月別アーカイブ: 7月 2015

明治天皇の玄孫二人が日本を語る

とある記事で明治天皇の二人の玄孫、竹田恒泰さんと渡辺徹さんの対談を見た。竹田さんはテレビでおなじみの人だが、渡辺さんは初めて存じた。二人とももう皇籍からは離れており、対談を見てもお二人とも快活な日本人という感じを受けた。

元皇族の話としてやはり気になるのが日本史の話だ。日本史の授業では歴代天皇が度々登場する。その度にお二人ともドキドキしていたそうだ。歴代天皇は全ておじいちゃんのおじいちゃんの・・・という関係だからもちろんだろう。しかし先祖が天皇だという人は何も皇室の人だけではない。統計学的には日本人は皆天皇家の子孫なのである。なぜなら親は2人、祖父祖母は4人と遡っていけば何十代か前の先祖は1億人を優に超える。なので日本史というのは日本国民すべての先祖の歴史でもあるのである。

日本史についてお二人が語っておられたのは、今の日本史は客観的過ぎるということである。外国では自国の歴史のことをNational History、すなわち「国史」というらしい。国民は皆当事者意識を持って国史を学ぶ。

竹田氏はアメリカの国史の教科書を取り寄せて読んだらしい。それによるとアメリカの国史は手に汗を握るような展開なのだそうだ。日本に置き換えると真珠湾攻撃をした。その後アメリカはどう反撃して、日本はどう防いだかというような展開だろう。

それから日本史は自虐的史観が多い。先の戦争に対しても常に自虐的姿勢をとってきた。そこでは東条英機は悪党のボスであった。しかし最近、安倍首相がアメリカ議会で講演した時、安倍氏は一切謝罪しなかった。それに対してアメリカ国民の約6割はもう謝罪しなくていいと答えたという。

自国に都合の悪いことは一切表にしない中国のような歴史は虚勢であり明らかに間違っているが、日本国民はもっと自国日本についてもっと自信を持ってもいいのではないか。そして明治天皇玄孫二人もおっしゃっていたが、「日本は」という第三者的な言葉ではなく「我が国は」と胸を張って語ってもいいのではないかと思う。

人工知能は人間を超えるのか

科学の社会的危惧のうちの一つに「人工知能は人間を超えるのか」というものがある。人工知能は科学的問題であることは言うまでもないが、それ以上に社会的な問題として注目を浴びている。

人工知能の社会的側面としては、それまで人間がやっていたことを人工知能が取って代わるというものが二番目に大きな問題であろう。そうなれば社会の構造、労働の在り方が一変することは容易に想像できる。あるいはそれまで100人でやっていたことが一人でできるようになるということも考えられる。経営者のとっては非常にありがたいことではあるが、単純労働者にとっては死活問題である。

そして一番の問題は人工知能が人間を超えてしまうということである。もしそうなれば人間が人工知能に支配・コントロールされるということが起きる。まさしく映画ターミネーターの世界である。そして人工知能は自発的に自らの知能の向上を続けていくであろう。人間は家畜に成り下がるのであろうか。

この様なことから人工知能の倫理は非常に重要な問題である。人工知能が人間を超えることが明確になった時点で研究を続けるかどうか見直さなければいけないが、この手の研究は禁止しても必ず誰かが続けていくであろう。まさしくパンドラの箱を開けてしまうようなものだ。

これからの科学研究にはより一層倫理的観点が必要になるであろう。しかしその倫理とはこれまでのように、宗教的倫理だとか生命倫理などというような生易しいものではない。人類が絶滅するかどうかというようなことを視野に入れたものになる。科学というものは性質上後戻りできない。しかし一つだけ言えることは、一般市民も科学的教養を身に付け、科学的事柄に正しい判断を下せるような判断力を身につけなければいけないということであろう。もう自分は文系だからなどというような言い訳は通用しない。

批判だけが能じゃない

物事を考えるうえで批判精神は重要である。考える学問・哲学でもカントの有名な三つの書物は「三大批判」と言われている。しかし日常生活で全てのことを批判する人などいるであろうか。

しかし政治の世界では基本的に野党は与党のすることは全て批判することになっている。そのような考え方は、政府与党の政策に対するチェック機能になっており必要なことでもある。しかし政党に所属する議員すべてが同じ考えを持っているなどあり得るはずがない。しかし政党とは集団そのものが思想を持つものともいえるので、個の思想はある程度無視されるのかもしれない。

とはいえ、与党も野党もある程度平等な視点を持つことも大事ではないかと思う。おかしいと思う案に対しては思いっきり反対すればいいが、理にかなった案は与党野党関わらず認める姿勢も必要ではないかと思う。それが大人の政党というものではないか。

日本共産党の存在自体を否定するつもりはないが、与党のすることなすこと全てに反対だとわめくのは、それはもう幼稚園児野党とも言えるのではないか。そこには思想など全くなくて、ただ与党に反逆することだけが生きがいだという姿勢しかない。

ただ初めから否定することを決めているのは楽だが、平等な視点で批判することはかなり難しい。同じ批判でもこの二つを混同してはいけない。これは子供と大人の違いである。

理にかなったことには賛同し、おかしいことには批判する、これが本来あるべき姿だと思うが、実際はこれがなかなかできないのである。

産経新聞記者の韓国大統領行動報道事件、訴訟について

産経新聞記者による、韓国朴大統領の不明行動の記事に対しての名誉棄損訴訟の公判が7月27日に行われた。この裁判は産経新聞記者がセウォル号沈没時に朴大統領が男と密会しており、7時間にわたって消息不明だったという報道をしたことに対しての、朴大統領側からの名誉棄損訴訟である。今日はその事象に関して、西日本新聞の韓国支社の記者が証言を行った。

男と密会していたかどうかはともかく、セウォル号沈没という一大事の時に大統領が7時間にわたって消息不明など、普通の先進国ではありえないことだ。いや、先進国かどうかにかかわらずこんなことは普通はありえない。

新聞の第二面か三面あたりの記事に注目したことがあるでしょうか?日本の新聞には第二・三面に小さくだが、首相の前日の一日の行動が記録されている。「首相の一日」というなタイトルで書かれているはずだ。首相は日本で一番の公人と言ってもよく、首相の一分一秒の行動がそのまま日本の行方を左右されると言っても過言ではない。したがって首相の一日の行動は全て記録され、国民に公表されるのだ。

しかし今回の朴大統領の事象では、7時間にわたって消息が不明になっているのである。日本の首相においては絶対にありえないことだ。朴側は男と密会していないと訴えているが、問題の本質はそんなことでは全くない。朴側の勘違いも甚だしい。通常時においても数時間にわたって一国のトップが消息不明になるということなどは大問題になるようなことであるが、今回のことはセウォル号沈没という数百名が犠牲になるという緊急時のことである。韓国の危機管理の甘さが三流国だと露呈したようなものだ。こんなことに対して訴訟を起こしている暇があったら、危機管理の強化に時間を割いた方がよっぽど賢明である。反日などと叫んでいる暇はないはずだ。

