月別アーカイブ: 1月 2015

考えることを放棄してしまう怖さ

二日前、パリの出版社で銃の乱射事件・テロが起きた。もちろん、犠牲者が10人以上も出たことは大変なことだし、僕も追悼したい。

しかし、この事件で僕が一番気になったのは、犯人が叫んだ「神は偉大なり」という言葉。

なぜこの言葉が気になったのかというと、この言葉がイスラムに限らず、あらゆる宗教の怖さを象徴しているように思えたからである。

なぜこの言葉が象徴なのか。

この言葉を発した者は、なぜ神は偉大なのかと考えただろうか?そもそも神とは何なのかと考えただろうか?おそらく何も考えていなかったのではないかと思う。何の疑問も抱かなかったのだろうと思う。

もちろん、神のこと、宗教の役割を真剣に考え、自分には何ができるだろうかと真剣に考えている人は、イスラム信者はもとより、あらゆる宗教の信者の中にもたくさんいると思う。

しかしこの「神は偉大なり」と叫ぶ人は、神のこと、宗教のことを何も考えていない。無条件に、一方的に盲目的に「宗教の上層部」の人の言うことを実行しているだけである。

このような状況は、イスラムだけではない。キリストであろうと、他の宗教であろうと、あらゆる宗教の信者に見られることである。

このような状況に陥った人は、自分で物事を考えなくなる。考えることを放棄しているのである。この「考えることを放棄」してしまうことが、宗教が与える影響の一番怖い側面だと思う。

人間が自己を表現し確立していくうえで、「考えること」は一番重要で不可欠な要素だと思う。ですから、考えることを放棄することは、自分が自分であることを放棄することと同じである。

べつに僕は宗教を否定しようと思わない。イスラムを否定しようとも思わない。しかし、どの宗教の信者であっても、常に考えることを忘れてはいけない。

今回の事件、そして20年前のオウムの事件も、根をたどれば、考えることを放棄していないか、ということに行きつくのではないかと思う。

就職予備校化した大学

今は一月、受験の季節がそろそろ始まる。受験生は試験対策のラストスパートをかけているところではないでしょうか。

ところで以前から、現在の大学についておかしいと思っていることがある。今に始まったことではないが、多くの大学生・大学院修士課程生にとって、大学が就職予備校化していることである。

大学生にとって、就職活動は3年生の後半くらいから始まる。準備まで含めるともっと前から始めている学生もいるのではないか。

受験生は大学合格を目指して頑張っているのだろうが、大学に入学するとさっそく次はどの企業に入りたいかということに興味は移る。しかし、その前に打ち込むことがあるだろう。言うまでもなく、勉強・研究である。

大学は就職予備校ではない。学問の最高学府である。その最高学府である大学に入学し、授業料を払っていながら学問に打ち込まないのは、非常にもったいないことだ。

もちろん大学で学問に真剣に打ち込んでいる学生も多くいる。しかし、自分が大学生・院生の頃を思い返しても、専らの興味の関心は就職対策で、学問は二の次三の次という学生が多数いた。特に大学院修士課程は2年間の過程で、1年の後期から就職活動に打ち込み、研究に打ち込むのは実質的に入学してからの半年という学生も多かった。就職内定した後は用済みで卒業するために最低限のことしかしないという人も。

しかしこのような状況は、学生だけが原因ではない。大学側も就職率などというものを大々的に宣伝し、「就職力」というわけのわからない言葉を打ち出している。そしていわゆる一流企業と言われるところにどれだけ入学させるかということに躍起になっている。大学からしてこのざまである。このようなことはいわゆる旧帝国大学と言われるトップレベルの大学も例外ではない。

繰り返し言うが、まじめに勉強・研究に打ち込んでいる学生もたくさんいる。しかしその一方で就職活動に打ち込むことに明け暮れ、勉学に力が入っていない学生も多いのも事実である。

大学がそこまで「就職力」みたいなことにこだわり力を入れるのならば、いっそのこと就職予備校を作ってしまえばいい。あるいは就職大学と名乗った方がいい。

いま、大学に入ってこんな勉強・研究をしたいと夢を膨らませている受験生は、入学した後もその夢に打ち込み、そのうえで就職活動もうまくこなしてほしいものである。

日本の研究風土について

1月7日の読売新聞のコラムに、昔ノーベル医学・生理学賞を受賞された利根川進博士の書かれた記事が書かれていた。利根川博士は京大を出た後、アメリカに渡られて研究されているので、日本とアメリカの研究風土の違いに詳しい。

