月別アーカイブ: 8月 2015

マララさんの女学校

最近、ノーベル平和賞を受賞した少女、マララ・ユスフザイさんがシリア難民向けに設立した女学校が話題になっている。マララさんは一貫して女子教育の重要性を主張しており、銃撃され重傷を負いながらも主張を曲げないところには頭が下がる思いだ。

イスラム圏では今でも「女子に教育はいらない」という風潮が強いが、マララさんの運動をきっかけにして女子が男子と対等に扱われる社会に変えようという風が吹き始めたのかもしれない。

それに対して数日前に僕のブログでも述べた鹿児島県知事の「女子にコサインはいらない」発言は、日本人として本当に恥ずかしい思いだ。女子教育は女子に力を与え、国家としても女子が重要な戦力になる原動力となる。また、生活の向上のためには男女に限らず教育は不可欠だ。その証拠に先進国と言われる国家に女子教育を軽視する国家は皆無だ。国家が豊かになるためには女子教育は絶対に必要だ。さらに国民皆が高い知見を持つことは、紛争を未然に防ぐのにも役立つはずだ。

マララさんはこのような言葉を主張している。

「一人の子ども、一人の先生、一冊の本、一本のペンが世界を変える」

この言葉の意味を世界中の人間が理解するとき、国家の枠組みを超えて世界中で高度な文明が共有できるのかもしれない。

専念と雑念

今の僕がこれから人生を続けるためには、とにもかくにも数理物理の研究で博士号を取得しなければはじまらないと感じている。こんな歳になって何が博士だ、と言う声も聞こえそうだが(実際に周りからはそんな目で見られている)、僕にとって数理物理の研究は命の次というより命より大切と言っても過言ではない。

もちろんこんな状況になっても続けているのには、単に数理物理が一番大事だと言う以外にも理由はある。数学的物理学的構想が僕の頭の中でははっきりしているからだ。結果が出ていないのにこんなことを言うのはバカかもしれないが、自信はある。とにかく後は、頭の中の構想を形として表すだけなのだが、最後の一手がなかなか出ない。

もちろん今、博士号を取得したからと言ってどうなるわけではない。しかしこれから僕が人生を続けるためには博士号は必須だ。今は研究に専念すべきなのはわかっている。しかし金銭的な面などを考えると雑念がしばしば頭の中を支配する。そしてハッと我に返る。

回り道はいいけど、回り道ばかりしてしまった。もちろんしようと思ってしたわけではなく、回り道をせざる負えなかったのである。アクシデントの連続である。アクシデントばかりで苦しいが、悲観に思ったことはない。いろいろ考え込むわりにはかなり前向きである。自分に自信があるからかもしれない。もちろんこれで結果を出せなければ単なる勘違い人間と思われるだけだ。

周りの目を気にしていては生きていけない。そして人が指示する道ではなく、自分で考えた道を進んでいく。自分の人生は自分のものだ。自分の進むべき道に専念しながら、たまにいろいろ他の面白い、やりがいのあることもやってみよう。あっ、これは雑念か。

鹿児島県、伊藤知事の「コサインを教えて何になる」発言

8月27日、鹿児島県の総合教育会議で伊藤祐一郎知事が女子教育に関して「高校でサイン・コサイン・タンジェントを教えて何になるのか」と発言したらしい。教育方針を決める場での発言とは思えない発言である。女性蔑視ととらえられるところは許されないが、数学に対しての認識として伊藤知事の思っていることがわからなくはない。

僕はガチガチの理系で数理物理の研究を今でもやっているが、思えば大学時代、嫌いな教科、特に語学をなぜやらないといけないかと疑問に思い、大学1年の若造の頃、フランス語の教授の研究室に押しかけて二人で討論したことがある。その後も語学の授業をいかにサボるかということを考えていた。

フランス語の教授とどんな内容の討論をしたか詳しくは覚えていないが、僕は数学や物理に没頭したいので関係ない授業は迷惑だというような俗なことから、学問についてのアカデミックなことまでいろいろ話したと思う。

大学の最初の二年間は「教養課程」と言うように大学では専門以外の教養も重視され、最高学府である大学(東大が最高学府と勘違いしている人がいるが、最高学府とは特定の大学のことではなく大学そのものをさす)に見合う教養を持った人間であることが要求される。

しかし教養は何も大学の専売特許ではなく、小学・中学・高校から始まっている。文系の人間に対して数学的教養を持つことは大きなアドバンテージとなり、その人の評価は一段上がる。それとともに教養を持つことは人生を豊かにするのである。

このような教養の重要性は大人になってわかってくるものだが、鹿児島の伊藤知事はこの教養というものに対して全く理解していないのだろう。この「コサインを教えて何になる」という発言は、この歳になって教養が身に付いていないということを物語っている。

学問を理系文系に分けるのはおかしなことかもしれないが、理系の人にとっての文系、文系の人にとっての理系の知識は人間としての深さを深めるためには欠かせないものであることを理解しなければいけない。

グレーゾーンを上手く使う

物事を判断するとき、白か黒かはっきりつけることが重要だと思っている人が多い。灰色(グレーゾーン)のままにしておくのは気持ちが悪く、良くないことだと思いがちだ。それが多くの日本人の本音だろう。しかしグレーゾーンというのは白と黒の中間に位置し、白にも黒にも移行することができる。言わばグレーゾーンには柔軟性があるのだ。しかし一度黒と判断してしまえば後から白に変えることは非常に困難だ。それが顕著に表れているのが裁判であろう。

裁判官の仕事は白黒をはっきりつけて量刑を決めることだ。だからグレーゾーンの判決などはほとんどありえない。しかし一度有罪が確定してしまうと無罪に変えることはほとんど不可能だ。冤罪を無罪に変えるには90%の証拠ではダメだ。99%、あるいは100%覆す証拠がなければ無罪には変えられない。それは何万とある判決の中で冤罪が認められた例が数えるほどしかないことからもわかる。

政治の世界ではグレーゾーンと呼ばずに「玉虫色」と表現する。非常に上手い表現だと僕は思う。何色ともとれるわけだ。しかし国民にはこの玉虫色と言う表現のイメージは良くない。どうしても白黒をはっきりせよということだろう。しかし玉虫色で柔軟性を残すべきことは政治の世界では多いはずだ。

このグレーゾーンの利点を一度大きく議論することが必要だと僕は思っている。

憲法をいかにすべきか

最近、コンサルタントの大前研一氏が書かれた2年前の記事を読んだ。その当時は現在のように憲法解釈が今ほど問題になっていなかったと思われるが、大前氏は憲法改正に関して持論を述べられていた。

そこで大前氏が主張していたのが、「フレームワークをしっかり作らなければいけない」ということであった。現在、憲法解釈や憲法第九条の改正の問題が話題になっているが、そもそもそれだけやっても単に正誤表を作るだけであって憲法全体のフレームワークは全く無視されている。憲法全体のバランスが全く取れていないのである。また一部だけいじくることは必ず矛盾を生む。