日本の近国に北朝鮮というならず者国家があることは日本国民は皆承知であるが、隣国である韓国までここまで落ちぶれた三流国家であることに今回の訴訟で日本国民は気付いたであろう。

「正規」と「非正規」社員について

7月26日のサンデージャポンで、サイゼリアの従業員のセクハラ自殺事件が取り上げられていた。その中で元衆議院議員の杉村太蔵氏が、正規社員つまり「正しい社員」と非正規社員つまり「正しくない社員」という言葉ほど差別と屈辱の満ちた言葉はないと話していた。まさしくその通りだと感じた。

非正規社員は正規社員に希望を持って正規社員に憧れを持っている。その一方正規社員は非正規社員を見下すような風潮がある。デフレ不況時代から日本は「正社員至上主義」になってしまった。正社員であることに全ての価値を見出そうとしている。そのような風潮は景気が回復しつつある今でも続いている。雇用する側は非正規社員の正社員になりたいという心に付け入ろうとする。そのような心を逆手に非行に走る上司が後を絶たない。

僕はいっその事、みんな非正規社員にすればいいと思っている。そうすれば非正規だとか正社員という言葉自体がなくなるだろう。もちろんこれは極論であって、それが実現不可能なことはわかっている。僕が言いたいのは正規と非正規の間に本来優劣など決めることはできないということである。杉村氏の言うように「正しい」とか「正しくない」などと優劣をつけることなど人権侵害も甚だしい。実際セクハラ自殺事件を起こしたサイゼリアの店長は正社員である。

しかし有能な社員と普通の社員の間に優劣をつけることは必要だ。しかしその優劣が正社員と非正規社員の間にあるかといえば全くなっていないということである。海外では正社員と非正規社員という区別をやめて、実際に働いた成果に対して報酬を出すようなシステムに移りつつある。それならば自然有能な社員が高収入になる。

日本に根強く残っているシステムは時代遅れになりつつある。このサイゼリア事件が日本の労働の在り方に一石を投じることになればと思う次第である。

A級戦犯の遺書を公開

先日、あるお寺で太平洋戦争のA級戦犯で絞首刑された7人の遺書が公開された。A級戦犯といえば東条英機が圧倒的に有名だが、それ以外の6人のことをご存じだろうか。僕自身もとりわけ詳しいわけではないが、そのうちの一人、元首相・外相の広田弘毅には非常に強い思い入れがある。その理由は、15歳の時に読んだ一冊の文庫本だ。城山三郎の「落日燃ゆ」という本なのだが、内容は広田弘毅の生涯や思想を一冊にまとめた小説だ。

僕は今まで読んだ小説の中でもこの本が一番面白かったと思っている。広田弘毅はA級戦犯で絞首刑にされた7人の中で唯一の文官、つまり非軍人だ。しかし時代がそうさせたのか、戦前の軍国主義に進んでいこうとしているときに首相に指名され、戦争への道を避けようとしたにもかかわらず軍部に引きずられるようにA級戦犯にされた。

広田のA級戦犯については今でも議論され、冤罪であったという意見が今では強い。極東軍事裁判の判事の中でも無罪を主張し続けた外国人判事もいる。

広田はもともと外務官僚だ。外務省同期には戦後首相になった吉田茂がいる。広田が吉田に比べて圧倒的早く外相・首相になったことからもわかるように、広田は圧倒的に優秀な官僚であった。しかしそれが災いし戦犯になることになった。それと対照的なのが吉田で、出世が遅かったがために戦後活躍することができた。

A級戦犯は戦争の一部の縮図に過ぎない。しかし戦犯を知ることによって軍国主義時代の中枢の動きが明らかになる。軍国主義に走っていった日本の中で、広田のような信念を持った文官が犠牲になったことも広く日本人に知ってほしいものである。

オバマ氏、父の祖国ケニアへ

米大統領オバマ氏が現在ケニアを訪ねている。父の祖国だ。ケニアでは熱狂的な歓迎ムードに包まれているみたいだ。異父姉も空港までお迎えだ。世界で一番影響力のある国の大統領だから、ケニアとしてもオバマ氏は誇りであろう。ちなみにオバマ氏自身はアメリカで生まれ、アメリカで教育を受けている。

日本には大統領は存在しない。国のトップである総理大臣は議員による投票で決まるので国民の間接的な選挙による選出というところであろう。しかし一人だけ大統領になった日本人(日系人)がいる。ペルーの元大統領アルベルト・フジモリ氏だ。フジモリ氏が大統領になったときは日本でも熱狂的な渦に包まれた。日系人ということで日本とのつながりも強く、在任中に日本を訪問している。しかし大統領職を退いてからのフジモリ氏の人生は混乱に陥る。

日本も総理大臣制ではなく大統領制にすべきだという声もよく聞く。やはり大統領制では国民の投票によって直接に選ばれるわけで国民との距離も近い。そしてより大きな権力を持つことによって強いリーダーシップをとることができる。

オバマ氏の話に戻るが、オバマ氏の評判は就任当初に比べると芳しくない。当初は初の黒人大統領として大きく注目され、ノーベル平和賞も受賞した。期待を込めてのノーベル賞だった。しかし国内政治・経済の運営はそつなくこなしていたが、対テロ戦争でオバマ氏は混迷に陥る。ISIL(イスラム国)が台頭し、以前の戦争手法が通用しなくなった。オバマ氏も新しい対処の仕方を考えないといけなくなったのであろう。

今アメリカは次の大統領の話題で持ちきりだ。特にヒラリー・クリントン氏への注目は大きい。ヒラリー氏が選出されれば初の女性大統領、そして初の夫婦そろっての大統領となる。これから大統領選への行方には注目である。

首相の動静を見ると

日経のウェブで、昨日の安倍首相の一日の動静を見てみた。政治関係の仕事から入ると思いきや、8時半からホテルの日本料理店でのJR東海の葛西名誉会長との会食から入っていた。葛西氏は経済界の重鎮でもあり、鉄道界のみならず日本の経済界で一目置かれる存在だ。一日の初めは経済からというところであろうか。

その後は各大臣との会議などが分単位で組み込まれている。夕方ころには中学生との交流もある。次世代を担う子供たちからもしっかりと支持を得ようというところだろうか。さすが安倍首相、抜かりはない。ラジオ番組にも出演している。メディア対策も抜け目がないのか。

安倍氏自身は有能な人物だと思っているが、最近の安倍政権の政治運営は明らかに強引な感が否めない。以前は安倍政権を支持していたが、現在は政策ごとに支持しているもの、しないものが分かれ、自分でも安倍政権を支持すべきか考え込んでしまう。

集団的自衛権の内容自体は非常に支持している。これを即座に戦争法案などと叫ぶのは明らかにおかしい。しかし法案の通し方は完全に間違っている。国民不在の手法に見える。国民だってそこまでバカではない。誠実に説明し、改憲という手続きを取れば多くの国民も納得するだろう。数によって強引に通そうとしていると非難する人がいる。確かに強引だ。しかしその前にその数を安倍氏に与えたのは国民だ。そのことを忘れてはいないか。

