月別アーカイブ: 10月 2015

小保方氏の博士号取り消しについて

小保方氏の早稲田大学での博士号が、一年の猶予期間中に論文を再提出できずに取り消されることになった。

博士号を取得するためにはオリジナルな結果(すなわち世界で初めてだという結果)を出すことが求められ、オリジナル論文が論文雑誌(英文ジャーナル)に掲載許可が下りると博士論文提出の許可が与えられる。

数学・理論物理系の場合だと、英文で100ページ程度のものが、博士論文の標準だ。もちろん、オリジナルな結果が求めれれているのだから、既存の結果(自分の出した結果以外)のことをまとめて出すことなど認められない。

最近は博士の就職困難問題が社会問題化している。博士号を取得した後の研究職のポストの枠が非常に小さいのだ。この問題は「高学歴ワーキングプア」とも言われている。そして博士号取得者の自殺が非常に多く、社会問題として表面化はしていないが、非常に深刻な問題となっている。

小保方氏の話に戻るが、小保方氏は虚偽の結果を書き、そして写真を盗用したとされている。僕自身がそのことに真偽の判断を下すことはできないが、それがもし本当だと、真面目に研究に打ち込み、ポストになかなか就けずに苦しんでいるポスドク達をあざけ笑う行為だ。小保方氏の理化学研究所での年棒は一千万円だったという。上手くポストに就けた新米研究者でも、普通はその半分にも満たない。そして多くの研究者は無給で研究員をしている。

このような謎かけがある。

「博士号とかけて足の裏に付いた米粒」ととく。その心は、「取らないと気が済まないけど取っても食えない」

これらの博士の社会問題について、今は僕自身は何も言えない。そして一般の人たちも、博士の問題・高学歴ワーキングプアの問題なんかより、生活保護問題や年金問題の方が興味があるようだ。

首相肝いりの一億総活躍国民会議、初会合が開かれる

10月29日、安倍首相が掲げた一億総活躍に向けての、一億総活躍国民会議の初会合が開かれた。会議では15人の民間議員も参加し、その中の一人であるタレントの菊池桃子さんも大きな注目を浴びた。正直、なぜ菊池桃子さんが選ばれたのかよくわからないが、菊池さんが議員になることで大きな話題になることは確かで、一億総活躍への注目へのきっかけとなるだろう。もちろん、多くのタレントの中で菊池さんが選ばれた真意があることを願う。

この一億総活躍に対する安倍首相の意気込みが非常に大きなものであることはひしひしと伝わってくる。何しろ一億総活躍担当相という大臣まで置いたのだから、首相の肝いりということに間違いはないだろう。

今回の一億総活躍に向けてのプロジェクトは、国の、そして安倍首相からの積極的なアプローチであるが、アプローチを受ける側である国民側の意識改革ももちろん必要だ。

今現在、すでに社会の中で、あるいは様々なところで活躍されている方はいっぱいいる。とはいえ一億総活躍しているかといえば残念ながらそうではないと言わざるおえないだろう。まず国民に意識改革を促すことが、一億総活躍推進の政府の初めの仕事であろう。そのために政府は魅力的なシステムを作り、そしてやりがいのある活躍の場に光を当てなければならない。もちろん国民の積極的な行動も必要だ。全て国が何かやってくれるだろうという意識では、活躍など永久に無理である。一番のターゲットは、活躍したいけど何をすればいいのかわからない、と考えている人であろう。この様な人たちに活躍の場を提供することが重要な課題だ。

安倍首相は第一次政権の時に「美しい国」というテーマを掲げた。しかしそれは非常に抽象的であり、具体性に欠け、第一次安倍政権が倒れた副次的な要因だったかもしれない。今回の一億総活躍もやり方を間違えれば抽象的な絵画になってしまう。一気に一億総活躍ができる特効薬はない。具体的政策をコツコツと積み重ねることが、一億総活躍の現実への道となるだろう。

自衛隊・自衛隊員はどうあるべきか

昭和32年、吉田茂元総理宅を訪ねた自衛隊員一期生に対して、吉田はこう話したという。

「君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終るかも知れない。きっと非難と か誹謗ばかりの一生かも知れない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは、 外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。 言葉を換えれば、君達が日蔭者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか耐えてもらいたい。」(海上自衛隊・阪神基地隊「神戸海の小部屋」より)

最近、自衛隊員に対する人気は高く、国民の自衛隊員への尊敬の念が強い。それはそれでいいことかもしれない。しかし上の吉田元総理の言葉を聞いて考え直させられた。

最近、自衛隊員が最も活躍した出来事と言えば、言うまでもなく東日本大震災である。その際は自衛隊員は非常に苛酷な作業に就き、多くの住民を助けた。そのような規律正しい、また日本人として頼もしい存在である自衛隊は、日本の誇りである。

しかし東日本大震災は日本国民にとって非常に悲しい出来事であった。震災などないに越したことはない。すなわち自衛隊が出る幕がない方が国民は幸せなのである。ところが最近は何かと自衛隊の活躍話が多い。御嶽山の噴火もそうである。自衛隊に感謝感謝が続く。

自衛隊の一番の役割はもちろん「国防」である。現在は自衛隊の存在が目に見えない形で、そして時には自衛隊の行動によって他国の圧力から守られている。これも日本人としてありがたいことである。しかし直接的軍事行動が起こり、感謝しなければならない事態は何が何でも防がなければいけない。これは政治家の仕事である。そう考えれば、普段は何かとバッシングを浴びせられている政治家たちだが、時には政治家にも感謝の気持ちを表す機会があってもいいのかもしれない。

日産カルロス・ゴーン社長が自動運転を語る。(テレビ朝日・報道ステーションより)

10月28日のテレビ朝日・報道ステーションで、日産のカルロス・ゴーン社長が自動運転について熱く語った。日産の技術によると、自動運転は2020年、すなわち東京オリンピックが開かれる5年後に実用化が可能であるという。番組では実際に自動運転のデモ運転の様子が流れていたが、当たり前のことだが自動運転ではハンドルもアクセルも握らなくてもいい。ハンドルなどは実際に収納することも可能で、運転席(運転はしないが)の前にはハンドルではなく液晶画面がある。

自動運転の利点はいくつかあるが、一つはもちろん運転手が必要でないことだ。これによって通勤の往復2時間がビジネスや読書に費やすことができる。映画も観ることもできる。居酒屋で飲んだ帰りに自動運転で家まで帰れる。

そしてゴーン社長は、未成年が自動運転で車に乗れる、すなわち運転免許がない人間でも一人で乗れることを強調していた。もちろんそのためには法改正が必要だ。

そして二つ目は、圧倒的な事故率の軽減だ。自動運転車にはAI(人工知能)が搭載されており、前方は200メートル、後方70メートル、左右は30メートルまで認知して判断されるという。もちろん信号も認知される。このAIによって、100%はないだろうが、人間が運転する場合に比べて事故率は圧倒的に軽減されることが予想される。

