月別アーカイブ: 4月 2015

安倍首相のアメリカ訪問について

現在、安倍首相がアメリカを訪問している。今回の訪問は国賓待遇で、国賓には特別な歓迎行事がいくつかある。以前のオバマの訪日時には安倍・オバマ間の関係が冷えた感じを与えたが、今回の安倍首相の訪米ではオバマが個人的に予定のなかったリンカーン記念館を案内するなど、親密ぶりがうかがえた。

安倍首相というとアベノミクスで経済関係のイメージが強いが、僕個人的には対外関係の対応の上手さを非常に感じている。日本のメディアは日中、日韓関係ばかり取り上げるので日本の対外関係がぎくしゃくしているように感じるが、逆に言えばぎくしゃくしているのは中国・韓国の二国に対してだけと言っても言い過ぎではない。それ以外の国とは非常に良好な関係を保っている。

中国・韓国に対しても安倍首相の粘り強い外交戦略により、必要以上な悪化は抑えられている。僕ならばかなり感情的になってしまうようなところでも、安倍氏は感情に左右されずに冷静に対処されているところは素晴らしいと思う。

安倍氏の対外関係の上手さはホワイトハウスでのレセプションでも発揮されたようだ。安倍首相はこのレセプション会食で何度もジョークを飛ばし、アメリカ側の関係者を何度も笑わしたそうだ。アメリカはジョークで意思疎通する国だ。そのアメリカでジョークを飛ばして相手の心をつかむのは安倍氏の外交手腕の上手さの一つでもあると思う。

この訪米での大イベントがもう一つ残っている。上下議員合同議会での演説である(このブログ執筆時ではまだ行われていない)。この両院合同議会での日本人の演説は安倍首相が初めてである。この演説はアメリカだけではなく、その他の国の人も注目する重要な演説である。安倍氏はこの演説でアメリカの心、世界の心をつかめるのか、非常に注目すべきところである。

まだ訪米日程は続くが、帰国した時にどのような表情で帰ってくるのか、ぜひ余裕を持った気持ちで笑って帰ってきてほしいものである。

たけしの8.6秒ラッスンゴレライ酷評について

ビートたけしの8.6秒バズーカーに対する酷評が話題になっている。たけしにはたけしの深い持論があってのことだと思うが、お笑いを評価するのはお笑い専門家ではなくて一般素人市民だ。重鎮の評価も一理あるが、一般にうけてなんぼの世界である。

たけしには悪いが最近のたけしのお笑いよりも、ラッスンゴレライの方が僕は圧倒的に面白いと思う。確かに現在の重鎮としてのたけしの存在は今までの面白いお笑いの積み重ねによってできたものである。しかし今のたけしの芸は、面白いというより大物がやっているから笑っているという感じではないのか。

確かにたけしは凄い人である。映画など多彩な方面で才能を発揮している。司会での突っ込みも絶妙である。しかしお笑いに関しては、昔のたけちゃんマンよりラッスンゴレライの方が圧倒的に面白い。一発屋といわれるかもしれないが。

最近、多くの日本人がたけしのお笑いに対して冷静に見れてないのではないかと思う。たけしがやっているというだけで、本当に面白いことかどうかということが判断できていないのである。昔はツービートで漫才をやっていたらしいが、今一度その面白い漫才を見せてもらいたいものである。

韓国・朴の迷走が続く

今、韓国政界が迷走状態である。その迷走は一年前のセウォル号沈没事故から始まった。朴のセウォル号対処で不手際が連発し、それに複数の側近の金銭問題が次々と噴出し、朴の任命責任が問われ、この一年支持率は下がる一方である。先日も中国を中心としたアジア関係の大きな動きがある中、その時朴は地球の裏側の南米に外遊していた。そして帰国した途端、胃痙攣という聞きなれない症状で数日間絶対安静だそうだ。

国家首脳の健康管理は最重要事項だ。第一次安倍内閣が安倍氏の体調不良で退陣することになったことは記憶に新しい。首脳の体調不良は国民から責められるべきことなのである。

しかし朴の周囲でこれだけの不祥事がありながら、朴自身の進退につながらないのは不思議だ。大統領という肩書はそれだけ大きな権力を持っているということだろうか。他人事ながら、大統領を退任した後に不祥事が噴出しないか心配である。

今、日中関係が改善の兆しを見せ、韓国は孤立しないかと焦っている。そして韓国国内経済は悪化の一途をたどっている。いまや朴の頼みの綱は反日しかないように思える。

朴のすることはだいたいパターンが読まれてきた。時期尚早ながら、次期大統領のことが気になる。反日キャンペーンは変わらないだろうが、経済問題、安全保障問題で日本、そしてアメリカとどのように連携をとるのか、気になるところである。

日本の建築文化への疑問

今日本では、住居を建てても30年から50年くらい経つと取り壊して立て直すことが普通になっている。家は古くなると新しく建て直すものだという認識が広まっているのだ。それに沿うように、建築会社も数十年で建て替えることを前提に新築住居を建設している。しかしこのような異常な取り壊し文化は日本だけみたいだ。

もちろんそれには日本特有の事情もある。日本は世界一の地震大国だ。古くなって耐久性の低くなった建物は耐震基準に合わず、新しく建て直すことになる。しかしその一方、千年以上前の文化財と呼ばれるような建築物が幾度もの大地震を乗り越え今も現存している。五重塔は地震の揺れを吸収するように揺れる構造になっている。今の言葉で言うと免震構造とでも言うべきか。昔の人の知恵に驚かされるものである。

最近、東京のホテルオークラが建て替えられることになった。ホテルオークラは名建築物とも言われ、取り壊し反対の声も大きい。数か月前にオバマ大統領が来日した際に宿泊したのもホテルオークラだった。

