月別アーカイブ: 1月 2015

歴史認識問題

今年は第二次世界大戦終戦70年目にあたる。そして四日前の1月27日は、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の舞台となったアウシュビッツ収容所解放70周年の日だった。ドイツではアウシュビッツは負の遺産として決して忘れてはならないものとして、強く記憶に残されている。

中国・韓国はそれぞれ、南京大虐殺・従軍慰安婦問題をナチスと重ねて問題化しようとしている。日本の見解によると、中国の主張する南京大虐殺の殺害数は大きく誇張されていると言われ、慰安婦問題は事実と異なると言われている。

おそらく文献や文書などの記録に基づく主張だとは思うが、70年後の現在に生きている我々には正確な事実は直接にはわからない。しかし日本と中韓の政府・国家の信用度を考えると、90%日本の主張が正しいとは思われるが、真の事実は当時の当事者しかわからない。あるいは当事者などいないかもしれない。

しかしこれだけ事実とは異なる可能性の濃い事象が広く伝わったのは、日本政府の主張が弱すぎること、そして中韓の強力なロビー活動によるものというのが一般認識だ。特に韓国のロビー活動は有名で、韓国ではノーベル賞が取れないのはロビー活動が弱いからだという意見もあるくらいだ。

話は少しそれたが、歴史とは過去の問題なので、現在に生きる人間にとって正しい歴史認識を持つことは難しい。またその人、国の立場によって歴史解釈は変わってくる。真実は一つでも、解釈・認識は一つではないのだ。

最近になって、日本政府はようやく自国の歴史認識について主張し始めた。遅きに失したという感は否めないが、何もしないよりましだ。日本の、外交の振る舞いに対する美意識は、海外では通用しない。日本の文化を否定する気は全くないが、外交においてはグローバルに通用する日本流を確立していかなければならない。

ネクスト資本主義

最近、「資本主義」というものに、人々は疑問を持ち始めた。今までの資本第一主義の社会に何かしら違和感を感じているのだろう。

昨日1月29日の田原総一郎氏のブログで、氏は現在の資本主義に言及し、資本主義の終焉、ポスト資本主義について意見を述べている。氏は資本主義に置き換わる、新しい「・・主義」を模索し探しているのだろう。

しかし私は社会のシステムを「主義」とひとくくりででまとめてしまうことに限界があるのではないかと思う。

いま、あらゆるジャンルで「多様性」というものが注目されている。資本主義の次に来るのもまさしく「多様化された社会」ではないだろうか。

今までは資本主義陣営では、共産主義は批判の的であった。しかし共産主義自体はもともと民衆の格差をなくすために考案された。実際の共産主義国の実情はともかく、共産主義の理念自体は悪くないと思う。

そしていま、世界的ベストセラーになっている、トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」(あまりにも分厚いので僕はあまり読む気にならないが)では、資本主義社会では貧富の格差が大きくなっていくのが普通の状態だと警鐘を鳴らしているらしい。しかしピケティに言われなくても、貧富の差の問題は今では万人が認識している。

それから私が思うには、資本主義というのは「社会組織第一主義」でもあるのだと思う。しかしいま重きは、社会組織から個人個人に移ってきている。そういう意味でも多様性のある社会が重要になってきているのだ。

「主義」という言葉でまとめてしまっては多様性を押し殺してしまうかもしれない。そういう意味で、ポスト資本主義とは言わずに、私はあえて「ネクスト資本主義」という言葉を使った。

多様性とは言い換えると「バラバラ」ということかもしれない。社会秩序を保ちながら多様性を容認するのは簡単ではない。しかしその舵取りをする政府、あるいは霞ヶ関、社会的指導者は、そのバランス感覚に細心の注意を払わなければならない。

ともかく、人々が住みよい社会、そして個人の意思が尊厳される世の中になることを願っている。

パーフェクトベビー

ここ数年、遺伝子検査の進歩が目覚ましい。血液を検査するだけで、現在の病気や体質だけでなく、将来に罹患するであろう病気までわかっしまうらしい。

もちろんこのような流れは、現存する人間だけでなく、将来生まれてくるであろう胎児にもなされることは容易に推察できる。

以前から、胎児の遺伝子を検査して、ダウン症などの遺伝病が発覚すると堕胎するということは、「命の選別である」と問題になっていた。そして現在では男女の産み分けも100%の確率でできるらしい。さらに受精卵の遺伝子検査をすることによって、生まれてくる人間の遺伝病だけではなく、性格や才能までわかるらしい。

このように、生まれてくる人間を人の手で操作し、誕生する理想的な赤ちゃんを、「パーフェクトベビー」というらしい。

パーフェクトベビーの問題を一言で断罪するのは非常に難しい。社会的問題、宗教的問題、倫理的問題、科学的問題などの複合的な見解が複雑に絡み合う問題なので、永遠に答えの出ない問題かもしれない。

しかし多くの人は何かしら違和感を感じるところだろう。永遠に解決できない問題かもしれないが、議論はしなければならない。簡単に線引きできる問題ではないが、社会的ルールとしてどこかで線引きしなければいけない。

優秀で健康な子供に生まれてきてほしいというのは、親にとっては誰でも思う親心だ。しかしこのパーフェクトベビーをめぐる問題には、ゆがんだ親心が関わっていないかと思うのだが。

これから社会で大いに議論し、適切な落としどころを見つけなければいけない問題だ。

置いた拠点に悔やまれる(人質事件をめぐって)

現在、1月28日午前三時。

数時間前に新たな映像がネットに流された。それによると後藤健二さんの救出期限は24時間とイスラム国側に指定された。

そこでやはり悔やまれるのは、救出拠点をヨルダンに置いたことだ。確かにヨルダンは親日国家で、ヨルダン国家・国民には感謝しなければいけない。

しかしなぜ拠点をトルコに置かなかったのか。それが悔やんでも悔やみきれない。トルコは以前ブログで書いたように、歴史的な経緯もあって、「超」が付くほどの大親日国家だ。しかも報道によると、トルコは以前、イスラム国に拘束されていた人質数十人を奪還したようだ。このように、親日であり、人質救出の実績のあるトルコに窓口を置かなかったのは、日本の痛恨の極みである。