法案に賛成か反対かというより、これからの安倍政権、そして日本の行方が心配である。最近のおかしな歩みを変えられる人物は石破氏しかいないと私は思っている。今は影を潜めているが、もう一度石破氏の活躍するのを期待している。

実用を極度に重んじる文化について

今日、とある数学の専門書を読んだ。その本の序章で古代ギリシャ時代の最も傑出した数学者アルキメデスのことに触れていたのだが、そこでこのようなことを書いていた。

「ギリシャの実用を極度に軽じる文化の中にあって、・・・」

という文言だ。

古代ギリシャ時代は極度に学問的・抽象的な対象にこそ価値があるとされていた。そこでは学問は貴族、実用性のある工学などは奴隷がするものである、ともとれるような風潮があった。しかし現在の科学に基づいた社会の基礎は、ギリシャの抽象的学問から始まったと言える。

そのような古代ギリシャの文化とは対照的に、現在の社会は極度に実用性を重視しすぎる。科学的価値もいかに役に立つかということに重きを置かれているように感じる。しかし科学の真の価値は役に立つかどうかで判断されるものではない。科学の価値とは、内容の科学的豊富さ・科学的美点・一般性にある。いわば科学とは本来芸術に近いものなのである。そのような思想を極度まで推し進めたのが古代ギリシャ文化である。

古代ギリシャとまでは言わなくても、現在の実用至上主義はいきすぎだと感じる科学者も多く、もう一度学問的・科学的・哲学的価値に基づいた判断によって見直すべきではないかと思う。

役に立つかどうかで判断することは簡単だ。役に立つかどうかは誰が見てもわかる。何も考えなくてもわかるのである。しかし学問的価値・科学的価値を理解するためにはそれ相応の教養が必要だ。現在の大学教育は実用性重視に偏ってきつつある。しかし多くの大学では最初の二年間を「一般教養課程」と呼び、教養を身に付けることを重視してきた。これらの教養は人間としての格を身に付けることでもある。しかし実用的価値判断に偏った無教養社会になれば、そこに住む人々、そして社会全体が薄っぺらなものになってしまう。

今、ギリシャは財政破たんに関する問題で混乱している。そんなギリシャも古代には現在でも模範とすべき立派な学問文化が存在した。今一度古代ギリシャを見返し教養の大切さを確認する必要があるのではないかと思う。

EU、ギリシャ問題で明確になる国境

今、EUがギリシャ問題で揺れている。ギリシャの国民投票でEUの再建案が否決され、そのまま反緊縮路線で進んでいればここまで揺れることはなかったかもしれない。あの国民投票はいったいなんだったのだろうか。ギリシャ首相は国民投票と反する行動をとることとなった。そこでまたEU側は対応策の見直しに取り組むこととなった。

そこで問題になっているのがEUの二大国、フランスとドイツの対立だ。何が何でもギリシャをEUにとどめたいフランスと、EU離脱も辞さない強硬派のドイツ、その対応策の対立によってこの二国が、そしてそれ以外の国までがバラバラになりかけている。

EUはもともとヨーロッパから国境をなくそうとする思想の実現化だ。しかし今、この方向に反してフランスが、ドイツが、そしてイタリア・スペインなどそれぞれの国が国単位の主張を行いEUという統合枠が崩れ始め、国境が明確化してきている。EUの統合路線は夢物語に戻ってしまうのか。

現実論のドイツに対して、理想論のフランス、このような構図が感じられるような気がする。一人笑っているのはヨーロッパの盟主イギリスであろうか。

とにかく一番重要なことは、フランス案を取るにしてもドイツ案を取るにしても早急に対策を推し進めることが今は求められている。この問題をズルズル引きずれば引きずるほど問題は悪化の一途をたどってしまう。後送りをすればもう元には戻れないレベルになってしまうかもしれない。

私は強硬派のドイツ首相メルケル氏が一気に推し進めて次のステージに進めることが今の一番の最良路線ではないかと思っている。

米・キューバが国交回復

20日、アメリカとキューバ間の国交が回復した。キューバとアメリカはキューバ革命以来国交を断絶していたのは非常に有名な話だ。

1950年代中頃、チェ・ゲバラとカストロを中心としたキューバ革命が起き、それ以来50年ほどカストロ氏を議長とした独裁政治が行われていた。それ以来アメリカとの間で対立の歴史が繰り広げられてきた。その中でも有名なのがキューバ危機だ。中学の教科書にも載っているので知っている人も多いが、キューバ危機は冷戦時の米ソ間対立の前線にキューバが立たされていたことを物語る。カストロ氏は今では一線を退き、現在は弟のラウル氏が国を率いている。

キューバは国の体制としては現在も独裁国家だ。しかし他の独裁国家とは趣の違う体制が繰り広げられている。確かにカストロの独裁ではあったが、キューバ革命以降カストロ氏は理想の国家像を模索していたように見える。その一つが医療に関することだ。キューバの医療技術は決して高度なものではない。しかしカストロ氏は医療の完全無料化を行った。これに共感する人は世界中に多く、日本の医師の間でもキューバの医療及び医療体制に貢献したいとキューバに渡る人が複数いる。

とは言え、やはり独裁国家であり、閉鎖的であることは否めない。キューバは野球強豪国としても有名だが、キューバの野球選手の亡命の話題には事欠かない。今まで何人もの選手がアメリカに亡命し、大リーグで活躍することになった。現在、大リーグ最速投手で時速170キロの球を投げるチャップマン投手もキューバからの亡命組だ。しかし今では野球選手の海外渡航が一部解禁になり、現在はキューバリーグと日本プロ野球を掛け持ちしている選手も数人いる。

高い理想を掲げ、チェ・ゲバラとカストロのもと革命を成し遂げたキューバ。それから半世紀以上経つが、彼らの意志はどこまで実現できただろうか。解放しつつあるキューバの未来に注目だ。

今まで以上に頑張ろう

7月19日(日)、芥川賞を受賞された又吉直樹さんの特集をテレビで二本観た。それを観て、少なくとも表面的な事は何もかも僕と正反対だな~と感じた。暗いが冷静沈着で浮かれるところがない又吉さん。それに対して結構明るいが腰が軽くすぐに浮かれてしまう僕。

しかし根本にある考えは共通するところもあるのかとも思った。それは軸足をしっかり持っていること。又吉さんは小説を書きながらも芸人を根本の軸足としてしっかり持っている。僕は最近いろいろなことに取り組んでいるが、軸足は全て数理物理の研究においており、それを変えることは絶対にありえない。ただ又吉さんと違うところは、又吉さんは現在しっかりプロとして稼いでいるところである。しかし僕も今のままでいるつもりはない。

又吉さんは話していた。成功する保証はないが努力を続けることの怖さと大切さについて。僕も成功する保証は全くない。しかし不安症の僕だが数理物理の研究を続けることについて不安に思ったことだけは全くない。根拠のない自信と言うかなんというか。周りから見れば全く根拠はないように見えるかもしれない。しかし僕の中には明確な根拠があり、構想は明確に描かれている。だから不安に思うことは全くないのである。ただ時間は過ぎていく。時間がかかっていることには少し焦っているところはあるかもしれない。

