月別アーカイブ: 7月 2015

明治天皇の玄孫二人が日本を語る

とある記事で明治天皇の二人の玄孫、竹田恒泰さんと渡辺徹さんの対談を見た。竹田さんはテレビでおなじみの人だが、渡辺さんは初めて存じた。二人とももう皇籍からは離れており、対談を見てもお二人とも快活な日本人という感じを受けた。

元皇族の話としてやはり気になるのが日本史の話だ。日本史の授業では歴代天皇が度々登場する。その度にお二人ともドキドキしていたそうだ。歴代天皇は全ておじいちゃんのおじいちゃんの・・・という関係だからもちろんだろう。しかし先祖が天皇だという人は何も皇室の人だけではない。統計学的には日本人は皆天皇家の子孫なのである。なぜなら親は2人、祖父祖母は4人と遡っていけば何十代か前の先祖は1億人を優に超える。なので日本史というのは日本国民すべての先祖の歴史でもあるのである。

日本史についてお二人が語っておられたのは、今の日本史は客観的過ぎるということである。外国では自国の歴史のことをNational History、すなわち「国史」というらしい。国民は皆当事者意識を持って国史を学ぶ。

竹田氏はアメリカの国史の教科書を取り寄せて読んだらしい。それによるとアメリカの国史は手に汗を握るような展開なのだそうだ。日本に置き換えると真珠湾攻撃をした。その後アメリカはどう反撃して、日本はどう防いだかというような展開だろう。

それから日本史は自虐的史観が多い。先の戦争に対しても常に自虐的姿勢をとってきた。そこでは東条英機は悪党のボスであった。しかし最近、安倍首相がアメリカ議会で講演した時、安倍氏は一切謝罪しなかった。それに対してアメリカ国民の約6割はもう謝罪しなくていいと答えたという。

自国に都合の悪いことは一切表にしない中国のような歴史は虚勢であり明らかに間違っているが、日本国民はもっと自国日本についてもっと自信を持ってもいいのではないか。そして明治天皇玄孫二人もおっしゃっていたが、「日本は」という第三者的な言葉ではなく「我が国は」と胸を張って語ってもいいのではないかと思う。

人工知能は人間を超えるのか

科学の社会的危惧のうちの一つに「人工知能は人間を超えるのか」というものがある。人工知能は科学的問題であることは言うまでもないが、それ以上に社会的な問題として注目を浴びている。

人工知能の社会的側面としては、それまで人間がやっていたことを人工知能が取って代わるというものが二番目に大きな問題であろう。そうなれば社会の構造、労働の在り方が一変することは容易に想像できる。あるいはそれまで100人でやっていたことが一人でできるようになるということも考えられる。経営者のとっては非常にありがたいことではあるが、単純労働者にとっては死活問題である。

そして一番の問題は人工知能が人間を超えてしまうということである。もしそうなれば人間が人工知能に支配・コントロールされるということが起きる。まさしく映画ターミネーターの世界である。そして人工知能は自発的に自らの知能の向上を続けていくであろう。人間は家畜に成り下がるのであろうか。

この様なことから人工知能の倫理は非常に重要な問題である。人工知能が人間を超えることが明確になった時点で研究を続けるかどうか見直さなければいけないが、この手の研究は禁止しても必ず誰かが続けていくであろう。まさしくパンドラの箱を開けてしまうようなものだ。

これからの科学研究にはより一層倫理的観点が必要になるであろう。しかしその倫理とはこれまでのように、宗教的倫理だとか生命倫理などというような生易しいものではない。人類が絶滅するかどうかというようなことを視野に入れたものになる。科学というものは性質上後戻りできない。しかし一つだけ言えることは、一般市民も科学的教養を身に付け、科学的事柄に正しい判断を下せるような判断力を身につけなければいけないということであろう。もう自分は文系だからなどというような言い訳は通用しない。

批判だけが能じゃない

物事を考えるうえで批判精神は重要である。考える学問・哲学でもカントの有名な三つの書物は「三大批判」と言われている。しかし日常生活で全てのことを批判する人などいるであろうか。

しかし政治の世界では基本的に野党は与党のすることは全て批判することになっている。そのような考え方は、政府与党の政策に対するチェック機能になっており必要なことでもある。しかし政党に所属する議員すべてが同じ考えを持っているなどあり得るはずがない。しかし政党とは集団そのものが思想を持つものともいえるので、個の思想はある程度無視されるのかもしれない。