もちろんトルコに拠点を置いたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしトルコに拠点を置かなかったことは、救出作戦とは関係なしにしても、外交として一つの失敗だったのではないか。僕はヨルダンに何も悪気はないし、親日であることには感謝しているが、トルコではなくヨルダンに拠点を置いたことに関しては全く理解できない。

しかし一度ヨルダンに拠点を置いたからには、それで突き通すしかない。安倍首相をはじめ日本政府、そしてヨルダン政府は全力を尽くしているのも伝わってくるので、外部の人間としてはそれらの政府、首相を信じることしかできない。

それから、安倍首相にとってはここは踏ん張りどころだとは思うが、健康には留意してほしいと思う。

一人の日本国民として、日本国首相安倍を見守っています。

I am Kenji(人質事件をめぐって)

イスラム国人質事件で、現段階で湯川さんは殺害されたといわれているが、後藤健二さんはまだ生存しているようだ。

この事件に対する対応は世界が見ている。日本国政府の対応、そして日本国民の対応。

人質事件が起こると毎度出てくるのが「自己責任論」。しかし同じ日本人をそんなに簡単に見捨てていいのか。そのような日本人の声は、全世界が聞いているぞ。日本という国、日本国民はそんな自分勝手な低レベル国家なのかと。

今すべきは後藤さん助けるために少しでも状況を好転させること。これは日本政府だけの役割と思うかもしれないが、日本国民一人一人の声も集まれば日本国の世論となり、イスラム国側に圧力をかけられるかもしれない。そのためにも自己責任論などという、自ら同胞を見捨てるようなバカな声を発信してはいけない。

しかし、いま嬉しい運動が起こっている。

「I am Kenji」運動。

もちろんこれは、パリのテロ事件での、「I am  シャルリー」運動をもじったものと思われるが、このような運動を起こし、日本国民が一致団結していることを示すことが、今われわれ一国民がイスラム国に圧力をかけられる一番の手段ではないか。

「I am Kenji」

そして後藤健二さんが無事戻ってきたら、こう声をかけてあげよう。

「また紛争地に行って、良質なレポートを届けてくれ」と。

友好国と隣国

イスラム国に拘束されていた二人のうち、湯川さんが殺害されました。しかしまだ後藤さんの生存が濃厚な状況なので、政府は後藤さん一人だけでもという方針で行くみたいです。

そこで重要になってくるのがイスラム国とのパイプですが、日本政府はイスラム国とのパイプを持ってないようです。頼るべきは、日本と国交のある中東国。そこで真っ先に思い浮かぶのはトルコではないでしょうか。

日本とトルコは大の友好国で、その歴史は明治時代にさかのぼります。紀伊半島沖で沈没したトルコ船の船員を救出し、生存者を日本の軍艦でトルコまで運んだことから縁の発端は始まります。

そしてトルコの日本に対する友好的な好意は今でも非常に強く、日本人としては非常にありがたいことですが、日本はというと韓国・中国との関係ばかりに目が行き、トルコなど眼中にないというような扱いです。

確かに日本とトルコは地理的に非常に離れています。しかし、友好国などというものは、作ろうと思っても簡単にできない。だからこそトルコのような親日国家に対して日本も大切に接しなければいけない。

親日国家を大切にすることは、普段は利などあまり感じないかもしれませんが、いざというときに必ず力になってくれる。イラン・イラク戦争の時にイランから邦人を救出してくれたのはトルコ政府・国民だったことを、決して忘れてはいけない。

今回の人質事件対策本部はヨルダンに置かれているようで、ヨルダンも日本の友好国だということを初めて知りました。やはり危機の解決の糸口は友好国にあり、トルコ・ヨルダンになるのではないでしょうか。

近くの敵を懐柔することも必要かもしれませんか、遠くの友も大切にすることを忘れずに。日本政府なら必ずうまくやってくれると信じています。

道草もそこそこに・・・

これまでの僕の人生、最短距離でゴールしたことなんてほとんどありません。知らず知らずの無意識のうちに道草ばかりして、わざとしているんじゃないかというくらいいつも遠回りして、まだゴールにまでたどり着いてないこともたくさんあります。

もちろん最短距離で効率よくゴールするのが理想的かもしれません。僕も最短距離で行けるものなら行きたいです。

でも実際に道草を食ってみると、その味もなかなか悪くないな~と思うこともよくあります。時には思いもよらない味の存在に気づいたり。

でも最終的にはゴールしないことには、記録に載りません。記録にならないことはほとんどの場合記憶にも残りません。記憶の男、長嶋茂雄もしっかりと記録も残しています。

しかし、ゴールするまでの道程は様々です。時にはゴールの位置さえ変わってしまうこともあります。道程が個性あふれるものならば、ゴールもオリジナリティあふれるものになります。

でもやはりゴールはしないといけないので、道草もそこそこにしないといけないかなとは思うのですが、やはり道草の魅力(魔力?)に負けて、これからも道草を食べ続けていきそうです。

自己責任論

現在、イスラム国での人質事件は期限が過ぎたが、大きな進展はないようだ。

外国での人質事件が起こるたびに必ず上がるのが「自己責任論」。自分が勝手に行ったのだから、すべて捕まった本人の責任だというものである。しかし、日本の法律には、自己責任論などというものは存在しない。それに、日本国は海外で被害にあった日本人を助ける義務がある。

確かに今回の2億ドル(200億円以上)という金額は法外なものだ。しかし、初めからこの金額に対して救助を放棄をしてしまえば、日本は国家の体を放棄しているのと同じことになる。確かに今回の救出作戦は非常に厳しいもので、成功するかわからない。しかし、首相をはじめ、日本国が全力を挙げて取り組んでいることに、日本国民の一人として誇らしく思う。

