月別アーカイブ: 2月 2015

坂本ラヂオという会社

昨日、とある記事を見た。

坂本ラヂオ株式会社という会社がある。まず何がすごいかと言うことを一言で言うと、2011年の売り上げが5000万円だったのが、2014年には40億円になったそうだ。社員数は18人。一人当たり2億円以上を稼ぎ出している計算になる。

しかも社風が面白い。値引きはしない。ノルマは課さない。

以前僕のブログでトヨタの莫大な利益に関して書いたが、企業は値引きをしようとすると、それをメーカーに強要する。そしてメーカーは部品会社に強要する。そのように下請け、孫請け会社がどんどんじり貧になっていくという構図だ。

値引きをすると消費者が得をするように思えるかもしれないが、そうではない。値引きをすればメーカーでは経費削減をせざる負えなくなる。そしてアフターサービス、さらには品物の品質がどんどん悪くなってくる。

値段はそのまま価値を表しているのである。

自分の話になるが、僕はパソコンはパナソニックのレッツノートしか使わないことにしている。知っている人もいると思うが、レッツノートはパソコンの中では最も値段が高い部類に入る。普通のファミリーユーザーでは使っている人は稀であろう。しかしビジネスマンの間では圧倒的な人気がある。なぜか。信頼性が他のメーカーのパソコンに比べて圧倒的に高いのである。まず壊れにくい。さらに非常に手厚いサポートが電話一本で受けられる。もちろん信頼ある日本製。パソコンの信頼性がそのままビジネスの成果に表れるのなら、値段が高くてもレッツノートを選ぶのもうなずけるであろう。

話を戻すが、このように値引きを強要する文化は、中長期的に見れば負の影響が大きい。長い目で見れば消費者も損をしているのである。

坂本ラヂオのような会社は稀で、値引きを強要するような消費者には受け入れられないかもしれないが、このような会社が急成長しているということは、値段が価値を表しているということをしっかり認識している人もそれなりにしっかりといるということであろう。

もちろん何もかも高いものを買う必要はない。安くで済ませるものは安くで済ますのは賢い選択かもしれない。しかししっかりした物をと考えている物には、それなりの対価を払って手に入れるのがより賢い選択かもしれない。

巨大ブラックホール

最近、とてつもなく大きなブラックホールが見つかったみたいだ。どれくらい大きいかと言うと、太陽の120億倍の質量があるそうだ。

そもそもブラックホールとは超高密度な天体で、周りの空間が重力によって歪みすぎて光さえも脱出できない星だ。どれくらい超高密度かというと、地球をギュッと数百メートルくらいに圧縮して縮めるとブラックホールになるらしい。

たまにアインシュタイン方程式のシュバルツシルド解などを扱うことがあり、具体的な数値を出すことは少ないのであまり実感はなかったが、おそらくチロルチョコくらいの重さが何トンもするのだと思う。

ところでブラックホールの中心には特異点というものが存在する。ブラックホールは一般相対性理論を解析すると出てくるのだが、特異点では一般相対論自体が破たんしてしまうような点だ。すなわち特異点領域の様子を知るためには他の理論が必要で、量子重力理論がそれを解明するだろうと言われている。ちなみに量子重力理論はまだ完成していない。

現時点で、量子重力理論の候補として二つの理論が有力視されている。超弦理論とループ量子重力理論だ。もちろんこれらの理論以外の理論が突如として現れる可能性も否定できない。

量子重力理論を完成させ、アインシュタインの直系の後継者が現れるのはいつのことになるのだろうか。

 

良い面を見るか、悪い面を見るか

選挙になるといつも悩むのが、票を入れたいと思える候補者がいないということだ。いいなと思う候補者がいても、悪い面が見えたりしてやっぱり嫌だなと思ってしまう。全てが良くて悪い面がない候補者なんていないのかもしれない。ならばどこかで妥協しなければならない。

なぜいきなりこんなことを書いたのかと言うと、2月25日の読売新聞に「大きな実績を残したと思う戦後の首相ランキング」というのが載っていて、2位が小泉純一郎で、1位は田中角栄だったのである。

田中角栄と言えば政治で大きな実績を残した一方、ロッキード事件などのお金にまつわる大きな犯罪を犯したことでも有名だ。おそらく戦後一番悪いことをした首相ランキングがあるならば圧倒的に1位になっていたであろう。

すなわち田中角栄は、良い面でも偉大、悪い面でも偉大なのである。田中角栄が悪い人間だといって排除されていたら、今の経済大国日本は確実に存在していなかった。かといって悪い面は許されることではないが。

やはり政治家を選ぶときは、良い面を見て、悪い面には目をつぶらなければいけないのか。偉大な政治家は劇薬である。悪い面が全くない政治家がいるならば、それは無色無臭の水かもしれない。

政治家としての力と金権にまみれた悪い面、どちらを判断材料にすればいいのか、非常に難しいところで簡単に答えは出ない。

ただ、逮捕されて数十年経ち、今は亡き田中角栄が戦後の首相の中で一番評価されている現実は一つのヒントになるのかもしれない。

やっぱり素粒子論は面白い

僕は大学学部は数学系、大学院も数理系の研究科にいたこともあって、今まで勉強、研究してきたことは数理物理とはいえかなり数学よりに偏っていた。しかしもとをただせば小学生のころに長岡半太郎の原子モデルに魅せられたことに始まって、興味の重みは物理の方にあった。大学に入る前から素粒子論を研究すると周りの人に言いふらしていた。

ではなぜ大学に入るときに数学科(数理・自然情報科学科)を選んだかというと、数学は学校でやって、物理は独学でやろうと思ったからだ。しかし大学入学早々、大学図書館にこもって数学の授業も出ずに数学も物理も独学でやろうと挑戦してしまった。おかげで単位はほとんど取らずに一年が過ぎた。

その後いろいろアクシデントがあったりしてかなり回り道をしたが、数学と物理に対する情熱は持ち続けてきた。

最近になって、数学よりから物理よりのことをするようになり、原点であった素粒子論に近いことをやりだして、やはり素粒子論はめちゃくちゃ面白いと改めて感じてきた。

最近していることの一つにゲージ理論というものがあるが、これは数学ではフファイバー束という理論と等価であり、数学と物理の双方で研究がされている。しかし物理としてのゲージ理論の醍醐味は「量子論」としてのゲージ理論であり、この量子化がゲージ理論をより深いものにする一方、非常に複雑なものにしている。

この量子ゲージ理論はまだ厳密に数学的理論化はされていなくて、その数学化はアメリカのクレイ数学研究所の七つの懸賞問題の一つとして一億円の懸賞金がかけられている。

七つの懸賞問題のうち現在までに解かれたのは、ペレルマンが解決したポアンカレ予想だけで(ちなみにペレルマンは一億円の受け取りを拒否し、その一億円は宙に浮いている)他の六個は未解決である。