その一方、ゴーン社長は自動運転の課題も述べていた。その一つは地図だ。昨日までの地図が今日も正しいとは限らない。そして地図に載っていない工事がされているかもしれない。しかし僕の個人的な感じだが、これらの課題をクリアするのはそんなに難しいことではないと感じる。

そして対談の最後に、古館氏は非常に重要で、自動運転の根幹を揺るがすことを指摘した。AI機能、すなわちコンピューターが乗っ取られる危険性だ。すなわちサイバー攻撃の危険性だ。対談を観ていた感じだと、サイバー攻撃に対する対策はもちろん非常に力を入れるが、まだ未知数であるように感じた。サイバー攻撃対策はこれからの自動運転を開発を進めるうえで、実用化に近づけば近づくほど、そして実用化された後はさらに重要度が増すであろう。そしてこの対策は、車に搭載されるシステムと全ての車を管理するサーバー、この両者に対策されなくてはいけないことは容易に考えられる。

現在、自動運転は日産だけなく世界のほとんどのメーカーが力を入れており、実際トヨタ、ベンツの自動運転の様子は最近映像で観た。もし5年で自動運転が実用化されると、これは自動車が誕生した時に匹敵するほどの飛躍だ。話題性・重要性・変革性、どれをとっても次世代自動車と言われている燃料電池車などの比でない。はたして計画通り自動運転がうまく実用化されるのか、それともこれから5年の間に困難な壁に突き当たるのか。5年後の自動車社会がどう変わっているのか非常に楽しみである。

アメリカ艦船が南シナ海を航行

10月27日、米艦船が、中国が埋め立てを強行し主権を主張する南シナ海を航行した。この米海軍の航行は明らかに中国に対するけん制であるが、米軍はこの「航行の自由作戦」を数週間から数か月続けると言い、これをきっかけに米中間の緊張が一気に高まることが懸念される。

それにしても、このタイミングでの米軍の行動はどういう意味があるのだろうか。つい最近、中国・習近平主席がアメリカを訪問したばかりであり、それと強い関連があることは容易に推測できる。そして先日、韓国・朴クネ氏がアメリカを訪問し、米オバマ氏から中国の行為に対して強く非難するように求められた。この韓国関係も無関係ではないだろう。米国は南シナ海航行に対して韓国の出方を観ている節がある。そしてもう一つ、先日の習近平主席のイギリス訪問に際しての英国の歓迎ぶりにもしびれを切らしたもかもしれない。この様に最近の動きだけを考えても、米・韓・英の相互関係が見て取れる。

韓国にしてみれば、先日の米国訪問が裏目に出た結果だ。韓国の態度表明にもう一刻の猶予もないことは明らかだ。米国は迫っている。米・中のどちらの付くか決断しなけばいけないが、もし優柔不断な態度をとり続ければ、米中の狭間で自滅する可能性もある。

今回の、そしてこれからの米軍の「航行の自由作戦」によって東アジア情勢がどのように転ぶか、日本の一般市民としては断言できないが、いくつかのストーリーは想像できるであろう。それとも予想もしない状況に陥るか、日本としても非常に気になるところだ。

高級ブランドとは。フェラーリがNY株式取引所上場

10月21日、イタリア高級スポーツ車メーカー、フェラーリが、ニューヨーク株式取引所に上場した。そこでフェラーリの経営陣は投資家に対して、「フェラーリとは車メーカーというより、プラダやエルメスのような高級ブランドだ」と発言したそうだ。確かにフェラーリは高級ブランド車メーカーである。これに異論がある人はいないだろう。そしてフェラーリはこの高級ブランド路線で大きな成果を上げてきた。

フェラーリの対極にあるのが日本メーカーといえるだろう。トヨタ・ホンダをはじめ、日本メーカーは「ものづくり」ということを非常に大切にしてきた。そして日本メーカーも大きな成果を上げてきた。しかしフェラーリも単なるブランド屋ではない。フェラーリはもともとレーシングチームであり、そのための研究開発に非常に大きな力を入れている。収益に対する研究開発費率は他メーカーに対して突出している。

しかし車市場が飽和状態に近づいていく中、各車メーカーはブランド性を重視するようになった。その代表例がトヨタのレクサスであろう。ではそもそも「ブランド」とはいったいなんだろう。これに一言で答えることはできないが、あえて一言で言えば「信頼性」であろう。高級ファッションブランドには、現物以上のブランド料がつけられることがよくある。ではこのブランド料は全くの無駄なのか?このブランド料こそ信頼性に対する対価であろう。ブランドが品質の高さを表し、万が一壊れた時には万全なサポートが受けられる。

しかし、ブランドというものは一夜では作れない。長期間の信用ある実績が信頼の形成に結び付くのである。しかしフェラーリは意図的にブランドを形成することにさらに一歩踏み込んだ。生産台数の制限である。フェラーリはこれからも年間9000台以上は生産しないという。稀少性を出すためである。この稀少性という手法は、ファッションブランドでもエルメスなどが行っていることでも有名だ。言わばフェラーリは車界のエルメスになったのである。しかしこの手法は収益規模の限界を作る行為でもある。今回のNY市場上場で投資家が最も気になっているところだ。

フェラーリというブランドはどこまで高められるのか。高級ブランドとしてのフェラーリのさらなる歩みが始まる。

良くも悪くも韓国の存在感がデカい

韓国、朴クネ氏が大統領になってから、韓国の存在感が非常に大きくなっている。良くも悪くも。その原因は一番に韓国の二股外交にある。世界で1番2番目に影響力のある米中間で二股外交を繰り広げる朴韓国は巧みだ。しかしその二股も決着をつける時が迫っているのかもしれない。

10日ほど前、朴氏はアメリカを訪問し、オバマ氏と会談を行った。朴氏としては米韓の絆をアピールしたかったのであろう。そこでオバマ氏から提示されたのは踏絵であった。東シナ海問題に対する踏絵である。オバマ氏は米韓の親密さをアピールしたければ、中国に対して反発せよと迫ったのだ。朴氏は何も反応できなかった。これは二股外交の限界を物語っている。

朴氏の胸中はわからない。経済面で考えれば、現在の中国と親密にすることは非常においしい。しかし安全保障面では米国に属してきた。軍事面ではおいそれと中国に乗り換えることは、親中の朴氏でも相当ためらいがあるのだろう。経済面ならともかく、軍事面でも中国に属すればアメリカの怒りは計り知れない。

現在の韓国の状況を一番喜んでいるのは中国であることに間違いない。韓国が困れば困るほど、中国はおいしいのである。

朴氏はかなりの親中派だ。しかしこれから軍事面を含めて米中どちらに付くのか、それは朴氏の大統領在任期間中に結論が出るほど簡単ではない。おそらく次期大統領も巻き込んでの判断になることは間違いない。

朴氏の表向きの指針は今や明確であるが、次期大統領にどのような方向性を持った人物がなるか、そろそろそちらの方も気になりだしてきた。

世界大学ランキングにこだわるな

毎年、世界の大学ランキングが発表される。最近では、カリフォルニア工科大学の評価が非常に高く、イギリスのケンブリッジ、オックスフォードなどが上位に位置し、数学・理論物理系では圧倒的な存在感を見せるプリンストン大学・プリンストン高等研究所も高評価だ。

