月別アーカイブ: 7月 2015

世界遺産登録をめぐっての日韓関係

先日、明治産業革命施設に対するユネスコの世界遺産登録をめぐっての日韓のやり取りは熾烈を極めるものだったようだ。6月には一度日韓合意ができていた。そこでは遺産に対して「forced to work(働かされた)」という表現を使うことで合意したが、いざ始まると韓国は「forced labor(強制労働)」という表現を強調してきた。この悪意に満ちた韓国の対応に日本外務省、そして安倍総理も怒り心頭だったようだ。

それが明らかになってすぐ、外務省の杉山審議官は即韓国に飛んだ。韓国に着いた杉山氏は韓国外務省に乗り込んだが、そこでの韓国の対応はのらりくらりと逃げるような対応だったそうだ。forced to workをforced laborに変えた理由も、単に言葉を短くしただけだと言い逃れていたらしい。もちろん杉山氏をはじめとする日本政府は激怒していた。forced ladorと言う言葉は十数年前に「強制労働」を表す言葉だと国際的に認められている。翌日も杉山氏は韓国外務省に乗り込んだ。そこでは怒号が飛び交う応酬であったらしい。

この様に、日本政府・日本外務省は毅然と韓国政府に立ち向かった。韓国側からは脅しともとられるようなやり取りだったらしい。しかしこのような日本側の強硬な態度のおかげで日本人の尊厳が守られたのだ。

今までは日本政府といえば対外的には弱腰で有名で、特に難癖をつけてくる中韓に対してはほとんど反論できなかった。しかし今回は日本政府も堪忍袋の緒が切れた。一度このような対応ができるとそれが実績になり、これからも毅然とした態度をとることに躊躇しなくなるだろう。

今まで一方的にやられ、日本国民もやるせない気持ちだった。しかし今回の日本政府の対応に、日本国民も世界に対して毅然とした態度を持つきっかけになり、日本国民としての尊厳・誇り・自信を深めることになるだろう。

強盗に襲われたスガさん

「一緒にいたアソウさんは助けるが、強盗に襲われたスガさんは助けられない。」安倍首相は集団的自衛権に関連する話題でこう話したという。

現在は個別的自衛権は存在し、自分たちに直接影響することに関しては防衛・攻撃はできるが、自分達とは関係ない(と思われる)ところで起きている犯罪には手も足も出せないということだ。しかし集団的自衛権が認められるとそのような事にも関与できるようなことになる。この集団的自衛権の焦点は、日本人(自衛隊員?)が日本に関係ないところで血を流すことになるのではないかという危惧である。しかしこのような思想は半分前時代的な考えが入っているのではないかと思う。

過去、そして今まで、防衛の単位は基本的に「国」であった。すなわち自分の国さえ平和ならば他の国は関係ない。実はこれは日本の平和憲法の思想の一面でもある。日本人は自国の憲法第九条平和憲法を誇りに思っている。しかしこのような自分の安全だけしか考えない思想が平和憲法の思想だと言えるだろうか。

集団的自衛権で実際に血を流す可能性が高いのは自衛隊員である。自衛隊員が戦地に行くことになる。しかしストレートに言えばそれが自衛隊員の仕事である。日本は徴兵制ではない。自衛隊員は皆志願してなっている。自衛隊の仕事は多岐にわたる。災害救助での活躍は最近は目覚ましいものがある。しかし自国が戦闘状態になればその最前線に行くのも自衛隊の仕事である。自衛隊の活動を否定するものは自衛隊員になる必要は全くない。しかし自衛隊員になりながら戦地に行くのは嫌だ、血を流す可能性のある活動なんてけしからんなんていうのは矛盾していないか。

戦地に赴くのが嫌でその時に脱隊する者がいれば、それは自衛隊詐欺以外の何物でもない。もちろん血を流さずに済めばそれが一番いいに決まっている。しかし誰かが血を流さなければいけない時がある。その時、自分たちは平和憲法の国民だから血は流せないので、アメリカが、あるいは他国が代わりに血を流してくださいとでも言うのか、と言う話である。

宇宙からこう言った者がいる。「地球に国境は存在しない」と。もう一国だけの平和が通じる時代ではない。国境は徐々に薄くなってきている。ヨーロッパもEUと言う形で国境が薄くなった。その中で日本は、東アジアは頑なに国境を堅持しようとしている。