量子ゲージ理論の問題(厳密には「ヤン・ミルズ理論の存在と質量ギャップ」の問題と言う)はその中でも最も物理寄りで、最も地味な問題に思えるが、この数理物理の問題に数学研究所が懸賞金をかけていることは素晴らしいことである。

次に一億円の懸賞金を獲得するのはいったい誰になるのだろうか。楽しみである。

農林政策について

農相が辞任するというニュースが流れた。当然と言えば当然だ。農相が砂糖業界から献金を受けるなんて、贈収賄事件以外の何物でもない。大臣ともあろう者がこの100万円(大臣への企業献金としてはたった百万円というべきか)の献金が何を意味するところかわからないはずはないであろう。

砂糖業界から農相へ、小学生でもわかるような実に単純な構図だ。

ところで最近少し忘れ去られた感があるTPP。今は話が進んでいるのだろうか。TPPの協議の中での一番の焦点はやはり米であろう。米は日本人の主食だ。米の自給率は非常に高いが、米の輸入を解禁するともちろん自給率は下がるだろう。安い米が入ってきて一部の日本人にとってはうれしいが、主食の自給率が下がることは非常に危険なことである。輸入はいつどのような理由でストップされるかわからない。あらゆる食物の自給率が下がっている中、米の自給率は何としても確保しなければいけない。

とは言っても、一部の米農家が高品質な米を生産しようと努力している一方、輸入がされないのをいいことに、努力しないでただ作っているだけの米農家もいる。TPPに反対しているのはこの後者の方だ。高品質米は国内だけでなく、海外でも必ず需要はある。むしろブランド米として世界へ流通させる絶好のチャンスであろう。

牛肉も同じだ。安いアメリカ牛が入ってくる中、日本の高級ブランド牛は世界が求めている。

この高品質高級戦略は、イタリア型戦略と言える。イタリアの経済規模は決して巨大ではない。しかし車のフェラーリからファッションに至るまで、高品質高付加価値戦略でその存在感は巨大であり、業界をリードしている。

日本の農政もこれからはこのイタリア型戦略に舵を切ることによって、自給率維持と世界への流通の両立が可能に違いない。

考えたら、即行動

僕の現在の基本方針の一つに「とにかく行動に起こす」というものがある。本を読んで理解するだけなら簡単だ。まず自分の頭で考える。そして動く。動いて初めて意味を持つ。

またまたNKH大河ドラマの「花燃ゆ」の話だが、吉田松陰も「考えるだけでは意味がない。行動に移して初めて意味を持つ」みたいなことを言っていた。黒船に乗り込むようなとんでもない行動も、その精神が原動力になっているのかもしれない。吉田松陰みたいな大先生には及ばないが、私も今年はいろいろ行動を起こし、またいろいろ起こしつつある。

本当は一番やりたいこと一つに没頭したいのだが、今の自身の立場から言ってそれは無理だ。もちろん数理物理の研究は譲れないが、今年はやろうと思ったことはすぐにやってみることにしている。

考えたら、即断し、即行動。

最近も仕事関係で一つプロジェクトを進めることを決めた。昨年末から数えて、四つ目の行動になる。

「面倒くさいな」などと思っていたら、いつまでたっても行動に移せない。「とにかくやってみるか」とまず少し前進することが大事である。

西川きよしが言うように、何事も「小さなことからコツコツと」。その精神を肝に銘じて一歩一歩進もうと思う。時には大きな飛躍もしたいが。

逆境でも負けない

失敗しても、挫折は絶対にしない。

逆境にも耐え、最後には成功に導く、そんな覚悟と粘り強さが大切です。

できます。あきらめません。

一般相対性理論、誕生百周年

今年はアインシュタインが一般相対性理論が発表されてから約100年になる。一般相対論関連の論文は1914年あたりから出ているが、決定的な確定打となった論文は1916年、つまり厳密には100周年は来年になる。

その1916年の論文は、当時論文言語として主流だったドイツ語で書かれている。アインシュタインは当時は確かベルリン大学の教授だったと思う。

ところでアインシュタインの相対性理論には2種類ある。「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」だ。名前とは裏腹に、特殊相対論の方が一般的で、一般相対論の方が特殊だと言われている。1905年の特殊相対論はとてつもなく革新的だった。そして1916年の一般相対論も非常に革新的なのだが、それに加えてとてつもなく壮大な理論だ。壮大さでは一般相対性理論の右に出る科学理論は存在しない。

アインシュタインは特殊相対論で時間と空間を合体させ、時空という概念を作った。そして一般相対論で重力を時空のゆがみであると提唱した。

多くの理論が数年で消えていく中、この両理論は今でも基礎理論として色あせることなく生き残っている。アインシュタインの先見性は驚くべきものである。

20世紀は物理学の世紀とも言われている。特殊・一般相対論、そして量子力学を基礎として、物理学は大きな飛躍を遂げた。

そしてアインシュタインがもう一つもたらしたものは、「物理学の数学化」だ。これはヤン・ミルズ理論によっていっそう拍車がかかり、最近の超弦理論などは物理というよりむしろ数学だ。この数学的物理理論は本当に正しいのだろうか。

最近は素粒子論研究者の多くが超弦理論に流れ、その比重が偏りすぎているように思える。超弦理論へエスカレーターがつながっているかのような様相だ。既存の分野を覆すような革新を起こすような、オリジナリティあふれる研究に取り組むような学者がもっと増えてきてほしいものである。

体罰教師の問題

いつも忘れたころに流れてくるニュースの一つに「体罰教師」の問題がある。最近は過去に二度体罰を注意された教師が三度目の体罰事件を起こしたというものがあった。いくら重大な事故につながっていないとはいえ、このような体罰中毒者のような累犯者を野放しにしていていいのか。

体罰によって従わせようという行為は、自分の教育力に自信がない証拠だ。百歩譲って体罰を行うとしても、相手が納得するようなものでなければならない。

体罰教師はもはや教育者とは言えない。そんな体罰教師を許す管理者も同犯だ。

体罰教師の起こす事件は、以前の韓国の航空会社の女副社長が犯したピーナッツ事件を思い起こさせる。この事件では乗り組み責任者には全く非はなかったが、仮に非があったとしてもそれに激怒し叱責し航空機の針路を変えた女副社長の方が比較できないくらい大きな罪がある。

体罰も同じである。生徒に非があっても、それを体罰によって叱責する教師の方がはるかに大きな罪がある。体罰は罪である。しかし体罰教師はその体罰を罪と思っていないどころか正義だと思っている。あるいは自分の感情をむやみにさらけ出しているだけかもしれない。そうだとしたら大人ではなく幼稚園レベルである。

20年くらい前までは体罰は日常的に行われていた。そういう意味ではまだ社会は未熟だったのかもしれない。しかしその体罰を指導の一手段として容認されていた時代にも、三つのタイプの教師がいた。生徒のことを親身に思って最終的に体罰を行っていた教師、仕事の一業務として自動的に体罰を行っていた教師、単に感情をあらわに出して発散しているだけの教師。今残っている体罰教師は三つ目のタイプであろうと思う。この様な教師は教師としてどころか大人として失格である。こんな失格人間に指導される生徒は悲惨なものである。

