月別アーカイブ: 4月 2015

二足のわらじ

4月19日、とある記事を見た。二足のわらじを履く女性に関する記事だ。その女性の名前は小川理子さん(52歳)。一つの顔はパナソニック役員だ。パナソニック社員20万人以上いる中、役員は48人、全体の0.02%だ。パナソニック史上二人目の役員だそうだ。

もう一つの顔はジャズピアニストだ。そちらの方でもプロ級で、今までにCDを14枚も出しているそうだ。二足のわらじを履こうとすると、それらに優先順位をつけ、どれに重点を置くか迷うところだ。しかし彼女は仕事とピアノの両方を全力で取り組むことを決めたそうだ。

そこで一番悩むのが「時間のとり方」だ。二つのことを同時にするのだから、単純に考えると一つに使える時間は半分になる。その分それらを取り組んでいるときは集中力を倍にして取り組まないと成り立たない。

僕は今、五つのことに取り組んでいる。その五つのことに明確に順位をつけている。一番重要なことには命をかけてでも。そして順位に低いことは余った時間で。というふうに考えているが、この時間の使い方がとてつもなく難しい。そうでなくてもロングスリーパーなので使える時間が少なく、常に睡眠と時間の使い方で悩んでいる状態だ。

もちろん五つのこと全部で成功するつもりで取り組んでいる。とはいうものの、一番重要なことで成功すればいいと思うこともある。むしろそう考えているからこそ、それ以外のこともできるのかもしれない。

小川さんの二足は二つともとてつもなくレベルが高く、二つのプロの顔を持つ女性とでも言うべきかもしてないが、僕は一番重要なことは何が何でもプロに(本当は世界一を目指している)と思っている。いろいろな顔を持っている人は、人間としても非常に面白味のある人だと思うので、そのような面白味のある人間になることも目指していきたいと思う。

起業精神を押し付けるのは無責任だ

今に始まったことではないが、社会の中で、特に知識人がもっと起業しろ、起業精神を持てと煽っている。確かに起業して一から新しいことを始めることは素晴らしいことだ。そして成功すれば大きなリターンが入ってくるのも魅力だ。

しかし起業することはメリットばかりではない。もしかしたらメリットよりさらに大きいリスクがあるかもしれない。開業資金としてまとまったお金が必要だし、開業しても黒字に持っていくのは至難の業だ。

起業して成功する人の何倍もの失敗者が存在する。失敗してやり直そうかというレベルのことならまだいいが、莫大な借金を抱え自殺する人も後を絶たない。

田原総一郎氏は僕の好きな評論家のうちの一人だが、彼がやたらと起業しろ、起業精神を持てと叫んでいるのには納得できない。起業のメリットばかり取り上げて、リスクは一つもしゃべらないのである。田原氏に限らずビジネス雑誌などでも起業のリスクを取り上げたものは非常に少ない。そもそも田原氏は起業したことはあるのかと問いたい。

安易に起業するくらいなら起業しない方が絶対に良い。明確なビジョンと確固たる覚悟がある人だけが起業するべきなのだ。

20代、30代の死因第一位は自殺だ。もちろん自殺の原因は精神疾患など様々だと思うが、事業の失敗による借金が原因の自殺もかなり多い。この様に間違えば命のかかわるようなことを軽薄に煽り立てることは本当にやめていただきたい。

最後に、僕自身も起業自身は否定しないし、果敢に取り組もうとする人は素晴らしいと思うが、安易に起業すること、そしてそのような風潮を煽り立てるのは止めなければならないと思っているのである。

政府のテレビ番組介入について

政府・自民党がNHKとテレビ朝日に対して事情聴取をした。NHKについての聴取は「クローズアップ現代」でのやらせについてであって、HNK側に明らかに放送倫理に違反があると思われるので仕方ないとは思うが、問題はテレビ朝日についてだ。

聴取はテレビ朝日の「報道ステーション」内でのやり取りに関することであって、具体的には解説者の古賀氏が政府の圧力を受けているという発言に対してであった。番組内での古賀氏の振る舞いは適切ではないにしても、報道の自由という観点では外部の組織が介入すべきことではない。ましてや今回は政府・自民党が直接聴取を行っており、番組への圧力以外の何物でもない。

別にアメリカ・イギリスが進歩しているからといって、米英と比較する必要はない。しかし今回の件は外国と比較するまでもなく明らかにおかしい。軍事政権の報道検閲と全く同じだ。これが本当に自由主義国家日本の政府のとるべき行動かと疑ってしまう。

安倍政権に関しては個人的には支持しているが、今回の件には全く支持することはできない。もしこのような強権政治を安倍政権が続けるようなら、自由主義国家日本の総理としての資質に疑問がもたれる。