現在の憲法は戦後間もなく進駐軍が中心となって作られたもので、もう作られてから70年近く経つことになる。世界情勢も当時と今とでは全く異なる。現在集団的自衛権の問題が盛んにおこなわれているが、憲法は何も安全保障のことだけを明示するものではない。とはいえ現在の憲法は、国内の体制、国家と国民・企業との関係も明確に書かれていない。

大前氏は憲法「改正」ではなく、ゼロベースで作り上げなければいけないと主張している。実際ゼロベースで作るとなるととんでもなく膨大な作業になり時間も仕事も増えるだろうが、政治家にはそれくらいの覚悟で憲法問題に取り組んでもらいたい。

「政府の広報は止めろ」、市民団体がNHKを抗議

市民団体がNHKの前で「政府の広報は止めろ」と抗議のデモが起こったみたいだ。確かにNHKは政府に寄り添った報道をやっているように思えるが、それ以上に政府を批判するような報道をしていないと言った方が良い。それに対して民放は、朝日放送「報道ステーション」のように反政府寄りの報道に力を入れており、それと比較すればNHKの政府寄りの報道がよりいっそう鮮明になってくる。

とはいえ、NHKが右に寄りすぎているならば、民放は民放で左に寄りすぎているのではないかという気がしてならない。実際、報道ステーションなどは「政府批判ありき」と思われる放送も少なくない。権力に対して批判精神を持つことはいいことだとは思うが、もう少し中間に位置した、中立的に賛否を判断できるメディアはないものかと思ってしまう。

NHKの異常な政府寄り報道の原因はおそらくNHKの籾井会長に原因があるのではと思う。籾井氏は会長にふさわしいかどうかと言う以前に人間としてどうなのかと思ってしまう。抗議する市民団体も、HNKに対してより籾井氏にターゲットを絞って攻撃したほうが一層効果があると思う。会長一人の人格でここまで媚びるのなら、逆に会長次第で大きく変わる可能性を持っている。

とにかくNHKは改革が必要だ。組織の改革の前に、トップ・経営陣の改革を行わなければならない。

ロシア副首相「はらきりして落ち着くべく」発言

北方領土問題に関して、ロシア副首相が日本に対して「はらきりして落ち着くべき」と発言したことが問題になっている。はっきり言って問題にするに足りないほどのくだらないものなのだが、少し問題にして見る。この「はらきり」つまり「切腹」の用語として国語として全くトンチンカンな使い方をしているが、外国人なので正確な使い方をせよという方が難しい問題だろう。おそらく深い意味はなくて、ただ単に「はらきり」という日本語が思いついたから口にしたというレベルであろう。

しかし日本人としては、切腹について簡単に済まされるのにはやはり簡単に見過ごせない。切腹は単なる自殺方法ではなく、日本の千年以上にわたる武家文化と切り離されない思想である。切腹は自分の名誉を守るための手段でもあった。武士のプライドの究極の姿である。とは言っても、現代の日本人には切腹の思想を全く理解していない人も多いであろう。

新渡戸稲造の著書に「武士道」がある。もともと英語で書かれたのが原著なので「BUSHIDO」というべきかもしれない。この新渡戸の著書によって日本の思想、そして切腹の存在が広く世界に知れ渡ることとなった。武士道の第12章に「自殺および復仇の制度」という章がある。ここで切腹について述べられている。武士道は僕の大好きな本であり、岩波文庫版の本を持ち歩いていることが多いが、武士道を読んで感銘を受けては、記憶力が悪いのですぐに忘れてまた読み返す。

もしかしたら、現在の日本人よりも新渡戸の「BUSHIDO」が広く世に出回った明治時代の外国の方が、日本思想や切腹について詳しいかもしれない。明治時代に新渡戸が世界に「BUSHIDO」を発信したように、いま日本国内に「武士道」を再発信し、もう一度日本人の心に武士道精神を再確認すべきかも知らない。

セブン銀行ATM稼働率世界一を支えるものは

最近何かと話題なのが中国の機械施設の不手際。先日も百貨店のエレベーターの床が外れ死亡事故が起きた。それ以外にも中国には「殺人マシーン」が数多く存在するという。びっくりしたのが、ATMで感電して重傷を負ったという事故だ。中国ではもう何を信頼していいかわからない。

そのATMの話題だが、全国のセブンイレブンの店舗に設置されているセブン銀行のATMの稼働率が実に99.9%、世界一なのだそうだ。そのセブン銀行のATMの管理を任せられているのが警備会社のALSOK。ALSOKでは保守管理だけではなく、現金の管理まで受け持っている。ATMでは現金が底を尽きても溢れても問題になる。そのためALSOKでは一台一台のATMの出入金の特性を日々研究しているらしい。最近ではセブン銀行のATMの優良さが評判になって、他の銀行のATMまで任せられるようになったらしい。銀行員の常駐するATMでも、ATM現金管理の煩わしさと危険性を考慮してALSOKが管理しているところがあるらしい。

ALSOKと言えば、レスリングの吉田沙保里さんのCMでおなじみのように警備のイメージがあるが、今では現金管理など現金の扱いそのものも行っており、ALSOKの現金センターでは一日に160億円の現金を扱っているという。

先端技術は時間がたてば真似されていずれは他社でも導入できるであろう。しかしALSOLのサービスは社員の非常に高い職業意識に基づいており、他社が単純にまねできるものではない。それに一度評価を受けるとそれが直接信頼になり、ブランドになる。高度な信頼のいる仕事はALSOKに任せようというふうに。

ALSOKは今、日本の警備事業のトップを走っているが、その高信頼で質の高サービスは世界一であろう。これも日本という国の気質がなせる業かもしれない。

朴大統領の中国軍事パレード出席をめぐって

9月に中国で、抗日戦争勝利70周年軍事パレードが行われる。今、そのパレードに韓国・朴氏が出席する方向で進めていることについてアメリカが不快感を表している。

そもそも米韓同盟の目的は共産圏からの防衛を主目的としている。もちろんその仮想敵国はロシア・北朝鮮、そして中国であり、韓国は地理的にその最前線に位置する。最近様々な国が中国に歩み寄りをしている。特に英国が中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加表明をしたことには世界が驚いた。しかしこれらのことは経済関連の提携であり、安全保障面においてはほとんどの国が距離を置いている。

しかし今回の朴氏の出席は軍事パレードに対してであり、軍事・安全保障面においても中国に歩み寄ることを表明していることに等しい。このことにアメリカが不快感を表すのは当然だ。韓国軍組織はアメリカ仕様であり、韓国軍と米軍は一体となっている。それがもし韓国が中国に付くとなれば米軍の機密事項が大量に漏れることになる。民主主義国家側にとっては死活問題である。おそらく最近は米側も韓国に対して相当警戒感を持っているだろうし、これからの最新の軍事機密に関しては韓国に伝えることはないであろう。