今年、日本で話題になったのは、日本の大学が軒並み順位を下げたことだ。東大が43位、京大が88位だ。その結果に多くの人、そして多くの日本人も毎年一喜一憂している。

ところでそもそも大学ランキングとはいったいなんだろうか?大学ランキングの評価基準が明らかになっていない。論文の提出数・引用数が考えられるが、たとえそうだとしても毎年一喜一憂するようなランキングではないはずだ。問題は大学そのものではなく、個人及び組織の意識、そして才能である。もちろん高評価の大学には優秀な人材が多いのだろうと考えられる。しかしランキングにこだわることにどれだけの意義があるのだろうか。

今年、ノーベル賞を受賞された、化学賞の大村さんは山梨大学、物理学賞の梶田さんは埼玉大学出身だ。自分の所属・出身大学の評価が高くないから自分も評価されないと思っている人は、所詮その程度の人間だということだ。真に実力・意欲のある人物は、学歴などほとんど気にしないはずだ。それは地方大学出身でも東大出身でも同じだ。それを大村さん・梶田さんが証明してくれた。

大学ランキングなどはお笑いのネタ程度に思っていればいい。偏差値で学歴を評価するなどは、お遊び程度のことであって、ビジネスで真剣に考えるようなことではない。しかし日本(他国ではもっとひどいところもあるが)では今でも学歴至上主義的な風潮が根強く残っている。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、「学歴を見て人を見ず」とは決してあってはならない。

孔子平和賞、まだ存在していたのか。ジンバブエのムガベ大統領が受賞

今年の孔子平和賞にジンバブエのムガベ大統領が決まった。孔子平和賞は5年前にノーベル平和賞が中国の反体制活動家、劉 暁波氏に与えられたことに中国が反発して作られた賞だ。

まず今回のムガベ受賞を聞いてびっくりしたのは、まだ孔子平和賞が存在していたということだ。中国にしてみれば西洋文化に対する必死の反発であろうが、我々から見れば一種のパロディであり、お笑いのネタを提供してくれる。今回のムガベ受賞に対して、ジンバブエ野党はムガベ氏のことを、「平和の使者の顔をした殺人鬼」と表現している。それはともかく、孔子平和賞を与えた中国はムガベ氏を、ジンバブエ経済に多大な影響を与え貢献したと言っている。確かにムガベ氏はジンバブエ経済にとてつもなく多大な影響を与えた。超ハイパーインフレという影響を。これこそもうお笑いのネタでしかない。

それにしても気の毒なのが、偉大な思想家、孔子様である。孔子様は歴史上の偉大な人物である。しかしその孔子様もこのような賞に名前を無断でつけられることは予想していなかったであろう。孔子様も今頃はあの世で涙を流しているかもしれない。

いつまでこの賞が存在するか予測不能だが、来年はどのようなネタを提供してくれるのだろう。

20年前の死亡事件の放火容疑、再審決定、自白に対する感情と論理

10月23日、大阪高裁で20年前の放火事件容疑で懲役判決を受けた、二人の元被告に対する再審決定がなされた。20年間事件の犯人として扱われてきたわけであるが、三日後に二人は解放される見通しとなった。

この事件に対しては以前から自白強要が疑われていたが、事故の再現実験では弁護側はもとより、事件を立証しようとした検察側の実験でさえも元被告の関与を否定する結果となった。

私がこの事件に対して罪を判断することは全くできないが、もしこの事件の判決が自白強要によるものであれば検察・裁判官によって作られた犯罪となる。自白強要により無罪の人物に罪を着せた検察の罪は非常に大きい。法治国家としては決してあってはならないことだ。

以前から取り調べの可視化については大きな声があがっている。しかし可視化への動きは一向に進まない。これでは検察側が意図的に自白強要を隠そうとしていると思われても仕方がない。今回の再審決定で無罪判決が出れば、逆に言えば検察側の行為が有罪であり、検察側の責任者は罪に問われるのが筋かもしれない。そこまでいかなくても取り調べの過程を調べなおし、なぜこのような結果になったのか国民に説明責任を果たしてほしいものである。

国民にとっては、検察・裁判所から出てくる情報が全てであり、感情的に事件をとらえてしまうことは仕方がないかもしれない。しかし取り調べのプロである検察官が事件の罪を決めつけ、感情的に自白強要を迫ることは決してあってはならないことであるが、検察側では無実の人物であろうが取り調べ対象人物を強引にでも有罪に持っていくことが検察の功績となる。そのような風潮を根本から覆さなければまた同じような悲劇を繰り返してしまうだけである。

政治家に求められる政治に対する真摯な姿勢

最近、自民党の石破茂氏(現地方創生担当大臣)の著書を読んでいるが、著書から一番感じるのは政治に対する真摯な姿勢である。こんなことを書くと石破かぶれと思われるかもしれないが、実際に僕は石破かぶれかもしれない。政治家としての、そして人間としての石破氏が好きだ。とはいえ会ったことも何にもないので本当は僕の知らない顔もお持ちかもしれないが、少なくとも僕の知っている範囲での石破さんは支持するのに値する人物だと思っている。

政治家が政治のことを一番に考えなければならないことは当たり前だと思うが、実際にはそれができていない政治家が非常に多い。とにかく選挙に勝てばいいとそれだけを考えている政治家、ただやみくもにポストだけ追いかけている政治家、このような政治家は多い。しかしこのような政治家は短期間で消えていく運命にあるだろう。

少し前に国民の議論を二分した安保法案の原点は、どうやら石破氏に由来するように感じる。石破氏が集団的自衛権を含む国防、そして国際貢献の必要性を感じていたのはもう数年前、いやもっと前のようだ。防衛庁長官を務めていた時の経験から、そのような法案の原案を構築したようだ。しかし再び今度は自分が防衛大臣になり、その法案の推進は一度棚上げされる。しかし石破氏の心の中にはいつも国防・軍事的国際貢献に対する熱い思いがあるようだ。

戦後、日本は平和憲法と平和主義を掲げ、日本の平和の維持に成功してきた。しかしその平和は何もしないで得られた結果ではない。現に現在も一年間に何百回という戦闘機のスクランブル発進によって中国軍などの越境行為に対処している。そしてアメリカの核に傘に守られているのも事実である。しかし日本人の中には、日本が軍事的行為を全く行っていないから平和なのだと勘違いしている人があまりにも多い。学校でも自衛隊の災害派遣などに対する貢献は教えても、肝心な国防に対する貢献に関することは見て見ぬふりである。

安保法案の賛否、軍事的組織に対する好き嫌いにかかわらず、日本人はもっと国防の現実、そして世界が最も必要としている国際貢献は何かを直視し、もっと思考すべきである。安易な主張ではなく、熟考して判断することが国民には求められている。

「科学的根拠」にだまされるな!