もし体罰教師が校内でしていることを校外でしたらどうなるかと考えると、体罰の罪の重さがわかる。まず間違いなく逮捕されるであろう。刑務所行きかもしれない。

学校は体罰教師の楽園だったのか。学校は教師の給与獲得の手段のためにあるのか。そんなことは明らかに間違っている。体罰教師、そして給与獲得手段と思っている無気力教師にはすぐにも校内から去ってもらいたいものである。

地震学者の解説があまりにもひどい

大きな地震が起こると、決まって地震学者の解説がテレビで流れるが、その解説があまりにもひどい。大概その地点はひずみが溜まっていたとか地震の空白地帯だったとか言っているが、その説明が全然科学的ではない。似非論理学者の似非科学レベルの話なのである。サイエンスというのにはほど遠い。しかもその論理も事後の後付けなのである。それでいて自身を学者と名乗っている。もうちまたによく出てくる預言者が後になって私は予言していたというレベルである。

何も地震学自体を否定するつもりはない。地道な観測と、筋の通った論理地球学に基づいてコツコツと研究している地震学者もいるだろう。地震学は役に立たないどころか成功すれば計り知れないくらい大きな利益をもたらす。そのことは少し考えればわかる。大地震を一回予知するだけで、数万人の命が助かる可能性があるのだ。であるから一回の地震の予知に失敗したからと言って非難するのは早計だろう。

しかし不真面目でいい加減な地震学者が多い。それともテレビなどに出ている地震学者がいい加減なのか。東大教授というような高名な学者もよく出ているが。

思い返してみれば、阪神大震災が起こる前にも地震特集みたいなテレビ番組はよくあった。しかしその内容と言えば、すぐにでも首都圏直下型地震が起きてもおかしくないというものである。べつに首都圏直下型地震を危惧することに異論はない。しかし首都圏以外に関しては全くというほど触れられてはいなかった。そこでの阪神、東日本である。事後になって関西は危なかった、東日本は巨大地震の巣だったなどとわめいている。最近になってようやく南海トラフ巨大地震がクローズアップされているが。

首都圏の危機的状況を伝えること自体は否定しない。しかし人間は首都圏だけに住んでいるのではない。もちろん人口密集地の情報が重要なことはわかる。しかし「科学的」に公平に議論されなければならない。

地震学は規模が大きく、非常に難しい学問であることはわかる。だからと言って事後の貼り付けのような説明は、素人相手とはいえそんなことはしてほしくない。国民をバカにしているのか、地震学者がバカなのか。

とにかくより確実なメカニズムを解明し、大地震を一発でも予知するような大勝利を挙げてほしいものである。

われわれ一般国民もその日が来るのを信じ、静かに見守ろう。

崇拝対象の風刺画

映画監督の宮崎駿さんが、「異質文化の崇拝対象に対する風刺画は間違いである」と言っておられた。私もその通りだと思う。風刺画を描いている欧米人は表現の自由という言葉を掲げて自分たちの行為を正当化しているが、見方を変えると彼らのしていることは、異文化の否認、排除であり、自分たちの文化を異文化圏に押し付ける行為でもある。

以前私のブログでこのようなテーマで書いたが、風刺画を描く行為自体は犯罪行為ではない。決して取り締まったりされるべきものではないが、法律的に許されているからと言って、それがすべき事とは限らない。ましてや称賛すべきことでは決してない。彼らのやっていることは、自分たちの思想の陳腐さ、レベルの低さをさらけ出しているようなものだ。

私はイスラムを信仰しているしているわけでは全くないが、彼らの文化を否定するつもりもない。

宮崎駿さんも言っておられるが、風刺画とは自国の政治家を皮肉って書いてこそ威力を発揮する。権力に対する抵抗である。本来、権力に対する抵抗が、他国の文化の卑下ともとられるような行為に使ってどうする。

欧米の思想哲学は近代的で、何百年もの発展の歴史があり素晴らしいところも多々ある。しかし一部の政治家をはじめ一部の民衆は、それを勘違いしている。今回の風刺画に対する称賛はその最たる例である。その一番の犠牲になっているのは、普通に生活しているイスラム市民であることを忘れてはいけない。

臓器移植のための海外渡航について

ニュースを見ていたら、海外で臓器移植を受けて無事回復した幼い女の子の話題が流れた。一つの幼い命が救われたことは大変喜ばしいことである。これからも長生きをして、移植された臓器を大切に生きてくれるとすごくうれしい。

ところで日本国内では臓器移植があまり進んでいない。これには医療技術的な問題よりも、法律や文化の壁が大きいみたいだ。科学的に言えば脳が死んだ時が死であるといえる。こう言えば単純だが、実際はそんなに単純な問題ではない。宗教的な問題もあるし、身近な人から見れば脳死であっても心臓が動いている人をなかなか死と認められないものである。

そこで臓器移植を受けないといけないが国内の現状では無理という状況では、海外に渡航して受けざる負えなくなる。しかし本当にそんな現状をそのままにしていいのか。国内ではダメだが海外ならいいよというのは、国内の問題を海外に丸投げしてしているようなものである。もちろん難しい問題であることはよくわかる。しかし難しい問題であることは海外でも同じである。

確かに死んだ人、あるいは脳死の人の臓器を移植するするのを見るのは周りの人にとって非常につらいかもしれない。それも海外でも同じである。しかし一人の人間の死が臓器移植によって新たな生を吹き込むことになるのである。もちろん脳死の人からの臓器移植を強制してはならない。全ての人間に尊厳はある。しかしせめて法的にはもっと移植を推進できる体制を整えるべきではないか。今では臓器を与えたくても与えられないのが現状である。もちろん最近は少し推進しては来たが。

法は国会で認められればすぐにでも変えられるけど、文化的意識を変えるのは非常に難しい。これは徐々に啓蒙活動をしていくしかない。

移植問題を海外に丸投げせずとも、国内で移植を受け、多くの命が助かるようになることを願っている。

全労働者非正規雇用制のすすめ

ここ数年、非正規雇用者の問題がクローズアップされている。確かに現在の非正規雇用制には問題が山積で、何らかの対策は打たなければならない状態になっている。

一番の問題は、非正規雇用者が企業の調整弁になっているということであろう。不振になって雇用者が過剰になったとき、非正規雇用者を切り捨て調整を図っているのである。

そしてもう一つの大きな問題は、給与の面であろう。正規雇用者と非正規雇用者が全く同じ作業をしていても、その両者で賃金が大きく差がつけられている。

そこでこれは一つの極論だが、全社員を非正規雇用制にしてみるのはどうかと思う。もう少し付け加えるなら、正社員と非正規社員の区別をやめるのである。

そんなことを言えば、企業の正社員たちは猛反発するであろう。正社員の身分の安定と、安定した給与があるからこそ、安心して生活ができると。

確かに正社員の安定した身分というのは必要かもしれない。しかし現在の多くの企業制度上、正社員の安定した身分は非常に不安定な非正規社員のもとに成り立っているのである。正社員が安定していれば、非正規社員は不安定で低賃金でも許されるのか。非正規社員も正社員と同じ人間なのである。ただ入ってきた窓口が違うというだけでこんなにも待遇の差をつけられていいのか。