とはいえ、与党も野党もある程度平等な視点を持つことも大事ではないかと思う。おかしいと思う案に対しては思いっきり反対すればいいが、理にかなった案は与党野党関わらず認める姿勢も必要ではないかと思う。それが大人の政党というものではないか。

日本共産党の存在自体を否定するつもりはないが、与党のすることなすこと全てに反対だとわめくのは、それはもう幼稚園児野党とも言えるのではないか。そこには思想など全くなくて、ただ与党に反逆することだけが生きがいだという姿勢しかない。

ただ初めから否定することを決めているのは楽だが、平等な視点で批判することはかなり難しい。同じ批判でもこの二つを混同してはいけない。これは子供と大人の違いである。

理にかなったことには賛同し、おかしいことには批判する、これが本来あるべき姿だと思うが、実際はこれがなかなかできないのである。

産経新聞記者の韓国大統領行動報道事件、訴訟について

産経新聞記者による、韓国朴大統領の不明行動の記事に対しての名誉棄損訴訟の公判が7月27日に行われた。この裁判は産経新聞記者がセウォル号沈没時に朴大統領が男と密会しており、7時間にわたって消息不明だったという報道をしたことに対しての、朴大統領側からの名誉棄損訴訟である。今日はその事象に関して、西日本新聞の韓国支社の記者が証言を行った。

男と密会していたかどうかはともかく、セウォル号沈没という一大事の時に大統領が7時間にわたって消息不明など、普通の先進国ではありえないことだ。いや、先進国かどうかにかかわらずこんなことは普通はありえない。

新聞の第二面か三面あたりの記事に注目したことがあるでしょうか?日本の新聞には第二・三面に小さくだが、首相の前日の一日の行動が記録されている。「首相の一日」というなタイトルで書かれているはずだ。首相は日本で一番の公人と言ってもよく、首相の一分一秒の行動がそのまま日本の行方を左右されると言っても過言ではない。したがって首相の一日の行動は全て記録され、国民に公表されるのだ。

しかし今回の朴大統領の事象では、7時間にわたって消息が不明になっているのである。日本の首相においては絶対にありえないことだ。朴側は男と密会していないと訴えているが、問題の本質はそんなことでは全くない。朴側の勘違いも甚だしい。通常時においても数時間にわたって一国のトップが消息不明になるということなどは大問題になるようなことであるが、今回のことはセウォル号沈没という数百名が犠牲になるという緊急時のことである。韓国の危機管理の甘さが三流国だと露呈したようなものだ。こんなことに対して訴訟を起こしている暇があったら、危機管理の強化に時間を割いた方がよっぽど賢明である。反日などと叫んでいる暇はないはずだ。

日本の近国に北朝鮮というならず者国家があることは日本国民は皆承知であるが、隣国である韓国までここまで落ちぶれた三流国家であることに今回の訴訟で日本国民は気付いたであろう。

「正規」と「非正規」社員について

7月26日のサンデージャポンで、サイゼリアの従業員のセクハラ自殺事件が取り上げられていた。その中で元衆議院議員の杉村太蔵氏が、正規社員つまり「正しい社員」と非正規社員つまり「正しくない社員」という言葉ほど差別と屈辱の満ちた言葉はないと話していた。まさしくその通りだと感じた。

非正規社員は正規社員に希望を持って正規社員に憧れを持っている。その一方正規社員は非正規社員を見下すような風潮がある。デフレ不況時代から日本は「正社員至上主義」になってしまった。正社員であることに全ての価値を見出そうとしている。そのような風潮は景気が回復しつつある今でも続いている。雇用する側は非正規社員の正社員になりたいという心に付け入ろうとする。そのような心を逆手に非行に走る上司が後を絶たない。

僕はいっその事、みんな非正規社員にすればいいと思っている。そうすれば非正規だとか正社員という言葉自体がなくなるだろう。もちろんこれは極論であって、それが実現不可能なことはわかっている。僕が言いたいのは正規と非正規の間に本来優劣など決めることはできないということである。杉村氏の言うように「正しい」とか「正しくない」などと優劣をつけることなど人権侵害も甚だしい。実際セクハラ自殺事件を起こしたサイゼリアの店長は正社員である。

しかし有能な社員と普通の社員の間に優劣をつけることは必要だ。しかしその優劣が正社員と非正規社員の間にあるかといえば全くなっていないということである。海外では正社員と非正規社員という区別をやめて、実際に働いた成果に対して報酬を出すようなシステムに移りつつある。それならば自然有能な社員が高収入になる。