今回拘束されている湯川さん、後藤さんは、決してわがままで行ったのではない。それに万が一自分で勝手に行ったとしても、国は救助する義務はある。

今回の救出作戦は、今回一件だけで終わるものではない。日本の自国民を守る姿勢は対外的に示され、日本という国の思想なり品格なりの高さを示すものになるであろう。

今は二人の無事を祈るのみである。

表現の自由はどこまで・・・

二週間前に起きたパリでのテロ事件で、被害出版社の風刺画が問題になった。パリでは表現の自由が声高に主張され、イスラム信者からは宗教に対する侮辱だと叫ばれている。

いったい表現の自由はどこまで許されるのだろうか。

通常の考えであれば、表現の自由は無制限に許されるものではないことは簡単に分かる。なぜなら、その表現が相手に対して被害を与えたり、犯罪的な行為であれば、許されるものではないからだ。

では、今回の風刺画の場合はどうであろう。この風刺画はイスラム信者の側に立てば明らかに侮辱的行為である。出版社側は表現の自由だというかもしれない。しかしこれは、表現の自由とかの問題以前に価値観の違いの問題だ。

ヨーロッパの価値観では、表現の限りない自由は当たり前で、今回のことはその範囲であるというかもしれないが、イスラム圏の価値観では考えられないことだ。

今回の問題で、ヨーロッパの自由さを素晴らしいことだと主張されてるが、その反面、今回の出版社の主張は、自分たちとは違う価値観を認めない、あるいは他人に対し自分たちの価値観を強引に押しつけていることにはならないかと思う。表現の自由の蓑に隠れて、多様な価値観の存在を認めないという行為ではないか。

出版社の風刺画を法的に規制するのは間違っているが、ただその自由の一方、多様な価値観のもと、それが適切かどうか自分で判断し、適切ではないと判断すれば自粛すべきではないかと思う。

今回の出版社の風刺画の問題自体は犯罪でもなんでもないが、思想的レベルの非常に低い出版社であることは間違いなさそうだ。

ネットで調べることについて

最近人々、特に子供・学生について心配してしまうことが一つある。わからないことがあるとなんでもネットで調べて済ましてしまうということである。

また、ネット掲示板に載っている情報を鵜呑みにして一次情報を調べない、軽率で愚かな人もいる。

僕らは少年少女時代を紙媒体で育てられた最後の世代かもしれない。今の少年少女は生まれたときからネットが身の回りにあふれている。だからこそ、僕らの世代は後の世代に紙媒体の重要性を伝えなければいけない。

紙媒体情報とネット情報の一番の違いは何か、それは執筆責任じゃないかと思う。紙媒体に記事を載せたとき、執筆した人は書いた記事に対して著作権と責任の両方が伴う。しかしネット記事は基本的に著作権も責任もほとんどなく、際限なく拡散していき、誰が書いたのかさえ分からなく、またそんなことも気にしない。

紙媒体とネット情報は異質なものだと認識したほうがいい。そうでないとネットの末端情報に振り回され、物事の根本を深く考え追求することをおろそかにしてしまい、本質を見抜く目を曇らせてしまうであろう。

知行合一

今、考える集団・知の集団をつくって何ができるだろうかと考えた。

今は戦国でも幕末ではない。国内は経済の大きな動きはあれ、特に混乱はなく平穏な社会が保たれている。それに考えるだけ、知だけなら、大学でいくらでも議論はされているし、トップレベルの大学には優秀な人もそれなりにいるだろう。

では、今足りないのは何だろうと考えたとき、「知行合一」ではないかと思った。考えるだけなら大学や論壇雑誌、討論番組でいくらでもされている。しかし、この「知」を行動に移す人はどれだけいるだろうか。もちろんいないわけではないが、そんなに多くないのではないかと感じる。哲学を極める人はいるが、それを行動で示す人は限られている。他人の意見の評論をしっぱなしという人も多い。

これから「考える」という活動をしていくうえで、知行合一という言葉は一つの指針になるかもしれない。

知恵を絞ればトイレも・・・

今日、市民トイレの命名権を売った?というニュースを見た。

命名権を売るだけなら、野球場のネーミングを数億円で売るということがよく話題になる。しかしこのトイレのネーミング、命名権を売ったとはいえ、厳密には売ったのではなく、ネーミング権を与える代わりにトイレの改装・清掃などを受け持ってもらうというもの。

以前のトイレは暗い・汚いトイレだったらしいが、ネーミング権を与え、照明がLEDに変わるなど、非常に清潔感のある市民トイレに変わったそうだ。

これこそ、新しい発想の転換である。汚いトイレも知恵を絞れば一転ピカピカトイレに様変わりするんですね。

阪神大震災20年目

今日1月17日で、阪神大震災から20年目。神戸市民なら毎年振り返る日だ。

震災の年、僕は大学受験生だった。確か震災三日前くらいにセンター試験があった。そんなに根を詰めて受験勉強をやっていたわけではなかったので、震災の前日も夜更かししていた。

寝付いたのは夜中の午前4時過ぎだったと思う。寝付いてすぐに地震が起きたという感じだった。ベッドを大男に揺さぶられているような感じだった。揺れているときは、地震という認識もなかった。幸い僕の住んでいるところは神戸でも被害の少ない地域だったので、混乱は全く起きなかった。

そして3日後に地下鉄が市街地まで再開したので、被害のひどい地域にいる親友の安否をたずねて行った。親友は無事だったようだが、避難しているようで会うことはできなかった。

約半月後、大学入試2次試験を受けるために神戸市街を通ったが、一帯焼野原で「私たちは大丈夫です」という木製の札が焼けた家の前にいたるところに立っていたのが心に残っている。

そういえば、身内に亡くなった人がいなかったせいか、個人的には神戸のシンボルの一つであもあり、毎日のように利用していた阪急三宮駅を取り壊しているテレビ映像を見たとき、涙が止まらなかった。

あれから20年、今では神戸の街で震災の爪痕を見つけるのが難しいほど復興している。(見かけ上は)

阪神の時はかなり街の復興が早かったように思えたが、東日本大震災の被災地ではまだまだ復興には時間がかかりそうな状況だ。今の僕には本当にどうすることもできないので心苦しくて、東日本の被災者に対して本当に申し訳ない気持が残るのみである。