韓国が中国に近づけば近づくほど、日米関係が親密になり重要になることが予想される。現在韓国では反日の嵐が吹き荒れているが、日韓が本当に反目しあう日が来ることも可能性がないとは言えない。日本も韓国関係に対しては十分警戒せざる負えないだろう。

リニア事業は果たして成功するのか

今、東京・名古屋間のリニア建設が始まろうとしている。総事業費9兆円の超巨大事業だ。最近話題の国立競技場の2500億円の比ではない。この9兆円という数字はあまりにも膨大すぎて、果たして採算がとれるレベルなのかどうか、我々一般市民には全く判断できない。しかし東京・名古屋・大阪ラインは輸送のドル箱路線だけに、この路線に限っては採算を取り戻すのが可能なのかもしれない。

現在、世界で次世代高速交通の開発が行われている。リニアに関しては中国の一部で営業されているが、本格的なリニア技術開発に関しては日本が世界を大きくリードしている。しかしそれは世界に勝っているというより、外国勢はリニアの技術の難しさ、事業費の巨大さに実現性を見出していないのであろう。もし世界でリニア研究が進むときが来るとすれば、日本の東京・名古屋間の営業が成功するのを見届けてからになるのかもしれない。

次世代交通はリニアだけではない。アメリカではハイパーループというシステムが考案されている。減圧されたチューブの中を車両が時速千キロを超える超スピードで走るものだ。しかしこれは建設路線の地形が限定され、今のところはほぼ直線路線のサンフランシスコ=ロサンゼルス間でしか想定されていない。

とはいえ東京=名古屋=大阪ラインもかなり特殊だ。この短いラインの中に膨大な人口の行き来があり、経済大国かつ技術大国の日本でしかリニアのスタートを切れないであろう。

リニア事業はJR東海が他の金銭的支援を受けずに独自に遂行することが決まっている。それだけにJR東海の自由度は非常に高いが、これをビジネスとして成立させるにはかなり困難なことであることは間違いない。

維新の党の政党としてのモラル、松野代表・柿沢幹事長をめぐって

今維新が混乱している。というより迷走していると言っていい。橋下大阪市長が政界引退を表明してから核となるものがなくなり、求心力がなくなったかのようだ。

山形市長選挙に対して民主党などの他党候補を維新の党員が独断で、言い方を変えれば好き嫌いで判断して応援に行ったというのだ。それがまだ一般党員ならわがままで通るかもしれない。しかしその人物は維新の党の幹事長である。もうわがままで通るレベルの問題ではない。幹事長は党員がわがままな行動を起こした時、規律を正す役割が求められている。しかしその規律を乱したのが幹事長その人である。そして党代表は、それは個人の自由だとかばっているのである。もう松井大阪府知事が言ったように、「病院に行った方がいい」というレベルだ。

政党とは理念を共有する政治家同士の結社だ。もちろん細かいことまで気にすれば考えの違いもあるだろう。しかし理念を共有する同士をバックアップする。さらにそれを取りまとめるのが党執行部だ。しかし今回のことは、党執行部が、「もうバラバラになろう、でも「維新の党」という肩書は使っていいよ」と言っているようなものである。この様な状態ではもうこの党の寿命は長くない。やはり維新の党は「橋下新党」であって、橋下氏が抜ければ存続しえないということか。

話はそれるが、今僕は、自民党が野党時代にあるとき、石破茂氏が書いた「国難」という文庫本を読んでいる。石破氏は僕が最も信頼のおいている政治家であり、ポスト安倍は石破氏しかいないと思っている。石破氏は現状を非常に透徹に見通している人であり、彼は民衆受けするような甘い言葉はささやかない。だからこそ逆に信頼がおけるのである。

ロシア・・・アジアとヨーロッパの狭間で

今、最も情勢が動いている地域は、ヨーロッパ・東アジア、そして中東であろう。そこで最近あまり噂にならないのがロシアではないだろうか。少し前まではウクライナ情勢でもめていたが、最近はその話題もめっきり聞かなくなった。ロシアも我々日本一般市民の耳に入らないだけで、裏では活発なやり取りがあるのだろうが、活発に動いているヨーロッパと東アジアの狭間でロシアは今どう動いているのだろうか。

ギリシャ問題で揺れるヨーロッパ、日中韓問題で日本包囲網を築く東アジア、ロシアはその両方と接しており、密接に関わっている。とはいえ最近はロシアはヨーロッパよりも東アジアに軸足を置きつつある。巨大化した中国の存在と、シベリアの資源問題だ。

どうやら中国はロシアと近づきたいらしい。もちろんその理由は日本包囲網を敷くことだが、それ以外にもシベリアの地下資源を虎視眈々と狙っているとも言われている。それに対してロシアは中国を警戒しているみたいだ。最近中国は、「北方領土をロシアのものと認める代わりに、尖閣諸島を中国のものと認めてほしい」とロシアに投げかけた。それに対してロシアは「北方領土は日本との二国間の問題だ」と突っぱねたらしい。どうやらロシアは日本との間に問題はあるものの、中国よりかは日本の方が信用できるらしい。なにやら北方領土問題も少しは解決しそうな雰囲気である。

ロシアが東アジアに重点を置きだした今、日露間の問題、そして相互互恵関係を築くチャンスかもしれない。シベリアの地下資源は日本も喉から手が出るほど欲しいものであるし、中韓をけん制する意味合いでもお互いにとって良い関係だと思う。

「アマゾンはブラック企業」批判問題

現在、大手通販会社アマゾンがブラック企業だという批判が強くなっている。元社員などの告白によって、劣悪厳しい労働環境が暴露されているのだ。これらの批判は主にアマゾン内部に対してのものだ。

しかし顧客に対してはどうだろうか?実は僕はつい先日、アマゾンのシステムで冷や汗をかいた。なにやらアマゾンには「プライム会員」なるものが存在するらしい。意識もしていなかったのでそんなものの存在さえ知らなかったが、先日クレジットカードの請求を見ると「プライム会員料 3900円」なる請求が載っていたのだ。あわてて何のことか調べてみると、どうやら無意識のうちに使った「速達便(無料)」みたいなものを一度利用していたことが原因だったことがわかった。しかし無料とは言っても、一度利用すると一か月後に自動的に正式な会員になり、年会費3900円が取られることになるのである。この一か月という期間といい、何の通告もなしに自動的に有料になるシステムといい、ほとんど詐欺みたいなシステムである。ネットで調べてみると、この被害にあっている人は結構多いみたいで、ネット販売業界を大きく独占する企業がこのような行為に出ることは自殺行為だ。

今まではアマゾンに対して好感を持っていたが、この一件で一気にイメージを害して気分が悪くなった。少なくともこのシステムに関して言えば、アマゾンは限りなくブラックだ。アマゾンはいつから詐欺企業になったのだろうか。アマゾンを利用せざる負えないことも多いだけに、僕自身もかなりショックである。