まだ現時点では時期尚早かもしれないが、国境と言う概念はこれから薄くなっていく方向に進むのは間違いないであろう。

小保方氏とは何だったのか

最近、STAP細胞騒動の張本人小保方氏が論文を雑誌に載せるのにかかった60万円を理研に返却したという報道があった。この騒動が60万円で済むわけがない。理研としても「形として」ということであろう。一言で言えば「ポーズ」である。

正しいことを証明することはできても、間違ったことを証明するのは意外と難しいものだ。小保方氏の疑惑についても99%嘘だと思っていても残りの1%はどうだ、と言うことになる。

数学ではこれは意外と簡単だ。理論が正しければ正しい、間違いがあれば正しくないということである。とは言ってもアンドリュー・ワイルズがフェルマーの大定理の証明論文を提出した時には、数グループに分担した検証グループが1年以上かけて判定した。とはいえ、このような例は数学でも例外的な部類に入る。

話は小保方氏に戻るが、多くの若手研究者は研究ポストに就こうと必死に努力している。その中でも正規のポストに就けるのは一部だ。時間もかかる。お金もかかる。小保方氏は理研の正規のポストに就き、年収は1000万円だったと言われている。記者会見の時には立派な指輪が話題になった。今考えると本当に強い憤りを感じる。

研究者として成功するには非常に困難ないばらの道を歩まなければならない。その途中で自殺する研究者も多いと言われている。小保方氏への社会の対応と、研究者への厳しい試練双方に何ともやるせない気持ちを感じてしまう。

教育殺人

岩手県で中学二年生の生徒が自殺した。その自殺までの経緯があまりにも凄惨だ。教育評論家の尾木ママこと尾木直樹さんはこの事件のことを「教育殺人」と呼んだ。

自殺した生徒は担任に提出する連絡ノートに繰り返しいじめの苦しさを訴えていた。しかしそれに対する担任の返事は全て業務連絡的、機械的なものだった。この担任は教師と言う職をどう考えていたのだろうか。何も今の時代に教師の職業のことを聖職とまでは言わない。しかし今回の教師はまるでコンビニのバイトくらいの感覚で職を遂行していたのではないか。コンビニのバイトをバカにするわけではない。しかしコンビニのバイトと教師の職では給与は桁違いに違う。それは仕事への責任の裏返しでもある。

さらにびっくりしたのが、集会で校長は謝罪の言葉を全く述べなかったことだ。おそらく今は学校ぐるみで保身の道へ突き進んでいるものと推測される。生徒が何かで活躍するとまるで自分たちのことのように学校ぐるみで胸を張るのに、不祥事が起きると誰も関係ないと保身に走る。もうおなじみのパターンだ。

今回の事件は尾木氏が言うように教育殺人と言う言葉がふさわしい。学校ぐるみの犯罪と言えるだろう。もちろんいじめていた加害者生徒には大きな責任がある。しかし今回のいきさつを見ていると、教師もいじめに加担していたも同然だ。

この様な事件が起こるたび、大人の汚い側面が強烈にあらわになる。本当に醜い。この醜い大人たちに「教育」というものをされている生徒たちも被害者だ。今頃、醜い大人たちは自分のことしか考えていないだろう。どうしたら処分を免れるのだろうと。彼らの眼中には自殺した生徒のことは全く映っていない。

練習はウソをつかない

いきなりだが、僕はプロ野球の阪神タイガースファンだ。はっきり言って巨人は嫌いだ。しかしここでは好き嫌いは横に置いて、プロ野球選手の言葉に触れたい。

プロ野球ニュースで7月7日の試合のダイジェストを見ていた。そこで巨人戦のニュースで、不振だった阿部選手がかなり活躍したという話題が出たのだが、そこで阿部選手のインタビューで「練習はウソをつかない」という発言が出た。まさか阿部選手ほどの天才打者からそのような言葉が出るとは思わなかった。それと同時に僕の胸にもこみ上げるものがあった。

僕は努力したからと言って必ず成功するとは思っていない。しかし努力せずに成功することもないと思っている。すなわち努力した人の中から成功者が生まれるということだ。この様なことを言うと、絶対成功するという保証のないことに打ち込むのは無駄だと思う人がいるかもしれない。そのような人は努力する必要はない。そのかわり成功はしないだろう。僕の考え方は一部の人間には夢がないと思われるかもしれない。しかし努力をしないで成功することが夢だなんて僕は全く思わない。そんなものは夢でもなんでもなくて単なる博打である。