阪神大震災の時、当時イチロー選手も在籍していたオリックスブルーウェーブが「がんばろう神戸」というスローガンを掲げて戦っていた。

被災者でない僕がこんなことを言う資格はないかもしれないが

「がんばって東日本」

とエールを送らしていただきたい。

継続は力なり

「継続は力なり」

何を今さら、という感じですが。時々感じさせられることがあります。

ピアノを上手に弾いている人を見てると、いつも思います。十本の指を思うがままに操り、複雑な楽譜を見るだけでどんな技巧的な曲を弾いてしまう。これこそ「継続は力なり」なんでしょうね。僕には本当に理解不能です。

逆に僕が継続していることと言えば、数式を操ることでしょうか。専門論文や専門書を読むことが多いですが、他人が見ると、複雑な数式の羅列は理解不能みたいです。でも十年二十年と続けて真面目に取り組んでいると、物理や数学の複雑な数式も直感的にどんなことを表しているか読み取れるようになります。

最近僕が継続していることは、筋トレです。もう三年以上続けているでしょうか。やはり筋トレも年単位で続けていると、体のつくりも変わります。引き締まります。そして嬉しくなります。一時的に集中して筋トレする人もいますが、地道に長期間続けた方がバランスよく引き締まるのではないでしょうか。(僕の勝手な見解ですが・・・)

「継続できる」というのは、一つの才能だと思います。「やればできるんだけど・・・」というのは、才能がないのと同じです。やはり西川きよしさんのセリフ「小さなことからコツコツと」というのが何事にも言えるのではないでしょうか。派手な結果も地味な作業の積み重ねの賜物なんですよね。

新幹線死亡事故ゼロ?

よく新幹線の安全性に関して引き合いに出されるのが、事故による乗客の死亡数がゼロという事実。実際、東日本大震災でも新幹線の事故による死者はゼロであったし、2004年の新潟中越地震による脱線事故でも死者は出なかった。

しかし、一つ重要な事案を忘れてないか?1995年の阪神大震災である。この震災による新幹線の事故は確かになかった。しかしそれは、地震が始発電車が運行する前の午前5時46分に起きたという、運が良かったということ以外の何物でもないのではないか。

阪神大震災で、新幹線の橋脚は何本も崩れ、高架はいたるところで落下していた。もしこの地震が”午後”5時46分だったらどうだったであろう。落下した高架に新幹線がさしかかれば、少なくとも死者は3ケタはいったであろうことは容易に推察できる。

しかし鉄道関係者も報道関係者も、この事実には誰も触れようとしない。むしろあえて避けているようにも見える。

将来、もし地震などで新幹線で大事故が起きたときは「想定外」と言い放つのだろうか。しかし阪神大震災の状況を見ると、想定外でもなんでもない。

この震災時の新幹線の被害状況が現在の新幹線運行と路線建設に生かされていればいいのだが・・・。この時を振り返る人は一人も見かけない。

日本製の良さを再発見する日本

今日新聞で、日本製の生地を使い日本で縫製された衣服に、「純日本製」を示す特別なタグをつけるという記事があった。日本製の良さを知ってもらい、アピールするためだそうだ。

最近大幅な円安のせいか、あらゆる業種で日本のメーカーの製造日本回帰ブームが起こっている。もちろん日本としては嬉しいことではあるが、円高になると海外に行き、円安になると日本に戻るという単純思考によるものだと少し残念だ。

確かに中国・東南アジアで作られた製品は安かった。もちろん値段は高いより安い方がいいかもしれない。しかし、信頼のあるmade in japanを求めている人も少なくなかったと思う。しかし電気量販店、あるいは大手服屋さんにいけばすぐに気付くが、日本製が欲しくて日本製を探してもなかなか見つからない。そして仕方なしに外国製を買うことになる。

ここ最近、純日本製の製品を手に入れるのが一番難しい国は日本である、と皮肉られたこともある。そして日本メーカーは自ら日本製の信頼性を手放していたのである。

今までの日本メーカー海外製作の逆輸入戦略は正しかったのだろうか?これは答えの出せない問いだ。なぜなら、そのまま日本で作った場合どうなったかというモデルケースがほとんどないからだ。しかし日本で製作し、高品質高信頼の製品を打ち出していく戦略もあったはずだ。もしそうしていたならば、過去10数年の、特に電機メーカーの壊滅状態は避けられた可能性もある。

円安で純国内生産で輸出するという戦略が容易になった今、日本製を大きくアピールし日本製の信頼を大きく揺るがないものにする絶好のチャンスだと思う。このチャンスを生かすも殺すも、経営者の日本製に対する価値観をどう表現するかにかかっている。

ベンチャーの捨て身のアイデアに注目せよ

ここ十年くらい、日本でもベンチャー企業の重要性が認識されてきた。しかし、アメリカがベンチャー企業主義と言うならば、日本は大企業主義とでも言うのだろうか。

なぜベンチャー企業を注目し、支援をすることが大事なのか?おそらく日本では、どんな大企業も生まれたときはベンチャー企業であって、大企業の卵は大事にしなければならない、という考えが強いように思える。

しかし大企業とベンチャー企業の一番の違いは、企業の規模ではなくて起業精神ではないかと思う。大企業はどうしても保守的になりがちだ。しかしベンチャー企業は、資金を集めるためにも斬新なアイデアを打ち出していかなければならない。ベンチャーは現状維持では後がないので捨て身のアイデアを出してくる。その捨て身のアイデアこそ、未来の社会・技術の卵ではないかと思う。

しかし日本ではベンチャーとはいっても、大企業の二番煎じ三番煎じのアイデアが多いみたいだ。出資する側にしても、アメリカでは新しいアイデアに未来をかける意味でも捨て身の斬新なアイデアを評価するが、日本では前例がないといって鼻で笑う。そして結局、二番煎じ三番煎じ的企業が一時的には生き残り、そして潰れていく。