昭和という時代を生きた、昭和天皇

先ほど、たまたま昭和天皇の玉音放送(終戦を宣言するラジオ放送)についての記事を見かけた。僕自身、You Tubeで玉音放送を何度か聞いたことがあるが、歴史ある由緒正しいお言葉で話されているので解説がないとなかなか内容が理解できない。しかしその昭和天皇のお言葉に当時の国民はただならぬ事態を感じたのであろう。

玉音放送を全部聞いたことがない人でも、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というくだりは聞いたことがあるという人は多いのではないだろうか。この玉音放送は神である天皇が人間天皇にくだった境目でもある。

終戦まで天皇は神であった。日本は全てが天皇を中心に回っていた。国民の命は天皇のためにあった。しかし他国の独裁国家とは趣が違い、国民皆が天皇に敬意を表していた。しかし天皇の名のもと、軍部が躍進し、戦争へとまい進していくことになる。戦時中の天皇は地位こそ大元帥であったが、指示は軍部が出し、天皇は最終決定者であった。

そして終戦を迎え、昭和天皇は人間となり、日本国の象徴となった。戦前からバブル期まで在位64年、歴代で最も長い在位期間である。そして帝国日本から民主主義国家日本へと全く体制の異なる二つの国を生き抜いてきた、激動の時代を駆け抜けてきた天皇である。

イギリスのエリザベス女王がこのような言葉を発せられている。

「私の気持ちがわかるのは、世界で裕仁(昭和天皇)だけだ」と。

昭和時代、そして昭和天皇の64年はそれだけでも長い年月ではあるが、これから将来、この昭和という時代は日本史上最も激動の時代であったと記憶されることだろう。

芥川賞・又吉さんへのタメ口取材の犯人捜しをめぐって

最近は芥川龍之介賞を受賞した又吉さんの話題で持ちきりだ。そこで一つの出来事が問題になっている。又吉さんに取材した女性記者が又吉さんにタメ口で取材を続けたことに又吉さんが不快感を表した。又吉さん自身はその人物の対して特定する情報は一切流していないが、ネット上では不確定な情報に基づく犯人探しが起こっている。

そこで一人の女性芸能記者が犯人だとされ、その情報がネット上で急拡散しているのだ。実際はその情報は間違っているとほぼ断定されている。おそらくネット上で一人が推測し掲載したネット情報がツイッターなどで拡散したものと思われる。その人物のまとめサイトまでできているという。

この手の無関係者に対する犯罪者扱いは最近頻繁に起こっている。そこで問題になるのがネットモラルというものであろう。最近の、特に若い人は、ネット検索でわからないことは全て知ることができると信じている人が多い。そして一番の問題は、ネット上の情報が全て正しいと信じ込んでいることだ。これは非常に深刻な問題である。ネット上の情報は疑ってかかることも重要だ。簡単な例を挙げると、そのネット情報の出所は信頼性の高いところかということを気にすることだ。

信頼できる情報にはほとんどの場合、出典、そして執筆者の名前がはっきりと明らかにしてある。それはその情報に関して執筆者が責任を持ちますよという意思表示である。出典・執筆者を隠している情報は怪しい可能性が高い、あるいは不確実である可能性が高いということは言うまでもない。僕のこのブログに執筆者(私)の名前を明らかにしているのも、執筆内容の責任の所在を明らかにするためだ。匿名でネット上にでたらめな記事を書くのは卑怯を通り越して犯罪行為である。そして今回の出来事のようにツイッターでツイートしている人も、気軽な気持ちでしているのだろうが犯罪行為に加担していると判断される可能性は高い。

ITに関するスキルは大人よりも若い人、子供の方が圧倒的に高い。そのために大人が若者・子供にITモラルを伝えることが非常に難しくなっている。しかし大人たちは、自分はITに詳しくないから関係ないよ、という無責任な態度をとるのではなく、大人も積極的にITの仕組みを勉強し、若者・子供にITモラルを伝えられるようにならなければならない。

ウィルスセキュリティソフト会社が同業者・末端利用者を攻撃?

ウィルスセキュリティソフト会社が自らウィルスを作成し、ライバル業者・末端利用者を攻撃していたというニュースが入ってきた。まだ真偽のほどは定かではないが、IT機器に対するセキュリティ意識を改めて問われる機会になったのではないかと思う。

ここで注目は、この会社がロシアの企業であるということだ。言うまでもなくロシアは中国と並んで共産主義国、何かと怪しいことが多い。中国は情報統制など民間に公的機関が介入することが多く、民間企業をコントロールしようとしている。白物家電ならともかく、IT機器などを利用する場合は中国製には気を付けた方がいい。最近では中国のレノボのパソコンに出荷前にウィルスが組み込まれていたことを思い出す。レノボは米IBM社のパソコン事業を買収して急成長したことで有名であり、その元IBMブランドを信用して購入する人も多いが、この事件で信頼性は一気に揺らいだ。そして今回の事件である。もしこの事件が本当ならば、ウィルスセキュリティソフト会社がウイルスをばら撒くという前代未聞の出来事である。

中国は世界第二の経済大国になり、ロシアも大国ではあるが、国家の信頼性は二国ともまだ底辺レベルのようだ。商品が安いに越したことはないが、その安さがリスクとのトレードオフになっていないか、生産国などに注意して考慮しなければいけない。

桜島、大規模噴火の予兆か

桜島の活動がかなり活発になり、大規模噴火が起きる可能性が高いと発表された。予兆とは火山性地震・山体膨張などである。桜島は普段から年に千回以上のペースで火山活動が起きているが、今回の火山活動は気象庁の観測開始以来最大のものであるらしい。余談だが、僕が鹿児島に行ったとき、路面電車の中には火山灰を避けるために貸し出す傘が数本車内に準備されていた。鹿児島市民にとっては火山活動は生活の一部なのであろう。

ところで日本にはカルデラと呼ばれる巨大な火口がいくつもある。その中でも特に有名なのが阿蘇カルデラであるが、実は鹿児島の桜島も阿蘇に匹敵するくらいのカルデラなのである。桜島の頂上にある火口のことではない。桜島の浮かぶ鹿児島の湾の内部全てが実は姶良カルデラと呼ばれる巨大カルデラなのである。桜島は姶良カルデラの中に浮かぶ小さな山に過ぎない。今回の桜島の噴火は桜島の火口からの噴火と思われるが、数万年に一度くらいの割合でカルデラ全体からの噴火が起きることがある。いわゆる超巨大カルデラ噴火である。それは富士山の噴火の比ではないくらい巨大なものだ。超巨大カルデラ噴火が起きれば、九州はほぼ全滅すると言われている。