今、人々の意識も使い捨てからリサイクル、あるいは良い物を長くというふうに変わってきている。その風は建築にも当たらないだろうか。もちろん長く残せるような建築物を作ろうとするとそれなりに費用もかかる。しかし「良い物を長く」という思想は必ず日本国民の中に受け入れられるはずだ。そして高度な文化を発展させるためにはそのような思想は絶対条件として必要だと思う。

ネパール大地震とヒマラヤ山脈

4月25日、ネパールで大地震が起きた。ネパールでは建物の作りが弱いこともあり、建物が崩れ少なくとも千人以上の犠牲者が出そうだ。それからネパールといえばヒマラヤ山脈への玄関口。ヒマラヤ山脈でも地震による雪崩が起き、犠牲者が出た模様だ。

ところで日本は地震の巣といわれているが、ネパール周辺も地質学的に大地震が起こりやすい構造になっている。その一番の象徴が世界で一番高いヒマラヤ山脈の存在である。

なぜヒマラヤ山脈が巨大地震の象徴か。ネパールの巨大地震とヒマラヤ山脈の高さは切っても切れない関係にある。ヨーロッパからロシア・中国にかけてはユーラシアプレートという巨大な一枚のプレートの上に乗っている。しかしネパールの南にあるインドはインドプレートという別のプレートの上にある。その境目にあるのがネパール、そしてヒマラヤ山脈なのである。

インドプレートの上にあるインドはもともとアフリカ大陸の東、マダガスカルのあたりにあった。それが長い年月をかけて移動し現在の位置までたどり着いた。しかしインドプレートの移動は今でも続いている。インドは今でも北上し続けているのである。その影響でインドプレートとユーラシアプレートの境目は上下から挟まれるように曲がって上昇している。それがヒマラヤ山脈なのである。つまりこの境目にあるネパールはいつ巨大地震が起きてもおかしくない状態なのである。

今回の地震によってさらにヒマラヤ山脈の高さが変わった可能性がある。もしかしたらエベレストは以前よりも高くなっているかもしれない。今後の正確な地質調査が待たれるところである。

アメリカの日本防衛の確約

現在、日米同盟のさらなる強化が進んでいる。安倍首相はアメリカに対する軍事的支援を積極的に行っていくことを強調しているようだ。その真意は、日本が有事の際にはアメリカの軍事的支援を確約するということを明確にするためだ。

今まで日本は平和のフリーライダーといわれていた。血を流さずに平和にタダ乗りしていたのだ。しかしそのままの状態ではこれからもアメリカの軍事的支援を受けることは確約できない。オバマはアメリカが世界の警察官の役割から降りると明言したのだから。

日本には平和主義者といわれる人が多くいる。軍事などいらないと主張する人たちだ。確かに戦後今までは日本は特に戦争に巻き込まれることなく、軍事など必要ないという幻想にとらわれるかも知らない。しかし自衛隊と米軍の後ろ盾が抑止力になって平和が保たれていることは事実だ。今、中国が台頭してきており、韓国関係も険悪になる中、この平和が恒久的に続くという保証はない。

非暴力・非軍事の象徴としてガンジーの行動を持ち出す人がいる。左頬をぶたれたら右頬を出しなさいと。なぜガンジーはそのようなことができたのか。それはガンジー自身が自己の行動に命を懸けていたからである。何の覚悟も持たない日本国民が非軍事を唱えて軍事的行動を批判するのとは全く違う。それを履き違えている人が多い。

今台頭してきている中国は隣国である。もちろん中国関係の有事が起これば日本もそれに巻き込まれることが予想される。むしろその有事の矛先が真っ先に日本向けられる可能性の方が高い。その時、今の日米同盟強化の効力がものを言うであろう。

ビジネスにおける日韓問題

今、韓国で日本製品排斥運動が起きている。それと同時に日本でも韓国製品排斥の機運が高まっている。韓国での日本製品排斥の原因は、朴の反日運動によるものである。それに対して日本の韓国製品排斥運動の原因は、日本国内ではなく韓国の反日運動に対する反動による嫌韓が原因である。

韓国製品排斥の影響をもろに受けているのがサムスンだ。世界的にみるとサムスンのスマホは世界シェア1位をとっていた。しかし今はアップルの勢いに押されれる形で凋落の一方である。特に日本国内ではその傾向が顕著だ。

そのような現状に対する苦肉の策として、サムスンは日本国内でのサムスンブランドのアピールを廃止することにした。最新のサムスンスマホ本体にはサムスンのロゴはない。さらに日本国内での社名変更まで考えられているらしい。サムスンスマホの韓国色を消すのに躍起になっているのだ。

しかしそもそも以前から韓国製品は日本ではほとんど受け入れられなかった。韓国の現代(ヒュンダイ)自動車がいい例だ。日本に進出して10年ほどで撤退した。サムスンは韓流ブームに乗ってたまたま一時的に受け入れられたと言っていい。韓国製品のイメージは、高くも安くもなく、良くもなくというところであろう。

しかしここ十年以上は日本企業の方が世界的に失敗していた。携帯に限らず全ての物に「値段の高いガラパゴス商品」というレッテルが貼られた。すなわち世界標準を作れなかったのだ。サムスンは過去数年、世界標準を作るのにある程度成功した。それがテレビ・スマホの躍進につながったのだ。

デフレ脱却で日本企業が徐々に盛り返してきている。次世代の世界標準を何とかものにしてほしいが、いい意味でのガラパゴス性も日本の個性として打ち出していってほしいものである。

大阪の学力テスト問題について

4月21日、全国で学力調査テストがあった。このテストの本来の目的は、学力の地域的格差を把握することだ。しかし今回、大阪府がこの学力テストを高校受験の内申点に反映させると発表したことが物議を醸している。簡単に言えば、相対評価から絶対評価に転換するというわけだ。