利根川博士が言われるには、日本は枠組みを決められた中での研究(あるいは科学技術全般)には非常に優れた成果を出すが、枠組みを壊すような研究が出てこない、というようなことを言われていた。

それから日本では研究(特に税金が投入されている研究)に対して、すぐに結果を出すことを求められ、地道に進めていくような基礎研究がなかなかされないと言われていた。

ここからは私事にもなるが、私は海外に出たことがないので海外の研究風土については見聞きしたことでしか知らないが、日本の大学では型にはめられた、あるいはレールを敷かれた研究にしか取り組まないようなことを感じてきた。

今は大学院重点化などで院生に対する教育は至れり尽くせりになっているが、放置して好き勝手なことを自分の責任でやらせるということも必要ではないかと思う。もちろん後者の方はなかなか結果が出ないこともあろうが、ブレークスルーになるような枠組みを壊す研究結果はレールを敷かれた上を走っているだけでは決して出てこないと思う。

私はいま大学や研究機関には所属してないので、他の研究者から見るとアマチュアだと言われるかもしれないが、三つほどの研究テーマに取り組んでいる。どれも人から与えられたものではなくて、自分で考え出したテーマだ。その点は、超弦理論などの流行のテーマにしか飛びつかない研究者とは違うことを誇りに思う。研究内容も重要なものであると自分では認識している。

いま誇りであると書いたが、本当に皆に誇るのは、しっかりと結果を出してからにしよう。いま自分の置かれた研究環境ははっきり言って全然よくない。ただ好き勝手な研究テーマについてやっていることに救いを見いだせる。

兎にも角にも、結果を出さないことには実績にならないし、発言しても誰も聞いてはくれない。焦ることはないとはいってもそううかうかしてはいられない。

量子コンピューターが来る日は近いのか?

現在はIT社会、コンピューターがなければ何もできない状態になっているが、次世代、あるいは次々世代のコンピューターとして、「量子コンピュータ」という原理が考案され、研究されている。

現在のコンピューターは、それに対して「古典型」コンピューターとでも呼ぶべきであろうか。

現在の量子コンピュータの研究開発は、理論的研究はかなり進んでいるが、実用化にはまだまだほど遠い状況で、実用化には数十年かかるといわれている。

ところが去年、突然、とある量子コンピュータが発売された。「D-Wave 2」というマシンだ。厳密にいうと、このマシンは量子コンピューター研究開発の主流の論理ゲートを使ったものではない(すなわち計算していない)ので、意味的にはコンピュータではないのかもしれないが、量子コンピューターと似たようなことができる。

このようにして、科学技術は突如として、誰もが予想しえなかった飛躍が起きる。

そこで、1990年代に始まった、ヒトゲノム解析計画のことを思い出した。ヒトゲノム解析計画とは、人の遺伝子情報を全部読み取ろうという計画だ。この計画が始まった当初、全部読み終えるには数十年かかるとも言われた。しかし計画が進むにつれ、解析装置、実験機器の飛躍的向上により、10年ほどで完了した。

このように、長期計画にはその途上で予想しえない飛躍・技術の向上が起こることがよくあるので、何年かかるというような予想はあまりあてにならない。

このようなことは量子コンピューターにも当てはまるのではないかと思う。現在は電子一個を操作する量子論理ゲートの開発、すなわち量子コンピューターの部品を開発している段階だが、いつ、どのような飛躍が起こるかわからない。

実用化には数十年かかるといわれている量子コンピューターの実用化も、もしかしたら意外に早く来るかもしれない。

今から、ニールセン、チャンの本(量子コンピューターの世界的な教科書)を熟読するのも悪くないかもしれない。

テーマは後からついてくる

何か研究を始めたり、物事を始めたりするとき、大概初めにすることは「テーマ」を決めることではないだろうか。しかし、初めにテーマを決めると、その後に続くことが限られる。やることを絞るという意味ではテーマを決めることは有用だろうが、その反面、可能性まで狭めてしまう。

理想的なのは、やっているうちに勝手にテーマが定まっていたという状況だと思う。つまり、テーマが後からついてきているということである。

初めにテーマを決めるときによくありがちなのは、他人に決めてもらう、研究なら指導教官に与えられるということではないでしょうか。しかしそれは所詮他人のテーマであり、自分自身の真のテーマではない。