ともあれ、桜島の活動が人的被害のないレベルであることを祈るが、日本は火山・地震とも世界でもまれにみる地学的災害大国であり、常にその予兆を監視することを怠ることができない。

報道ステーション・保阪正康氏の見解に物申す。「これからの若者に罪はない」

8月14日、戦後70年安倍談話が発表された。20分以上に及ぶ長い談話で内容も多岐にわたり、焦点が見いだせなかった人も多いのではないかと思う。そこで14日の報道ステーションでは保阪正康氏をゲストとして解説、見解を述べていた。

しかしその保阪氏の見解に関して僕はことごとくしっくりこなかった。その中でも「お詫び」に関する見解である。日本が侵略戦争をしたことに関しては、政府としてはこれからもお詫びの気持ちを持ち続けなければいけないのかもしれない。しかし国レベルの話と市民・個人レベルの話は全く別である。安倍首相は、戦争とは直接かかわっていないこれからの子供・孫にまでお詫びをさせるわけにいかないと述べた。僕も国のトップが未来を生きる日本人たちに負担を強いない、このような見解を持つことは大賛成である。そのために今生きている大人たちは努力していかなければならない。

しかし報道ステーションの保阪正康氏の見解は、「日本人である限りこれからの子も孫もお詫びの気持ちを持ち続けなければいけない」と発言した。この見解に僕は大反対である。先ほども言ったように、国の見解と市民・個人の見解は分けて考えなければならない。しかし保阪氏の見解は、「昔の日本が罪を犯したのだから、これからの日本の若者も罪を背負っていかなければいけない」という趣旨の発言をされていた。まったく見当違いも甚だしい。

「今の若者、これからの若者に罪はない!」

僕はこう叫びたい。

保阪氏は今回の安倍談話は論理がバラバラだと言われたが、むしろバラバラなのは保阪氏の方で、この人が本当に権威ある学者なのかと目を疑いたくなるくらいである。それに呼応する古館さんも古館さんで、保阪氏に対して何も意見を述べられないである。もちろん古館さんは進行役に徹してゲストを尊重してのことだと思うが、古館さんはアナウンサーではなく「キャスター」なんだから、今回の安倍談話に関しても個人的な見解をもっと述べてもいいのではないかと思う。

報道ステーションも保阪氏の見解を、いろいろあるうちの「一見解」として示すのならばともかく、番組としての見解として放送するのなら非常に残念である。

追伸:保阪氏は学者ではなく、作家とのことです。

安倍談話発表

先ほど、8月14日午後6時ちょうどから、安倍首相による戦後70年談話が発表された。談話は15分位の長いものになると思われていたが、実際はそれよりも長い20分を超えるものであった。そして村山談話を継承するのかという点に関しても注目を浴びていたが、内容を全体的に眺めてみるとほぼ村山談話を継承していると言っていいのではないかと思う。

具体的な内容だが、アジア諸国へのお詫びなどの村山談話に通ずるところ以外では、まず国際問題解決の手段として武力行使は決して下してはならないという点を強調していた。そして基本的人権・自由を守ること、そして武力による現状変更はしてはならないということを強調していた。これらに関しては、先の戦争までの軍国主義日本への反省を表明したことだが、それと同時に中国に対しての国内政治、そして南シナ海をはじめとする現状変更に対してけん制したものともとらえられる。この点に関しては非常に練られた文言だと言える。

そして、戦後に直接関係ない子や孫、さらにこれからの子孫に対して延々とお詫びを言い続ければならないようなことはあってはならない。そのために我々の世代で残された問題はしっかり解決しなければならないと言及された。これに関しては過去の歴史にいつまでも縛られずに、未来志向で考えていこうという安倍首相のメッセージだととらえられる。

安保法案に関しては中国を敵かそうでないか、どちらの味方をするかで解釈が変わる。安倍首相は安保法案の真意は戦争を未然に防ぐ、あるいは戦争のリスクを軽減するものだと主張された。この点に関してはこの法案を戦争法案と一括りで反対している市民も一考を要ずるところであろう。

この談話に関して、一部分を切り抜くのではなく全体を通して理念や趣旨を理解してほしいとも言われた。このことに関しては、メディアがしがちな一部分切り抜き攻撃に対してだけではなく、重箱の隅をつつくように攻撃してくる韓国をけん制したものとも考えられる。

以上、非常に長い談話で、その長さゆえ一つ一つのことが薄くなりがちな感もするが、安倍首相の表明したいことをほぼ全て詰め込んでのことだととらえたい。

又吉さんの「火花」論評をめぐって

最近の文芸関係の話題はもっぱら、芥川龍之介賞を受賞した又吉さんの「火花」だ。初めに告白するが、僕はまだ火花を読んでいない。なので火花の中身についてとやかく言う資格はないのかもしれないが、火花を取り巻く周りの状況、特に文芸マニア・文芸評論家たちの論評が少しおかしいのではないかと感じているのでこのブログ記事を書くことにした。

一般市民の間では火花の注目度は非常に高く、純粋に面白いと感じる人は多いみたいだ。そして何より200万部以上売り上げた(8月14日現在)という事実は驚がく的であり、その凄さは素直に認めるべきである。

しかしこの火花を、そしてその売り上げを断固として認めない連中がいる。いわゆる文芸マニア・文芸評論家たちだ。彼ら彼女らは火花が売れれば売れるほど「アンチ火花・アンチ又吉」の姿勢を強め、またそれが業界のステータスになっているみたいである。そして彼らの批判的な論評を読んでみても、「良い作品と売れる作品は違う」ということを異常に強調しているが、内容に関しての論評は全くと言ってない。火花を読んだと思われる形跡がないのである。

もちろん火花を読んで率直に気に入らないのなら、どこが気に入らないかを詳しく論じればいい。それが評論家というものだ。しかし読みもせずに単に「芸人が書いた、知名度で売れた小説」と初めから見下して読まないのはいかがなものかと思う。

あるプロレス関係者は、「全てのジャンルはマニアが潰す」と発言したそうである。今それが又吉さんの火花をめぐって起きているのではないかと思う。僕には文学の芸術的な表現はあまり理解できないが、多くの人が買って読んでいるということは、火花の内容が多くの人に受け入れられる表現をされているとして評価すべきだと思う。文学は文学マニア・文学評論家だけのためにあるのではない。マニア・評論家はそこを勘違いしている。

又吉ブームが落ち着いた頃、僕も一度火花を読んでみたいと思ってるが、その時また読んだことを踏まえてブログに記事を書いてみようと思う。

政府・沖縄間対話の矢先、米軍機墜落事故

8月12日、菅官房長官側政府と翁長沖縄県知事間で一か月の集中対話が始まった。題目はもちろん米軍基地・辺野古移設問題についてである。その対話が始まった矢先、米軍ヘリコプターが沖縄沿岸に墜落したというニュースが入ってきた。負傷者の中にはヘリコプターに乗務していた自衛隊員二人も含まれているという。人的被害が少なかったのは幸いだが、菅氏をはじめとする政府側にとっては出鼻をくじかれ大きな痛手であったであろう。しかし対話が始まるときに沖縄の現実を知らされたという意味では双方にとって良かったと言えるかもしれない。