迷信・超能力など明らかに非科学的なことを信じる人は現在でももちろんいるが、数としては少なくなってきたように思う。その理由としては、当たり前のことであるが「科学的ではない」ということである。ところが最近はその「科学的根拠」に騙される人が多いように感じる。

科学的根拠があるかどうかの判断として、話を訴えている人が「これは科学的根拠がありますよ」と言っているかどうかだけに対して反応している人が多いように思う。あるいはその科学的根拠を論理的に説明されると無条件に科学的だと信じてしまう人が多い。

科学的素養がある人から見れば、その論理は明らかに飛躍が合ったり、科学的でないことが含められていたりしてすぐにデタラメだと気付くのだが、科学的思考に慣れていない人にとってはそれだけでも十分に信じるに堅い科学的根拠となる。

例えば以前、「某占いは科学的だから正しい」と主張してきた人がいる。しかし科学的素養のある人からみればそれは二つの点で明らかにおかしいと判断できる。

まず、占い自体科学的でもなんでもないしデタラメだといことである。もしかしたら占いにも正しいものがあるという人はいるかもしれない。しかしこの占い自体を間違っていると判断するセンスは、物理学でいう「熱力学の第二法則」的な論理に似ている。熱力学第二法則ではあるもの(永久機関)はどんなに努力しても絶対に作ることはできないという主張だ。この法則は目的が間違っていることを科学的論理をする以前に否定する。しかしこの法則が認知されるまでには約100年の時間がかかった。

もう一つは、前に述べたように説明が論理的でないということだ。

最近、この「科学的根拠」というものを逆手にとって商売をしている似非科学者たちがいる。その一つに以前ブームになった脳科学ばあちゃんがいる。彼女の言うことは全て科学的だ、科学的に証明されている、ということを前面に押し出している。しかし科学的に冷静に思考できる人間から見ると疑問に感じることが多々ある。しかもたちが悪いことに一部に本当に科学的な事も混ぜられているのだ。だからその一部の科学的部分だけを見て全てが科学的だと信じ込む人が大勢いる。

なにも日常の全てを科学的に考えなければいけないなんていう考えは毛頭ない。常にそんなことを考えていたら逆に頭が凝り固まってしまう。しかし重要な判断が必要なときは、しっかりと科学的判断を下さないと間違った情報に振り回されてしまうということを言いたい。

「何もかも男女平等」は本当に正しいのか?

某ネットサイトでこんな記事を読んだ。

元グラビアアイドル「一番後悔していることは子供を産まなかったこと。2億年前から人類が受け継いできたバトンを放棄してしまった。」

女子アナウンサー「出産適齢期は仕事が一番面白くなってくる時期にあたる。」

このやり取りを見て一番思ったのは、全て何もかも男女平等にするのは本当に正しいのか、ということである。最近は男女平等が極度に強調され、男女の違いを発言するだけでバッシングされるのをよく見かける。しかし男女の違いというものは存在する。その決定的な違いは体のつくりだ。出産は女性にしかできない。このことについては男女平等にすることは100%無理なことだ。しかしそのことに言及せずに女性の仕事・社会進出について男女平等を叫ぶことは危険だ。

前出のアナウンサーが言うように、出産適齢期と仕事が面白くなる時期が重なることがある。そうなった場合に男女で違いをつけるべきではないか。しかし違いをつけるといっても男女を差別するわけではない。「配慮する」と言った方が適切かもしれない。何しろ先ほど言ったように男女には動かしがたい決定的な違いが存在するのだから。それを無視して男女平等ばかり唱えていると、前出の元グラビアアイドルのように後悔してしまうことになるかもしれない。

「全てを平等にする」ということは実は全く平等ではないのだ。本当の平等は全ての人にそれぞれにあった最も適切な配慮をすることだ。今盛んに叫ばれている男女平等は表面的な平等に過ぎない。体のつくりが違えば働き方もおのずと変わってくるだろう。もちろん男女に昇進の差をつけろとか、そんなことを言っているのではない。もうそろそろ「平等」という言葉に異常に反応するのは止めて、「適切な配慮」ということに目を配るべきではないかと思う。

日本のパクリ暴き文化

最近、何かとパクリ疑惑が多い。ついこのあいだの東京オリンピックエンブレムのパクリ疑惑は記憶に新しいが、今度は東京都エンブレムがパクリだと指摘され、舛添東京都知事が釈明した。そこで桝添氏は他のエンブレムと酷似することはありえ、パクリではないと主張した。

僕はこの主張はもっともだと桝添氏の主張を支持したい。もちろん東京都エンブレムがパクリかオリジナルかを判断・断言することはできない。しかしエンブレムやロゴなどは世界に何万・何億と存在するのである。酷似するロゴが全くないという方がおかしいかもしれない。今回は東京オリンピック・東京都のロゴという非常に目立つエンブレムであったために注目を浴びたのかもしれない。とはいえ、パクリを支持するつもりは毛頭ない。しかし現在パクリ疑惑はともかく、パクリ暴き文化ともいえるこれらの風潮は非常にネガティブであるし感心できない。

パクリ疑惑はパクリを認定・確定したものではない。東京オリンピックエンブレムの佐野氏を罵る国民・ネット住民は多いが、佐野氏がどうであれネット住民が匿名でバッシングするのは非常に卑怯だ。もしバッシング・否定するのなら、自分の名前を堂々と名乗ってほしい。

僕は現在のパクリ問題以上に、パクリバッシング文化という非常に陰湿な風潮の方を憂慮している。

ユネスコの政治利用の応酬について

最近、ユネスコの政治利用がかなり醜い。韓国の慰安婦問題、中国の南京大虐殺問題、そして日本も例外ではなくシベリア抑留を申請しようとしてロシアから批判を浴びている。

これらの問題を歴史として記憶することは大いに意義があるが、それらを国際機関に遺産として登録するのは非常に疑問である。まずはじめにそれらの事実関係を立証するのが非常に難しいことがある。登録申請側は自国に有利な事象を、そしてされた側はそれらの事象に猛烈に反発している。

例えば南京大虐殺を例にとると、中国は30万人が虐殺されたと主張している。それに対して当時の南京の人口は25万人だと言われている。この様に明らかな矛盾なら真偽は判断しやすいが、何しろ歴史は過去の事実であって確実な証拠が残っているとは限らない。慰安婦問題についてもどれだけの人数が犠牲に、いやその前にそれらの事実関係は本当に正しいのか、判断材料に乏しいのが現状である。

ユネスコの遺産登録制度は歴史の美点・酷点を忘れないように後世に残すためにできたものであろう。しかし現在は完全に政治手段・プロパガンダに利用されているだけである。このユネスコ遺産の現状を今一度検証し、システムを一新するか廃止するか、考え直した方がいいのかもしれない。現状のユネスコ遺産は明らかに病的な状態に陥っている。