初めに僕自身の意見を言うと、このことに関しては賛成だ。しかしいきなりこのシステムを導入するには準備がなさすぎだったことは問題かもしれない。

このテストを内申点に反映させることによって、学校がランク付けされること憂慮する人が多い。しかし今の日本の問題として、何事に関してもランク付け・順位付けすることに対してあまりにも嫌悪感を持ちすぎだということがあると思う。これはもうほとんどアレルギーというレベルだ。それでありながらランク付けに対する負の側面を厳密に議論されているところをほとんど聞いたことがない。

ランク付けを否定する人たちは大体平等性に関して敏感だ。しかしそれらの人たちは平等という言葉の意味を履き違えている。できる人とできない人を同等に扱うことが平等ではない。能力に応じてそれ相応の扱いをするのが本来の平等だ。もちろんペーパー一つで簡単に優劣をつけられないこともたくさんある。しかし、才能のあるものに対して才能を認めることも大事である。

大人になれば否が応でも競争にさらされる。中学高校まで競争を否定しながら大人になってすべて競争だと豹変させるのは、それはそれで酷だと思う。確かに競争がすべてではない。個性・オリジナリティも非常に重要だ。しかし順位をつけざる負えないことも多々ある。オリジナリティのない人がランク付けを否定してもそれは単なる愚痴でしかない。

ナンバー1はオンリー1でもある。しかしオンリー1はナンバー1ではない。もう一度人より優れた才能・技術をつけることに重きを置く大切さを説く時期にきているのではないかと思う。

猿橋賞が決定

猿橋賞というのがある。自然科学分野の女性研究者に毎年贈られる賞だ。今年の猿橋賞が、米ワシントン大の鳥居啓子教授(49)に送られることが決まった。専門は植物発生学という分野らしい。植物発生学と聞いてもいまいちピンとこないのだが、生命科学の研究者であることは予想がつく。

ところで僕は大学・大学院と数学物理関係の研究をしていたが、数学物理関係の女性研究者は本当に少なく、当時は女性研究者が少ないことは当たり前のことと感じていた。理系には女性研究者は少なく、だからこそたまにいる女性理系研究者・学生は「リケジョ」ともてはやされるのだが。理系の中でも数学物理は特に少ない。逆に生命関係の研究者には女性が多いように感じる。この様な女性理系研究者の少なさを解消するためにも、猿橋賞はできたのであろう。

海外の研究者でも日本ほどではなくても女性理系研究者は少ないが、重鎮とも呼ばれ女性研究者は昔から存在する。キュリー夫人は有名だが、数学・物理の双方で19世紀の終わりに活躍したエミー・ネーター女史なども数学物理をしている学生にはおなじみだ。

女性だからといって研究者の門戸を狭くしてはいけない。しかし女性だからといって優遇するのも間違っている。男女同じ目線で評価することが大事だ。それが男女平等につながってくる。

小保方ショックから女性研究者に対して多少評価が厳しくなったかもしれないが、多くの男性研究者を凌駕する大物女性研究者が現れるのを楽しみにしている。

頑張れ、花燃ゆ

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が低視聴率でバッシングを受けている。おそらく内容が地味すぎて一般受けしないのだろうと思う。しかし今年の「花燃ゆ」は僕はこれまでの大河ドラマの中では一番好きだ。数年前に三年にわたって流されたHNK特別ドラマ「坂の上の雲」は桁違いのスケールで、司馬遼太郎の原作もすごく良かったこともあり、史上最強のドラマだったのではないかと思うが、今回の花燃ゆは地味だが深いドラマだと思う。

吉田松陰の思想と行動は圧巻だ。吉田松陰を中心と見ると素晴らしい生き方を訴えてくる、圧巻のドラマと言える。ただ主役が松陰の妹であり、変に乙女チックな所を入れるのが、バランスを崩しているようで残念だ。圧巻の松陰も前半で処刑され、出番は終わる。その後は松陰の弟子の活躍が楽しみだ。

松陰とその弟子を主人公にして堅いドラマにすれば、その男臭さが半沢直樹を思い出させもっとヒットしていたのではないかとも思う。何はともあれまだ前半戦だ。これから巻き返してくることを楽しみにしている。

二足のわらじ

4月19日、とある記事を見た。二足のわらじを履く女性に関する記事だ。その女性の名前は小川理子さん(52歳)。一つの顔はパナソニック役員だ。パナソニック社員20万人以上いる中、役員は48人、全体の0.02%だ。パナソニック史上二人目の役員だそうだ。

もう一つの顔はジャズピアニストだ。そちらの方でもプロ級で、今までにCDを14枚も出しているそうだ。二足のわらじを履こうとすると、それらに優先順位をつけ、どれに重点を置くか迷うところだ。しかし彼女は仕事とピアノの両方を全力で取り組むことを決めたそうだ。

そこで一番悩むのが「時間のとり方」だ。二つのことを同時にするのだから、単純に考えると一つに使える時間は半分になる。その分それらを取り組んでいるときは集中力を倍にして取り組まないと成り立たない。

僕は今、五つのことに取り組んでいる。その五つのことに明確に順位をつけている。一番重要なことには命をかけてでも。そして順位に低いことは余った時間で。というふうに考えているが、この時間の使い方がとてつもなく難しい。そうでなくてもロングスリーパーなので使える時間が少なく、常に睡眠と時間の使い方で悩んでいる状態だ。

もちろん五つのこと全部で成功するつもりで取り組んでいる。とはいうものの、一番重要なことで成功すればいいと思うこともある。むしろそう考えているからこそ、それ以外のこともできるのかもしれない。