少し話が変わるが、日本では最近になってようやくホワイトハッカーの重要性に気づき、ハッカーの養成に国を挙げて支援をする策を打ち出した。しかしホワイトハッカーの重要性など外国では十年以上前から認識されており、アメリカなどでは国の中枢部にかかわっている。しかし日本では、ハッカーと言えばブラックハッカーのネガティブなイメージしかなく、その社会的イメージをずるずると引きずったまま最近までその重要性に気づかなかった。

最近の日本のハッカー養成の重点化においても、重要性を認識してという以上に、外国でハッカーが注目を浴びているからという、外からの要因が大きいのではないかと思う。所詮、この政策も二番煎じ三番煎じなのである

今日本で一番注目を浴びているベンチャー分野はITだが、ITも現在の技術であって未来の新技術ではない。本当に注目されるべきなのは、今は黎明期だが将来大きく伸びる可能性のある分野ではないだろうか。

20年前のITがそうだった。そして国内でもソフトバンクなどはそのころITに注目し、現在ITの旗手になっている。21世紀に入って注目しても所詮二番煎じ三番煎じなのである。

もちろんiPS細胞関連の医療分野など、日本発の誇るべき分野も存在するのは確かだ。そのような分野を増やすためにも、黎明期にあるベンチャー企業の捨て身のアイデアにも注目しなければならないのではないかと思う。

経験だけではいけない

経験はお金では買えない。経験をすることは貴重である。しかし経験だけの人間にはなってはいけない。

よく勘違いしている人がいる。俺には経験があるとでかい顔をしている人だ。実は評価すべきなのは経験そのものではない。経験によって身に付けた技術・スキル・考え・思想を評価すべきなのだ。しかしそのような技術などを見る前に、経験だけを見て評価をする人が多い。

実際、経験はあるけど何も身に付いていない、あるいは素人の域を脱していないという人が多い。経験はあるけど、経験しかないという人だ。

では、素人の域を脱するためにはどうすればいいか。一番の方法は能動的に取り組むということではないか。何事も受動的にやらされているだけでは素人の域を越えられない。どうすればもっと発展できるかということを自分の頭で常に考え、能動的に取り組まないと、その一線は越えられない。

経験をすれば勝手に身に付くようなことは、所詮その程度のことなのである。プロになるためには、考えるという行為は必須なのである。

他利の心・科学の心

「他利の心」を忘れてはいけない。

これは、京セラの経営者、稲森和夫がいつも繰り返している言葉だ。

ビジネスは一言で言うと、「お金儲け」ということになるかもしれない。しかし儲けることばかり考えて人の役に立てることを忘れては、一時的にはうまく行っても人々に受け入れられないということを、稲森さんは言っているのかもしれない。

ビジネスに関して素人の僕には、そうなのかと納得する一方、なんかありきたりの言葉でもあるような気がする。

最近の若者、いや若者だけでないかもしれないが、「社会貢献」という言葉を頻繁に口にする。社会貢献というのはすごくいいことだし、そのような心がもっと広まればいいと思う。

でも、その社会貢献という言葉によって、何かを隠そうとしているのではないかと感じることがある。自分の負の部分を許す免罪符みたいになってないかと。

それに最近は、みんながみんな「社会貢献」という言葉を口にするが、それが画一的な社会、社会貢献という言葉に賛同しない人への圧力にならないか、心配である。

世の中で、「俺は社会貢献なんかやらない。自分の好きなことに打ち込む」という人がいてもいいし、逆にいなければならない。

これは特に、科学の世界では大事なことだ。去年のノーベル物理学賞で青色発光ダイオードの発明が受賞対象になり、科学は役に立つものほど価値があると思った人も少なくないだろう。

しかし科学において、役に立つことと、科学的価値のあることとは全く別物だ。20世紀初め、相対性理論と量子力学という非常に科学的価値のある大理論が生まれた。しかし、それらは全く世の中に役に立たない(当時は)ものであった。しかし確実に価値はある。

それらの発見から時は100年近く経とうとしている現在、それらの全く役に立たないと思われた二つの理論は、現在の科学技術社会ではなくてはならない、非常に役に立つものとなった。

勘違いしていることがもう一つある。「科学」と「技術(科学技術)」である。科学と技術は別物である。しかし一般には、純粋科学も科学技術の一部と認識され、純粋科学にも役に立つことを求めるという勘違いが起こっている。科学と技術は切っても切れない関係だが、質的意味的には別物だと認識することも必要である。

日本は高い科学・技術によって支えられている。しかしここ二十年ほどは金融関係の行方に多くの関心が行き、科学の重要性に対する認識が薄れている。そしてノーベル賞受賞者が出たときに、一時的なブームのように高まる、というような繰り返しになっている。

科学・技術に対する理解を深めるためにも、科学と技術の役割や価値観の違いを認識し、コンスタントに科学・技術に対する関心を高めていかなければいけないのではないかと思う。

挫折と努力

いきなりだが、僕は今まで一度も挫折したことがない。

と言っても、なにも順風満帆の人生を送ってきたという意味ではない。失敗は幾度もした。何百回、何千回としたかもしれない。失敗した数なら大概の人には負けない。しかし、挫折は一度もしたことないのである。

なぜこんなことを書いたかというと、失敗は時としてはどうしようもなく起こり、自分ではコントロールできないことが多い。でも挫折するかしないかは自分でコントロールできる。なぜなら挫折は自分自身の気持ちの問題だからである。自分が挫折していないと思っていれば挫折していないのである。挫折をすれば、そこで終わる。でも挫折しなければ、次があるのである。

僕自身の人生も、他人から見れば挫折の連続だと言われるかもしれない。でも僕自身は挫折だと思っていないから挫折していないのである。そしてまた次へと挑戦するのである。

しかし、失敗は何度でもしていいと思っている。失敗の数は挑戦した数。それだけ新たなことに挑戦したということであり、失敗の数は誇りでもある。

しかし、努力もしないで失敗するのは何の自慢にもならない。成功を目指して努力するのであるが、失敗するときは失敗してしまう。

努力したからといって必ず成功するとは限らない。では、なぜ努力しようとするのか。努力しなければ0%のものが、努力することによって20%、30%になるのである。ここからが考えようである。20%をどうとらえるか。たった20%しか成功しないととらえるのか。あるいは20%も成功するととらえるのか。