プロスポーツの健全な盛り上がり方

テレビ番組で、今話題のラグビー・五郎丸選手が出演されていた。五郎丸選手と言えば今では日本人なら誰でも知っている超人気者だ。そんな五郎丸選手が活躍したラグビーW杯日本代表だが、イングランドに出発するときの空港での送り出しに集まったファンは数十人だったという。それがW杯で活躍し、凱旋帰国した空港での歓迎に集まったファンは数百人に上ったという。この様なにわかラグビーファンに苦い顔をする人も多いだろうが、僕はむしろこれがプロスポーツの健全な状態であると考えている。

もちろん末永くどんな時も応援するコアなファンはそのスポーツの基礎体力であり、スポーツが社会に根付くために絶対的に必要なものであるが、にわかファンの数はそのスポーツの現在の力のバロメーターである。にわかファンが多いことは非常に素晴らしいことなのである。しかし選手たちが油断をするとそのにわかファンたちは逃げていく。しかしにわかファンを長く惹きつけることができればその一部が固定ファンとなり基礎体力となる。

そしてもう一つ、にわかファンは芸人で言う一発屋に似たところがあるかもしれない。そしてにわかファンと同じように一発屋を否定しバカにする風潮がある。しかし考えてほしい。一発屋になれるのは数多くいる芸人のうちのほんの一握りなのである。ほとんどの芸人は一発屋にさえなれないのである。地道にコツコツと積み上げて少しずつ人気を上げていく芸人は言うまでもなく素晴らしいが、一発屋をきっかけにして人気に火をつけるのも一つの手段である。

現時点の日本ラグビーは一発屋かもしれない。しかしこの状態を、この強さを持続できれば必ず真のメジャースポーツになれる。そうなることを僕は非常に願っている。

ノーベル化学賞・大村智さんの多彩な才能

先日、北里大学の大村智特別栄誉教授がノーベル化学賞を受賞されたことは記憶に新しい。その大村氏であるが、彼は科学者として超一流であることは今回の受賞により明らかであるが、経営者としての腕前も超一流であるという特集記事を、読売オンラインで読んだ。

彼は微生物によって生み出される物質から病原菌を殺す抗生物質を抽出し、この成果がノーベル賞受賞につながった。しかし彼の業績はそれだけではなく多彩な分野に広がる。

抗生物質の抽出に成功した大村さんは、製薬会社のメルク社と共同開発契約を結び、大村さんの全面アップのもとメルク社は製薬事業で大成功する。現在で言う「産学連携」というものである。今盛んになりつつある産学連携を大村さんは何十年も前に実行していたのである。

さらにメルク社からのロイヤリティーにより北里大学・北里研究所に巨額な資金がもたらされた。それまで北里大学・研究所はほぼ破たん状態だったらしい。それが大村さんによってもたらされたメルク社からのロイヤリティーによって大きく立て直されたのである。そして大村さんは北里の理事、理事長として大きく腕を振るわれた。その時、大村さんは経営書を多数読み、経営ノウハウを身に付けたらしい。大村さんは経営者としても超一流だったのである。その後、北里以外の他組織でも経営・運営を任されて立て直された。

科学者というと一日中研究に取り組んで、社会のことにあまり興味がないというイメージが蔓延しているが、大村さんの業績はそのようなイメージを根底から覆すものだ。大村さんの評価は科学的業績だけでは判断できない。アフリカの多くの人間を病魔から救って病原菌を絶滅させた、これは人道的貢献に当たり、実際大村さんはノーベル平和賞の有力候補とも言われていたという。そして経営者としての業績。

いかにも人のためを一番に考えて生きてきた大村さんらしい業績である。

日本人の才能・技能に対しての価値観について

最近、確か韓国の俳優イ・ビョンホンさんについてだったと思うが、彼に大きなスキャンダルが出た。それに対して韓国国内ではバッシングの嵐で、永久にそれを許さないという風潮らしい。それに対して日本人ファンたちは、確かにスキャンダルは良くないが、それと彼の俳優としての演技の上手さは別であって、彼の演技(もちろん彼がイケメンだということもあるだろうが)は好きだからこれからも応援するという人が多いらしい。

確かにスキャンダルはネガティブであるし、ないに越したことはないが、その人の才能とはまた別の話だ。もちろん芸能人は見栄え・普段のイメージまで売りにしているので全く別なわけではないが、例えばスポーツ選手などの場合は仕事の能力とスキャンダルは全く関係ない。スキャンダルが起きたから仕事の能力まで否定するのは間違っている。上述の日本人ファンたちはその点は心得ているのかもしれない。

もちろん犯罪を犯すなどの行為をしたのならば話は別である。しかし日本人の才能・技術を高く尊重する価値観は非常に素晴らしいものだと思うし、分野は全く変わるが、日本人のそのような尊重の心が日本人のノーベル賞レベルの科学者の輩出につながっているのかもしれない。

財務大臣が「軽減税率面倒くさい」とは何なんだ!

読売オンライン記事で、麻生財務大臣の発言が載せられた。それによると軽減税率に対して、

「みんな面倒くさいと言っている」

と言ったという。麻生氏自身が面倒くさいと言ったわけではないが、その後に、

「我々に押し付けないでくださいよ」

と言ったことからも、麻生氏自身が軽減税率導入に対する対処に、面倒くさいと思っているととらえるのが順当だろう。

麻生氏は麻生財閥の御曹司だ。彼にとって食料品・日常生活用品が10%だろうが軽減されようが何にも感じるものがないのだろう。しかしギリギリの生活を強いられている市民からすれば軽減税率は日常生活に直結する。麻生氏にそのような実感は全くないのであろう。

麻生氏の行きつけのバーは、帝国ホテルのバーであるらしい。カクテル一杯が数千円の世界である。軽減税率が面倒くさいからカクテルも全部軽減すればいいとでも言いそうである。

「面倒くさい」が普通の政治家の発言なら「また失言したな」で終わるかもしれない。しかし麻生氏は財務大臣である。失言というレベルの話ではない。しかも総理大臣経験者。民主党時代の菅・鳩山元総理は何かとバカにされているが、これに自民麻生氏も加えて「何とか三兄弟」とかできそうである。

TPPは環太平洋地域の共同体になりえるか

最近、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)が大筋合意した。僕自身、TPPによって関係各国間の関税システムがどのようになるかなどの詳細は分からないが、アメリカ・オバマ大統領たちはこのTPPを単なる経済協定ではなく、「経済上の安全保障同盟」とみなしているようだ。

話は少しそれるが、ヨーロッパでは昔、EC(ヨーロッパ共同体)という欧州諸国の共同体が結成され、それが現在のEU(ヨーロッパ連合)へと発展してきた。これは欧州諸国間の融合、あるいは国境の存在を薄くする動きだ。そうすることによってEU関連諸国間での対立、特に軍事的対立の可能性は確実に減少する。

このEUの試みを見本にして、東アジアもEUのような共同体を作るべきではないかと僕は感じていた。しかし現在は日本と中・韓との対立などがあり、そのような共同体を作るような機運ではない。そこで今回の「安全保障同盟」としてのTPPである。TPPは現在はあくまでも経済上の協定に過ぎないが、これをきっかけにして環太平洋地域の「軍事的な安全保障同盟」まで発展しなのかと僕は思った。今まで東アジア地域を一つにするという視点はあったが、環太平洋地域を一つにまとめ上げるという視線は僕自身を含めてあまりなかったのではないかと思う。

