月別アーカイブ: 9月 2015

民主・枝野氏が「ナチスと同じ立憲主義の破壊だ」と安倍批判

民主党の枝野氏が、現在の安保法案の議論に対して、「この法案を成立させようというプロセスを考えると、まさに立憲主義の破壊だ。ある学者が言っていたが、憲法秩序を破壊する一種のクーデターだ。」と安倍政権を批判した。これは非常に本質をついている。この安保法案の一番の問題は、法案の中身ではなく成立へのプロセスだからである。

この法案自体は決して「戦争法案」と言われるようなものではない。戦争を未然に防ぐ、あるいは世界の安全保障に貢献するための法案だと思っている。しかし現在進行しているようなプロセスを認めてしまうとどうだろう。非常に悪しき前例になってしまう。安倍氏には悪意がなくても後世の政治家がこの悪しき前例を根拠に暴挙に出ることが考えられる。

立党以来改憲を標榜している自民党がなぜこの機会を改憲の機会にしなかったのか、非常に疑問である。この安保法案は改憲の好機だったはずだ。しかし安倍政権は解釈変更で乗り切ろうとしている。

この安保法案を解釈変更で済まそうとしていることについては過去に僕のブログでも問題視してきたはずだが、この際は枝野氏をはじめとする野党は徹底的に究明してほしいと思う。そうでないと世界から評価されている安保法案が悪法と認識されることになってしまうであろう。

和歌山県太地町でのイルカ捕獲批判について

ここ数年、和歌山県太地町でのイルカの追い込み漁が世界で批判を浴びている。追い込み漁が残虐で他の狩猟法が残虐でないという理論は僕には理解できないが、それ以上にイルカ漁だけ批判を浴びていることには非常に疑問を感じる。

人間はいろいろな動物の肉を食べて生きている。完全な菜食主義者と言うなら別だが。イルカを食べているかどうかはともかく、ほとんどの人は牛肉は食べているだろう。しかしそれと同時にほとんどの人は数人前に切られた肉片しか目にしてないだろう。もちろん普段食している牛肉ももとはと言えば生きている牛だ。そして食膳に出てくる前には必ず殺されている。この牛を殺される「作業」を見たことはあるだろうか?おそらくほとんどの人は(自分も含めて)見たことはないであろう。しかし容易に想像できるように非常に残虐な作業であろう。

イルカの追い込み漁が非難を浴びているのは、牛でいうところの殺す作業をたまたま映像で流されたことによるものだ。牛の殺されるところを映像で見て、残虐だから牛肉は食べてはいけないと言う人はいるだろうか?もちろんいないとは言わない。しかしほとんどの人は牛肉を食べ続けるだろう。むしろ牛肉を食べる人は牛が殺されるところを意識的に見ようとはしていないのかもしれない。

昔から日本人は肉を食べる時には、命あるものをいただく大切さを感じていたはずだ。今は料理として出される最終工程しか目に見えないので、そのような大切さを感じることもほとんどなくなった。イルカ漁もそうだが、現在も我々が食べている牛肉・豚肉ももとはと言えば殺されて食されている、そのような命への感謝の気持ちを忘れてはいけない。イルカ漁問題も、それが残虐だと非難するだけでは問題の全体が見えていない。

安倍総理70年談話・外国語版

8月14日、安倍総理は戦後70年談話を出したことは、日本国内はもとより海外でも波紋を与えた。日本人は普通に日本語で話された、あるいは日本語で書かれた談話を見たものと思われるが、実はこの70年談話、外国語版も同時に公開されたのである。具体的には英語版・中国語版・韓国語版だ。しかしこの中で韓国語版は英語版・中国語版の10分の1しか閲覧されていないのである。人口比を考えれば単純に比較できるものではないが、具体的な数で言うとたった五千なのである。逆に言うと10億を超える人口を持つ中国でも閲覧数は五万ということになる。

中国はもとより、特に韓国では談話が発表された時には予想された通り非難の嵐だったが、その中で談話の中身を実際に見た人はどれだけいたのであろうか。このことからメディア・世論が煽っていたことは明らかである。

アメリカ・オーストラリア・イギリスには事前に外務省のルートを通じて伝えられており、談話への評価は非常に高いものであった。しかし中国・韓国ではあれだけ注目されていたにも関わらず、内容そのものにはほとんど目を通されていないのである。