非正規社員を正社員にという声はよく聞く。そこで逆転の発想で正社員と非正規社員という区別をやめてみてはどうかと私は思うのである。もちろん極論であり、問題はたくさんあるのは承知である。

区別をやめることによって、従来非正規だった人の賃金レベルを上げるのはもちろんだが、解雇するハードルも下げ、人材の流れも活発にすればいいのである。

企業にとって人材は宝である。企業にとって宝であるような人が、正社員制度をやめたからと言って企業が切ったりすることはありえない。正社員制度がなくとも重要な人には高給与を与えればいい。

まずは全ての人にチャンスを。社会からあふれた人にも優秀な人が埋もれている。結論を言えば、別に正社員がいてもいい。しかしその正社員の安定と高給与のために非正規社員が犠牲になるようなシステムはもうやめようではないかということなのである。

G型大学と、L型大学に分離する議論について

最近、大学をG(グローバル)型大学とL(ローカル)型大学に分離しようという議論が起こっている。現在の大学ではアカデミックな教育が主流となっており、平均的な大学でも経済の授業ではマクロミクロ経済学のようなアカデミック学問を教えるというような教養主義教育を行っている。

しかし大学分離の議論では、G型大学(旧帝国大学及び早慶のようなトップレベルの大学)とL型大学(その他の大学)に完全に分離して、G型大学では従来のようなアカデミックな教育を進めるものの、L型大学では実業教育に特化した教育を行うというものである。先ほど出した経済の授業で言うと、L型大学では会計ソフトの使い方など、仕事で実際に必要なスキル(手に職とでも言うべきか)を叩き込むのである。

こうなってしまえば名称は「大学」であるものの、実際は職業訓練学校である。はたして大学をこのような職業訓練の場で終わらしてしまっていいのか。

職業訓練の場のような学校を作ることは結構なことである。問題はそれを大学が担うということである。もし職業訓練に特化するならば、大学という看板を下ろしてもらいたい。大学は最高学府である。だからこそ、レベルが少し低いと言えども大学にはアカデミックな教育、高度な教養を身に付ける場であってほしい。教養に興味のない者は、大学ではなくて職業訓練学校に行けばいいのである。

アカデミックな教育、教養が役に立たないとは、実に早計である。もちろん教養は実用を目的にしたものではないかもしれない。しかし高度な教養は社会全体のレベルを底上げし、産業の高度化をもたらす力になるであろう。また教養は人生の基盤でもあり、より質の高い人生を送るためには不可欠である。

ここまで言って納得できない人は、大学などに行かずに職業訓練学校に行って手に職をつければいいのである。職業訓練学校を低く見るつもりはない。高度な技術を身に付けるには職業訓練学校に行くべきだとも思う。

そもそも問題は大学を作りすぎたことにあるのかもしれない。今の大学の乱立状態は異常である。なぜ最高学府が一国に数百も必要なのか。

アカデミックな大学はレベルにかかわらず絶対に必要だが、アカデミックな教育、教養教育を学校側も学生側も望んでいない大学はすぐにでも「大学」の看板を下ろして職業訓練学校に衣替えしてほしいものである。

人工知能は人間の頭脳を超えられるのか

最近人工知能の研究が社会的に話題になっている。特に話題の中心は、「人工知能は人間を超えるのか」というものだ。

そもそも何をもって人工知能が人間の頭脳を超えたというのかという定義自体があいまいだが、一つの定義として「チューリングテスト」というものが半世紀ほど前に考え出されている。

チューリングテストとは簡単に言うと、質問の相手を隠し、相手がコンピューターであることを知らせないで質問者にいろいろ質問してもらう。そのやり取りを通じて質問者の30%以上の人が相手が人間であると判断すれば、そのコンピューターは人間の頭脳と同等であると言える、というものである。2014年になって初めてチューリングテストに合格したコンピューターが現れた。

コンピューターと人間の頭脳を比較するとき、二つの視点がある。それは計算量、計算のスピードを見るのか、あるいは計算の「質」を見るのか。

計算の量やスピードを見ると、もうとっくにコンピューターは人間を超えている。何十年も昔の電卓でさえ人間は太刀打ちできない。今では理研にある「京」というコンピューターのように、一秒間に一京回(10000000000000000回)も計算してしまうような化け物のようなコンピューターも現れている。

では「質」についてはどうだろう。これについて二つの解釈があると思う。一つは今社会で話題になっていることだが、コンピューター自身が自分をより高度に学習発展させていけるかというもの。もう一つは問題を解く能力ではなくて、問題の質、すなわちどの問題が重要であってどの問題は重要でないと判断できるかということである。

そしてその質について考えたとき、今のコンピューターの仕組みと人間の頭脳の間には、断層のようなそもそも根本的な仕組みの違いがあるかということが問題になる。

ツイスター理論で有名な物理学者ペンローズ博士は、人間の脳の仕組みには量子重力理論的効果(量子重力理論は現在完成していない)が本質的役割を果たしていると指摘した。それが合っているか間違っているかは別にして、ペンローズ博士はコンピューターと人間の頭脳には、質的な違いがあると言いたかったのであろう。もしそのような質的な違いがあるならば、今のコンピューターをいくら高度に発展させても人間の頭脳と同じ働きをするコンピューターはできない。

話を元に戻そう。コンピューターが人間を超えることで一番危惧されているのは、人間社会がコンピューターに取って代わられるのではないかということであろう。映画のターミネーターみたいな世界である。もしそうなれば人間はコンピューターの奴隷になってしまうかもしれない。そんなSFのような世界も徐々に現実味を帯びてくるであろう。

医療行為に倫理観が欠かせないのと同じように、これからはコンピューター開発にもしっかりした倫理観が必要になる。むやみに開発すればいいという考えはもう終わりにしなければいけないかもしれない。

物書きのスランプ

このブログを書き始めてから約一か月半、一日一記事を目標に書き続けてきた。そしていま、今年に入ってから経た日数とブログの記事は同じだ。

毎日コンスタントに書けるといいが、たまには書けない時もある。そういう時のために、余裕のある時にストック記事を書いて用意して、書けない時にはストック記事をアップすることにしている。

しかし昨日ストック記事をアップし、今日もなかなか文章が続かない。そこで今日はいっその事、そんなスランプな状態を逆手にとって記事にしてやろうと思いこのタイトルで書くことにした。