去年の終わりからいろいろなことに取り組み始めた、お金を稼ぐことを目的としたものもあるが、それとは別にR-1の予選に出ることが気持ちを活性化させる副題の一つになっている。今年度末のR-1も再び挑戦してみようと思う。

ただやはり他のすべてを捨てても、数理物理の研究に打ち込む心だけは忘れない。

櫻井パパに見る官僚人事

先日、総務事務次官、つまり総務省の官僚トップに櫻井俊氏が決まった。ジャニーズの櫻井翔さんのパパだ。櫻井氏の官僚人事をめぐっては、ここ二年ほど伏線があったようだ。

櫻井氏は東大出身で当時の郵政省に入省し、入省当初から将来の次官候補として見られるほど優秀な人物だったらしい。総務省は旧自治省・旧郵政省・旧総務庁の合併によってできた省庁だ。その中で規模的に旧自治省・旧郵政省組が大きな権力を握り、次官はその二つの出身から交代になるのが慣例だ。そして去年2014年の夏の次官任命の最有力候補は櫻井氏だったらしい。しかし櫻井氏は落選したが、No2の座にとどまることになった。

官僚人事で一番大きな権力を持つのは官房長官、つまり菅氏だ。菅氏が内閣人事局が作った資料を基に絞り込む。そこで菅氏が政治的取引によって櫻井氏の任命を拒否したらしい。普通はこの時点で官僚出世コースは終わりだ。ところが今年、櫻井氏は二度目の候補で事務次官の座を手に入れた。

菅氏がどうして櫻井氏を嫌うのか、一般市民の僕にはわからないが、官僚と政界とは対立したり繋がったり、本当に入り組んだ世界だ。

櫻井翔さんのパパとして普通の次官以上に注目を浴びることになるとは思うが、誰であれ日本国を背負う人間として日本の発展に一役買ってもらいたいものである。

巨星散る・南部陽一郎博士

ノーベル賞物理学者、南部陽一郎氏が死去したことが明らかになった。94歳だった。

南部氏に関する俗的な話題はもちろんノーベル物理学賞を受賞したことに尽きるが、そのことを表現するときに「日本人物理学者」と表現すべきかどうかが議論になる。南部氏は東大卒業後、大阪市立大学で職に就いた後アメリカに渡り、そのままアメリカを研究拠点とし、アメリカ国籍を取得している。すなわち国籍上はアメリカ人なのである。日本生まれのアメリカ人と言う方が正確である。このことについては日本としては名誉なことではない。何しろ超一流物理学者が日米の研究環境を比較してアメリカを選択し、日本を捨てたわけであるから。異能流出である。

南部氏の物理学的な業績は多岐にわたり、広く深いものである。南部氏を表現するときによく使われるのが「時代を先取りしすぎた」という言葉だ。南部氏の研究は数十年後のスタンダードになっている。

僕が物理の勉強において初めて南部博士の名前に触れたのは、場の量子論の「南部・ヨナ-ラシーニョ模型」だ。南部氏の業績は、博士の代名詞ともいえる「自発的対称性の破れ」や「南部-ゴールドストン定理」をはじめ、どれをとっても重要なものばかりだ。最近流行りの超弦理論(超ひも理論)ももとをただせば、「南部-後藤のひも仮説」にたどり着く。素粒子論を学ぶ者にとって南部理論は必須だ。

南部氏は一般向けの書物も書いている。講談社ブルーバックスシリーズの「クォーク」という書物だ。これはブルーバックスの中でもベストセラーで、広く一般市民に親しまれている。

今、僕の机上の本棚に、「BROKEN  SYMMETRY , Selected Paper of Y.Nambu」という本がある。南部博士の論文集である。僕が昔、KEK(高エネルギー加速器研究機構)での研究会に参加した時に、途中の東京の本屋さんで買った本だ。恥ずかしながら、深く読んだとは言えないのだが。論文集が出版されるのは一流物理学者の証だ。

やはり南部博士の話題で、一般市民の一番の興味はノーベル賞であるので、ノーベル賞の話題で終わることにする。2008年のノーベル物理学賞は南部博士・益川敏英博士・小林誠博士の日本人トリプル受賞であった。しかし三者三分の一ではなく、南部氏が二分の一、益川氏・小林氏がそれぞれ四分の一ずつである。賞金もそのように分配される。単純に言えば、南部氏のノーベル賞は、益川氏・小林氏の二倍の価値があるということである。

南部博士の冥福をお祈りいたします。

集団的自衛権に関する安保法制と政治

7月16日、集団的自衛権に関する安保法制が衆院を通過した。この法案をめぐっては多くの国民の間で是非に関する議論が沸き起こっている。賛成意見にも反対意見にもそれぞれ分はあるが、はたしてどうすべきであろうか。

僕自身、集団的自衛権に関しては賛成である。ただ安倍総理の手法には大いに問題があると感じている。ここはしっかりと改憲という手続きを取り、法治国家としての尊厳を見せなければいけない。

今、反対派の人たちは、この法案を認めてしまうと戦争に巻き込まれてしまうと訴えている。その根拠が戦後現在まで他の地域の争い・混乱に接触しなかったおかげで一度も戦争に巻き込まれなかったという主張だ。しかし武装した自衛隊が行かなかったことでどうなったか?日本としては丸腰の民間人、あるいは外交官が紛争の最前線に立たされてきた。そしてこれまでに外交官をはじめ、民間人などの武器を持たない人たちが犠牲になってきた。

国際ボランティアの中田厚仁さんを覚えているだろうか。カンボジアでボランティア中に銃弾の犠牲になった若者だ。武装して給料をもらっている自衛隊が国内で敵のいない訓練地で体を鍛えている間に、丸腰で給料のない日本人ボランティアが犠牲になる始末なのである。これが本当に平和国家と言えるのだろうか。もし平和国家を掲げるなら、国内だけではなく国外の荒れている地域も平和にしなければいけない。そしてそれをすることが一番可能なのが自衛隊なのである。

もう一国平和主義は通じない。戦後の日本人にとって戦争とは現実の世界の出来事ではなくテレビの中のフィクションだった。もし近くの自衛隊員などが海外へ赴くのを自分の目で確かめることができれば、戦争の悲惨さも少しは実感できるであろう。

日本は島国のせいか、国境線が見えない割には日本と外国を強く区別する。しかし平和に国境線があってはならない。国境線の内側は平和なら外側は爆弾が落ちてもいい、というような考えはもう通用しない。実際イスラム国と呼ばれている疑似国家には国境線はない。もう平和に対する見方を国境線で区別する時代は終わったのである。

日本の平和だけではなく、世界の平和を心から願おう。

ビジネスにも品がある

その人の人間性を評価するときに、品は重要な要素だ。品がなければ人間性の評価も低くなる。それと同じように、ビジネスにも品がある。しかしビジネスにおいて品のことを考える人は少ないかもしれない。ビジネスではとにかくお金をたくさん儲けた人が勝ちだという風潮がはびこっている。人間を、持っているお金で判断する人も多い。しかし僕はこれに異議を唱えたい。