相手を見ずに批判だけは大々的に行う。日本及び日本人にはそのような相手に失礼なことはしないように、中国・韓国を反面教師としなければならない。相手国を批判するときには相手国の目を見て礼を尽くして批判しなければならない。

戦後の日本はディズニーランドか

8月31日の田原総一郎さんのブログを読んだ。その中で田原氏と元東京都知事の猪瀬氏の対談について触れていた。そこで猪瀬氏は「戦後の日本はディズニーランドだ」と述べたらしい。もちろん僕自身も戦後の日本しか知らない世代であるが、現在の子供も含め、戦後世代は世界のサバイバルを知らない世代だ。日本国内は厚く保護され、猪瀬氏が言うように戦争は「想定外」なのだ。

現在、安保法案問題が問題になっている。そして安保法案賛成派も反対派も共にほとんどの人が戦後世代だ。戦争を実体験として知らない。戦争は残虐であり絶対に起こしてはならない。それは安保法案賛成派も反対派も同じだ。安保法案賛成派は戦争賛成派ととらえられるような発言があるが、安保法案賛成派の人たちは戦争を起こさない、あるいは未然に防ぐために安保法案が必要だと考えているのである。

吉本芸人の小藪千豊さんは、今の現状をこのように表現している。「中国がおもいきりミサイルと軍人をバーっと並べている」と。まさしくそれが現状なのである。今、沖縄から米軍基地を無くしたらどうなるか。中国は沖縄も自国の領土だと主張している。中国は無傷で沖縄に上陸できるのである。日本が攻めなくても他国が攻めてこないとは限らない。今までは米軍及び自衛隊の抑止力が働いて紛争に巻き込まれなかったのが現実である。それを何もしなくても他国が攻めてこないと勘違いしてはいけない。

安保法案反対派を否定するつもりは全くない。安保法案を反対するのも一つの意見であろう。しかし安保法案を否定してそれだけで終わりでは明らかに無責任である。安保法案賛成反対に関わらず、いかにして紛争が起こらない世界を作るかを真剣に議論しなければいけない。

日本人のディズニーランド気分はもう終わりにしなければいけない。もちろん戦争をせよなんていう気は毛頭ない。しかし日本、そして世界の安全保障について、今世界が置かれている現状を直視して真剣に考えなければいけない。

警察の暴力団対策について

初めに述べておくが、僕は暴力団に対して容認する気は毛頭ない。しかし現在の警察・法律の暴力団対策についてはやり方としてどうかと思うものもあり、それが現在の山口組の分裂騒動にも無関係ではないのではと思う。

ここ十年前後の暴力団対策関係の法案に関して思うことは、一つに法案が果たして効果的かと思われること、もう一つは暴力団に逃げる隙を一切与えないのはかえって暴力団の行為をエスカレートさせるのではないか、と言うことである。

数年前、テレビで実に不毛な議論がされていた。暴力団にサービスを提供するのが違法だと言う法案ができた時だ。蕎麦屋の出前は少人数なら個人的な事だからOKで、集団に対しては暴力団の会議であろうと考えられるからダメだというものだ。では何人前までの出前はOKで、何人前からダメなのかと真剣に議論されていた。実にバカバカしくて不毛な議論だ。

ここ数年の暴力団対策関連法案を見ていると、昔のアメリカの禁酒法を思い出す。趣旨は少し違うが、禁酒法は害のあるもの(酒)を完全に抑え込んだために地下ルートができ、アル・カポネらマフィアの巨大化のきっかけを作ってしまった。今回の山口組分裂も暴力団の資金源である金融ルートを地下に潜らせ、膨大な資金が組内部で偏ったことが発端になったようだ。

それと、それら暴力団対策法案を立案しているのが、現場で捜査に当たっている警官ではなく、霞が関のキャリア官僚が一手に行っていることも原因であるみたいだ。警察キャリア官僚は現場の様子を実際に見てはいない。法案によって暴力団とともに現場の警官も振り回されているようだ。