しかし阿部選手の言葉は本当に励みになる。やはりトップリーグの最前線の選手が言う言葉は一言一言が重い。僕も阿部選手の言葉を胸の片隅に置いて努力していきたいと思う。

怒りのコントロール

とある記事で、「自滅しないための怒りのコントロール」というものを見た。確かに怒りをコントロールするのは難しい。人によってはそれが自滅の道へと続くこともある。

正直言って僕は感情の起伏は激しい。喜びも怒りもかなり激しく表現する方だ。しかし暴力などは100%起こさない。赤の他人に対して突っかかることはしない。しかし街を歩いているとちょっとしたことで突っかかってくる人は多い。この様なことをするのは若者が多いイメージがあるが、実際は中年以上の人が多いように感じる。本人は普通の会社に勤めていて社会人であることを自負しているのかもしれないが、僕に言わせれば人間のクズである。

そもそも日本では会社に勤めている人間を社会人と呼び、社会人であるかどうかで人間を判断する風潮がある。もちろん僕もいろいろな人間を見てきたが、社会人としてどうかなんて人間性にほとんど関係ない。それは会社で立派な肩書を持つ社会人が、不祥事が起きると全力で保身にまわることを見てもよくわかるだろう。社会人かどうかなんて所詮そんなものだ。

怒りの話に戻るが、怒りを我慢するのは体に悪いらしい。しかし怒りを制限しなければいけない時ももちろんある。怒りをコントロールして怒りをうまく表現できるのが「本当の大人」というものかもしれない。しかし実際はそれが非常に難しい。僕は基本的に大人と言う存在が嫌いだ。しかし自分の理想の大人像に近づけるように精進していきたいものである。

韓国に対して怒りを通り越してあきれる、そして韓国に対する日本の報道について

7月5日、日本の明治産業革命遺産に対する世界文化遺産登録が可決された。しかしこの登録については日本と韓国の間で最後までもめにもめた。何がもめたのか、いつものパターンなのでいちいちここで述べるのも無駄であるが、もうここまで来ると韓国に対して怒りを通り越してあきれ返り、韓国が哀れに思えてしまう。

いまヨーロッパではギリシャ問題でもめている。ギリシャの問題は内容が切羽詰っており緊急問題であるが、韓国が日本に対して非難している内容は裏付けもなく、また今回の世界遺産の趣旨からも大きく外れており、くだらないの一言だ。そんなくだらないことを認めるくらいなら無理に世界遺産にしなくていいのではと言うのが多くの日本国民の声ではないか。

それからもう一つ言いたいことは、日本の報道機関に対してである。日本と交わりのある国は韓国・中国だけではない。近くには台湾・フィリピンもあるし、ロシアもある。もっと距離を広げば日本と密接な関係にある国はたくさんある。日本は世界的に見ても最も信頼されている国だ。それなのに流れてくるニュースは韓国が非難したとかケチをつけたとかの、くだらないニュースばかり流してくる。アフリカに対する継続的な援助の話題が二つでも出たことがあるか?初めの一つは出ても二度は流れない。アフリカ住民に対しても失礼である。もっと多様な世界の人間を視野に入れなければならない。しかし報道局の視野に入るのは韓国のくだらない話ばかりである。

南シナ海では中国とフィリピンの間で非常に深刻な事態が起きている。岩礁の埋め立て、軍事要塞化の問題である。このニュースのように世界的に見て重要なニュースはたくさんある。それでいながら報道局が流すのはまた韓国がケチをつけてきたという話題である。

もうこれは報道機関の見識が問われるレベルの問題である。あまりにもレベルが低すぎる。日本国民に、そして世界の市民に非常に失礼なことをしていることに気づかないのかと思う。

ギリシャの国民投票について

日本は現在7月5日午前0時、ギリシャ現地時間5日にギリシャで国民投票が行われる。緊縮財政を伴うEU支援を受け入れるか、それに反対してEU離脱への道を進むのか。簡単に一言で言うと、倹約を約束するか、贅沢したいかみたいな感じだろうか。

日本国民の感覚から言うとギリシャ国民の感覚は異常とも思えるが、南ヨーロッパ気質とでも言うのか、彼ら彼女らは非常に楽天的だ。昔こんな本が日本で流行った。「お金がなくても平気なフランス人、お金があっても不安な日本人」。確かに日本人の用心深さは異常とも思える時があるが、その慎重さと堅実さが今の日本の繁栄を作り上げたのであろうか。