少し振り返ってみると、今まで社会・時事ネタが圧倒的に多くなってしまった。タイトルが「考える部屋」とあるように、初めは思想・哲学的な記事が多くなるかなと想定していたのだが。専門のサイエンスに関する話題は一つだけだ。

以前、ある文豪の話として、文章を書けるときはすらすら書けるのだが、書けない時にはどうあがいても筆が進まない、そういう時があると何かで読んだことがある。文豪でもそんなスランプがあるのだから、僕にもあって当たり前かもしれない。でも当たり前と開き直ってしまっては何も書けないので、そんなスランプもネタにしてみようと今日の記事を書いている。

そこで風呂に入りシャワーを浴びながら、書く内容を簡単に構想する。風呂というのは温まって血の巡りが良くなるせいか、考えていることが整理されたりアイデアを思いついたりすることがある。数年前にノーベル物理学賞を取られた益川博士も、受賞対象になった小林・益川理論のアイデアは風呂の中で思いついたと言われていた。やはり風呂に入ると頭が活性化されるのだろうか。

頭の調子が常に高いレベルで一定に保たれているといいのだが、調子の良い時と悪い時の波というものがどうしても出てくる。そこで調子の良い時は数理物理の研究・勉強を、そして疲れたら物書きを、悪い時はネットを眺めて情報収集を、というふうに使い分けることにしている。

かの有名な哲学者バートランド・ラッセルは、調子の良い時は数学・論理学を、普通の時は哲学を、悪い時は社会科学をやっていたと何かの本で読んだことがある。

調子の良い時は思いっきり、悪い時は悪いなりにと時間を有効利用するのは、いい戦略である。でも悪い時はいっその事寝て過ごせとなり、だらけてしまうのは意志の弱さなのか。

何はともあれ、勢いに乗っている時の充実感を少しでも長く感じたいものである。

 

社会のバランス

どのような集団でも、集団の規模が大きくなれば極端に偏った考えの人が増えてくるものだ。しかし偏っていると言っても皆が同じ方向に偏っているのではなくて、右に偏っている人もいれば左に偏っている人もいる。これらの両極端の人たちはシーソーの両端みたいなもので、全体を見てみるとシーソーはバランスが取れている。

社会的に危ないのは、その片方側だけを認めない風潮だ。ナチスドイツ、金朝鮮などがそうである。最近の韓国もそのようになりつつある。片方を否定することによって、シーソーは片方に傾く。国なら国家が傾く。相反する主張を認めない国家は、独裁色の強い国家になっていく。

そのようなことを防ぐためには、「多様性」を認めなければならない。多様性の重要性はいろいろなことに当てはまる。人間社会をはじめ、自然の動物の生態系、あるいは学問の世界でも多様な主張は必要かもしれない。多様性のある世界が健全なら、偏った世界はある意味病的と言える。

しかし、時には偏ることも必要なこともある。多様性を認めるということは言い換えると面積が広くなるということである。国家というような規模の大きい集団ならそれでいいが、規模の小さな集団では、広くなるということは同時に浅くなるということでもある。ですから、規模の小さな集団が特色、個性を際立たせるためには、偏る、あるいは狭い範囲に集中するということも必要だ。しかしターゲットを集中する場合でも、アンテナは広く向けていなければ知識までもが偏ってしまう。

政治の世界ではよく右だ左だと非難し合っている。非難し合うのは結構なことであり、このように左右が非難し合っているということは逆に言うと両者の存在を前提として認めているということなので、ある意味健全な状態だと言えるかもしれない。

これから先も右と左がけん制しあうことができる国家であり続けることを願っている。

殺人を手段によって認否していいのか

最近、イスラム国(ISIL)の塩素ガスを使った攻撃が問題になった。塩素ガス攻撃、すなわち化学兵器は人道的に非道だということらしい。社会的な殺人事件から戦争による殺害まで、殺人にはいろいろあるが、殺人の仕方に、良い殺人と悪い殺人なんて本当にあるのだろうか。

確かにISILの斬首などは見ていて(僕は見ていないが)残虐極まりないと思う。このようなことは許されないものだ。かと言って米軍による空爆は許されるのであろうか。空爆はISILの幹部、兵士を狙ったものだと思われるが、同時に多数の一般市民も犠牲になっていることは容易に推察できる。しかし空爆による何十、何百とも思われる市民の犠牲の話は一向に出てこない。

斬首であろうが空爆であろうが、殺人には変わりない。もちろん空爆の一番の原因はISILの残虐な施政にあるのだが。空爆による殺人は合法的な殺人として認められるのだろうか。

合法殺人か、違法殺人かの区別は簡単だ。米国米軍寄りの殺人は全て合法で、米国米軍に敵対する側の殺人は違法なのである。

世界は米国を中心に回っていると言っても過言ではない。米国のすることがスタンダードなのである。ヨルダン兵士の殺害に対する哀悼の意は出されても、空爆によって犠牲になった数多くの市民に対する哀悼の声明は一切出されていない。

今、科学兵器に対する批判がなされているが、ベトナム戦争では米軍の枯葉剤によって数多くの市民が犠牲になり、その影響は今でも残る。今、一部の国の核兵器開発が国際的に非難されているが、太平洋戦争では米軍は実際に核兵器を投下し、朝鮮戦争で北に味方する中国の数都市に対する米国による原爆投下の計画があったことが今では明らかになっている。

時代時代によって、残虐非道か合法かの基準は変わっているのである。簡単に言えば、米国が非道と言えば非道であり、合法と言えば合法なのである。

しかし、殺人が手段によって区別されるのは明らかにおかしい。どんな手法を使っても殺人は殺人なのである。まだ殺人人数で罪の大きさを決める方がより理にかなっている。人数で比べると、米軍の空爆による被害は計り知れない。

とは言ってもISILを擁護するつもりはさらさらないのだが。原因はISIL側にある。しかしだからと言って無差別に空爆をすることには疑問である。仮に空爆を認めるとしても、市民にどれだけの被害が出たかという検証をし、一般市民にさらけ出すべきだと思う。

米軍側の攻撃の検証が全く明らかにされないのは、情報操作にもつながり、ある意味非常に恐ろしい状態に陥っているのではないかと思う。

紛争の全貌を公平な立場から明らかにしてほしいものである。

権利と義務

最近、シリア、そしてイスラム国への渡航を計画していた人に対する旅券強制返納が話題になっている。その人物(以下、氏と呼ぶ)は、行動、報道の自由を訴えかけて国を提訴すると言っているが、ここでこの問題について少し考えてみる。

この問題の核心は、「権利と義務のバランス」だ。行動、報道の自由があるのは言うまでもない。その一方で国は国民を守る義務がある。この二つの事柄は一部相反するところがあるので、今回はその部分が問題になっている。行動の自由があるとはいえ、殺害される確率が高いような危険地域に一国民が行くことを、国はみすみす指をくわえて見ているだけではいけない。後藤健二さんのケースでも、国はイスラム国に行こうとする後藤さんに対して再三警告したようだ。しかしそれを振り切って最悪の結果になった。