正直言って現在の僕はお金がない。それを理由に僕の意見が説得力がないと言う人はこの記事を読むのをやめても全然かまわない。

僕のビジネスは始まったばかりである。今まで数理物理のことばかり考えてきた。そしてこれからも数理物理の研究のことを第一に、大切に考えていきたいと思っている。数理物理の研究で妥協をする気は全然ない。今までは研究を大切にするあまりお金のことを常に後回しにし、軽視してきた。しかしこれからは研究もビジネスも全力で取り組もうと思う。

そこでビジネスをするにあたり、品というものを大切にしたいと思っている。ただやみくもに数字だけですべてを判断するようなビジネスはしない。もちろんビジネスでは数字は一番大切かもしれない。しかし僕はビジネスはあらゆる要素の集合体であると思う。お金儲けというものを中心にいろいろなプロジェクトを進めていく。お金を単にお金で終わらせずに数字以上のもっと価値あるものにしたい。

そして僕がビジネスを進めていくうえで一番重視しているのは「アイデア」だ。ぼくの個人的な考えだが、アイデアのあるビジネスは品がある。アイデアのないビジネスは品がない。そう思っている。そういう意味では品のあるビジネスの方が圧倒的に成功する率は高いし、利益も大きい。

僕の個人的な目標として、2020年にあるものを購入することを一つの目標にしている。研究で成功し、その品物が買えているか、5年後が楽しみだ。

金正恩の暴走

いま、北朝鮮の金正恩がとてつもない暴走をしている。今日も国防相の側近が粛清されたというニュースが入ってきた。中世ヨーロッパの恐怖政治を思わせるが、今の北朝鮮はそれ以上かもしれない。中世の独裁者でも側近をそんなに簡単に粛清したりはしなかっただろう。

この北朝鮮の粛清の嵐は北朝鮮の崩壊の前兆か、それともまだまだ続くのか。単純に考えると、これだけ頻繁に粛清をしていると人材がいなくなる。自然、能力のない正恩に対するイエスマンだけが生き残ることになる。無能な幹部ばかりの国がそう長く続くはずがない。やはりこの粛清の嵐は崩壊の前兆と見るべきであろう。

ところで正恩の夫人はブランド物に夢中だ。以前もディオールのバックを持って現れた。しかし不思議なことに正恩はいつもダサい人民服だ。あの人民服はダンヒルの生地ででもできているのだろうか?ここまで贅沢な生活をしていながらあの人民服にあの刈り上げカット、理解不能である。もちろんあの刈り上げカットは祖父の金日成に似せるためにしているというのがもっぱらの噂だ。しかし髪型は似ていても政治手腕は月とスッポンだ。

不思議の国北朝鮮、この不思議が崩壊するのも近いだろう。フィリピンのマルコス政権が壊れた後は、イメルダ夫人の数千足もの婦人靴が現れた。北朝鮮が崩れた後、何が出てくるのか。そのような変な興味もわいてくる。

厚生労働省の村木さん

村木厚子さんを覚えているだろうか。厚生労働省局長だった約五年前、郵便不正事件で逮捕され、20日の拘留・取り調べを受け、後に無罪になった女性だ。今では100%冤罪だったことが明らかになっている。

今日、たまたま雑誌で村木さんの2ページの記事を見かけた。そこで僕は今の村木さんの肩書を見て驚いた。現在の村木さんの肩書は「厚生労働省事務次官」、つまり厚生労働省キャリア官僚のトップなのである。僕は本当にうれしかった。めちゃくちゃうれしかった。村木さんのような誠実で、どん底に落ちても信念を曲げず戻ってこられた強い女性が日本の省庁のトップになられている。このことは日本の、そして日本女性全ての象徴であり、財産である。

村木さんの経歴はキャリア官僚としては一風変わっている。もちろん女性キャリア官僚としても珍しいが、東大出身のキャリア官僚がひしめく中、村木さんは高知大学出身なのである。地方国立大学出身で事務次官までなったキャリア官僚は村木さん以外はいないのではないかと思う。

村木さんはもちろん男性キャリア官僚と変わらぬ仕事をしているのはもちろんだが、女性官僚として女性に関わる政策にも重点を置いている。障がい者政策にも関わっていたはずだ。男性官僚と変わらず、それに女性目線をプラスして村木さんしかできない仕事をたくさんやってこられた方だ。

村木さんは郵便不正事件の冤罪で有名になったが、たとえそれがなくても事務次官にまでなられる力と人格の持ち主だと僕は信じている。あとどれくらい事務次官の職をされるのわからないが、村木さんしかできない仕事を思いっきりこなして活躍してもらいたいと願う。そして欲を言えば後に伝説の女性事務次官と呼ばれるくらいの活躍をすることを願うばかりである。

安保法案に関する報道ステーションのニュースで

7月13日(月)の報道ステーションで、安保法案に関する国会での議論のニュースが流れた。国会では4人の有識者が招かれ意見を述べた。

そのうちの一人、元外務官僚は、ISIL(イスラム国)を例に取り上げ、日本一国だけが血を流さないで他国の危機を眺めているだけのような無責任なことは通用しないと述べられた。この意見に関しては僕はもっともだと思う。

さらにもう一人、憲法学者で首都大学東京准教授の木村草太氏は、憲法学的には非常に問題があって、もし集団的自衛権を認めるならば憲法改正と言う手続きを取らなければならないと述べられた。この意見に関しても僕はもっともだと思う。

僕は集団的自衛権法案賛成・反対の両者に対してもっともだと言ったが、これには理由がある。根を正せば両者とも集団的自衛権の思想に関しては賛成なのである。ただ木村氏の意見は憲法学的立場から、もし集団的自衛権を認めるならば正式な手続きを取らなければならないという意見を述べているのである。

なぜ木村氏は憲法改正という手続きにこだわるのか。それはもしこのような正式な手続きをしないで集団的自衛権を認めれば、今回の件に関しては何も問題がなくても、これから将来、今回のことが前例になり憲法解釈ですべてを済ましてしまう、あるいは極端な場合は憲法を無視してしまうような事態が起きる可能性があることを憂慮しているのだと思う。極端に言えば独裁国家になってしまうような。

木村氏は報道ステーションのスタジオにも呼ばれていたが、彼の論点は的確で鋭い。僕は憲法学など素人中の素人であるが、木村氏は憲法学の核心をわかりやすく伝えてくれたと思う。

彼のような若くて気鋭の学者が法案議論の一翼を担っていることは、非常に心強いことだと僕は感じた。これからの木村氏の活動・研究に期待したい。

韓国の国民性は教育から

二日連続で韓国の話題になるが、何しろ韓国は日本の隣国であり無視できないこともある。遠い地球の裏側の国なら無視もできるが、幸か不幸か韓国は隣国だ。

先日、野球の国際大会の台湾-韓国戦で韓国側が卑劣な小細工を仕掛け、台湾国民は怒っているらしい。スポーツの国際大会における韓国の不法行為はもうおなじみで、国際大会があるたびに3つや4つくらいの不法行為が明らかになる。一つ一つのことに言及すればきりがないが、韓国のこのような体質は子供時代からの教育システムが原因ではないかと思う。先ほどスポーツについて言及したが、このようなことは政治・経済など韓国のあらゆる分野で共通にみられることだ。