小川さんの二足は二つともとてつもなくレベルが高く、二つのプロの顔を持つ女性とでも言うべきかもしてないが、僕は一番重要なことは何が何でもプロに(本当は世界一を目指している)と思っている。いろいろな顔を持っている人は、人間としても非常に面白味のある人だと思うので、そのような面白味のある人間になることも目指していきたいと思う。

起業精神を押し付けるのは無責任だ

今に始まったことではないが、社会の中で、特に知識人がもっと起業しろ、起業精神を持てと煽っている。確かに起業して一から新しいことを始めることは素晴らしいことだ。そして成功すれば大きなリターンが入ってくるのも魅力だ。

しかし起業することはメリットばかりではない。もしかしたらメリットよりさらに大きいリスクがあるかもしれない。開業資金としてまとまったお金が必要だし、開業しても黒字に持っていくのは至難の業だ。

起業して成功する人の何倍もの失敗者が存在する。失敗してやり直そうかというレベルのことならまだいいが、莫大な借金を抱え自殺する人も後を絶たない。

田原総一郎氏は僕の好きな評論家のうちの一人だが、彼がやたらと起業しろ、起業精神を持てと叫んでいるのには納得できない。起業のメリットばかり取り上げて、リスクは一つもしゃべらないのである。田原氏に限らずビジネス雑誌などでも起業のリスクを取り上げたものは非常に少ない。そもそも田原氏は起業したことはあるのかと問いたい。

安易に起業するくらいなら起業しない方が絶対に良い。明確なビジョンと確固たる覚悟がある人だけが起業するべきなのだ。

20代、30代の死因第一位は自殺だ。もちろん自殺の原因は精神疾患など様々だと思うが、事業の失敗による借金が原因の自殺もかなり多い。この様に間違えば命のかかわるようなことを軽薄に煽り立てることは本当にやめていただきたい。

最後に、僕自身も起業自身は否定しないし、果敢に取り組もうとする人は素晴らしいと思うが、安易に起業すること、そしてそのような風潮を煽り立てるのは止めなければならないと思っているのである。

政府のテレビ番組介入について

政府・自民党がNHKとテレビ朝日に対して事情聴取をした。NHKについての聴取は「クローズアップ現代」でのやらせについてであって、HNK側に明らかに放送倫理に違反があると思われるので仕方ないとは思うが、問題はテレビ朝日についてだ。

聴取はテレビ朝日の「報道ステーション」内でのやり取りに関することであって、具体的には解説者の古賀氏が政府の圧力を受けているという発言に対してであった。番組内での古賀氏の振る舞いは適切ではないにしても、報道の自由という観点では外部の組織が介入すべきことではない。ましてや今回は政府・自民党が直接聴取を行っており、番組への圧力以外の何物でもない。

別にアメリカ・イギリスが進歩しているからといって、米英と比較する必要はない。しかし今回の件は外国と比較するまでもなく明らかにおかしい。軍事政権の報道検閲と全く同じだ。これが本当に自由主義国家日本の政府のとるべき行動かと疑ってしまう。

安倍政権に関しては個人的には支持しているが、今回の件には全く支持することはできない。もしこのような強権政治を安倍政権が続けるようなら、自由主義国家日本の総理としての資質に疑問がもたれる。

経済政策も大事だが、言論の自由は生きていくうえで個人意思への尊重に対する一番身近な保障だ。これが認められないと半軍事政権状態だと言われても仕方がない。

近頃の選挙で安倍自民党が圧倒的勝利を続け、安倍総理もかなり強気な政策をとっているが、この強気が独裁状態になると総理交代も訴えていかなければならない。政権政党交代まで行かなくても、自民党内に石破氏など総理の資質を満たした人物は存在する。これからの石破氏などの党内抵抗勢力の安倍政権監視に期待したいところである。

信頼できる製品への流れ

最近、日本製回帰の流れが加速している。日本製への流れ、それは信頼性への流れである。デフレ脱却から日本経済全体に余裕ができたせいか、国民が安物への追求から少し高くても信頼できるものへと追求の方向を変えてきた。

その流れの直撃をもろに受けたのがマクドナルドだ。もちろん現在のマクドナルドの極度の不振は景気や日本の国民性だけではない。異物混入、そして10年ほど前からの藤田体制からの脱却による負の影響、それに今の日本の流れが後押しした形だ。そしてマクドナルドは現在日本の経済の失敗の象徴となった。

それに対して成功の象徴となったのはユニクロである。一昔前、ユニクロは安物の象徴だった。しかしそれが過去の日本にマッチし、急成長を遂げた。そして日本経済が変わった。それに準備していたかのようにユニクロは淡々と改革を進めていた。

今でもユニクロの価格の安さは変わりないが、昔と比べて製品は格段とよくなっている。ちょっとした良品が格安で買えるのである。これはユニクロの企業努力以外の何物でもない。確かに雇用に関してはブラックとも言われているが、それに関しても改革をしていこうというのが感じられる。

一番の企業努力は製品向上への追求である。繊維会社と共同開発し、その研究開発に多額の研究費を投じている。このことが現在のユニクロ成功の一番の核心だろう。利益追従だけを見ていたのでは今のユニクロはない。もちろん利益を出すことは最重要事項ではあるが。

失敗と成功の象徴としてマクドナルドとユニクロを見てきたが、この構図は現在の日本の産業全体に見て取れる。これからも日本経済は変わっていくであろうが、それに柔軟に対応して成長していく企業はどれくらい現われるであろうか。僕は経済学者ではないので予想はできないが、そのような企業が多々現れてくるのを楽しみにしている。

産経新聞韓国支局長、解放

つい数日前、産経新聞の加藤前韓国支局長が解放された。約8か月間韓国国外に出国できずに事実上の拘束状態だった。韓国といういびつな権力構造・病理が垣間見られた一件だった。