もっと現実に合った効果的な対策をすることが必要だ。そのためには少しの逃げ道を作ることも必要かもしれない。とにかく現場の警官の声をしっかり拾わなければいけない。

シリア難民の男児の死

今、シリア難民の男児が海岸で死亡している写真が波紋を呼んでいる。難民問題に関して日本人は疎い。日本は島国でどの国とも陸で接してなく、難民の出身国から非常に遠いと言うのが一番の理由であろう。しかしヨーロッパは紛争を抱える国とは陸で接しており、貧しいアフリカの国とは地中海を隔てて対岸にある。ヨーロッパの国々にとって難民問題は非常に差し迫った深刻な問題なのだ。

現在EU内で問題になっているのが、難民に関する負担のEU内格差だ。難民に寛容な国と厳しい国がはっきりしている。今、EU全体で難民受け入れ基準を全体で模索しているところのように思える。

とはいえ、EUの難民の問題を日本人が言うのは、自分は何の影響もない外から口出すようなもので無責任にも思える。日本は難民受け入れに関して非常に消極的だ。世界第三の経済大国である日本が難民問題にほぼノータッチなのは、国家としての責任を果たして言えるだろうか。

先に述べたように、日本人は難民問題に対して非常に鈍い。難民問題とは国境の濃度を策定する問題でもある。現在世界的に国境の濃度は薄くなりつつある。EUは国境を無くす試みでもある。そしてEUの難民受け入れは、EU以外の国とも国境を薄くしようという取り組みでもある。しかし日本は地理的に海が強固な国境となって隔離されている。国境がありながら、国境のことを普段は全くと言っていいほど考えていないのである。

今回のシリア難民の男児の死は、これだけ世界的に経済発展している中で、まだ多くの国が経済発展の恩恵を受けるどころか生命の維持さえ危うい状況にあることを伝えている。

五輪エンブレム騒動で思うこと

最近は佐野氏の五輪エンブレム盗作騒動でもちきりだ。五輪エンブレムが発端となって、サントリーのバックに印刷されている絵のデザインなどの騒動をはじめ、佐野氏周辺のあらゆるところに波及している。このことに関しては僕は二つのことを心配している。

一つは佐野氏の精神状況だ。佐野氏が本当に盗作したか、たまたま似てしまったか、僕には断言できない。それは佐野氏自身しかわからない。しかし佐野氏が故意にしたかしなかったかにかかわらず、現在の佐野氏に対するバッシングは異常だ。現在まで似たような騒動で悲劇が繰り返された。去年もSTAP細胞騒動による笹井氏の自殺という悲劇が起きた。佐野氏がしたことがどう裁かれるか、それは裁判所のみが知るところである。一般のネットユーザーが想像とノリで中傷を書き込むことは時には犯罪になる。佐野氏のエンブレムは確かにベルギーの劇場にエンブレムに酷似している。これは故意にしたかどうかにかかわらずチェックを怠ったことに関しては佐野氏のミスであろう。しかし今のメディアが搖動しているバッシングが異常だ。佐野氏の身上を心配する。

そしてもう一つは他のデザイナーへの精神的な影響である。佐野氏のデザイン酷似でこれだけバッシング・中傷されると、他のデザイナーも委縮してしまう。自分の作ったデザインが独自の発想で作ったものであっても、もしかしたら他に似ているデザインを発表している人がいるかもしれないという恐怖である。実際、一部のデザイナーの間ではデザイン考案に大きな不安を感じる人もいるみたいだ。全てとは言わないが、似たデザインが知らず知らずに考案されることは十分にあり得ることだ。その可能性もあることを全ての人は理解すべきである。デザイナーが委縮して思い切った仕事ができなることを僕は非常に恐れる。

とはいえ、今回のオリンピックエンブレム騒動はひとまず取り下げという手段がとられ、新たなエンブレムを選考することになった。日本国民全員が気持ち良く東京五輪を迎えられるように新たなスタートを切ってもらいたい。

藩・国連事務総長が中国「抗日戦勝70年式典」に出席

藩・国連事務総長、つまり国連のトップが、中国で今日9月3日に開かれる抗日戦勝70年式典に出席する。これに対して日本国内だけではなく、国連内部でも疑問の声が上がっている。