韓国は日本以上の学歴社会で学歴を得ることには容赦しない。数年前に集団カンニング事件があったことも思い出す。韓国の学歴社会は「自分が上の学校に行く」=「人を蹴落とす」と言う構図がありありと見える。もちろん日本でもそのような構図がないとは言えない。20年以上前には日本も「自分がのし上がるために人を蹴落とせ」という思想がある程度あった。しかし今の韓国の現状はトップの大統領自身がそのような思想に染まっており救いようがない。大統領自身が病的な状態では、それが広まりはするにせよ改善することはないだろう。

ただ一つ救いようがあるとすれば、現在韓国は一応独裁国家ではない。大統領には任期がある。任期が来れば大統領が変わる(可能性がある)。しかしあまり楽観的な展望はできないだろう。前大統領に反する政策を打ち出せば、国民の反発を招く可能性があるからだ。特に反日思想に関してはそうだ。次期大統領が度の過ぎる反日に危機感をおぼえていても、現大統領が反日なしで国民をコントロールすることをできなくしてしまった。よって自身は反日でなくても反日路線を維持しなければいけない。

もし韓国の国民性を変えるならば、幼少期からの教育を改革するしかないだろう。今の韓国を見ていれば、教育に難があることは一目瞭然だ。スポーツは精神面が前面に出るのでそれが直に表れる。したがってスポーツを見ればある程度の国民性は推測される。

とにもかくにも今の韓国は教育から変えていかなければならない。そうでないと韓国自身が自国の足を引っ張ることになるし、隣国にも悪影響が及ぶだろう(もう及んでいるが)。

世界遺産登録をめぐっての日韓関係

先日、明治産業革命施設に対するユネスコの世界遺産登録をめぐっての日韓のやり取りは熾烈を極めるものだったようだ。6月には一度日韓合意ができていた。そこでは遺産に対して「forced to work(働かされた)」という表現を使うことで合意したが、いざ始まると韓国は「forced labor(強制労働)」という表現を強調してきた。この悪意に満ちた韓国の対応に日本外務省、そして安倍総理も怒り心頭だったようだ。

それが明らかになってすぐ、外務省の杉山審議官は即韓国に飛んだ。韓国に着いた杉山氏は韓国外務省に乗り込んだが、そこでの韓国の対応はのらりくらりと逃げるような対応だったそうだ。forced to workをforced laborに変えた理由も、単に言葉を短くしただけだと言い逃れていたらしい。もちろん杉山氏をはじめとする日本政府は激怒していた。forced ladorと言う言葉は十数年前に「強制労働」を表す言葉だと国際的に認められている。翌日も杉山氏は韓国外務省に乗り込んだ。そこでは怒号が飛び交う応酬であったらしい。

この様に、日本政府・日本外務省は毅然と韓国政府に立ち向かった。韓国側からは脅しともとられるようなやり取りだったらしい。しかしこのような日本側の強硬な態度のおかげで日本人の尊厳が守られたのだ。

今までは日本政府といえば対外的には弱腰で有名で、特に難癖をつけてくる中韓に対してはほとんど反論できなかった。しかし今回は日本政府も堪忍袋の緒が切れた。一度このような対応ができるとそれが実績になり、これからも毅然とした態度をとることに躊躇しなくなるだろう。

今まで一方的にやられ、日本国民もやるせない気持ちだった。しかし今回の日本政府の対応に、日本国民も世界に対して毅然とした態度を持つきっかけになり、日本国民としての尊厳・誇り・自信を深めることになるだろう。

強盗に襲われたスガさん

「一緒にいたアソウさんは助けるが、強盗に襲われたスガさんは助けられない。」安倍首相は集団的自衛権に関連する話題でこう話したという。

現在は個別的自衛権は存在し、自分たちに直接影響することに関しては防衛・攻撃はできるが、自分達とは関係ない(と思われる)ところで起きている犯罪には手も足も出せないということだ。しかし集団的自衛権が認められるとそのような事にも関与できるようなことになる。この集団的自衛権の焦点は、日本人(自衛隊員?)が日本に関係ないところで血を流すことになるのではないかという危惧である。しかしこのような思想は半分前時代的な考えが入っているのではないかと思う。

過去、そして今まで、防衛の単位は基本的に「国」であった。すなわち自分の国さえ平和ならば他の国は関係ない。実はこれは日本の平和憲法の思想の一面でもある。日本人は自国の憲法第九条平和憲法を誇りに思っている。しかしこのような自分の安全だけしか考えない思想が平和憲法の思想だと言えるだろうか。

集団的自衛権で実際に血を流す可能性が高いのは自衛隊員である。自衛隊員が戦地に行くことになる。しかしストレートに言えばそれが自衛隊員の仕事である。日本は徴兵制ではない。自衛隊員は皆志願してなっている。自衛隊の仕事は多岐にわたる。災害救助での活躍は最近は目覚ましいものがある。しかし自国が戦闘状態になればその最前線に行くのも自衛隊の仕事である。自衛隊の活動を否定するものは自衛隊員になる必要は全くない。しかし自衛隊員になりながら戦地に行くのは嫌だ、血を流す可能性のある活動なんてけしからんなんていうのは矛盾していないか。

戦地に赴くのが嫌でその時に脱隊する者がいれば、それは自衛隊詐欺以外の何物でもない。もちろん血を流さずに済めばそれが一番いいに決まっている。しかし誰かが血を流さなければいけない時がある。その時、自分たちは平和憲法の国民だから血は流せないので、アメリカが、あるいは他国が代わりに血を流してくださいとでも言うのか、と言う話である。

宇宙からこう言った者がいる。「地球に国境は存在しない」と。もう一国だけの平和が通じる時代ではない。国境は徐々に薄くなってきている。ヨーロッパもEUと言う形で国境が薄くなった。その中で日本は、東アジアは頑なに国境を堅持しようとしている。

まだ現時点では時期尚早かもしれないが、国境と言う概念はこれから薄くなっていく方向に進むのは間違いないであろう。

小保方氏とは何だったのか

最近、STAP細胞騒動の張本人小保方氏が論文を雑誌に載せるのにかかった60万円を理研に返却したという報道があった。この騒動が60万円で済むわけがない。理研としても「形として」ということであろう。一言で言えば「ポーズ」である。

正しいことを証明することはできても、間違ったことを証明するのは意外と難しいものだ。小保方氏の疑惑についても99%嘘だと思っていても残りの1%はどうだ、と言うことになる。

数学ではこれは意外と簡単だ。理論が正しければ正しい、間違いがあれば正しくないということである。とは言ってもアンドリュー・ワイルズがフェルマーの大定理の証明論文を提出した時には、数グループに分担した検証グループが1年以上かけて判定した。とはいえ、このような例は数学でも例外的な部類に入る。