加藤氏は朴に対する私的な交際報道をめぐって、それは虚偽だと訴えられて拘束された。この報道が事実かどうかは定かではないが、それにより権力側が訴えるというのは対抗手段として間違っている。

朴は大統領であり、公人中の公人だ。国のトップである公人に対する交際報道は公的情報である。大統領ともあれば、あることないこと書かれるのは普通のことだ。もし間違ったことを書かれれば、報道機関を通して反論し本当のことを主張すればいいだけの話だ。しかも今回の話はセウォル号沈没事件発生時という緊急的事態の真っただ中での話で、朴は記事の真偽にかかわらず説明責任があったはずだ。

しかし説明責任などどこ吹く風、日本に対する個人的な恨みからか、権力により強引に処分しようとしてしまった。韓国には報道の自由などないと世界に訴えかけているようなものだ。

しかし救いだったのが、加藤氏の対応、産経新聞の対応、日本国政府の対応が非常に大人だったことだ。加藤氏には非常に災難な出来事であったが、今回の出来事を全体的に見れば日本にとって非常にプラスであったと思う。少なくとも世界はそう見ているはずだ。

日本は今まで大人すぎるところがあり、自国のことを非難されてもあえて反論しないことが多かった。それが日本の美徳であった。今回の件に対する対応はその大人的な面がプラスに働いたと思う。しかしこれからは世界標準として反論すべきところは反論しなければいけない。今、安倍総理はそのような方向に強気に持っていこうとしている。日本の国益のためにもそのような方向性は維持していかなければならない。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

公開訓練中にスクランブル発進

那覇空港での戦闘機一般公開訓練中に本番スクランブル発進したそうだ。那覇空港からのスクランブル発進は年に800回にのぼるらしい。ほとんどは対中国機だ。

沖縄米軍基地問題など自衛問題で国内はもめているが、実際にこのような日々の緊張感の中で自国領土は守られている。訓練中のスクランブル発進はこのような絶え間ない緊迫感を感じさせるものだ。

自衛官は24時間常に緊張感の中にいる。空白は決して作ってはならないのだ。空白ができた途端、我が国は奪われる。

自衛官の役割は多々にのぼる。東日本大震災時の自衛官の活躍は記憶に新しい。国を守るのは自衛官だけではなく、海上保安庁なども24時間体制で監視している。

軍事関連のことにアレルギーのある人も多く、軍事、あるいは自衛のことになると無条件に批判する人がいる。確かにこんな物騒なことはないに越したことはない。しかし現実問題として、これらの24時間体制での監視のもとに我が国は守られている。

我々の平穏な日常は、自衛官・保安官などの24時間体制の緊迫感のもとに成り立っていることを忘れてはならない。

選挙開票を見て

選挙があるたびに毎度思うことだが、なぜ諸派がここまで弱いのか。おそらく無所属よりも諸派の方が当選率は低い。宗教系諸派は好き嫌いが激しいが、市民団体系の諸派もなかなか受け入れてもらえないような気がする。

僕も諸派に投票したわけではないので人のことは言えないが、特に市民団体系の諸派にはもう少し躍進してもらいたかったと思う。ポスターと公約次第では僕も市民団体系諸派に投票していたかもしれない。

地方議会選挙は大選挙区ともいえる戦いで、一つの選挙区から多数の当選者が出てくる。衆議院のような小選挙区では一番人気の政党の圧倒的勝利はお決まりだが、大選挙区では小政党が食い込んでくる余地があるのも見逃せない。

首長選挙も多数あったが、やはり定数一(当たり前だけど)ということもあって一番人気政党が圧倒的強さを誇る。しかし地方によって政党人気にばらつきがあり、また候補者個人の魅力なども加味して第一党が勝つとは限らない。

皆さんは投票所に足を運びましたでしょうか?投票した候補者は健闘してくれたでしょうか?投票すると、その夜の選挙開票が十倍面白くなる。今の青少年が大人になって政治に興味を持ってもらうためにも、大人が投票所に足を運び、行動で示さなければならない。

統一地方選挙です

今日、12日(日曜日)は統一地方選挙です。選挙は他人ごとではありません。特に若い人にとっては。

最近の選挙は老高若低の状態が続いている。高齢の人の投票率が高く、若い人の投票率が低いのだ。そのことは何を意味するか。高齢者の票数が多くなるわけだから、候補者は高齢者の興味を惹こうと高齢者優遇の政策を打ち出す。一方若者軽視の傾向がより一層強まることになる。

最近、保育所待機児童問題をはじめ、若者に対する環境は厳しくなる一方だ。その一方高齢者は自分たちの福祉政策の充実を求め、政府・自治体もその対策を矢継ぎ早に打ち出すことになる。それももとをただせば選挙にたどり着く。若者が声を上げて選挙に行けば、若者に対する政策も必ず変わるはずだ。選挙を他人ごとと思わず投票所に足を運ぶことが社会を変える一歩になる。

自分達のためにも、今日は老若男女問わず、投票所に足を運んで一票を投じよう!有権者は全て政治に参画する権利があるのだから!

子供が生き生きできる社会へ

最近、一つの最高裁判決が出た。校庭で小学生が蹴ったサッカーボールがバイクに乗った老人に当たって骨折し、一年半後に死んだという話だ。一審・二審では約1000万円の賠償金命令が出された。そして今回の最高裁審判では判決が覆され賠償金命令が取り消された。

学校でボールを蹴って1000万の賠償金判決が出る国は(最高裁で覆されたとはいえ)異常ではないかと思う。最近は保育園にはうるさいから迷惑だと近隣住民の数百名の署名が集まり、公園では「サッカーをすると警察へ通報する」という看板が設置されているという。

日本はいつからこんなにも子供が肩身を狭くしないといけない世の中になったのだろうか?