経済政策も大事だが、言論の自由は生きていくうえで個人意思への尊重に対する一番身近な保障だ。これが認められないと半軍事政権状態だと言われても仕方がない。

近頃の選挙で安倍自民党が圧倒的勝利を続け、安倍総理もかなり強気な政策をとっているが、この強気が独裁状態になると総理交代も訴えていかなければならない。政権政党交代まで行かなくても、自民党内に石破氏など総理の資質を満たした人物は存在する。これからの石破氏などの党内抵抗勢力の安倍政権監視に期待したいところである。

信頼できる製品への流れ

最近、日本製回帰の流れが加速している。日本製への流れ、それは信頼性への流れである。デフレ脱却から日本経済全体に余裕ができたせいか、国民が安物への追求から少し高くても信頼できるものへと追求の方向を変えてきた。

その流れの直撃をもろに受けたのがマクドナルドだ。もちろん現在のマクドナルドの極度の不振は景気や日本の国民性だけではない。異物混入、そして10年ほど前からの藤田体制からの脱却による負の影響、それに今の日本の流れが後押しした形だ。そしてマクドナルドは現在日本の経済の失敗の象徴となった。

それに対して成功の象徴となったのはユニクロである。一昔前、ユニクロは安物の象徴だった。しかしそれが過去の日本にマッチし、急成長を遂げた。そして日本経済が変わった。それに準備していたかのようにユニクロは淡々と改革を進めていた。

今でもユニクロの価格の安さは変わりないが、昔と比べて製品は格段とよくなっている。ちょっとした良品が格安で買えるのである。これはユニクロの企業努力以外の何物でもない。確かに雇用に関してはブラックとも言われているが、それに関しても改革をしていこうというのが感じられる。

一番の企業努力は製品向上への追求である。繊維会社と共同開発し、その研究開発に多額の研究費を投じている。このことが現在のユニクロ成功の一番の核心だろう。利益追従だけを見ていたのでは今のユニクロはない。もちろん利益を出すことは最重要事項ではあるが。

失敗と成功の象徴としてマクドナルドとユニクロを見てきたが、この構図は現在の日本の産業全体に見て取れる。これからも日本経済は変わっていくであろうが、それに柔軟に対応して成長していく企業はどれくらい現われるであろうか。僕は経済学者ではないので予想はできないが、そのような企業が多々現れてくるのを楽しみにしている。

産経新聞韓国支局長、解放

つい数日前、産経新聞の加藤前韓国支局長が解放された。約8か月間韓国国外に出国できずに事実上の拘束状態だった。韓国といういびつな権力構造・病理が垣間見られた一件だった。

加藤氏は朴に対する私的な交際報道をめぐって、それは虚偽だと訴えられて拘束された。この報道が事実かどうかは定かではないが、それにより権力側が訴えるというのは対抗手段として間違っている。

朴は大統領であり、公人中の公人だ。国のトップである公人に対する交際報道は公的情報である。大統領ともあれば、あることないこと書かれるのは普通のことだ。もし間違ったことを書かれれば、報道機関を通して反論し本当のことを主張すればいいだけの話だ。しかも今回の話はセウォル号沈没事件発生時という緊急的事態の真っただ中での話で、朴は記事の真偽にかかわらず説明責任があったはずだ。

しかし説明責任などどこ吹く風、日本に対する個人的な恨みからか、権力により強引に処分しようとしてしまった。韓国には報道の自由などないと世界に訴えかけているようなものだ。

しかし救いだったのが、加藤氏の対応、産経新聞の対応、日本国政府の対応が非常に大人だったことだ。加藤氏には非常に災難な出来事であったが、今回の出来事を全体的に見れば日本にとって非常にプラスであったと思う。少なくとも世界はそう見ているはずだ。

日本は今まで大人すぎるところがあり、自国のことを非難されてもあえて反論しないことが多かった。それが日本の美徳であった。今回の件に対する対応はその大人的な面がプラスに働いたと思う。しかしこれからは世界標準として反論すべきところは反論しなければいけない。今、安倍総理はそのような方向に強気に持っていこうとしている。日本の国益のためにもそのような方向性は維持していかなければならない。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

公開訓練中にスクランブル発進

那覇空港での戦闘機一般公開訓練中に本番スクランブル発進したそうだ。那覇空港からのスクランブル発進は年に800回にのぼるらしい。ほとんどは対中国機だ。

沖縄米軍基地問題など自衛問題で国内はもめているが、実際にこのような日々の緊張感の中で自国領土は守られている。訓練中のスクランブル発進はこのような絶え間ない緊迫感を感じさせるものだ。

自衛官は24時間常に緊張感の中にいる。空白は決して作ってはならないのだ。空白ができた途端、我が国は奪われる。

自衛官の役割は多々にのぼる。東日本大震災時の自衛官の活躍は記憶に新しい。国を守るのは自衛官だけではなく、海上保安庁なども24時間体制で監視している。

軍事関連のことにアレルギーのある人も多く、軍事、あるいは自衛のことになると無条件に批判する人がいる。確かにこんな物騒なことはないに越したことはない。しかし現実問題として、これらの24時間体制での監視のもとに我が国は守られている。