後からついてきたテーマは、自分の身に付いたテーマでもある。自分で見つけ出したに等しい、自分自身の真のテーマである。

もちろん、最初に仮のテーマを設定して、すべきことを見つけるという手もある。

テーマの設定次第で、オリジナリティの大きさに大きくかかわってくる。

自分自身の真のテーマを見つけ、その課題を達成した結果は、オリジナリティのある成果に違いない。

人の物まねではなくオリジナリティにこだわるならば、初めにテーマのとらえ方が大事なのである。

哲学研究者に対しての疑問

昔から疑問というか、おかしいと思っていることがあります。

哲学者に対して、「専門は何ですか?」と聞くと、大概「カントです」みたいな過去の偉大な哲学者の名前をあげる人が多いのです。

そこで、そのような哲学者に聞きたい。

「あなたは、哲学じゃなくて、哲学者を研究しているのですか?」と。

「カントです」あるいは「ヘーゲルです」ていう人は、哲学者ではなくて「哲学者学者」というべきではないか。哲学者を研究している学者ではないかと。

実際、カントの理性批判の本の注釈解釈に力をつぎ込んでいる人が多い。

もしかしたら、哲学の世界では、独自の注釈を加えることが研究結果になるのかもしれない。

自然科学・数理をやっている側にすると、科学の世界では、新しい理論・発明をすることのみが研究結果になるのであって、他人の研究結果を繰り返しても結果にはならない。

現在の哲学の業界のことを知っているわけではないので何とも言えないが、昔の日本にも、「善の研究」の西田幾多郎、「倫理学」の和辻哲郎など、独創的壮大な哲学者がいた。

哲学者ではないが、「武士道」を英語で執筆し、日本の精神を世界に広めた新渡戸稲造などの功績は限りなく大きい。

このような、独創的哲学を構築していくような哲学者が日本から出てこないかと、強く願うばかりである。

考える力、思想を創造する力

今日、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まった。幕末の動乱の時期に動き、世の中を変えた人たちを描いている。その中でも特に、知識人、つまり学び、考え、行動した人たちを中心に進行していくみたいな感じだ。

ところでいきなりだが、考えることによって「思想」が生まれる。思想はその人の頭の中の個性そのものである。ですから、人から聞き、本を読んで得た知識をそのまま自分の考えにするのは、本当の個性ではない。それは単なる「借り物の思想」でしかない。きっかけは人の話であり読書で得た知識であっても、そこから自分の頭で考え、そしゃくした考えこそ「真の思想、独自の個性」なのである。

では、なぜ思想を持とうとするのか、思想は何のためにあるのか。

もちろん、自分の思想を確立するだけでは、自分は満足でも普遍的な意味を持たない。思想を実行・行動の「指針」として、小さくは身の回りのこと、大きくは世の中を動かしていかなければならない。

思想を「創造」し、外の世界・世の中へ「アウトプット」しなければならない。そうすることによって、「自分」という存在が世の中の一角をせめるようになるのである。

それから大河ドラマでは、読書することの重要性が強調して描かれていた。もちろん読書することは、知性を創造し思想を形成していくうえで不可欠なものだ。

しかし、幕末と現代では少し事情が違う。幕末は書物一冊自体が貴重な存在であり、世の中にあらゆる書物が流通しているとは言い難い時代だ。それに比べて現在は、世の中にはあふれんばかりの本が流通しており、欲しい本があればどんな本でもすぐに手に入る。その気になれば無限ともいえる本を読むことができ、限りない知識を吸収できる。

幕末にたくさんの基本的書物を読破することは知識の吸収、世界観の形成に必須のものだったかもしれない。

しかし本があふれている現在、事情は少し違うのではないかと思う。ただ読書をするだけでは「インプット」だけで終わってしまう。知識を吸収して満足するだけでは意味がない。重要なのは「アウトプット」すなわち行動・表現である。読書するときにアウトプットを念頭に置いた読書をしなければ、知識の収集だけという事態に陥ってしまう。膨大な量の本が出回っているから、読む本も慎重に選ばなければいけない。最新の書物を読むのもいいが、昔から存在する基本的文献を身に付けることも大事だ。古典をバカにしてはいけない。