太平洋戦争は環太平洋間での対立であった。そのことからも環太平洋地域の共同体を成立させることは非常に意義があるのではないかと思う。もちろんその環太平洋地域には東アジアも含まれるわけであって、より広い地域を網羅できる。

現在のTPPには中国・韓国は参加していないが、オーストラリア・ニュージーランドのようなキーとなるような国も含まれている。これから環太平洋地域連合が共同で世界情勢に働きかけ大きな影響力を持つと、日本をはじめ環太平洋内のその他の国にとっても発展する転機となるかもしれない。

大臣の歴史・そして新しくできた一億総活躍の政策

自民党・二階俊博総務会長が講演会で

「文部大臣は日本国ができた時からずっとある。1億総活躍大臣なんてこのあいだできたばかりでたいしたことない」

と発言したらしい。二階氏に対してどうというわけではないが、大臣の重要性を歴史という一視点だけで判断するのは果たしてどうかと思う。

もちろん文部科学大臣は文部大臣という名前の頃から非常に長い歴史がある。立派な庁舎も存在する。文部科学省・文部科学大臣の重要性は今さら言うまでもない。単純に考えても現在のところ、一億総活躍大臣よりも文部科学大臣の方が圧倒的に重要だと感じる国民の方が大多数だろう。

しかし今、安倍総理が誰もが考えなかった一億総活躍大臣というものを作ったことは、これが安倍総理の肝入りで作られたのだろうと推測できる。この一億総活躍大臣が重要になるかそうならないかは安倍総理の動き次第だ。安倍総理は一億総活躍大臣に対して何かしら重要な役割を持たせてくるであろう。

一億総活躍が重要かそうでないか、それは数年のスパンで判断すべきことではないかと思う。「一億総活躍」という響きはいい。しかしこれを形だけで終わらさないためにも、一億総活躍に向けての具体的政策を打ち出し、国民にアピールしていかなければならない。もし安倍総理の任期終了と一億総活躍大臣の終焉が同時ならば、一億総活躍の政策は安倍総理の失敗と言わざる負えない。

これからの日本を活気のある明るいものにするためにも、一億総活躍の政策が成功することを祈る。

世界で一番貧しい大統領、ウルグアイのムヒカ氏(フジテレビ・Mr.サンデーより)

10月11日、フジテレビの「Mr.サンデー」で、ウルグアイの大統領を5年務め、2015年2月に退任した、ホセ・ムヒカ氏の特集をやっていた。ムヒカ氏は「世界で一番貧しい大統領」と言われた男だ。彼のインタビューを観た日本人の中には、彼の考えに共感した人は多かったのではないかと思う。一番「貧しい」という言葉は彼に失礼かもしれない。確かに貧乏ではあるが、彼の心は決して貧しくはなく、温かく輝いていた。

ムヒカ氏はなぜ貧乏なのか。もちろん大統領にまでなった男だ。お金を得ようと思えば得られたはずだ。しかし彼はそれを選ばなかった。大統領時代の給料の9割を寄付していたのだ。なぜ彼はそのような行動をとったのか。それは「大統領は多数派に選ばれた者だから、生活水準も多数派の平均の生活をしなければいけない」という信念からである。ウルグアイは決して経済的に豊かな国ではない。したがって彼の信念に従えば豊かな生活はできなかったのである。

彼は日本に関して非常に深い理解を持った人物だ。そして彼は、江戸末期の開国前の日本を非常に称賛し、現在の日本を批判している。なぜ彼は現在の日本を批判しているのか。彼はもともと「消費社会」そして「西洋文化」を否定している。お金があれば欲しいものが買えるが、それよりもっと大切なのは豊かな心だ。そして心は生き物からしか得られない。生き物とは人間、犬、そして草花も例外ではない。彼はそのようなあらゆる生き物を大切にする。物質などは必要最小限あればいいのだと彼は言う。

彼の言葉に日本人は非常に反省する。本当に大切なものは何なのか。高級な車、立派な家、豪華な家具、そしてあらゆる物質的豊かさ。今の日本人はそのようなものを追いかけているのではないだろうか。もちろんムヒカ氏の思想がすべてではない。物質的豊かさに満足するのもそれはそれでいいのかもしれない。しかし物質と心がどちらが大切かと問うた時に、もし物質を選んでしまったら少し心が病んでいるのかもしれない。

最近の僕も何かしら物質的なものを追い求めていたかもしれない。お金は天使でもあり魔物でもある。お金を得た人間の人間性によって姿を変える。お金に、そして物質に飲み込まれてはいけない。ムヒカ氏はそのようなことも訴えたかったのかもしれないと僕は感じた。

僕にとって大事なのは何か。心も物質も大事だ。しかし僕にとって一番大事なのは物理・数学の研究だ。それが心も満たしてくれる。それはムヒカ氏が大事だと主張しているものとは少し違うかもしれない。しかし僕にとってそれが一番大事で生きる原動力になっているのである。数学・物理の心とでも言うべきだろうか。

ノーベル「政治学」賞

最近に始まったことではないが、多くの人がノーベル平和賞、そしてノーベル文学賞が「政治化」していると感じているのではないだろうか。平和賞が政治的色彩を帯びるのはまだ理解できるが、最近は文学賞がさながら「政治学賞」となっている状態に反発を覚える人も多いのではないだろうか。

今年のノーベル文学賞受賞者も非常に政治色が濃い人物だ。そして日本で毎年注目を浴びている村上春樹氏も、作品自体が政治色のあるものだとは言わないが、赴いた場所で、そして賞の授賞式で政治的発言をする。以前ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の受賞の決定となった作品は、広島の原爆の悲惨さを書いた「広島ノート」だ。べつに大江健三郎氏の書いていることを否定しようという思いは毛頭ない。しかし大江氏の文学的価値があまり注目されない中での受賞は疑問に思う。もういっそうの事「ノーベル政治学賞」でも作ったらどうだという気持ちになる。

大江氏の前の日本人ノーベル文学賞となると、日本人なら誰もが知る川端康成氏だ。川端氏は純文学的要素・日本的な繊細な文学的表現が評価され受賞された。最近は政治色の濃い文学賞に世界の人々ももう飽きているのではないだろうか。そろそろ純文学的に評価されたノーベル文学賞の報を聞きたいところである。

一億総活躍を達成するためには。一億総活躍大臣設置について

先日の内閣改造で、一億総活躍担当大臣なるポストができた。「一億総活躍」なる言葉の響きは非常にいいが、具体的に一億人がどう活躍するのか、具体性に乏しい。一部では「女性の活躍推進さえまだ不十分なのに、一億総活躍なんて」という声も出ているが、それはそれでもっともな意見だろう。ちなみに一億総活躍担当相は女性活躍担当相も兼任している。安倍総理にしてみれば、女性活躍の発展版として一億総活躍を設置したのかもしれない。