ギリシャの話に戻るが、それにしても情けないのが大統領をはじめとする政治家である。今回の判断は重要事項ではあるが、いちいち国民投票などにするものではなく、大統領の決断一つで決める類のものである。大統領は国民に直接選ばれた者であり、それが故に大きな権力を持つ。今回の国民投票は大統領の責任逃れとしか言いようがない。

今回の判断は、二者の良し悪しを決めると言うより、悪いか・もっと悪いかを決めるもののように思える。はっきり言って完全に手遅れなのである。それを決定的にしたのが、緊縮財政を進めようとした前大統領を否定して、緊縮財政反対の現大統領を国民が選んだことである。現大統領は現在も国民に甘い言葉ばかりささやいている。それに国民も酔いしれている。

今回のEU支援をもし否定した時、その時が国民が本当の現状に目が覚める時ではないかと思う。

ベルリンフィルの首席指揮者をめぐって

最近、ベルリンフィルハーモニー交響楽団の首席指揮者の交代をめぐって内部で議論が起きていたらしい。ベルリンフィルと言えばウイーンフィルとともに世界の頂点に君臨するオーケストラだ。昔はフルトヴェングラーやカラヤンなど超巨星とも言えるような偉大な指揮者がいたものだが、カラヤンの跡を継いだアバド以来小粒な感がするのは僕だけであろうか。今回のことに関しても僕の不勉強のせいか、前指揮者、新指揮者とも名前を存じなかった。

音楽に疎かった僕がカラヤンのことを知ったのは大学の混声合唱団に入った時のことだった。カラヤンは帝王と言われ、首席指揮者ではなく終身常任指揮者と言われていた。なんだか巨人の長嶋茂雄のようだ。しかし最近は大物と言われる指揮者の名前をあまり聞かない。日本にいて聞くのは日本が誇る偉大な指揮者小澤征爾くらいだ。

小澤征爾と言えばちょっとした思い出がある。もちろん面識などはないのだが。信州松本で毎年開かれるサイトウキネンオーケストラという小澤征爾が主宰する音楽祭がある。大学時代、そのサイトウキネンのチケットを取るのに徹夜で並んでいたところに小澤征爾がサプライズで現れた。もちろん会場は大騒ぎ。僕もどさくさに紛れて小澤征爾と肩を組み写真に写り、シャツにサインをしてもらった。しかし今は写真もシャツも手元にない。小澤先生、ごめんなさい。

話はベルリンフィルに戻って、世界トップの演奏者が集まるベルリンフィルの指揮者は猛獣使いと言われている。演奏者一人一人がライオンなのである。そのような猛獣をいとも簡単に操り最高の音色を奏でさせるカラヤンのような超巨星はこれからまた現れるのだろうか。僕が生きているうちに現れることを期待するところである。

人間にとって教養とは

学生にとってそろそろ期末テストが始まるころだ。好きな教科、得意な教科には力が入るが、苦手な教科はどうしても後回しになってしまう。少なくとも学生時代の僕はそうだった。大学1年生の頃は大嫌いなフランス語の授業を出席だけとって後ろの扉から逃げ出していたのが思い出される。逃げ出した足で大学図書館に向かい、数学や物理の勉強に励んでいた。

ところでなぜ僕はフランス語をやらなければいけなかったのだろうか。フランス圏の国など一度も行ったこともないし、大学のフランス語の授業以外でフランス語に触れたことも皆無だ。今覚えている言葉と言えば「ソレイユ(太陽)」という言葉くらいだろうか。

大学の1、2年生の時期を教養課程と言う。もちろんフランス語の授業も教養課程の一環だ。専門を極めようと大学に入っても、初めの二年間は教養をしっかり叩き込まれる。なぜそこまで教養にこだわるのか。それはひとえに大学を出た者は専門知識と同時に大卒生にふさわしい人間の格としての教養を身に付けてほしいからだ。

教養はその人の人間の格・人間性をもっともよく表す。見る人が見れば30秒も話すとその人の教養のレベルはわかるものである。いくら専門知識があっても、いくら仕事ができても、教養のない者は最終的には軽んじられる。教養を身に付けることは大事だが、それ以前に教養の重要性を理解することはもっと大事だ。教養の重要性を理解していない人間は総じて薄っぺらい。

教養と言っても嫌なことを嫌々することは苦しい。まずは興味の幅を広げてあらゆる分野に挑戦する、それが教養の幅を広げる一歩ではないかと思う。