米軍に関わる事故においていつも問題になるのが「日米地位協定」だ。日本国内で米軍が起こした事件・事故に関して日本側は基本的に関与できない。いわゆる不平等条約みたいなものだ。数年前に起きた沖縄国際大学への米軍機墜落事故では、日本の警察も事故現場に立ち入りできなかった。日本の領土であるにもかかわらず。

日本本土に住んでいる我々にとって沖縄問題は国防上重要な問題であるが、沖縄県民にとっては深刻な日常生活上の問題だ。その認識のズレが本土国民と沖縄県民の間に、そして政府と県知事側の間にあるのだろう。

今回は菅官房長官直々沖縄に乗り込んでの対話であり、この集中対話一か月の間に菅氏にも沖縄の現状を肌身感じることもあるであろう。とはいえ、どちらかが、あるいは双方がある程度譲歩しないと話がまとまらないのは初めからわかっている。その譲歩加減を決定する対話であるともいえる。

日本における米軍問題、そして防衛上は中国の脅威を想定している、いわば日米中の三国のパワーバランスが問題になるので話は簡単ではない。僕の個人的な感では、今回の対話で三者が納得できる結論を導くことは非常に難しいと感じている。しかし何かしら決定を下さなければいけない。この対話の成果は菅氏、翁長氏の知恵と手腕にかかっている。

鹿児島・川内原発再稼働へ

鹿児島・川内原発が間もなく再稼働する。震災以降原発稼働ゼロ状態が続いていたが、川内原発再稼働で原発由来電力が世間に行きわたることになる。この原発再稼働に関して賛否両論、いや反対意見が多数を占めているような気がする。感情的に考えれば反対に傾くことは非常に理解できる。国民が感情的に反対を叫ぶのは自然の成り行きかもしれない。しかし政府としては感情だけでなく合理的・多角的に検討したうえで判断しなければならない。そして稼働決定の理由を多角的に国民に丁寧に説明する責任がある。

しかし政治家の中でも感情論だけで物事を叫んでいる議員も多い。民主党の菅直人元首相は川内原発前で「反対・福島を繰り返すな」と叫んでいたらしい。もちろん福島を繰り返してはならないことはもっともである。しかし福島第一原発事故当時の首相は菅直人氏であり、その時の不手際は国民の多くの知るところである。はたして菅氏は福島事故以降、有効な方針を示せたのであろうか。大きく疑問の残るところである。

原発立地地域の住民の胸中は複雑である。原発存在による巨額な交付金による利益と、原発の危険性。その間でさまよっている人も多いだろう。実際原発が停止して潰れた地元商店街は多い。しかし現実に事故が起こればその比ではないことを福島は示している。

原発反対者の意見として、現在原発ゼロの状態でうまく電力供給できているではないかという意見がある。現在の電力供給のマックスは限度に限りなく近づいているものと思われる。もし需要が供給をわずかでもオーバーすれば、大規模停電が起こることをどれだけの市民が知っているだろうか。停電で電化製品が使えなくなるくらいならまだいい。病院で停電が起きれば多数の命にかかわることは目に見えている。もちろん大規模な病院では自家発電などのバックアップは取っている。しかし停電が命に関わるところは少なくないはずだ。

結論から言うと、原発は必要悪だと言えるかもしれない。現時点では一定の原発稼働は認めざるを得ないかもしれない。しかし何十年スパンで考えれば原発は必ず全廃しなければいけないものである。その一番の理由はここでは述べなかったが放射性廃棄物の問題である。原発の問題はどうしても意見が偏りがちになってしまうが、多角的な広い視点から判断することが必要である。それから政府、そして電力会社はオープンな議論・情報公開・再開のための根拠となる判断を詳しく国民に知らせなければいけない。

「戦争法案」とは偏っていないか?

今、安保法案関連の話題が熱を帯び、内閣支持率も急降下している。その一番の理由は、いずれ日本が戦争に参加し、徴兵制度が復活するのではないかというものである。この様な不安の原因は安倍首相にある。安倍首相が十分な説明をしていないがため、国民の不安は日に日に大きくなり疑心暗鬼になっていく。

そしてもう一つは「戦争法案」という言葉だ。誰が初めに言ったかわからないが、今ではメディアも戦争法案という言葉を頻繁に使い、一般市民も戦争法案と口にする。しかしこの法案は「安保法案」であって、決して戦争法案ではない。何も安倍首相に肩入れするわけでなく、戦争法案という言葉があまりにも偏った考えを起こしてしまうのが問題だと思っているからである。

もちろんメディアも民衆も過激な言葉が好きな傾向がある。戦争法案と言えば戦争に直結するような法案は許せないとなる。そもそも戦争に関連することなら、今のままでも他国が日本に攻め込んできた時には「個別的自衛権」によって交戦できる事になっている。この様な事態を防ぐ狙いも安保法案にはあると言える。

安倍首相の政治もおかしいが、国民を煽る世論も偏っている。右翼と左翼とでもいうところか。国会前で「安保法案反対」と叫ぶのもいいが、それだけでなく各地で冷静に議論が行われるような、そんな風を吹かさなければいけないのではないかと思う。冷静に安保法案の良い点・問題点を双方から挙げていかなければならない。

「反対!」というのは意見じゃない

「「反対!」は意見じゃない」、これはお笑い芸人の松本人志さんの発言だ。確かに「反対だ!」という掛け声だけでは意見ではなく、単なる感情だ。意見を言うなら対案を示さなければいけない。現在多くの若者が街角で叫んでいるが、これは若者だけの話ではない。民主党を筆頭とする野党議員も同じだ。「反対!」とだけ言って対案を一切示そうとしない。若者がデモで叫ぶのはわかるが、国会議員がこのざまでは示しがつかない。

確かに安倍首相をはじめとする与党側にも問題はたくさんある。安倍首相本人に関しても、国のトップとしての説明責任が果たせていない。そして安倍首相の周辺は大量当選の結果にあぐらをかいている。ここ最近の自民党議員の問題発言の連発も緊張感が欠けている証拠だ。

とはいえ野党も情けない。この与党の緊張感の欠けた今こそ論を正し追求するチャンスなのに、結局対案も出せず、論も正せず、与党のすること何でも反対、全く責任野党・対立野党の体を成していない。真正面から論的に対立することさえできていないのである。もちろん党首レベルの人物、例えば民主党の岡田氏などはそれなりの発言をしてくる。しかしその他大勢の議員は小学生レベルだ。小学生の喧嘩しかできないでいる。