我々の平穏な日常は、自衛官・保安官などの24時間体制の緊迫感のもとに成り立っていることを忘れてはならない。

選挙開票を見て

選挙があるたびに毎度思うことだが、なぜ諸派がここまで弱いのか。おそらく無所属よりも諸派の方が当選率は低い。宗教系諸派は好き嫌いが激しいが、市民団体系の諸派もなかなか受け入れてもらえないような気がする。

僕も諸派に投票したわけではないので人のことは言えないが、特に市民団体系の諸派にはもう少し躍進してもらいたかったと思う。ポスターと公約次第では僕も市民団体系諸派に投票していたかもしれない。

地方議会選挙は大選挙区ともいえる戦いで、一つの選挙区から多数の当選者が出てくる。衆議院のような小選挙区では一番人気の政党の圧倒的勝利はお決まりだが、大選挙区では小政党が食い込んでくる余地があるのも見逃せない。

首長選挙も多数あったが、やはり定数一(当たり前だけど)ということもあって一番人気政党が圧倒的強さを誇る。しかし地方によって政党人気にばらつきがあり、また候補者個人の魅力なども加味して第一党が勝つとは限らない。

皆さんは投票所に足を運びましたでしょうか?投票した候補者は健闘してくれたでしょうか?投票すると、その夜の選挙開票が十倍面白くなる。今の青少年が大人になって政治に興味を持ってもらうためにも、大人が投票所に足を運び、行動で示さなければならない。

統一地方選挙です

今日、12日(日曜日)は統一地方選挙です。選挙は他人ごとではありません。特に若い人にとっては。

最近の選挙は老高若低の状態が続いている。高齢の人の投票率が高く、若い人の投票率が低いのだ。そのことは何を意味するか。高齢者の票数が多くなるわけだから、候補者は高齢者の興味を惹こうと高齢者優遇の政策を打ち出す。一方若者軽視の傾向がより一層強まることになる。

最近、保育所待機児童問題をはじめ、若者に対する環境は厳しくなる一方だ。その一方高齢者は自分たちの福祉政策の充実を求め、政府・自治体もその対策を矢継ぎ早に打ち出すことになる。それももとをただせば選挙にたどり着く。若者が声を上げて選挙に行けば、若者に対する政策も必ず変わるはずだ。選挙を他人ごとと思わず投票所に足を運ぶことが社会を変える一歩になる。

自分達のためにも、今日は老若男女問わず、投票所に足を運んで一票を投じよう!有権者は全て政治に参画する権利があるのだから!

子供が生き生きできる社会へ

最近、一つの最高裁判決が出た。校庭で小学生が蹴ったサッカーボールがバイクに乗った老人に当たって骨折し、一年半後に死んだという話だ。一審・二審では約1000万円の賠償金命令が出された。そして今回の最高裁審判では判決が覆され賠償金命令が取り消された。

学校でボールを蹴って1000万の賠償金判決が出る国は(最高裁で覆されたとはいえ)異常ではないかと思う。最近は保育園にはうるさいから迷惑だと近隣住民の数百名の署名が集まり、公園では「サッカーをすると警察へ通報する」という看板が設置されているという。

日本はいつからこんなにも子供が肩身を狭くしないといけない世の中になったのだろうか?

今の大人も昔は子供だったはずだ。子供の頃公園でサッカーをした、キャッチボールをしたという大人は多いはずである。その大人が現在の子供に対して因縁をつけているのである。はっきり言ってそういう大人の方が大人ではない。

子供は未来の宝だ。社会で一番大切にされなければいけないのは、金持ちではなく子供だ。絶対的に子供は大事にされなければいけない。最近は老人問題、高齢化社会ばかりが話題になるが、本当に話題にしなければいけないのは、いかにして子供が過ごしやすい街にするか、いかにして子育てのしやすい街にするかということである。

誤解を恐れずに言うと、今の日本は老人が大切にされすぎだ。老人が優遇されすぎだ。なにも老人を大切にするなとは言わない。しかしその老人優遇の対価として子供が犠牲になっているのである。これには二つ理由がある。一つは昔からある儒教思想。中国の儒教の風潮が残る日本では老人こそが一番大切にされる存在なのである。もう一つは選挙。老人の数が多く、高齢者の投票率が高いようでは、政治家は高齢者優遇の政策をとってしまう。

子供を排除しようとする大人、そのような大人の方がはるかに目障りだ。子供が元気に走り回り、ボールを蹴ることは日常の一部としてとらえなければいけない。しかしそれが今、非日常になろうとしている。子供を目の敵にするモンスター大人、モンスター老人の問題は、人々の意識から変えていくしかない。