今の大人も昔は子供だったはずだ。子供の頃公園でサッカーをした、キャッチボールをしたという大人は多いはずである。その大人が現在の子供に対して因縁をつけているのである。はっきり言ってそういう大人の方が大人ではない。

子供は未来の宝だ。社会で一番大切にされなければいけないのは、金持ちではなく子供だ。絶対的に子供は大事にされなければいけない。最近は老人問題、高齢化社会ばかりが話題になるが、本当に話題にしなければいけないのは、いかにして子供が過ごしやすい街にするか、いかにして子育てのしやすい街にするかということである。

誤解を恐れずに言うと、今の日本は老人が大切にされすぎだ。老人が優遇されすぎだ。なにも老人を大切にするなとは言わない。しかしその老人優遇の対価として子供が犠牲になっているのである。これには二つ理由がある。一つは昔からある儒教思想。中国の儒教の風潮が残る日本では老人こそが一番大切にされる存在なのである。もう一つは選挙。老人の数が多く、高齢者の投票率が高いようでは、政治家は高齢者優遇の政策をとってしまう。

子供を排除しようとする大人、そのような大人の方がはるかに目障りだ。子供が元気に走り回り、ボールを蹴ることは日常の一部としてとらえなければいけない。しかしそれが今、非日常になろうとしている。子供を目の敵にするモンスター大人、モンスター老人の問題は、人々の意識から変えていくしかない。

科学と科学技術

日本では特に、科学(サイエンス)と技術(テクノロジー)をひとまとめにして「科学技術」と言われることが多い。技術は科学に基づいているとはいえ、科学と技術は区別しなければならない。

技術は社会への応用・人の役に立つものという色彩が強い。しかし科学(サイエンス)は純粋に自然への探求心に基づくものであって、本来は人に役立てるためにするものではない。結果論として人の役に立つことが往々にあるということである。

しかしこの科学と技術を科学技術とひとまとめにすることによって、科学(サイエンス)自身が役に立つものとみられ、役に立たない科学は価値がないと思われるようになる。

科学(サイエンス)をやっていると言うと、「何の役に立つのですか?」と聞かれることが多いが、僕ははっきり「役に立ちません」と答えることにしている。うやむやにごまかして役に立つこともあるなんていうことはいわない。

しかしこの役に立たない科学は、長い目で見ると大きく役に立つことが多い。ただ現時点では何に役に立つのかわからないだけなのである。何かに役に立つように研究されていものより、むしろ何に役に立つかわからない基礎研究の方が後々大きく役に立つことが多いのである。

科学の価値を判断するときに、役に立つかという論点は一つの目安かもしれないが、純粋に科学的価値を判断することも忘れてはならない。

イスラムの問題か、解釈の問題か

中東周辺の対立がもう何十年も(何百年も?)続いたままである。つい数年前までは中東の問題と言えばイスラエルとアラブ諸国との対立が中心だったが、今ではもっぱらISIL(イスラム国)の問題が中心だ。

なぜ中東ではこうも争いが続くのだろう。イスラムの教えに問題があるのか?しかしイスラムを信仰しているイスラム市民にも善良な市民はたくさんいるはずだ。イスラム教の教義が悪いわけではない。問題はその解釈にあるのだろう。いわゆる原理主義とか過激派とかいわれる組織だ。イスラムの教えを自分達に都合のいいように捻じ曲げて、人々を傷殺する奴らだ。奴らはイスラムを掲げているが、真のイスラムではない。今のイスラム国だってイスラムという看板を掲げて傷殺行為に走っているだけだ。

読売新聞に面白いことが書いてあった。イスラム国の問題は一文明圏の問題を二文明圏の対立の問題にすり替えていると。確かにISILは異常に欧米など対民主主義圏の構図に持っていこうとする。それでいながらイスラム市民に対してさえ殺りく行為を行っている。彼らは自分たちを誇示したいだけだ。

ISILはイスラムという看板を掲げながらイスラム内でも対立している。イスラム教のことに詳しいわけでもなんでもないが、イスラムの教えとはそんなにもあらゆる解釈を導くものなのか、それとも過激派が自分たちの都合のいいことをでっち上げているだけなのか、僕にははっきりわからないが・・・

ギリシャが独に36兆円の賠償請求

ギリシャがドイツに36兆円の賠償金請求をしたそうだ。先の第二次世界大戦での賠償だ。なぜ終戦してから70年もたってそんなことを言いだすのだろうかと思うのだが。

ギリシャはここ数年の金融破綻的状態で、金融事情が非常に厳しい状態だった。そこでギリシャ政府は緊縮政策(すなわち倹約)を行ってきた。ところが国民がこの緊縮政策に嫌気がさして政権を否定し、緊縮政策反対を叫ぶ政権が発足した。

もちろん金融破綻状態のギリシャにお金に余裕があるはずがない。でも倹約は嫌だというのである。そこで他の国からお金を奪えとドイツに目をつけ、いわれのない因縁をつけたのである。

これによく似た国が日本の隣にもある。その国の因縁にはもう日本人は慣れてしまった感があるが、ギリシャのしていることを見ると上には上がいるものだなと変に感心してしまう。世界を見渡せばこのようなならず者国家は地方に一国二国くらいは存在するのかとも思ってしまう。

日本は戦後、非常に困窮した時期があった。レベルは違うが最近でも数年前までデフレ不況と言われていた。そこで日本国民は何とか頑張って乗り越えようと必死にもがいた。しかしギリシャ、そして我々の隣国は発想から違うのである。お金がないなら奪ってしまえという発想なのである。