松本人志氏が言うように、「反対!」だけでは物事は進まない。何がおかしくどうすればいいのか、与党が納得するくらいの迫力ある論が欲しい。

民主党は現在野党第一党だが、内容は限りなく幼稚なレベルだ。これでは与野党逆転どころか尻すぼみになっていく可能性の方が高いように思える。

アフリカ・マリで立てこもり事件

西アフリカのマリで立てこもり・銃撃事件が起きた。それによりPKO(国連平和維持活動)関係者1人と兵士複数が死亡した。PKOは混乱が収まり立ち直ろうとする地域に派遣されるもので、このPKO関係者は武装していなかったと思われる。言わばそこは建前上は安全地域とされていたわけで、安全地域で銃撃死亡事件が起きたことになる。

現在自衛隊の海外派兵が問題になっているが、その条件は安全地域及び後方支援に限定するということになっている。しかし安全地域とそうでない地域とは厳密に区別することなどは不可能だ。現に世界で一番安全と言われている日本でも殺人事件が年に数多く起きている。

安全な地域に派遣するのだから民間人を派遣すればよいと言った議員もいるが、全く馬鹿げた話だ。本当に安全な所なら派兵という話自体起こらないはずだ。危険はどこに潜んでいるかわからない。だから武装した自衛隊を派遣すると言っているのだ。安全な日本でも凶悪事件は起きる。だから警察は武装している。この様に日本のすべての地域で多数の武装した警官がパトロールしていることを忘れてはいけない。

もちろん敵を触発させ、紛争を拡大させるような派兵だけは絶対にしてはならない。しかし安全には犠牲は伴う。実際に日本国内でも武装した警官が年に複数犠牲になっている。しかし自衛隊に入らない自由が日本にはある。他国の紛争の現場に行きたくない人は行かない自由があるのだ。そのうえで入隊を志願する自衛隊員には頭が上がらない。今の日本の高い地位を維持できる一つの要因は彼らのような志高き人たちがいるからだということは忘れてはいけない。

福島第一原発とは

福島第一原発と言えば、事故・放射線汚染など負のイメージばかり持たれている方が多いと思う。実際福島第一原発がもたらした負の遺産は限りなく多い。それによって被害を受けている方も多くいる。どうしても福島第一のことを考えるとネガティブなことしか頭をよぎらないかもしれないが、ここでは誰も言おうとしないポジティブな事について触れようと思う。福島第一の「正」のことを話すというと不謹慎だと無条件に反発したくなる人も多いとは思うが、実際にポジティブに考えることができる事もあるのである。

まず一番に、現在の福島第一は日本の科学の最先端、さらに日本の英知が集約されていると言える。なぜなら福島の処理の仕方次第で住民の、そして日本の将来が変わってくるからである。例えば無人ロボット、あるいは放射線流出防護施設、さらに放射線物質を直接扱うには最先端の科学技術が必要だ。まさに福島第一は最新科学の実験場なのである。世界で福島第一でしかできないことも多々あるのである。福島第一からさらなる新しい技術も生まれるだろう。

そしてもう一つは廃炉技術に関することである。廃炉技術とはとてつもなく難解な作業である。古いビルのようにただ壊すだけというようにはいかない。福島第一の事故が起こる以前、日本には福井に「ふげん」という廃炉研究施設があった。もちろん今でもある。ふげんでの廃炉研究は数十年スパンでの研究計画が立てられていた。廃炉とはそれほど困難な作業なのである。しかし福島第一の事故により時間の猶予は全て吹っ飛んだ。今すぐにでも廃炉技術を確立させることが要求されたのである。福島第一の事故により、ふげん計画の比にならないスピードで廃炉研究は進むだろう。

現在世界には数百基の原発が存在する。そしてその全てがいずれは廃炉を迎えることになる。しかし現在、廃炉技術は世界のどの国も確立した技術を持っていない。その時には福島第一での経験と技術が大きな力になるであろう。日本は廃炉技術大国と言われるかもしれない。

これらのことは福島の住民にすれば不謹慎と取られるかもしれないが、福島第一の負の影響については多くの人が述べてきた。そこでその反対「正」の側面も誰かが言わなければ中立な判断ができなくなり、正常な評価ができなくなる。そこであえてこのような内容のブログを書くことにした次第である。

原爆だけじゃない、手段の違いで罪を決めるな

8月6日、広島の原爆投下70年を迎えた。原爆の悲惨さは様々な所で語られている。それは非常に大事なことだ。しかし人間には寿命があり、あと数年・十数年もすればこの世から広島・長崎被爆者はこの地上から消える。そしていずれは僕たちもこの地上から消えることになる。今はまさに被爆者当人から直接体験を聞く最後の段階に入っている。核兵器の悲惨さは決して忘れてはならない。

そして僕が常々思っていることが一つある。核戦争の悲惨さは決して繰り返してはならない。しかし悲惨なのは核兵器だけではない。焼夷弾の大量投下・機銃掃射・地雷、そして今まさに行われているISIL(イスラム国)の大量虐殺、これらすべてのことはどれがより悲惨かという順序など付けられない。原爆だけが特別なのではないのである。全てが特別、人間が人間を殺すという行為には違いない。

とはいえISILの行為を指をくわえて見ているだけでは悲惨さが拡大していくのは確実だ。そのISILに対して空爆を行う。これは必要悪というものかもしれない。そして一国平和主義の思想はもう通用しなくなっている。安保法案に対する安倍首相の行為には多数の疑問が残る。明らかに説明不足だ。集団的自衛権の思想自体は国際貢献度が高く、懇切丁寧に説明すれば国民も納得するはずだ。数々の成果を上げてきた安倍首相だけに、今回の安保法案の審議には非常に残念だ。

平和は口で言っているだけでは実現できない。何かしらの行動が必要だ。それはデモかもしれない。それはペンかもしれない。また最悪の場合それは空爆かもしれない。とにかく視野を広く持つことが大事だ。日本だけを見ていてはいけない。中東も、中央アジアも、アフリカも全て視野に入れ、全体が良くならないと意味がない。そして時間的にもそうだ。今だけではなく恒久的な平和が絶対的に必要なのである。

原爆だけが特別ではないが、広島・長崎の原爆は戦争の悲惨さの象徴である。唯一の被爆国として平和的行動をとること、それが日本しかできない日本が取るべき行動だ。

カジノ誘致は時代に逆行している

世界的にカジノがいたるところに建設される中、日本でも自民党・維新の党などが推進役になってカジノ建設へと動いている。日本では賭博は犯罪であり、ギャンブルが恒常的に社会問題化している中、なぜ今カジノ建設なのだろうか?

カジノ建設・誘致の目的は言うまでもなく税収のアップと地方創生だ。確かに税収がアップすることも地方を創生することもいいことに違いない。しかしそのためなら手段はどんなものでもいいのだろうか?