話は小保方氏に戻るが、多くの若手研究者は研究ポストに就こうと必死に努力している。その中でも正規のポストに就けるのは一部だ。時間もかかる。お金もかかる。小保方氏は理研の正規のポストに就き、年収は1000万円だったと言われている。記者会見の時には立派な指輪が話題になった。今考えると本当に強い憤りを感じる。

研究者として成功するには非常に困難ないばらの道を歩まなければならない。その途中で自殺する研究者も多いと言われている。小保方氏への社会の対応と、研究者への厳しい試練双方に何ともやるせない気持ちを感じてしまう。

教育殺人

岩手県で中学二年生の生徒が自殺した。その自殺までの経緯があまりにも凄惨だ。教育評論家の尾木ママこと尾木直樹さんはこの事件のことを「教育殺人」と呼んだ。

自殺した生徒は担任に提出する連絡ノートに繰り返しいじめの苦しさを訴えていた。しかしそれに対する担任の返事は全て業務連絡的、機械的なものだった。この担任は教師と言う職をどう考えていたのだろうか。何も今の時代に教師の職業のことを聖職とまでは言わない。しかし今回の教師はまるでコンビニのバイトくらいの感覚で職を遂行していたのではないか。コンビニのバイトをバカにするわけではない。しかしコンビニのバイトと教師の職では給与は桁違いに違う。それは仕事への責任の裏返しでもある。

さらにびっくりしたのが、集会で校長は謝罪の言葉を全く述べなかったことだ。おそらく今は学校ぐるみで保身の道へ突き進んでいるものと推測される。生徒が何かで活躍するとまるで自分たちのことのように学校ぐるみで胸を張るのに、不祥事が起きると誰も関係ないと保身に走る。もうおなじみのパターンだ。

今回の事件は尾木氏が言うように教育殺人と言う言葉がふさわしい。学校ぐるみの犯罪と言えるだろう。もちろんいじめていた加害者生徒には大きな責任がある。しかし今回のいきさつを見ていると、教師もいじめに加担していたも同然だ。

この様な事件が起こるたび、大人の汚い側面が強烈にあらわになる。本当に醜い。この醜い大人たちに「教育」というものをされている生徒たちも被害者だ。今頃、醜い大人たちは自分のことしか考えていないだろう。どうしたら処分を免れるのだろうと。彼らの眼中には自殺した生徒のことは全く映っていない。

練習はウソをつかない

いきなりだが、僕はプロ野球の阪神タイガースファンだ。はっきり言って巨人は嫌いだ。しかしここでは好き嫌いは横に置いて、プロ野球選手の言葉に触れたい。

プロ野球ニュースで7月7日の試合のダイジェストを見ていた。そこで巨人戦のニュースで、不振だった阿部選手がかなり活躍したという話題が出たのだが、そこで阿部選手のインタビューで「練習はウソをつかない」という発言が出た。まさか阿部選手ほどの天才打者からそのような言葉が出るとは思わなかった。それと同時に僕の胸にもこみ上げるものがあった。

僕は努力したからと言って必ず成功するとは思っていない。しかし努力せずに成功することもないと思っている。すなわち努力した人の中から成功者が生まれるということだ。この様なことを言うと、絶対成功するという保証のないことに打ち込むのは無駄だと思う人がいるかもしれない。そのような人は努力する必要はない。そのかわり成功はしないだろう。僕の考え方は一部の人間には夢がないと思われるかもしれない。しかし努力をしないで成功することが夢だなんて僕は全く思わない。そんなものは夢でもなんでもなくて単なる博打である。

しかし阿部選手の言葉は本当に励みになる。やはりトップリーグの最前線の選手が言う言葉は一言一言が重い。僕も阿部選手の言葉を胸の片隅に置いて努力していきたいと思う。

怒りのコントロール

とある記事で、「自滅しないための怒りのコントロール」というものを見た。確かに怒りをコントロールするのは難しい。人によってはそれが自滅の道へと続くこともある。

正直言って僕は感情の起伏は激しい。喜びも怒りもかなり激しく表現する方だ。しかし暴力などは100%起こさない。赤の他人に対して突っかかることはしない。しかし街を歩いているとちょっとしたことで突っかかってくる人は多い。この様なことをするのは若者が多いイメージがあるが、実際は中年以上の人が多いように感じる。本人は普通の会社に勤めていて社会人であることを自負しているのかもしれないが、僕に言わせれば人間のクズである。

そもそも日本では会社に勤めている人間を社会人と呼び、社会人であるかどうかで人間を判断する風潮がある。もちろん僕もいろいろな人間を見てきたが、社会人としてどうかなんて人間性にほとんど関係ない。それは会社で立派な肩書を持つ社会人が、不祥事が起きると全力で保身にまわることを見てもよくわかるだろう。社会人かどうかなんて所詮そんなものだ。

怒りの話に戻るが、怒りを我慢するのは体に悪いらしい。しかし怒りを制限しなければいけない時ももちろんある。怒りをコントロールして怒りをうまく表現できるのが「本当の大人」というものかもしれない。しかし実際はそれが非常に難しい。僕は基本的に大人と言う存在が嫌いだ。しかし自分の理想の大人像に近づけるように精進していきたいものである。

韓国に対して怒りを通り越してあきれる、そして韓国に対する日本の報道について

7月5日、日本の明治産業革命遺産に対する世界文化遺産登録が可決された。しかしこの登録については日本と韓国の間で最後までもめにもめた。何がもめたのか、いつものパターンなのでいちいちここで述べるのも無駄であるが、もうここまで来ると韓国に対して怒りを通り越してあきれ返り、韓国が哀れに思えてしまう。

いまヨーロッパではギリシャ問題でもめている。ギリシャの問題は内容が切羽詰っており緊急問題であるが、韓国が日本に対して非難している内容は裏付けもなく、また今回の世界遺産の趣旨からも大きく外れており、くだらないの一言だ。そんなくだらないことを認めるくらいなら無理に世界遺産にしなくていいのではと言うのが多くの日本国民の声ではないか。

それからもう一つ言いたいことは、日本の報道機関に対してである。日本と交わりのある国は韓国・中国だけではない。近くには台湾・フィリピンもあるし、ロシアもある。もっと距離を広げば日本と密接な関係にある国はたくさんある。日本は世界的に見ても最も信頼されている国だ。それなのに流れてくるニュースは韓国が非難したとかケチをつけたとかの、くだらないニュースばかり流してくる。アフリカに対する継続的な援助の話題が二つでも出たことがあるか?初めの一つは出ても二度は流れない。アフリカ住民に対しても失礼である。もっと多様な世界の人間を視野に入れなければならない。しかし報道局の視野に入るのは韓国のくだらない話ばかりである。

南シナ海では中国とフィリピンの間で非常に深刻な事態が起きている。岩礁の埋め立て、軍事要塞化の問題である。このニュースのように世界的に見て重要なニュースはたくさんある。それでいながら報道局が流すのはまた韓国がケチをつけてきたという話題である。