日独がというより、真面目に頑張って発展しようとしている発展途上国・新興国に失礼な話である。この真面目にのし上がっていこうとしている途上国には我々も惜しみない援助をしていかなければならない。少なくともならず者の隣国にまわすお金があれば、途上国援助に少しでもまわしたほうがいい。

歴史認識問題卒業

福田康夫元首相が講演で、そろそろ歴史認識問題を卒業しなければいけないと発言したらしい。もっともである。戦後70年目で70年経っても隣国から70年前の歴史がどうこうと言われるのは異常である。日本人なら誰もが気付いていることだが、これは嫌がらせ以外の何物でもない。

ではなぜこんなにもしつこく嫌がらせを続けてくるのか。もちろんそれは韓国・中国にとってそうすることが都合がいいからであって、政治道具の常とう手段になっているからである。特に韓国では大統領支持率が下がったとき、必ず反日を煽って国民から受けようとする。もう考えが単細胞レベルである。

中国も韓国もわかっている。70年が意味することを。しかし一度やるとやめられないのである。逆にそれをやめてしまうと国民の方からバッシングされる。

日韓の間の信頼関係は完全に失ってしまった。それは政府文書にも明白に表示されるに至ったことでもわかる。韓国はアメリカとの関係でも最近こじれ始めてきている。頼るは中国だ。韓国はこれからアメリカの傘から外れて中国の傘に入ろうとしている。それに伴って日米関係はより一層重要な意味を持つことになるだろう。

韓国の政治は利害ではなく感情で動く。今の韓国は完全に「反日」という感情で動いている。これからは韓国は中国の属国的役割を果たすようになる。韓国を独立国として見るより、中国の一地方と見る方がすべてがわかりやすくなり理解できるであろう。

日本としては、中国との前線が38度線から日本海まで下りてくるわけだから、安全保障上のリスクはかなり高くなるだろう。以前の日米韓の防衛圏から日米二か国の防衛圏へと変わる。それに伴って日本国民の防衛上の負担は増すであろうが、東アジア情勢がこうなった今ではそこは覚悟しなければならない。

上西議員問題について

維新の党、上西議員の行動が今問題になっている。国会の予算審議を休んで旅行に出かけていたというものだ。上西議員自身は公務で行ったのであって、遊びに行ったわけではないと言っている。しかし問題はその釈明である。疑義がかけられたら公の場で堂々釈明すべきであった。しかしその対応を中途半端のまま曖昧に一日を過ごしていた。

これは旅行がどうのこうのという以前に、議員としての資質が疑われる対応である。維新の橋下氏があきれるのも無理はない。

しかも後になって休んだ予算審議の前日に同僚議員とパブに行っていたという事実まで出てきた。懇願されて行ったと言っているが、パブと予算審議のどちらが大事なんだと国民叫びたいだろう。

ここまでこのような話を書いたが、はっきり言って書く価値もないと思い始めたので、今日はもうこれ以上は書くのをやめることにする。

数日後になって上西氏が議員でいるかどうか、自分の資質を顧みて判断してもらいたい。

統一地方選挙のポスターで

今、統一地方選挙の選挙活動真っ最中だ。僕の住んでいるところでも、県議会議員選挙、市議会議員選挙が行われる。

そこで今日、立候補者がポスターを張っている掲示板をじっくり見てみた。当たり前のことかもしれないが、多くの候補者が甘い言葉、刺激のある言葉を大々的に宣伝していた。その中で一人の候補者のポスターに目が留まった。

気にしないと気付かなかったかもしれないが、その候補者のポスターは他の候補者と明らかに違った。何が違ったかというと、他の候補者がスローガンを全面的に押し出しているのに対し、その候補者は僕の住んでいる区のそれぞれの地区(8つほどに分けてある)に対して、一つの地区に五つほど取り組むべきこと(公約とでも言うべきか)を具体的に明示してあったのだ。8つの地区にそれぞれ五つの公約なので、全部では40くらいの公約であろうか。

勢いや刺激で当選しようという候補者が多い中、具体的政策を40も掲げて、しかもそれぞれの地区に対応した政策を掲げるのは大変なことである。選挙区民一人ひとりの顔を見てくれているなという気が非常に感じられたポスターであった。

もちろん選挙では僕はその候補者に投票しようと思う。その候補者の具体名、政党を挙げると選挙法違反になってしまうのであげられないが。

このような候補者はなかなかいないとは思うが、真摯に政治と向き合おうという気が感じられるか、それとも政党の力をバックにノリで議員になろうとしているだけなのか、ポスターをじっくり見るだけでもある程度は感じられるような気がする。

皆様の選挙区にはこのような候補者はいるか、一度ポスターに気を留めてみるのもいいのではないかと思います。

メダカでパーキンソン病を再現

京都大学の研究グループが、メダカを使ってパーキンソン病を再現することに成功したそうだ。

パーキンソン病は脳の伝達物質が減少し、筋肉の震えなどの症状が出る難病だ。これまでに治療方法は見つかっていない。

今回京都大学のグループは、メダカの遺伝子のうちの一つを抑制させることによってメダカにパーキンソン病の症状を出すことに成功した。遺伝子を操作して特定の症状を出すのは、iPS細胞の作製に通じるものがあるのではないかと私は思ってしまう。iPS細胞は、通常の細胞(例えば皮膚の細胞)に山中ファクターと呼ばれる四つの遺伝子を入れることによって万能細胞に変化させる。

21世紀の生物学・医学の研究の中心は「脳」の解明だと言われていた。1987年にノーベル医学生理学賞を受賞された利根川進博士も免疫の研究でノーベル賞を受賞し、脳の研究に移った。