日本では博打は犯罪である。したがってカジノ建設は犯罪を誘致しているようなものである。もちろん今のままでは法に引っかかるので、カジノに対する例外的法案を立てようとしている。何が何でもカジノ誘致ありきという姿勢である。

韓国にはカジノが十数か所あるが、韓国民が入場できるカジノは江南道のカジノ一か所である。江南道は僻地であり地方創生が目的で作られたのであろう。しかしその江南道の今は凄まじいことになっている。消費者金融・質屋が乱立し、来場者が乗り付けた車を担保にお金を貸し付ける業者も多いらしい。江南道がどんなところか僕は知らないが、いくら僻地だと言ってもそんなところに住める人間は全うではないはずだ。少なくともまともな教育など不可能である。

そういう韓国だが、過去にパチンコ撲滅に成功している。パチンコも言うまでもなく実態は博打である。しかし日本政府は税収や政府支持率の落下を恐れてかパチンコ廃絶には一向に動く様子がない。もちろん国会議員の中にもパチンコ族などの抵抗勢力がいるのであろう。同じ博打である競艇の笹川一族の権力は有名だ。

そしてパチンコ廃絶どころか、新たにカジノという大規模博打場を建設しようとしているのである。もう今の日本は博打大国である。もっと全うなことで向上させようとは思わないなのだろうか?それともまともなことで活性化できないから犯罪行為によって活性化させようということだろうか。もちろん誘致しようとしている当事者には犯罪意識など全くないのだろう。

日本は世界第三の経済大国で、カジノなど頼らずに活性化を実現することは可能なはずだ。それにカジノについては正の要素よりも負の要素の方が圧倒的に多い。目先に利益だけを見ずに、長い目で見た国益を考慮すべきだ。まずはパチンコ撲滅に取り組むことから始めることを僕は望む。

スマートに生きたいか?

「スマートに生きる」と言っても、スマートとはいろいろな解釈・見方があるので、一概にどういう生き方がスマートだとは言えない。しかしスマートという言葉の解釈の一つに「失敗しない」ということが言えるのではないかと思う。実際にいかに失敗をしないでスマートに生きるかということを考えている人は多いと思う。もちろんそれはそれで立派なことだ。失敗しないで生きることができればどれだけ綺麗かと思ってしまう。

しかし失敗は自分が望むにしろ望まないにしろ、必ずどこかでしてしまう。もし失敗を全くしない人がいたら、宇宙飛行士の油井さんの父が言った「スーパーマン」以外の何物でもない。しかしほとんどの人はスーパーマンではない。僕に至っては「失敗マン」という言葉が似合うくらいだ。お洒落な服装をしてスマートな着こなしをしたいとは思っているが、こと生き方に関してはスマートとは正反対の泥臭い生き方をしている。

しかし失敗を後悔したことはない。もちろん失敗した時は悔しくて悔しくてしかたがない。しかし不思議なことに失敗というものは後になって役立つことが多い。その時、「あの時失敗してよかった」と思うのである。これはものの考えようだろうか。僕はどれだけ失敗してもあきらめることはほとんどない。とはいってもまだ成功したことの方が圧倒的に少ないが、成功の青写真は自分の頭の中で描いている。

失敗は決して無駄にしてはいけない。失敗を糧に変えるくらいの勢いが必要である。「転んでもただでは起きない」という精神である。もしかしたらこのまま失敗し続けて人生が終わるのかもしれない。少なくとも多くの周りの人はそう思っているであろう。しかし自分でいけると思っているうちは大丈夫、精神が死んでいない証拠である。

人間は知的精神的生命である。肉体と精神の互いを持ち合わしている。だから、「肉体の死」とは別に、「精神の死」がいずれやってくる。体は元気でも精神が死にかかっている人は多い。自分の体の健康を考える前に、自分の精神は健全かどうかを考えた方がいいかもしれない。生涯現役とは、肉体が死ぬまで精神が輝いている人のことである。

目指すぞ、生涯現役!

岡田民主党党首の朴大統領訪問で

8月3日、民主党の岡田党首が朴大統領を訪問した。その中で朴大統領は日本に対して、戦後70年安倍談話において、韓国に対して謝罪した村山談話を継承するように求めた。いったい何度謝罪すれば気が済むのかと思っている日本人は少なくないと思う。談話の中に、「痛切な反省」と「心からのお詫び」という言葉を挿入せよと圧力をかけている。しかしこのような言葉は日本側が自発的に入れてこそ意味があって、韓国側が入れろというのはとんだ筋違いだ。これはもう、「これからも韓国が日本に対して付け入る隙を作れ」と言っているも同然だ。しかもこれを認めれば韓国側はさらに要求をエスカレートしてくるのは目に見えている。

ところで韓国側は、歴史の「再認識」という言葉を頻繁に使ってくる。「再認識」ということは、すでに「認識」しているということである。すでに認識していることをなぜ再認識しなければいけないのか。再認識をすれば、次は「再々認識」、そして「再々々認識」と延々と要求してくるわけだろう。

以前のブログで書いたように、アメリカ国民の60%は謝罪は必要ないと答えている。敵国だったアメリカがである。韓国は日本に勝利したと言っているが、日本は韓国と戦争した事実は全くない。当時の敵は米英中などであって、朝鮮は当時日本の保護下であった。保護下であった朝鮮と戦争とはいったいどういう論理なのであろうか?

もちろん戦時中、朝鮮(韓国)に対して行った犯罪に対しては謝罪しなければいけないが、すでに日本は韓国に対して謝罪しており、さらに事実無根、あるいは事実や規模が大きく歪曲されたことに対して謝罪する必要は全くないはずだ。

この全く筋違いのトンデモ国家の要求はいつまで続くのだろうか。

魚にも論理的思考能力

とあるニュースで、魚にも論理的思考能力があるという記事を見た。具体的には、AがBよりも強い。BがCよりも強い。ならばAはCよりも強いということを認識できるそうだ。実際に実験して確かめられたらしい。

高度な論理的思考能力は人間の特権だと思われていたが、単純な思考能力なら魚にもあるということだ。大げさにいえば魚にも小さな知性があると言えるのかもしれない。

海の中は魚にとってサバイバルだ。食うか食われるか。人間社会よりもシビアな世界かもしれない。そのようなサバイバルの中を生き残るために論理的思考能力を身に付けたと考えれば自然なことなのかもしれない。ダーウィンのいうところの「自然淘汰による進化」というところか。

ならば気になるのが、生物の階層の中で論理的思考を持つか持たないかのラインはどこにあるのかということである。はたして最下層に近いアメーバなどにもわずかながらでも論理を認識できるのか。

しかし論理で考えているのか本能なのか、その識別は難しい。さらにいえば本能も論理によって突き動かされているともいえる。微生物が臭いを検知してエサのある場所までたどり着くのは本能だと言えるが、その本能ははたして論理によって導かれたものだろうか。

こんなことを考えていけばもう概念の線引き自体が怪しくなる。少なくとも言えるのは、このような、論理があるかないかということが気になるのは人間だけだということだ。