年後にも社会に全く役に立たないに違いない。しかし非常に重要な結果である。その理由は二つある。一つは梶田さんの結果が従来の理論(素粒子標準模型)に反する結果であり、従来の理論を超える理論の存在を示唆するものであるということ、もう一つは素粒子物理学という分野が全ての科学理論の一番根本的な所に位置することである。

純粋科学というものは純文学に似ているのかもしれない。どちらも役に立つとは限らない(もちろん役に立つ科学もたくさんある)。しかしそれらの価値は役に立つかどうかというところから超えたところにある。そのような価値の重要性を見極めるためには真理を見極める目、そして感受性が必要だ。そのような真理を見極めるためには「役に立つか」ということ以外の物差しが必要なのである。

 

デザイナー・ベビー(遺伝子編集赤ちゃん)

とある記事で、胚(受精卵)の遺伝子を編集して、天才を生み出すことができるかという記事を見た。現在の生命科学技術では、遺伝子を編集するということは可能であるらしい。そこで遺伝子を編集して望みの赤ちゃん(デザイナー・ベビー)が作れるのか、という問いが生まれる。胚の遺伝子操作により希望の能力を持った赤ちゃんを作ろうということは倫理的には大問題であり、許され事ではないが、ここでは倫理的な問題は横に置いておこう。

そもそも遺伝子操作によって望みどおりの赤ちゃんを作るには、その望んでいる能力が高い遺伝性を持つことが要求される。天才の遺伝性は完全に否定することはできないが、完全に肯定することもできない。確かに天才から天才が生まれるとは限らない。アインシュタインの息子が天才だとは聞いたことがない。しかし数学の世界で有名な話に、ベルヌーイ一族という人たちがいる。「一族」と言われているように、それぞれ親子・兄弟である数人の家族である。ベルヌーイ一族の数学者・物理学者たちは、いずれも世界トップレベルの著名な学者である。このように天才の遺伝が濃く見られるケースもほとんど稀であるが見られることがある。

結論から言うと、デザイナー・ベビーによって天才を作ることはほとんど不可能だという。天才の原因となる遺伝子というものはない(少なくとも現在はそのようなものはないと考えられている)。そしてそのような能力は、遺伝子の複合的な相互作用、そして育った環境によって形成されるものと思われる。そのようになると現在の技術・知識では完全に不可能だ。

このデザイナー・ベビーという問題、人間の欲とは時には非常に恐ろしいものだと考えさせられる。

選挙のために政治はあるのか?

生活の党の小沢一郎氏は、野党大同団結を主張し、「数合わせの選挙で何が悪い」と叫んでいるらしい。確かにいくら綺麗ごとを言っても、選挙で数を集めないと実行したい政策も実行できない。選挙で数を取ることは、民主主義国家では非常に大事なことだ。小沢一郎氏の言うことはもっともである。しかし数を稼ぐための戦略を前面に出すのはどうかと思う。もちろん有権者もそれぞれの政党がどれだけ数を取るのか、非常に気になるところである。しかしそれも賛同できる政策ありきの話である。まともな政策を立てないで数合わせのために団結しても、おそらく有権者は振り向かないであろう。

一方、最近の自民党の政策も酷い面はいくつかある。高齢者への3万円ばら撒きなどはその最たる例であろう。票をお金で買おうという魂胆が見え見えである。しかもそのお金の出所は税金である。結局最終的に痛みをこうむるのは国民である。

選挙で数を稼ぐのは大いにかまわない。数を稼げるのはそれだけ支持されている証拠なのだから。しかし、数を稼ぐことを第一に掲げている小沢一郎氏たちを支持する人はなかなかいないのではないかと思う。数は目標であって、目的ではない。

あけまして おめでとうございます

皆様、新年あけましておめでとうございます。気持ちのいい新年を迎えることができましたでしょうか?

年末には、サイエンスの世界では新しい元素の存在が認められ、新元素の発見者として日本の理研が認められたというニュースが入ってきました。新しい元素は113番元素、この元素の命名権は発見者の理研が保持しており、「ジャポニウム」という名前を命名されるといわれております。ジャポニウムとはすなわちジャパン(日本)の元素ということです。ジャポニウムの命名は数十年前から日本の悲願であり、やっとその念願をかなえることができそうです。

113番元素の発見者をめぐっては、日本の理研とアメリカ・ロシアのグループが争っており、新元素の生成数はアメリカ・ロシアのグループが圧倒的に多かったのですが、データの質の高さによって日本側の主張が認められたようです。

元素に国名がつけられた例では、キュリー夫人のポロニウム(ポーランド)が有名です。最近の新元素は不安定で瞬時に崩壊してしまうため、元素の存在の確認が非常に難しくなっており、元素の確かな存在を確認した研究者(グループ)に命名権を与えられることになっております。しばらくして発売される元素の周期律表を見るのが楽しみですね。

年末年始、日本人にとってこのような嬉しいニュースが飛び込んできましたが、今年も一年、嬉しいニュースやら悲しいニュースが数多く流れてくることと思われます。

皆様今年一年、良い年でありますように。