20%も成功するととれえれば、努力してその20%を手に入れようと思う。そしてその努力が30%、あるいは40%となっていくのである。

もし、たった20%しか成功しないじゃないかと思い、80%失敗することが無駄と思う人は努力する必要はない。その人にとって、そんな努力は無駄だ。しかしその人は0%のままだ。可能性はない。

繰り返すが、努力したからといって必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言えるのではないか。「成功した人は必ず努力している」と。すなわち、成功した人というのは必ず努力した人の中にいる。努力しないで成功することはほとんどありえないのである。(絶対とは言わないが。)

失敗を続けてなお挑戦し続けるのは格好悪いかもしれない。しかし格好などかまっていれない。もちろん、可能性がないのに挑戦するのは暴挙だ。しかし、少しでも可能性がある、あるいは自分には成功への道筋・構想が見えているのならば、それにかけてみるのも悪くないのではないかと思う。

考えることを放棄してしまう怖さ

二日前、パリの出版社で銃の乱射事件・テロが起きた。もちろん、犠牲者が10人以上も出たことは大変なことだし、僕も追悼したい。

しかし、この事件で僕が一番気になったのは、犯人が叫んだ「神は偉大なり」という言葉。

なぜこの言葉が気になったのかというと、この言葉がイスラムに限らず、あらゆる宗教の怖さを象徴しているように思えたからである。

なぜこの言葉が象徴なのか。

この言葉を発した者は、なぜ神は偉大なのかと考えただろうか?そもそも神とは何なのかと考えただろうか?おそらく何も考えていなかったのではないかと思う。何の疑問も抱かなかったのだろうと思う。

もちろん、神のこと、宗教の役割を真剣に考え、自分には何ができるだろうかと真剣に考えている人は、イスラム信者はもとより、あらゆる宗教の信者の中にもたくさんいると思う。

しかしこの「神は偉大なり」と叫ぶ人は、神のこと、宗教のことを何も考えていない。無条件に、一方的に盲目的に「宗教の上層部」の人の言うことを実行しているだけである。

このような状況は、イスラムだけではない。キリストであろうと、他の宗教であろうと、あらゆる宗教の信者に見られることである。

このような状況に陥った人は、自分で物事を考えなくなる。考えることを放棄しているのである。この「考えることを放棄」してしまうことが、宗教が与える影響の一番怖い側面だと思う。

人間が自己を表現し確立していくうえで、「考えること」は一番重要で不可欠な要素だと思う。ですから、考えることを放棄することは、自分が自分であることを放棄することと同じである。

べつに僕は宗教を否定しようと思わない。イスラムを否定しようとも思わない。しかし、どの宗教の信者であっても、常に考えることを忘れてはいけない。

今回の事件、そして20年前のオウムの事件も、根をたどれば、考えることを放棄していないか、ということに行きつくのではないかと思う。

就職予備校化した大学

今は一月、受験の季節がそろそろ始まる。受験生は試験対策のラストスパートをかけているところではないでしょうか。

ところで以前から、現在の大学についておかしいと思っていることがある。今に始まったことではないが、多くの大学生・大学院修士課程生にとって、大学が就職予備校化していることである。

大学生にとって、就職活動は3年生の後半くらいから始まる。準備まで含めるともっと前から始めている学生もいるのではないか。

受験生は大学合格を目指して頑張っているのだろうが、大学に入学するとさっそく次はどの企業に入りたいかということに興味は移る。しかし、その前に打ち込むことがあるだろう。言うまでもなく、勉強・研究である。

大学は就職予備校ではない。学問の最高学府である。その最高学府である大学に入学し、授業料を払っていながら学問に打ち込まないのは、非常にもったいないことだ。

もちろん大学で学問に真剣に打ち込んでいる学生も多くいる。しかし、自分が大学生・院生の頃を思い返しても、専らの興味の関心は就職対策で、学問は二の次三の次という学生が多数いた。特に大学院修士課程は2年間の過程で、1年の後期から就職活動に打ち込み、研究に打ち込むのは実質的に入学してからの半年という学生も多かった。就職内定した後は用済みで卒業するために最低限のことしかしないという人も。

しかしこのような状況は、学生だけが原因ではない。大学側も就職率などというものを大々的に宣伝し、「就職力」というわけのわからない言葉を打ち出している。そしていわゆる一流企業と言われるところにどれだけ入学させるかということに躍起になっている。大学からしてこのざまである。このようなことはいわゆる旧帝国大学と言われるトップレベルの大学も例外ではない。

繰り返し言うが、まじめに勉強・研究に打ち込んでいる学生もたくさんいる。しかしその一方で就職活動に打ち込むことに明け暮れ、勉学に力が入っていない学生も多いのも事実である。

大学がそこまで「就職力」みたいなことにこだわり力を入れるのならば、いっそのこと就職予備校を作ってしまえばいい。あるいは就職大学と名乗った方がいい。

いま、大学に入ってこんな勉強・研究をしたいと夢を膨らませている受験生は、入学した後もその夢に打ち込み、そのうえで就職活動もうまくこなしてほしいものである。

日本の研究風土について

1月7日の読売新聞のコラムに、昔ノーベル医学・生理学賞を受賞された利根川進博士の書かれた記事が書かれていた。利根川博士は京大を出た後、アメリカに渡られて研究されているので、日本とアメリカの研究風土の違いに詳しい。

利根川博士が言われるには、日本は枠組みを決められた中での研究(あるいは科学技術全般)には非常に優れた成果を出すが、枠組みを壊すような研究が出てこない、というようなことを言われていた。

それから日本では研究(特に税金が投入されている研究)に対して、すぐに結果を出すことを求められ、地道に進めていくような基礎研究がなかなかされないと言われていた。

ここからは私事にもなるが、私は海外に出たことがないので海外の研究風土については見聞きしたことでしか知らないが、日本の大学では型にはめられた、あるいはレールを敷かれた研究にしか取り組まないようなことを感じてきた。