一億総活躍を達成するためには具体的にどうすればいいか。もちろん人口の半分をせめる女性が活躍できる社会にしなければならないことはもっともであろう。そして今ひそかに深刻な問題となっているのが、40代・50台の社会戦力である。日本という国の労働事情は、人生の、具体的には職業の空白に非常に厳しい。履歴書に空白があれば人事はそこを徹底的に追及し、なかなか受け入れようとしない。20代・30代前半の若者に対しては積極的に就職支援をしようとする公共団体も、40代などの中年社会戦力に対してはほとんど手薄だ。実際にはそのような支援も存在するが、中年戦力に対する支援は形骸化している。一度履歴書の空白期間に入ればそこからなかなか脱出できない。国が一億総活躍を目指すならそこにも手を入れるべきであろう。

一億総活躍が言葉だけの形骸化したものにならないためにも、あらゆる構造的問題、そしてこれまで光が当たらなかった見落とされていた問題にも、安倍政権は積極的に能動的に問題を探す姿勢を取りながら社会の構造改革を進めなければいけない。

追いつめられても絶対に倒れない。最近の近況

ここ最近のブログでは、社会・時事問題、そしてここ数日はノーベル賞関連の記事を書いていたが、少し一服として僕の近況を書いてみたい。

今日の午後、友人と年末年始にあるお笑いのR-1ぐらんぷりの予選に向けてネタを練っていた。しかし夕方になって一つ気になることがあった。この年末年始、またR-1は開催されるのか?確か去年の今頃は大会要領は発表されていたはずだ。そこで気になって主催者の吉本に電話をかけて聞いてみた。すると現在プロジェクトはないということなのである。(汗)。どうやらスポンサーが集まらないらしい。このことは去年から気になっていた。前々回は「東洋水産」という冠スポンサーがついて、正式名称は「東洋水産R-1ぐらんぷり」だった。しかし僕が予選に初参戦した前回はこの「東洋水産」が抜けていたのである。なのでその時から少し嫌な気配がしていた。とはいえまだ未定ということなのでわずかな可能性に期待しよう。

実は本当は今年から復活するM-1グランプリに出場したいのであるが、相方が人前に立ちたくないということでOKが出ない(汗・汗・汗)。M-1に出るのは僕の悲願でもあり、前回のR-1は出場自体が目標だったが、次にお笑い賞レースに出場するときは本気で勝ちに行きたい。勝てる見込みがなければ出ないつもりだ。

数理物理の研究や仕事のことで崖っぷちに立たされているが、どんなに極限状態でも絶対に挫折しないのが僕の取り柄である。失敗はしても挫折はしない。はっきり言って精神的にはいろいろきつい状態ではある。僕自身いろいろ悩むたちではあるが、挫折は死ぬまでしないつもりである。

今年もあと三か月弱、人生何が起きるかわからない。転機は突然やってくる。その時にしっかりチャンスをつかむためにも、日々コツコツと継続して努力することが大切である。

欧米を追いかける研究と、追いかけない研究のバランス

ノーベル賞、化学賞も日本人、とはいかなかったが、連日の医学・生理学賞と物理学賞の受賞に日本がわいた。

ところで今回のお二方の研究は、研究結果の重要性はもとより、日本独自のオリジナリティが大きな評価の対象になったのではないかと感じた。物理学賞の梶田氏の研究は、岐阜県神岡鉱山跡にある「スーパーカミオカンデ」という実験施設が舞台になった。世界の物理界では巨大な加速器の建設競争が過熱し、加速器物理こそ欧米の研究の中心の一つともいえる。ところがスーパーカミオカンデは、地下に大量の純水を貯め、宇宙線粒子と反応した水が発生した微弱な光を検出するという非常に地味な実験施設だ。この様な施設は日本以外では(少なくとも僕は)聞いたことがなく、おそらくあまりにも地味すぎて外国では興味を持つ人がいなくて作られなかったのではないかと思われる。それに対して加速器物理は素粒子物理の華である。

とはいえこの地味に思えるスーパーカミオカンデは最先端の科学技術も取り入れられている。巨大な光電子倍増菅だ。純水貯蔵施設の壁にぎっしりと取り付けられている。この巨大光電子倍増菅は静岡にある浜松ホトニクスという企業の専売特許である。2002年の小柴氏の受賞時にも話題になった。

このカミオカンデのように外国が注目しない実験施設を作り、日本独自の研究を行ったことがオリジナリティの高さにつながり受賞に結び付いたのだろう。まさしく欧米を追いかけない研究の典型だ。

欧米中心の研究に取り組むことが悪いのではない。ただしそのような研究に取り組むならば後追いではなく先駆者にならなければ、単なるハイエナと呼ばれることになる。

連日のノーベル賞受賞、梶田隆章氏。昨日の大村氏とは思想の違う研究で。

前日の大村智氏のノーベル医学・生理学賞受賞に続き、10月6日、梶田隆章東京大学宇宙線研究所所長がノーベル物理学賞を受賞された。前日の大村氏に続き、梶田氏にも一国民としておめでとうという気持ちを送りたい。

ところで前日の僕のブログで、医学・生理学賞の大村氏の研究思想に対して、科学研究には大村氏とは異なった思想・視点も大事だと述べた。そして今日の梶田氏の物理学賞の受賞、そこで梶田氏は前日僕が述べたことをそのまま表現してくれた。現在の僕がいくら主張しても全然影響力はないが、ノーベル賞を受賞された梶田氏が発言すると非常に説得力があるだろう。

具体的には、科学は役に立つものだけではなく、役に立たないもの、実学ではないものに真の科学的価値があるということだ。そしてまさしく梶田氏の研究がそれにあたる。梶田氏の研究は、宇宙線の研究によりニュートリノ振動という現象を観測され、ニュートリノに質量が発見されたというものだ。分野としては素粒子物理学にあたるが、2008年の南部・小林・益川氏らの「素粒子論」に対し、今回の梶田氏は2002年の小柴氏の流れをくむ「素粒子実験」である。

今回の梶田氏の受賞に際しての発言は、僕自身も非常にうれしいものであった。梶田氏は

「すぐに役に立つ研究ではなく、知の地平線を広げるような研究だ」

ということを話されていた。僕が前日のブログで述べたことはまさしくこのことである。梶田氏の発言によって少しでもそのような科学思想の重要性が国民に浸透すれば非常にうれしい。

二日続けてのノーベル賞日本人受賞、気は早いが次の化学賞で「三日続けて」となるかどうかが楽しみである。そして文学賞では村上春樹氏が有力候補とされている。この時期は日本人にとって恒例の楽しみな季節となりつつある。

大村智氏、ノーベル賞受賞。大村氏の信念は素晴らしいが、科学には別の視点も必要だ

10月5日、ノーベル医学・生理学賞が発表され、北里大学の大村智特別栄誉教授が受賞された。何はともあれ、一国民としておめでとうという気持ちを送りたい。

大村氏の科学に対する信念は非常に素晴らしい。大村氏は、科学は人の役に立てなければいけない、実学でなければいけないということを非常に強調されていた。それはそれでもっともかもしれない。しかし変人である僕はその信念に反発を感じるのである。