日本に根強く残っているシステムは時代遅れになりつつある。このサイゼリア事件が日本の労働の在り方に一石を投じることになればと思う次第である。

A級戦犯の遺書を公開

先日、あるお寺で太平洋戦争のA級戦犯で絞首刑された7人の遺書が公開された。A級戦犯といえば東条英機が圧倒的に有名だが、それ以外の6人のことをご存じだろうか。僕自身もとりわけ詳しいわけではないが、そのうちの一人、元首相・外相の広田弘毅には非常に強い思い入れがある。その理由は、15歳の時に読んだ一冊の文庫本だ。城山三郎の「落日燃ゆ」という本なのだが、内容は広田弘毅の生涯や思想を一冊にまとめた小説だ。

僕は今まで読んだ小説の中でもこの本が一番面白かったと思っている。広田弘毅はA級戦犯で絞首刑にされた7人の中で唯一の文官、つまり非軍人だ。しかし時代がそうさせたのか、戦前の軍国主義に進んでいこうとしているときに首相に指名され、戦争への道を避けようとしたにもかかわらず軍部に引きずられるようにA級戦犯にされた。

広田のA級戦犯については今でも議論され、冤罪であったという意見が今では強い。極東軍事裁判の判事の中でも無罪を主張し続けた外国人判事もいる。

広田はもともと外務官僚だ。外務省同期には戦後首相になった吉田茂がいる。広田が吉田に比べて圧倒的早く外相・首相になったことからもわかるように、広田は圧倒的に優秀な官僚であった。しかしそれが災いし戦犯になることになった。それと対照的なのが吉田で、出世が遅かったがために戦後活躍することができた。

A級戦犯は戦争の一部の縮図に過ぎない。しかし戦犯を知ることによって軍国主義時代の中枢の動きが明らかになる。軍国主義に走っていった日本の中で、広田のような信念を持った文官が犠牲になったことも広く日本人に知ってほしいものである。

オバマ氏、父の祖国ケニアへ

米大統領オバマ氏が現在ケニアを訪ねている。父の祖国だ。ケニアでは熱狂的な歓迎ムードに包まれているみたいだ。異父姉も空港までお迎えだ。世界で一番影響力のある国の大統領だから、ケニアとしてもオバマ氏は誇りであろう。ちなみにオバマ氏自身はアメリカで生まれ、アメリカで教育を受けている。

日本には大統領は存在しない。国のトップである総理大臣は議員による投票で決まるので国民の間接的な選挙による選出というところであろう。しかし一人だけ大統領になった日本人(日系人)がいる。ペルーの元大統領アルベルト・フジモリ氏だ。フジモリ氏が大統領になったときは日本でも熱狂的な渦に包まれた。日系人ということで日本とのつながりも強く、在任中に日本を訪問している。しかし大統領職を退いてからのフジモリ氏の人生は混乱に陥る。

日本も総理大臣制ではなく大統領制にすべきだという声もよく聞く。やはり大統領制では国民の投票によって直接に選ばれるわけで国民との距離も近い。そしてより大きな権力を持つことによって強いリーダーシップをとることができる。

オバマ氏の話に戻るが、オバマ氏の評判は就任当初に比べると芳しくない。当初は初の黒人大統領として大きく注目され、ノーベル平和賞も受賞した。期待を込めてのノーベル賞だった。しかし国内政治・経済の運営はそつなくこなしていたが、対テロ戦争でオバマ氏は混迷に陥る。ISIL(イスラム国)が台頭し、以前の戦争手法が通用しなくなった。オバマ氏も新しい対処の仕方を考えないといけなくなったのであろう。

今アメリカは次の大統領の話題で持ちきりだ。特にヒラリー・クリントン氏への注目は大きい。ヒラリー氏が選出されれば初の女性大統領、そして初の夫婦そろっての大統領となる。これから大統領選への行方には注目である。

首相の動静を見ると

日経のウェブで、昨日の安倍首相の一日の動静を見てみた。政治関係の仕事から入ると思いきや、8時半からホテルの日本料理店でのJR東海の葛西名誉会長との会食から入っていた。葛西氏は経済界の重鎮でもあり、鉄道界のみならず日本の経済界で一目置かれる存在だ。一日の初めは経済からというところであろうか。

その後は各大臣との会議などが分単位で組み込まれている。夕方ころには中学生との交流もある。次世代を担う子供たちからもしっかりと支持を得ようというところだろうか。さすが安倍首相、抜かりはない。ラジオ番組にも出演している。メディア対策も抜け目がないのか。

安倍氏自身は有能な人物だと思っているが、最近の安倍政権の政治運営は明らかに強引な感が否めない。以前は安倍政権を支持していたが、現在は政策ごとに支持しているもの、しないものが分かれ、自分でも安倍政権を支持すべきか考え込んでしまう。