今は大学院重点化などで院生に対する教育は至れり尽くせりになっているが、放置して好き勝手なことを自分の責任でやらせるということも必要ではないかと思う。もちろん後者の方はなかなか結果が出ないこともあろうが、ブレークスルーになるような枠組みを壊す研究結果はレールを敷かれた上を走っているだけでは決して出てこないと思う。

私はいま大学や研究機関には所属してないので、他の研究者から見るとアマチュアだと言われるかもしれないが、三つほどの研究テーマに取り組んでいる。どれも人から与えられたものではなくて、自分で考え出したテーマだ。その点は、超弦理論などの流行のテーマにしか飛びつかない研究者とは違うことを誇りに思う。研究内容も重要なものであると自分では認識している。

いま誇りであると書いたが、本当に皆に誇るのは、しっかりと結果を出してからにしよう。いま自分の置かれた研究環境ははっきり言って全然よくない。ただ好き勝手な研究テーマについてやっていることに救いを見いだせる。

兎にも角にも、結果を出さないことには実績にならないし、発言しても誰も聞いてはくれない。焦ることはないとはいってもそううかうかしてはいられない。

量子コンピューターが来る日は近いのか?

現在はIT社会、コンピューターがなければ何もできない状態になっているが、次世代、あるいは次々世代のコンピューターとして、「量子コンピュータ」という原理が考案され、研究されている。

現在のコンピューターは、それに対して「古典型」コンピューターとでも呼ぶべきであろうか。

現在の量子コンピュータの研究開発は、理論的研究はかなり進んでいるが、実用化にはまだまだほど遠い状況で、実用化には数十年かかるといわれている。

ところが去年、突然、とある量子コンピュータが発売された。「D-Wave 2」というマシンだ。厳密にいうと、このマシンは量子コンピューター研究開発の主流の論理ゲートを使ったものではない(すなわち計算していない)ので、意味的にはコンピュータではないのかもしれないが、量子コンピューターと似たようなことができる。

このようにして、科学技術は突如として、誰もが予想しえなかった飛躍が起きる。

そこで、1990年代に始まった、ヒトゲノム解析計画のことを思い出した。ヒトゲノム解析計画とは、人の遺伝子情報を全部読み取ろうという計画だ。この計画が始まった当初、全部読み終えるには数十年かかるとも言われた。しかし計画が進むにつれ、解析装置、実験機器の飛躍的向上により、10年ほどで完了した。

このように、長期計画にはその途上で予想しえない飛躍・技術の向上が起こることがよくあるので、何年かかるというような予想はあまりあてにならない。

このようなことは量子コンピューターにも当てはまるのではないかと思う。現在は電子一個を操作する量子論理ゲートの開発、すなわち量子コンピューターの部品を開発している段階だが、いつ、どのような飛躍が起こるかわからない。

実用化には数十年かかるといわれている量子コンピューターの実用化も、もしかしたら意外に早く来るかもしれない。

今から、ニールセン、チャンの本(量子コンピューターの世界的な教科書)を熟読するのも悪くないかもしれない。

テーマは後からついてくる

何か研究を始めたり、物事を始めたりするとき、大概初めにすることは「テーマ」を決めることではないだろうか。しかし、初めにテーマを決めると、その後に続くことが限られる。やることを絞るという意味ではテーマを決めることは有用だろうが、その反面、可能性まで狭めてしまう。

理想的なのは、やっているうちに勝手にテーマが定まっていたという状況だと思う。つまり、テーマが後からついてきているということである。

初めにテーマを決めるときによくありがちなのは、他人に決めてもらう、研究なら指導教官に与えられるということではないでしょうか。しかしそれは所詮他人のテーマであり、自分自身の真のテーマではない。

後からついてきたテーマは、自分の身に付いたテーマでもある。自分で見つけ出したに等しい、自分自身の真のテーマである。

もちろん、最初に仮のテーマを設定して、すべきことを見つけるという手もある。

テーマの設定次第で、オリジナリティの大きさに大きくかかわってくる。

自分自身の真のテーマを見つけ、その課題を達成した結果は、オリジナリティのある成果に違いない。

人の物まねではなくオリジナリティにこだわるならば、初めにテーマのとらえ方が大事なのである。

哲学研究者に対しての疑問

昔から疑問というか、おかしいと思っていることがあります。

哲学者に対して、「専門は何ですか?」と聞くと、大概「カントです」みたいな過去の偉大な哲学者の名前をあげる人が多いのです。

そこで、そのような哲学者に聞きたい。

「あなたは、哲学じゃなくて、哲学者を研究しているのですか?」と。

「カントです」あるいは「ヘーゲルです」ていう人は、哲学者ではなくて「哲学者学者」というべきではないか。哲学者を研究している学者ではないかと。

実際、カントの理性批判の本の注釈解釈に力をつぎ込んでいる人が多い。

もしかしたら、哲学の世界では、独自の注釈を加えることが研究結果になるのかもしれない。

自然科学・数理をやっている側にすると、科学の世界では、新しい理論・発明をすることのみが研究結果になるのであって、他人の研究結果を繰り返しても結果にはならない。

現在の哲学の業界のことを知っているわけではないので何とも言えないが、昔の日本にも、「善の研究」の西田幾多郎、「倫理学」の和辻哲郎など、独創的壮大な哲学者がいた。

哲学者ではないが、「武士道」を英語で執筆し、日本の精神を世界に広めた新渡戸稲造などの功績は限りなく大きい。

このような、独創的哲学を構築していくような哲学者が日本から出てこないかと、強く願うばかりである。

考える力、思想を創造する力

今日、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まった。幕末の動乱の時期に動き、世の中を変えた人たちを描いている。その中でも特に、知識人、つまり学び、考え、行動した人たちを中心に進行していくみたいな感じだ。