もうこれは報道機関の見識が問われるレベルの問題である。あまりにもレベルが低すぎる。日本国民に、そして世界の市民に非常に失礼なことをしていることに気づかないのかと思う。

ギリシャの国民投票について

日本は現在7月5日午前0時、ギリシャ現地時間5日にギリシャで国民投票が行われる。緊縮財政を伴うEU支援を受け入れるか、それに反対してEU離脱への道を進むのか。簡単に一言で言うと、倹約を約束するか、贅沢したいかみたいな感じだろうか。

日本国民の感覚から言うとギリシャ国民の感覚は異常とも思えるが、南ヨーロッパ気質とでも言うのか、彼ら彼女らは非常に楽天的だ。昔こんな本が日本で流行った。「お金がなくても平気なフランス人、お金があっても不安な日本人」。確かに日本人の用心深さは異常とも思える時があるが、その慎重さと堅実さが今の日本の繁栄を作り上げたのであろうか。

ギリシャの話に戻るが、それにしても情けないのが大統領をはじめとする政治家である。今回の判断は重要事項ではあるが、いちいち国民投票などにするものではなく、大統領の決断一つで決める類のものである。大統領は国民に直接選ばれた者であり、それが故に大きな権力を持つ。今回の国民投票は大統領の責任逃れとしか言いようがない。

今回の判断は、二者の良し悪しを決めると言うより、悪いか・もっと悪いかを決めるもののように思える。はっきり言って完全に手遅れなのである。それを決定的にしたのが、緊縮財政を進めようとした前大統領を否定して、緊縮財政反対の現大統領を国民が選んだことである。現大統領は現在も国民に甘い言葉ばかりささやいている。それに国民も酔いしれている。

今回のEU支援をもし否定した時、その時が国民が本当の現状に目が覚める時ではないかと思う。

ベルリンフィルの首席指揮者をめぐって

最近、ベルリンフィルハーモニー交響楽団の首席指揮者の交代をめぐって内部で議論が起きていたらしい。ベルリンフィルと言えばウイーンフィルとともに世界の頂点に君臨するオーケストラだ。昔はフルトヴェングラーやカラヤンなど超巨星とも言えるような偉大な指揮者がいたものだが、カラヤンの跡を継いだアバド以来小粒な感がするのは僕だけであろうか。今回のことに関しても僕の不勉強のせいか、前指揮者、新指揮者とも名前を存じなかった。

音楽に疎かった僕がカラヤンのことを知ったのは大学の混声合唱団に入った時のことだった。カラヤンは帝王と言われ、首席指揮者ではなく終身常任指揮者と言われていた。なんだか巨人の長嶋茂雄のようだ。しかし最近は大物と言われる指揮者の名前をあまり聞かない。日本にいて聞くのは日本が誇る偉大な指揮者小澤征爾くらいだ。

小澤征爾と言えばちょっとした思い出がある。もちろん面識などはないのだが。信州松本で毎年開かれるサイトウキネンオーケストラという小澤征爾が主宰する音楽祭がある。大学時代、そのサイトウキネンのチケットを取るのに徹夜で並んでいたところに小澤征爾がサプライズで現れた。もちろん会場は大騒ぎ。僕もどさくさに紛れて小澤征爾と肩を組み写真に写り、シャツにサインをしてもらった。しかし今は写真もシャツも手元にない。小澤先生、ごめんなさい。

話はベルリンフィルに戻って、世界トップの演奏者が集まるベルリンフィルの指揮者は猛獣使いと言われている。演奏者一人一人がライオンなのである。そのような猛獣をいとも簡単に操り最高の音色を奏でさせるカラヤンのような超巨星はこれからまた現れるのだろうか。僕が生きているうちに現れることを期待するところである。

人間にとって教養とは

学生にとってそろそろ期末テストが始まるころだ。好きな教科、得意な教科には力が入るが、苦手な教科はどうしても後回しになってしまう。少なくとも学生時代の僕はそうだった。大学1年生の頃は大嫌いなフランス語の授業を出席だけとって後ろの扉から逃げ出していたのが思い出される。逃げ出した足で大学図書館に向かい、数学や物理の勉強に励んでいた。

ところでなぜ僕はフランス語をやらなければいけなかったのだろうか。フランス圏の国など一度も行ったこともないし、大学のフランス語の授業以外でフランス語に触れたことも皆無だ。今覚えている言葉と言えば「ソレイユ(太陽)」という言葉くらいだろうか。

大学の1、2年生の時期を教養課程と言う。もちろんフランス語の授業も教養課程の一環だ。専門を極めようと大学に入っても、初めの二年間は教養をしっかり叩き込まれる。なぜそこまで教養にこだわるのか。それはひとえに大学を出た者は専門知識と同時に大卒生にふさわしい人間の格としての教養を身に付けてほしいからだ。

教養はその人の人間の格・人間性をもっともよく表す。見る人が見れば30秒も話すとその人の教養のレベルはわかるものである。いくら専門知識があっても、いくら仕事ができても、教養のない者は最終的には軽んじられる。教養を身に付けることは大事だが、それ以前に教養の重要性を理解することはもっと大事だ。教養の重要性を理解していない人間は総じて薄っぺらい。

教養と言っても嫌なことを嫌々することは苦しい。まずは興味の幅を広げてあらゆる分野に挑戦する、それが教養の幅を広げる一歩ではないかと思う。

最近立て続けに起きる火山噴火について

ここ最近、日本列島各地で火山の噴火が立て続けに起きている。西之島での海底噴火では陸地の拡大が続き注目度も大きく、これからの行方が気になる。ここ数日では箱根山の小規模噴火が話題になっている。僕は地学の専門家ではないので詳しいことは判断できないが、やはり気になるのは地震と火山の関係、東日本大震災との関連、そして一番気になるのはやはり富士山の噴火ではないだろうか。

今、日本列島は地殻変動活動期に入っていると言われる。その幕開けが東日本大震災だ。しかしそもそもそのような活動期なるものが科学的に存在するかどうかは疑問だ。科学的にそのような活動期に入ったというよりも、地震噴火が頻繁に起きているから活動期だと言っているだけに思える。

そして今、富士山の噴火と同等以上に注目を浴びているのが南海トラフ地震だ。20年ほど前までは地震の話題と言えば、今にも起こると言われていた首都圏直下型地震一色であった。しかし阪神・東日本大震災を経験し、首都圏直下型地震の話題はすっかり影を薄めたように思う。しかし地震は忘れたころに起きる。話題が薄れた今、人々の警戒感も緩み首都圏直下型の危険は増しているのではないかと思う。

今、南海トラフ地震が警戒されているのはその桁外れの大きさだ。東日本大震災もマグニチュード9という超巨大地震だったが、南海トラフも最大予測はそれに匹敵すると言われている。数年前まで話題にのぼらなかったのがウソのようだ。

日本に住んでいる限り火山と地震は切っても切り離されない。この様な話題は時には必要以上に煽られているようにも感じるが、人々に警戒感をもたらすという意味では非常に良いことではないかと思う。日本人である限り、頭の隅には少しでも火山・地震のことを念頭に置いておくことは必要だ。