最後に、ドイツの哲学者ショウペンハウアーの言葉を付け加えて終わろうと思う。

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」

 

実行者と評論者

R1に出場して改めて思ったことがある。

他人の芸を面白いだの、ダメだのと評するのは簡単だし、評する人に何の責任も生じない。もちろんプレッシャーもない。

しかし芸をする側は、自分のしぐさ一つ、喋り一つが、もろに評価の左右の分かれ目になり、後の人生の分かれ目になる。もちろんプレッシャーもすごくあるだろう。

これはべつに芸人に限ったことではない。

政治に対しても、政治評論家は政治家の行動に対して好き勝手に評するが、政治家は一つ一つの些細な行動が信任の判断の対象となる。

評論家は何を言おうが後に責任を問われることはほとんどないが、政治家は一つの行動・言論によって、政治家生命を絶たれるかもしれない。

要するに、評論者というのは、大概好き勝手なことを言うだけ言って、言いっぱなしで、その結果責任を取られることは少ないし、プレッシャーも少ない。

しかし、実行者(今までの話では芸人や政治家のことだが)は、些細な事柄が時によっては命取りになるし、責任はすべて自分にかかってくるし、プレッシャーも莫大な物であろう。

この構図はあらゆる世界に当てはまる。

サイエンティストと科学評論家、あるいは芸術家と芸術評論家、などなど。

しかし、実際に世界を動かせるのは実行者である。

決して評論者ではない。

もし世界を動かしていると思っている評論者がいたら、それは妄想である。

最近テレビで、池上彰さんの解説が大人気である。政治家をバッサバッサと切っていく様子は爽快でもある。

確かに池上彰さんは切れに切れまくっている。もしかしたら、多くのテレビ視聴者は、切られる政治家よりも池上さんの方がはるかに優れていると思っているかもしれない。

確かに池上さんは評論者としては超一流だと僕も思う。

しかし、池上さんは実行者ではない。政治家ではない。

池上さんが優秀な評論者であることは十分に分かった。だからこそ、最後に一度、実行者としての政治家として活動をしてほしいと思う。政治家でなくてもいい。経済を実際に手で動かす人でもいい。

池上さんがすごく優秀な人だと思うからこそ、評論者・解説者で終わるのではなく、実行者として名をあげてほしい。

最後に自分のことだが、私も評者・解説者に終始したくはない。サイエンスの世界に行こうと思っているが、決してサイエンスを理解し評するのではなく、少しでも科学の理論の建設に寄与する実行者になりたいと思っている。

今はまだ実行できてはいないが・・・

R-1ぐらんぷり(予選)に出場して

先日、R-1グランプリ2015の予選に出場してきました。

結果は、一回戦敗退。

ですが、冷やかしで出たのではなく、本気でやろうと出てきました。

本番までの2か月間、ネタ作り、構成、リハーサルなど、かなり真剣に取り組んできました。少なくとも私はかなり真剣でした。

しかし、本番当日、舞台裏で見たのは、かなり凄まじいものでした。

皆、最後のチェックに余念がなく、殺気立ったものを感じるくらい、この一日にかけているのが伝わってきました。

本当に、切るか切られるか、みたいな。

舞台で見せる、軽くチャラけているように見える雰囲気からは、想像できないようなものです。

僕が2か月真剣に取り組んだといっても、しょせんアマチュアでしかありませんでした。

プロの芸人さんは、おそらく一年前から取り組んでいて、これにかける意気込みも、半端ないものではなかったのでしょうか。

すべてが自分にかかっている。自分次第で人生大成功するか、大失敗するか、どちらにも転びうる。

やはりどんな世界でも、自分で決めた道を進もうとしている者は、裏では普段他人には見せない努力をしているのだと、改めて確認しました。

僕自身は一回戦で落ちましたけど、数理物理の勉強・研究以外でこれだけ真剣になれたのも初めてだし、芸人の厳しい世界も実感でき、すごく得るものが大きかった経験になり、僕の一つの財産になりました。

初めまして

初めまして。

木原康明(きはらやすあき)と申します。

今日は一月一日、元日ですね。

あけましておめでとうございます。

年度初めの今日から、このブログサイト上で、思想、社会時事ネタ、あるいは数学・物理に関するサイエンスから、くだけた話題まで、幅広く表現していきたいと思います。

みなさま、よろしくお願いします。