藩氏は韓国人だ。韓国と言えば今回の中国の式典に日米の静止を振り切って朴大統領が出席するニュースが問題になった。しかし藩氏の場合、これとは質的に問題が違う。藩氏は韓国人である前に国連という国際中立機関のトップだ。したがって藩氏に対しては高度な中立性が求められる。藩氏が特定の国に偏るということは、国連も偏ることを意味する。一説には次期韓国大統領選に向けて、中国と親密な関係を作ろうとしていると言われている。

今回はもちろん終戦70周年を祝うという意味があるが、それと同時に「抗日」というタイトルがついているように日本に対しての非難の意味もある。中国の思惑としては後者の意味の方が強いだろう。

藩氏は現在の重要なポストの肩書から言って、事務総長退任後の韓国大統領就任は非常に現実味のある話だ。現在の韓国の大統領は反日でないと務まらないようになってしまった。これはイ・ミョンパク前大統領の竹島上陸が火をつけてしまったのである。もしかしたら藩氏自身は個人的には反日でない可能性もある。しかも高度な中立性が要求される国連と言う場で組織を動かしている。しかしそうであろうとなかろうと、次期大統領も反日攻勢で日本に当たってくることは容易に想像できる。

次期韓国大統領になるかもしれない藩氏が、中立心を保って日本と接することを切に願うばかりだ。

知る権利と機密を守る義務(クリントン氏の個人メール問題をめぐって)

いつごろからか、知る権利というものが声高に叫ばれるようになった。知る権利自体は国民の重要な権利であることには間違いないが、その一方で機密を守る義務も存在する。これら二つの物は天秤にかけられるような単純なものではなく、国家機密に関して言えば多くの場合、知る権利より機密を守る方が圧倒的に重要だ。もちろん、政治家の政活費のように明らかにオープンにしなければならない公共情報もあるが、国家情報に関しては事によっては国家の存亡にかかわることもある。

最近、アメリカのクリントン氏の個人メールが問題になっている。単純に言えば、国家の機密情報がセキュリティの甘い個人メールでやり取りされていたというものだ。クリントン氏は現在大統領選出馬に向けて活動中だ。しかしアメリカの大統領になろうかという者が、セキュリティの認識に関してこれまでも甘いというのは明らかに問題だ。国家機密が漏れるとどのようになるか、それはハッカー集団アノニマスによる米国家機密のハッキングによって世界が混乱、さらに不信の渦を巻いたことから明らかだ。

これらの話は国家レベルのものだが、個人レベルでも似たようなことが言えるのではないか。個人のプライベートなことは大げさに言えば個人機密である。これが漏れると生活に支障が出る者も多いだろう。他人のプライベートを知る権利などは通常は誰も持っていない。

では、知る権利とは何に関してであろうか。最近はむやみに知る権利という言葉ばかりを主張して、何に関して知る権利があるのかを全く理解していない者が多い。知る権利とは、

「税金などを使って行われている公共性に高いもの、そしてその税金がどのように使われているか透明化しなくてはならないもの、かつ国民の安全を守るために守らなければいけない機密性の高い情報以外のもの」

とでも言えるのではないだろうか。もちろんこれら以外のものにも知る権利が適用されるべきものがあるかもしれない。しかし知る権利を主張するとき、それと同時に必ず秘匿にされなければならない情報も存在することを認識しなければならない。

MRJ(三菱リージョナルジェット)が10月に初飛行

三菱航空機のMRJ(三菱リージョナルジェット)が10月に初飛行することとなった。念願の国産ジェット機初飛行である。厳密にはホンダジェットが先を越しているが、国産中型旅客ジェット機としては初だ。

戦後日本はアメリカから航空機禁止令を発令され、航空機を作ることが禁止されていたが、40年前のプロペラ機開発を経て念願のジェット機だ。飛行機の重要部分は三菱重工業が受け持つが、繊維会社のハイテク機材は見逃せない。この日本のハイテク機材の開発によって日本はボーイングの機体製作に関わり、航空機開発のノウハウを蓄積していった。

受注の方も順調にいっているようだが、計画の遅延により不安の声もきこえなくもない。MRJの開発は半オールジャパンとでも言っていいのではないか。

10月の初飛行は楽しみでもあり、ロケットの打ち上げ時のような緊張感をもたらす。MRJが日本の製造業再興の起爆剤になればと願うばかりである。