集団的自衛権の内容自体は非常に支持している。これを即座に戦争法案などと叫ぶのは明らかにおかしい。しかし法案の通し方は完全に間違っている。国民不在の手法に見える。国民だってそこまでバカではない。誠実に説明し、改憲という手続きを取れば多くの国民も納得するだろう。数によって強引に通そうとしていると非難する人がいる。確かに強引だ。しかしその前にその数を安倍氏に与えたのは国民だ。そのことを忘れてはいないか。

法案に賛成か反対かというより、これからの安倍政権、そして日本の行方が心配である。最近のおかしな歩みを変えられる人物は石破氏しかいないと私は思っている。今は影を潜めているが、もう一度石破氏の活躍するのを期待している。

実用を極度に重んじる文化について

今日、とある数学の専門書を読んだ。その本の序章で古代ギリシャ時代の最も傑出した数学者アルキメデスのことに触れていたのだが、そこでこのようなことを書いていた。

「ギリシャの実用を極度に軽じる文化の中にあって、・・・」

という文言だ。

古代ギリシャ時代は極度に学問的・抽象的な対象にこそ価値があるとされていた。そこでは学問は貴族、実用性のある工学などは奴隷がするものである、ともとれるような風潮があった。しかし現在の科学に基づいた社会の基礎は、ギリシャの抽象的学問から始まったと言える。

そのような古代ギリシャの文化とは対照的に、現在の社会は極度に実用性を重視しすぎる。科学的価値もいかに役に立つかということに重きを置かれているように感じる。しかし科学の真の価値は役に立つかどうかで判断されるものではない。科学の価値とは、内容の科学的豊富さ・科学的美点・一般性にある。いわば科学とは本来芸術に近いものなのである。そのような思想を極度まで推し進めたのが古代ギリシャ文化である。

古代ギリシャとまでは言わなくても、現在の実用至上主義はいきすぎだと感じる科学者も多く、もう一度学問的・科学的・哲学的価値に基づいた判断によって見直すべきではないかと思う。

役に立つかどうかで判断することは簡単だ。役に立つかどうかは誰が見てもわかる。何も考えなくてもわかるのである。しかし学問的価値・科学的価値を理解するためにはそれ相応の教養が必要だ。現在の大学教育は実用性重視に偏ってきつつある。しかし多くの大学では最初の二年間を「一般教養課程」と呼び、教養を身に付けることを重視してきた。これらの教養は人間としての格を身に付けることでもある。しかし実用的価値判断に偏った無教養社会になれば、そこに住む人々、そして社会全体が薄っぺらなものになってしまう。

今、ギリシャは財政破たんに関する問題で混乱している。そんなギリシャも古代には現在でも模範とすべき立派な学問文化が存在した。今一度古代ギリシャを見返し教養の大切さを確認する必要があるのではないかと思う。

EU、ギリシャ問題で明確になる国境

今、EUがギリシャ問題で揺れている。ギリシャの国民投票でEUの再建案が否決され、そのまま反緊縮路線で進んでいればここまで揺れることはなかったかもしれない。あの国民投票はいったいなんだったのだろうか。ギリシャ首相は国民投票と反する行動をとることとなった。そこでまたEU側は対応策の見直しに取り組むこととなった。

そこで問題になっているのがEUの二大国、フランスとドイツの対立だ。何が何でもギリシャをEUにとどめたいフランスと、EU離脱も辞さない強硬派のドイツ、その対応策の対立によってこの二国が、そしてそれ以外の国までがバラバラになりかけている。

EUはもともとヨーロッパから国境をなくそうとする思想の実現化だ。しかし今、この方向に反してフランスが、ドイツが、そしてイタリア・スペインなどそれぞれの国が国単位の主張を行いEUという統合枠が崩れ始め、国境が明確化してきている。EUの統合路線は夢物語に戻ってしまうのか。

現実論のドイツに対して、理想論のフランス、このような構図が感じられるような気がする。一人笑っているのはヨーロッパの盟主イギリスであろうか。

とにかく一番重要なことは、フランス案を取るにしてもドイツ案を取るにしても早急に対策を推し進めることが今は求められている。この問題をズルズル引きずれば引きずるほど問題は悪化の一途をたどってしまう。後送りをすればもう元には戻れないレベルになってしまうかもしれない。

私は強硬派のドイツ首相メルケル氏が一気に推し進めて次のステージに進めることが今の一番の最良路線ではないかと思っている。