国としても同じ過ちを繰り返したくはないのだろう。後藤さんにしても氏にしても自己責任で行くと主張して行動しようとしている。しかし今回の人質事件を見ても、自己責任で済まされる問題ではない。と言っても何も後藤さんたちを、自己責任だと言って断罪するつもりはないのだが。

民主主義、自由主義国家において、行動の自由、報道の自由は通常は制限を受けるべきではない。しかし今回のイスラム国の渡航に関しては、生命の行方がかかっている。行動の自由と命の重さ、どちらが重いかというともちろん人命だ。

今回の旅券強制返納は特例らしいが、自由主義国家の日本としては苦渋の決断だったと思う。しかし国民の人命を第一に守る国だと示すためにも、しっかり決断してもらいたい。

 

動の学問、静の学問

いま大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰をやっているが、彼の学問を一言で言うと、「動の学問」と言えるのではないか。彼は部屋で勉強し、講義室で講義するだけでなく、その学問の精神を行動に移し実践した。黒船密航に然り、あるいは日本各地を自分の目で見て確かめること然り。動きに動きまくっている。これほど学問の精神を行動に移した人もいないのではないかと言えるくらいだ。

数学、物理学というものは、基本机の上で研究し、行動と言えば講義室で講義するくらいだ。もちろん世界を飛び回っている人もいるが、それは研究発表のためであり、研究の精神が直接行動し、事を起こすというわけではない。

吉田松陰の学問が「動の学問」とすれば、数学、物理は「静の学問」と言えるのではないか。

幕末など動乱の時期には、事を起こすにはまず動かなければならなかった。動いて動いて事をなすのである。学問ではないが、坂本龍馬などを見ればそれはよくわかる。学問も、徳川時代約250年間に机上で蓄えた知識を、国を動かすために動いて実践に移す時期であった。

静の学問も素晴らしいが、少し体が鈍ってしまう。そんな時、動の学問にかかわれたらと思ったりする。しかし今の日本は動乱の時代ではない。動乱を求めて海外に行くのも変な話である。

国にかかわるなどといきなり大きなことを言わず、まず身近な世界から行動に移すのが、大きな動への一歩となるのかもしれない。

外交の場ではもっと自国の主張を

日本は行儀が良い。本当に良すぎる。東日本大震災の日本人の対応などについてはいい意味でこう言われたりしたが、今回は逆の意味でとらえたい。

何についてか?一番言いたいのは外交、国際的な態度である。日本国内ではあえて主張しないで慎ましくすることは上品で行儀が良いと言われるが、海外ではそんな日本の常識は通じない。外交にして然りである。主張すべきところはしっかり主張し、弁解すべきところはしっかり弁解しなければならない。

最近の韓国に対する対応などはいい例である。韓国は日本に対して何かとケチをつけてくるが、最も看過できないものの一つは伊藤博文暗殺犯の安重根を英雄視し、国際的にそれをアピールしていることだ。慰安婦問題についてもいろいろ言いたいことがあるが、いろいろなメディアで取り上げられていることもあり、今ここでは控えておく。

伊藤博文は日本国初代総理大臣で、言わば日本の国祖とでも言うべき人物である。その国祖を暗殺した暗殺犯を英雄視する韓国に対して、日本はなぜ抗議し、批難しないのか。こんなことで行儀よくしても、国祖伊藤の名誉が国際的に汚されるだけだ。

これがどれだけ重い意味があるか、第一次世界大戦を振り返ればわかる。第一次世界大戦が勃発したのは史実が示す通り、オーストリア皇太子が外国人青年に暗殺されたのがきっかけだ。暗殺が戦争に発展するくらいの重大事なのだ。その暗殺犯を国を挙げて英雄視する国がどこにあるのか。

韓国は暗殺犯を国を挙げて英雄視し、記念館まで作っているのである。歴代大統領のほとんどが暗殺されるという、暗殺が文化になってしまった韓国という国が異常すぎると言えばそれまでだが。

慰安婦問題について日本の名誉を回復するのは最重要課題だが、安重根を英雄視する韓国を国際的に非難することも重要ではないか。そのままにしておけば、韓国は何百年と同じことを言い続けるだろう。実際今でも豊臣秀吉は韓国では非難の対象だ。日本が元寇のフビライを非難し続けているみたいなものだ。もちろん、今の時代にフビライを非難する日本人など聞いたことがない。

「清く慎ましく」という日本の常識は、外交では通じない。声を上げなければならない。主張すべきことは主張する国にならなければならない。

 

今すべきことは何か

志は高きものを持っていると自負している。

でもそれに似合わず、だらけである。

そんなだらけな自分に鞭を打ちたい。

早寝早起きして、思いっきり動きたい。

毎日そう思っているが、なかなか体がついてこない。

いきなり頂点には立てない。

初めから立つ必要もないかもしれない。

まずすべきことは、身の回りのこと、身近なこと、手元にあることから。

動乱の時代には、ぶつける対象はいくらでもある。

しかし平穏な時代の方が、その対象を見つけるのは意外と難しい。

ぶつける対象を見つける必要もないかもしれない。

だからと言って、何もしないのは間違っている。

人間としての軸を、太く、堅くしなければならない。

とにかく、今できることから取り組む。

動く。

だから数理物理の勉強、研究は続けていく。

数理物理は私の軸だが、それをもとに思想も高めなければならない。

数理物理と思想、哲学、

周りから見れば双方関係ないように思えるかもしれない。

でも私にとって数理物理も思想の一部。

思想は人間そのもの。

だから常に追い求める。

安易に目立つな

最近、ネット上での安易な悪ふざけ動画が問題になっている。中には犯罪行為に当たるものなど、法に触れるものも少なくない。その悪ふざけ映像アップの一番の原因は、単に目立ちたいからというものらしい。

世間で有名になるのは、難しいと言えばかなり難しいと言えるし、簡単と言えばかなり簡単ともいえる。

なぜ難しいか。有名になりたいと言って真っ先に思いつくのは、芸能人、一流スポーツ選手、最近ではノーベル賞学者であろうか。彼ら彼女らは才能を持ち合わせた上に半端ない努力を重ね、コツコツと実績を上げ、名をあげて有名になっている。普通の人が普通にやっていてはまず無理なことだ。だからこそ彼ら彼女らの存在は価値があるし、大きなリターンもまわってくる。また相当なリスクをとって挑戦していることも多く、その覚悟という者は半端ないことも多い。

では次に、なぜ簡単か。それは最近起こった爪楊枝混入事件でも明らかだ。大きな犯罪を犯せば簡単にテレビニュース番組に顔写真が実名入りで流される。有名になりたくて犯罪、あるいは犯罪まがいのことを犯す人が最近後を絶たない。彼らは明らかに勘違いしている。有名になったことで得意気になっているようだが、普通の人間は、皆できないのではなくて、しないだけなのである。そんなことをして有名になったって何の価値もないどころか低レベルなこと極まりないだけである。