僕は数理物理と言う分野を研究してきたが、なぜ数理物理を選んだのか?それは一番は興味があり面白さを感じたからであることは言うまでもないが、それとは別に「役に立たないから、そして実学からはほど遠いから」だ。しかしこのような思想はほとんどの人に理解されない。役に立つ素晴らしさを理解するのは簡単だが、役に立たないものの素晴らしさは説明をしないと理解してもらえない。説明をしても理解されないかもしれない。

400年ほど前のニュートンの時代、当時、万有引力の法則が役に立つなどと理解した人はどれだけいるであろうか。20世紀の初めの量子論、そして相対性理論が人の助けになると想像した人がどれだけいるだろうか。おそらく全くと言っていいほどいないだろう。しかし万有引力の法則も、量子論も、相対論も科学史に輝く金字塔だ。なぜ役に立たない(と当時思われていた)これらの理論がそんなにも偉大なのか?それは役に立たないからである。もう少し詳しく言えば、役に立たないのに取り組むべき価値のあるほど重要な理論なのである。分野にもよるだろうが、数学や物理では役に立てるために発明したものよりも、役に立つかどうかということを度外視して打ち立てた理論の方が圧倒的に重要なことが多い。

とはいえ、当時役立てることからはほど遠かった量子論は、現在の科学技術、人々の周りで最も中心的な役割を担っている。現在最も役立っている理論は量子論だといっても過言ではない。相対論も現在ではカーナビなどの技術に取り入れられている。

役立てるための短期的な科学技術ももちろん大事だが、役立つかどうかなどを度外視して真に重要な理論を研究している科学者たちに対しても、周りの人は見守ってほしいものである。それが結果的に科学立国として大国になるために必要な資質である。

津波の原因は地震だけではなかった。想定外災害時代に突入した日本

10月4日(日)、NHKで「巨大災害」という番組を観た。いま注目されている災害の一つに、「カルデラ噴火」がある。カルデラ噴火は普通の噴火とは規模も質も全く違い、桁違いの巨大災害をもたらす。鹿児島の桜島では、普通の噴火は桜島の火口から噴火するが、カルデラ噴火では桜島が浮かんでいる鹿児島湾全体が噴火口となる。

カルデラ噴火は鹿児島湾だけでない。阿蘇山などをはじめ、北海道から鹿児島まで日本にはカルデラが多数存在する。日本でカルデラ噴火が起きる頻度は平均すると6500年に一度だそうだ。

そしてこのブログのタイトルでもある津波についてだが、津波は地震の専売特許ではないという。驚くことに火山の噴火でも津波は起こることがわかっている。厳密に言うと、海底噴火が原因の津波である。鹿児島湾では地上にある桜島だけではなく、鹿児島湾内の海底でも噴火が起きるという。そうなれば鹿児島湾沿岸では10メートルにもなる巨大津波が襲ってくる。

日本に住んでいる限り、巨大自然災害からは縁が切れないといっても過言ではない。そして東日本大震災から学んだこと、「想定外」はもう許されない。想定外はいつ起こってもおかしくないのである。従来ならカルデラ噴火などは想定外だったかもしれない。海底噴火による津波が起これば想定外と言われたかもしれない。しかし想定外が当たり前になった現在、もう想定外は存在しない。

日本人には自然災害に対してもう想定外と口にすることはできなくなってしまった。頭の片隅に、そのような想定しえないことが起きる可能性というものについて気を留めておく必要がある。

ラグビー、サモアに快勝!スポーツに興味を持つためには。

先ほどまで行われていたラグビーワールドカップ・サモア戦に日本代表が圧勝!テレビを観ながら観戦するも、手に汗握るというよりかは安心して観ていた。後半戦には期待はいかに4つのトライを奪って勝ち点プラス1点を追加できるかに変わっていた。プラス1点は惜しくも逃したが、日本人として非常に気持ちのいいスポーツ観戦ができた。

ところで本当のところを告白すると、僕は南アフリカ戦に勝利するまではラグビーにはほとんど興味がなく、超にわかミーハーなラグビーファンである。僕がラグビーのことを書けば、以前からのラグビーファンに怒られるかもしれない。しかし今回のラグビーをテレビ観戦して(まだ2戦しか観戦していないが)思ったことは、興味がない一番の原因はその競技が面白くないというよりも、そもそもその競技のルールを知らないというのが一番の原因だと感じた。

僕は南ア戦の勝利で盛り上がった後のスコットランド戦で初めて真面目にラグビーを観戦したが、まず一番気にしたのはそもそもラグビーのルールとはどうなっているのかということだった。幸いテレビの右端に非常に丁寧にルール解説が随時なされており、反則があった場合はどういうプレーが反則の対象だったかということが表示されていた。そのおかげで必死にルールを理解しようと思えば一戦80分を観戦するだけでも大筋は理解することができた。そしてルールの理解が深まるにつれゲームが非常に面白く感じるようになった。正直言ってラグビーがこんなに面白いスポーツだったとは自分でもびっくりだ。

結局、スポーツに興味を持つ一番の近道はルールを覚えることだと感じた。そして日本人選手、日本代表が強くなれば、その競技に興味を持つきっかけになる。グループリーグはあと一戦(アメリカ戦)残っているが、その一戦が今から非常に楽しみである。人気者になった五郎丸選手、そして日本代表全ての選手の健闘を祈りたいと思います。

追悼イベントの前に、完全なる銃規制を

10月1日、またもやアメリカの学校で銃乱射事件が起き、多数の死者が出た。この銃乱射事件のにニュースを見ていると毎度のことながら集会を開き、アメイジンググレイスの合唱がなされていた。集会を開くこともアメイジンググレイスを歌うこともいいが、肝心な銃規制がほとんど進まない。

アメリカでは銃の所持の自由が主張され、全米ライフル協会が政治の世界でも力をふるい、完全なる銃規制法案が全く可決しない状態がずっと続いている。銃乱射事件が起こるたびに追悼集会が開かれるが、もうそのような映像を見るのに僕は辟易している。もちろん集会を開いている人たちは全く悪くないが、このような集会が恒例化され、イベントとなりつつあるように思えるのだ。

何百回追悼集会を開くより、一つの銃規制の法案を通す方が圧倒的に重要であるし、このような追悼集会を起こさなくていい社会にしなければならない。

アメリカ国民が、そして全米ライフル協会がいくら綺麗ごとを言っても、現在のアメリカの銃社会を見ると全てがしらけて見える。全米ライフル協会という圧力団体がロビー活動で政治家を、人々を半ば脅迫するような社会が本当に真の民主主義社会だといえるだろうか。奴隷解放、黒人と白人の平等化を進め、黒人のオバマ氏が大統領になった今、銃の完全規制は奴隷解放に匹敵するくらいの乗り越えなければいけない大問題ではないだろうか。