1990年代のヒトゲノム解析計画から遺伝子の研究が躍進し、山中博士のiPS細胞の発見で一つの絶頂を迎えたのではないかと思う。iPS細胞の万能性によってiPS細胞をさまざまな病的な細胞に変化させ、それを(実験台として)利用し、創薬のペースが飛躍的に早くなることが予想されている。

今回のパーキンソン病のメダカの作成成功は、この病的なメダカを実験台にし、薬の有効性、治療方法の確立など、様々な期待を背負うだろう。

生物学・医学は単に科学の発展のみならず、病気の治療など人類への貢献度が非常に大きいものが多く、一つ一つの研究が持つ社会的意味合いも大きい。それはiPS細胞の医療への貢献が年々急拡大していることからも容易に感じられる。

今回のパーキンソン病のメダカの研究も、将来医療に大きく貢献させる、そんな予感を感じるものである。

核兵器廃絶に向けて

今日、各核保有国の核兵器保有数の一覧を見た。ロシアが8000発、アメリカが7000発、三位のフランスが300発と、ロシア・アメリカが圧倒的保有数を誇る。ちなみに北朝鮮は6~8発だ。

1980年代までの冷戦時代、米ソは核開発競争に興じていた。最盛期にはおそらく今の何倍も保有していたのではないかと思われる。核兵器削減が米ソ(ロシア)の間で交わされて少なくなったとはいえ、それでも8000発である。

今の核兵器は数発で地球を滅ぼす力があると言われている。8000発という現実離れした数は、自国の威信を示すための数字だと思われる。現在は核兵器を使用するような大規模戦争は現実的ではなく、地方紛争・テロ対策戦争が主戦場になっている。それに伴って使用兵器も変わってきており、核兵器ではなく劣化ウラン弾が問題になったりしている。

核兵器廃絶はもちろん重要だが、核でなければ何を使っていいというわけではもちろんない。どんな兵器でも人を傷つけ殺すものには変わりないのだから。被害にあった人々にしてみれば、核であろうと銃弾であろうと関係ない。

アメリカ製兵器は紛争地帯に流れ、そこで使用され、またアメリカが補給するというルートができている。それによってアメリカ軍需産業は成り立っている。今のアメリカは、自ら手を汚して血を流させることは少なくなっている。その究極が無人攻撃機だろう。中東で攻撃活動を行っている無人攻撃機はアメリカ国内のコントロール室から操縦されている。それに伴って攻撃している人々も攻撃している実感が希薄になっていく。

このように、攻撃に使用する武器、手段は年々変わっているが、武器や手段によって許されたり許されなかったりするのは明らかに間違いであり、必要悪として攻撃せざる負えない時は、人を傷つけている、殺害しているという実感を持つことは忘れてはならない。

野依理研理事長交代

理研のトップが野依良治氏から松本前京大総長に交代した。野依氏にとっては苦悩の理事職だったに違いない。STAP細胞不祥事時の理事長と記憶に残るだろう。今ではSTAP責任問題で揺れた野依体制であったが、野依氏が偉大な化学者だったことを忘れてはないだろうか。

野依氏は言わずと知れたノーベル賞化学者である。名古屋大学教授時代の2001年にノーベル化学賞を受賞されている。受賞時には大きく取りざたされて持ち上げられたものだが、それもこんなに手のひらを返されるような扱いをされるものかと悲しい気がした。

ノーベル賞受賞時は「鬼の野依」と呼ばれて、研究姿勢の厳しさが注目浴びた。それをあざ笑うかのような小保方氏の研究姿勢の甘さである。野依氏は理研中枢におり、小保方氏を直接指導することはなかったと思われるが、小保方氏にこの野依氏の厳しさが伝わっていればここまで大きな問題になっていなかったのではないかと悔やまれる。

野依氏はノーベル賞受賞以降、研究機関管理職として多忙を極めたと予測されるが、偉くなったからと管理職に登用するのはどうかと思う。野依氏のような超一流の化学者を最後まで第一線で現役として研究に打ち込める環境を与えるのも周りの役目ではないか。

なにはともあれ、野依さん、お疲れ様でした。これからまた研究生活に戻ってくれればと思っています。

日常を楽しむ

現代、いや現代に限らずいつの時代もストレス社会と言われている。仕事で疲れ、家に帰ってきては家族のプレッシャーが。一日中どこにいても休まる時がないという人も多いのではないか。

そこで一つ気分発散とお出かけすることになる。今の時期だとスキー・スノーボード、それから釣りや近くのゲームセンターに行くのかもしれない。しかしたまに特別なことをして気分を発散するのもいいが、普段の日常の中で気分発散でき、休まればそれに越したことはない。

僕の場合だと数理物理の研究が一番の心の安定剤になっている。結果はなかなか出なくても人生をそれにかけてるし、研究ができることが人生一番の幸せだと思っている。

最近は思ったことはすぐに行動に移すことにしている。行動に移すことはそれなりに精神的エネルギーを使うが、しかし少しずつ形になっていくのがすごく楽しい。一つ行動に移せば、一つ楽しめる。

嫌々やっていても何もいいことはない。どうせするならどんなこともエンジョイしたい。それから取り組むからには中途半端ではなく、何事にも全力でぶつかりたい。過去の自分は物理が一番大事と思うあまり、他のことに対して曖昧な態度をとり続けてしまった。しかし今はあらゆることにばく進中である。

ばく進は去年の12月のR-1ぐらんぷり予選に出場したことから始まった。結果は惨敗で悔しくはあったが。それまでお笑いに自分が挑戦するとは全く思っていなかった。しかしちょっとしたきっかけで出ることになり、そこから僕のばく進は始まった。

いま五つのことに取り組んでいる。もちろん全部成功させるつもりである。そして一つ気づいたことがある。

「何事も全力で取り組むことが、エンジョイすることにつながる」と。