有名には、名誉ある有名と、不名誉な有名があるのである。悪ふざけ動画で有名になろうという人は、その二つの区別が全然つかないのだ。

コツコツと努力して名をあげることは素晴らしいことだ。実績を上げて、名誉ある有名人になろう。もちろんそれは容易なことではないし膨大な時間もかかるだろう。しかしそれが有名人になるための正しい道だ。

自白強要事件

2月4日、パソコン遠隔操作事件の裁判で、容疑者の片山被告に懲役8年の求刑が言い渡された。この事件は悪質で、見も知らずの第三者を犯罪者に仕立て上げるという卑劣なものであり、この判決は妥当なものと思われる。

しかしこの事件の一番の問題は別のところにある。警察、検察側の取り調べだ。この事件によって4人の市民が無実の罪で警察に捕まった。そこでそれぞれ取り調べをを受けたのだが、4人のうちなんと2人が自白したというのである。もちろんこの4人は何も犯していない。犯罪者でない人たちの半数の人たちが警察、検察によって犯罪者に仕立てられようとしたのである。これは片山被告の犯罪よりも比べ物にならないくらい大きく深刻な問題である。

一言で言えば、国家権力が何も犯していない市民を犯罪者に仕立て上げたのである。今回の出来事は、真犯人が捕まったからこそ虚偽の自白が明らかになったものの、もし真犯人が捕まっていなければこの無実の2人は刑務所に入れられていたかもしれない。

たった一つの事件だけで半数の2人の自白強制があったという事実は、他の事件で同様なことがかなりたくさんあると推測される。まさしく今回の件は氷山の一角だと思われる。

最近記憶に新しいのは、袴田事件で死刑判決を受けた袴田巌さんであろう。彼は無実の罪で数十年、人生の大半を刑務所の中で過ごし、いつ死刑が執行されるかわからない恐怖の中で暮らしていたことであろう。

1億人以上の人間が暮らしていれば、犯罪も多々起きるのは当たり前であり、中には残虐な事件も起こることであろう。しかしこれらの犯罪者は当然のことながら、警察の捜査に追い詰められ、捕まれば裁きを受ける。

しかし今回の自白強要を強いた警察、検事は何の裁きも受けない。自白強要は、警察、検察による事件である。もし自白強要によって無実の人間が死刑になれば、これはもう国家による殺人事件である。しかし今回の遠隔操作事件による自白強要が明らかになった後も、警察、検事の悪質不正な実態が何も明らかにならない。真犯人の片山被告のニュースばかりで、自白強要犯の警察、検察は何のおとがめなしである。

こんな事があっていいのか!自白強要は立派な犯罪である。

現在、取り調べの可視化が議論になっている。このように自白強要の事実の横行が発覚した以上、有無を言わさず可視化することは当然のことではないのか。これらの警察、検察の放漫さには憤りを感じる。

官僚は敵か味方か

よく政治家が、官僚に対して敵視をむき出しにすることがある。選挙でも官僚主導から政治家主導へ導くと訴え、官僚が悪とでも言わんばかりの主張をたまに聞く。

政治家の答弁にしてもその答弁原案はほとんど官僚が作り上げており、政治に官僚の力は欠かせない。しかし官僚には政治活動はできない。なので政治は政治家がするのが当たり前のことだが、政治家には官僚を敵視するのではなく、むしろ味方に引き入れて官僚の頭脳を使い倒すくらいの気概を持ってほしい。選挙で官僚排除を訴えるのではなく、官僚の力をフルに使うと演説するような政治家がいてもいいのではないか。

少し前の話になるが、菅直人元首相は官僚に対し敵視をむき出しにし、官僚排除を訴えかけていた。その結果と言えば、鳩山氏と並んでダメ首相の二人組である。

官僚の仕事はかなりハードである。政治家の国会答弁がある前には官庁に泊まり込んでほぼ徹夜で答弁原案作成、資料作成に取り組むこともしばしばであるらしい。もちろん権力闘争に明け暮れている官僚もいるだろうが、それに関しては政治家の方がはるかに激しいだろう。

官僚は毒にも薬にもなる。それを薬にするのが政治家ではないか。官僚排除とは言っても政治家だけでは何もできない。個々のプロフェッショナルな案件は、その道に長く取り組んでいる官僚の力は必須である。しかし、官僚が実際にどんなことをしているかはなかなか明らかにならない。そして何か成果が出たり前進した時は、それは政治家が行ったということになる。政治家が俳優とすれば、官僚は影武者というところだろうか。

政治家に最も必要な力のうちの一つは、いかにして官僚を生かすかということではないだろうか。少なくとも、今までの官僚を生かせなかった首相、政治家はダメ政治家だったではないか。

これからは選挙時には、公約の内容だけではなく、その人は公約実現のために官僚を生かす力、人柄があるかという所も見てはどうだろうか。

トヨタの莫大な利益と、下請け会社

昨日、トヨタの三月期の決算が発表された。それによると、2.7兆円の利益が出るそうだ。膨大な額である。ギリシャの国家予算に匹敵する額である。

もちろん日本企業がうまくいくことはいいことだが、昨日のこのトヨタの利益に関するニュースに対する扱いに対して違和感を感じた。トヨタ本体の莫大な利益を下請け企業にも還元しなければならないという弱い論調の一方、そんなことしたらトヨタ本体の利益創造体質が弱くなり良くないという論調が目立つことだ。

とんでもない。トヨタがここまで利益が上げられるのは、一番は円安効果、それから倹約によるものだが、それに匹敵するくらい下請け孫請け部品メーカーに対するコスト削減要求によるものだ。

デフレ不景気の時代、トヨタはこれらの部品メーカーに対し、無茶ともいえるコスト削減を迫り、倒産寸前、あるいは倒産したメーカーも多々あったと聞いている。ならばトヨタ本体に莫大な利益が出た今、まずこれらの下請けメーカーに利益還元することが先ではないか。

トヨタ本体の自分たちだけ良ければいい主義、それに大企業だからと同調するマスコミ。本当にトヨタ本体だけ良ければいいのか。下請け孫請けまで含めて一つの自動車グループと見るべきではないのか。

デフレ不景気の時代、トヨタ本体よりさらに厳しい状態だった下請け孫請けメーカー。マスコミや評論家も、これらの下請け企業まで目を配った論評をしてもらいたい。

「国」と呼ばないで

人質事件でも大きく取り上げられた、イスラム国。日本の報道機関も一般市民も皆、イスラム「国」と呼んでいるが、このイスラム過激派組織をイスラム国と呼ぶのはやめないといけない。

イスラム国と呼ぶことによって、この組織を暗黙の了解として「国」と認めていることになり(もちろん公式見解ではそうではないが)、この組織の宣伝活動の思うつぼになっているのではないか。イスラム国と連呼するテレビ局、新聞社は、無意識のうちにこの組織の戦略に利用されている。

多くの市民に、イスラム国は「国」だという間違った認識を与えてしまう原因にもなるのではないか。

オバマ大統領や国連など世界的には、ISIL(アイシル)と略称で呼ぶことがメジャーだ。もちろんISILの「S」という文字はState(国)の略だが、アイシルと呼ぶことによって、「国」だという誤った認識、イメージを与えることは避けられるのではないか。

安倍総理をはじめ政府関係者、報道機関、そしてわれわれ一般市民もイスラム国と呼ぶのはもう止めにして、せめて世界的な通称の「アイシル」と呼ぼうではないか。たったそれだけのことで、ISILに多少のダメージは与えられるであろう。

不条理を正当化してはいけない

世の中、社会、そして身の回りは不条理なことだらけだ。そしてその中で生きていくためには、不条理であることを前提に、いかに不条理な世界の中で上手く立ち回るかということに重きを置かなくてはならない。

しかしそれは不条理を正当化してもいい理由にはならない。

「不条理なことはなくさなければならない」、それは確かに理想論かもしれない。しかし理想論のないところに平和は訪れない。理想論があるからこそ、理想に一歩でも近づけようと前進する。初めから不条理なことが当たり前だと認めてしまえば、全く良くならない。

これが会社や人好付き合いのレベルの話ならまだいい。世界に目を向けると、純真な子供たちをはじめ、全く罪のない人たちが紛争などで殺されるなど犠牲になっている。これこそ最高の不条理だ。この様な状態を、不条理なのが世の中の摂理だと認めていいはずがない。そういう所にこそ最高の理想を掲げなければならない。純真な子供に、社会が不条理なことを教えてどうする。そんなことをやっても不条理が不条理を生み出すだけだ。

これから先の世界を担っていくのは、現在の子供だ。そしてその子供たちが希望を見出せる世界を作り出すために、大人は今を少しでも理想に近づけなければならない。

人質事件で殺害された後藤健二さんも、おそらくこのようなことを伝えたかったのではないだろうか。彼は私とは違って、自分の目でその不条理な惨状を目の当たりにしてきた。日本国内で平和に生きている我々には感じられないこともたくさん感じてきただろう。だからこそ、後藤さんには生きて帰ってきてほしかった。そしてそれらの現状を、国内でぬくぬくと暮らしている我々に伝えてほしかった。

底辺から二番目の人たちの問題

いろいろな世界で、底辺から二番目の人たちというのが一番苦しい立場に立たされている。一番顕著で問題なのが、社会で底辺から二番目の人たちだ。

言葉は悪いが、社会で底辺の人たち、すなわち働けない・職がないという人たちには、セーフティーネットというものが作動して、生活保護の支給や医療費無料などの支援が施されている。それ自体は別に悪くはないし、本当に支援が必要な人には不可欠な制度だろう。

そこで問題になるのが、セーフティネットにギリギリかからない、底辺から二番目の人たちだ。一応職はある。しかし働けど働けど生活保護と同程度か、それを下回る収入しかない。時間もない、金もない。このような人たちは社会の眼中にない。セーフティーネットにかかるかかからないかで天と地の違いだ。

底辺の人たちの問題は盛んに議論されても、底辺から二番目の人たちの問題は全くと言っていいほど議論にならない。

生活保護の受給者が増えているが、その原因は単に困窮している人が増えたというだけではない。底辺から二番目の人たちに対するサポートがないから、生活保護者は底辺を抜け出して二番目になろうとしない。

いま国、自治体による生活保護費の膨張が問題になり、対策を練っているようだが、底辺から二番目の人たちの問題に真剣に取り組まないかぎり、底辺の問題も解決しないだろう。

しかも、底辺から二番目の人たちは社会を支える大きな基盤になっている。しかし社会からの見返りがほとんどない。まずは些細なことでもいい。これらの人たちの医療費負担を減らすとかすると本当に助かると思う。

底辺の人が底辺から抜け出せるようにするためにも、底辺から二番目の人たちにもっと目をつけてほしい。

テロと向き合う日本(人質事件をめぐって)

今朝、後藤健二さんがイスラム国に殺害されたという報道が入った。日本として痛恨の極みだ。

日本人の誰もがイスラム国周辺は危険地域だと知っている。しかしそれを知っているのも後藤さんのように紛争地に赴き、レポートを届けてくれる人がいるからだ。

日本人として悲しい。本当に悲しい。もちろん日本人の命も外国人の命も、同じ一つの命であることには変わりない。どの命も同じくらい重い。しかし使命感を持った同胞がいわれもない殺され方をするのには、悲しくて、憤りを感じる。

しかし、政府もここ数日間よく動いた。安倍首相、菅官房長官をはじめとする政府トップも不眠不休で対応に当たり、疲労困憊していると思う。少し一息ついたら、二度とこのような悲劇が起きないように、対テロ対策には強く当たってほしい。しかしアメリカなどと全く同じ手法をとる必要はない。日本には憲法第九条があり、武力によらない平和的解決を求められている。もちろん欧米諸国と足並みはそろえなければならない。

今回の事件で、日本も対テロ戦争の直接の犠牲者になった。テロは他人ごとではなくなった。日本人もようやく世界の現状に目を覚ました。自己責任論というバカな主張が、最後には、I am Kenji 運動という同胞を思いやる運動に変わった。

最悪の結果にはなったが、これから日本は世界のテロ集団に対してどのような姿勢を取るべきか、明確になったと思う。

ビリギャルが気づかせてくれたこと

昨年から、一冊の本が大ベストセラーになっている。

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(KADOKAWA)

実は僕も買ってしまった。それもベストセラーになる前の、出版された直後に。

こんな類の本には普段は見向きもしない僕がなぜ買ったか。軽い気持ちで何となく本屋で手に取って立ち読みしたのだが、初めは10秒眺めたら書店の本棚に戻すつもりでいた。しかしパラパラと本をめくっていたら、さやかさん(主人公)の猛烈な努力の様子に圧倒され、10秒のはずが数分も本の中身にのめりこんでいた。

簡単に言うと、学年ビリのダメギャルが勉強に目覚めて、超努力して慶應義塾大学に合格する話だが、それだけなら30分立ち読みして済ましてもよかった。しかしどうしても買いたくなった。本に書かれているさやかさんの努力に比べて、最近の僕の不甲斐なさ。この本に書かれているさやかさんの努力を目に焼き付けて、自分も思いっきり死ぬほど頑張ろうと思い、本を手に入れることにした。

内容もなかなか面白くて、見所満載の本だ。起承転結が見事にうまく構成され、意外にも僕個人的にはなかなかの名著だと思う。

一に努力、二に努力、三四がなくて、五に努力。努力しないことには何も始まらない、そんなことを確認さしてくれた一冊でありました。