ところでいきなりだが、考えることによって「思想」が生まれる。思想はその人の頭の中の個性そのものである。ですから、人から聞き、本を読んで得た知識をそのまま自分の考えにするのは、本当の個性ではない。それは単なる「借り物の思想」でしかない。きっかけは人の話であり読書で得た知識であっても、そこから自分の頭で考え、そしゃくした考えこそ「真の思想、独自の個性」なのである。

では、なぜ思想を持とうとするのか、思想は何のためにあるのか。

もちろん、自分の思想を確立するだけでは、自分は満足でも普遍的な意味を持たない。思想を実行・行動の「指針」として、小さくは身の回りのこと、大きくは世の中を動かしていかなければならない。

思想を「創造」し、外の世界・世の中へ「アウトプット」しなければならない。そうすることによって、「自分」という存在が世の中の一角をせめるようになるのである。

それから大河ドラマでは、読書することの重要性が強調して描かれていた。もちろん読書することは、知性を創造し思想を形成していくうえで不可欠なものだ。

しかし、幕末と現代では少し事情が違う。幕末は書物一冊自体が貴重な存在であり、世の中にあらゆる書物が流通しているとは言い難い時代だ。それに比べて現在は、世の中にはあふれんばかりの本が流通しており、欲しい本があればどんな本でもすぐに手に入る。その気になれば無限ともいえる本を読むことができ、限りない知識を吸収できる。

幕末にたくさんの基本的書物を読破することは知識の吸収、世界観の形成に必須のものだったかもしれない。

しかし本があふれている現在、事情は少し違うのではないかと思う。ただ読書をするだけでは「インプット」だけで終わってしまう。知識を吸収して満足するだけでは意味がない。重要なのは「アウトプット」すなわち行動・表現である。読書するときにアウトプットを念頭に置いた読書をしなければ、知識の収集だけという事態に陥ってしまう。膨大な量の本が出回っているから、読む本も慎重に選ばなければいけない。最新の書物を読むのもいいが、昔から存在する基本的文献を身に付けることも大事だ。古典をバカにしてはいけない。

最後に、ドイツの哲学者ショウペンハウアーの言葉を付け加えて終わろうと思う。

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」

 

実行者と評論者

R1に出場して改めて思ったことがある。

他人の芸を面白いだの、ダメだのと評するのは簡単だし、評する人に何の責任も生じない。もちろんプレッシャーもない。

しかし芸をする側は、自分のしぐさ一つ、喋り一つが、もろに評価の左右の分かれ目になり、後の人生の分かれ目になる。もちろんプレッシャーもすごくあるだろう。

これはべつに芸人に限ったことではない。

政治に対しても、政治評論家は政治家の行動に対して好き勝手に評するが、政治家は一つ一つの些細な行動が信任の判断の対象となる。

評論家は何を言おうが後に責任を問われることはほとんどないが、政治家は一つの行動・言論によって、政治家生命を絶たれるかもしれない。

要するに、評論者というのは、大概好き勝手なことを言うだけ言って、言いっぱなしで、その結果責任を取られることは少ないし、プレッシャーも少ない。

しかし、実行者(今までの話では芸人や政治家のことだが)は、些細な事柄が時によっては命取りになるし、責任はすべて自分にかかってくるし、プレッシャーも莫大な物であろう。

この構図はあらゆる世界に当てはまる。

サイエンティストと科学評論家、あるいは芸術家と芸術評論家、などなど。

しかし、実際に世界を動かせるのは実行者である。

決して評論者ではない。

もし世界を動かしていると思っている評論者がいたら、それは妄想である。

最近テレビで、池上彰さんの解説が大人気である。政治家をバッサバッサと切っていく様子は爽快でもある。

確かに池上彰さんは切れに切れまくっている。もしかしたら、多くのテレビ視聴者は、切られる政治家よりも池上さんの方がはるかに優れていると思っているかもしれない。

確かに池上さんは評論者としては超一流だと僕も思う。

しかし、池上さんは実行者ではない。政治家ではない。

池上さんが優秀な評論者であることは十分に分かった。だからこそ、最後に一度、実行者としての政治家として活動をしてほしいと思う。政治家でなくてもいい。経済を実際に手で動かす人でもいい。

池上さんがすごく優秀な人だと思うからこそ、評論者・解説者で終わるのではなく、実行者として名をあげてほしい。

最後に自分のことだが、私も評者・解説者に終始したくはない。サイエンスの世界に行こうと思っているが、決してサイエンスを理解し評するのではなく、少しでも科学の理論の建設に寄与する実行者になりたいと思っている。

今はまだ実行できてはいないが・・・

R-1ぐらんぷり(予選)に出場して

先日、R-1グランプリ2015の予選に出場してきました。

結果は、一回戦敗退。

ですが、冷やかしで出たのではなく、本気でやろうと出てきました。

本番までの2か月間、ネタ作り、構成、リハーサルなど、かなり真剣に取り組んできました。少なくとも私はかなり真剣でした。

しかし、本番当日、舞台裏で見たのは、かなり凄まじいものでした。

皆、最後のチェックに余念がなく、殺気立ったものを感じるくらい、この一日にかけているのが伝わってきました。

本当に、切るか切られるか、みたいな。

舞台で見せる、軽くチャラけているように見える雰囲気からは、想像できないようなものです。

僕が2か月真剣に取り組んだといっても、しょせんアマチュアでしかありませんでした。

プロの芸人さんは、おそらく一年前から取り組んでいて、これにかける意気込みも、半端ないものではなかったのでしょうか。

すべてが自分にかかっている。自分次第で人生大成功するか、大失敗するか、どちらにも転びうる。

やはりどんな世界でも、自分で決めた道を進もうとしている者は、裏では普段他人には見せない努力をしているのだと、改めて確認しました。

僕自身は一回戦で落ちましたけど、数理物理の勉強・研究以外でこれだけ真剣になれたのも初めてだし、芸人の厳しい世界も実感でき、すごく得るものが大きかった経験になり、僕の一つの財産になりました。

初めまして

初めまして。

木原康明(きはらやすあき)と申します。

今日は一月一日、元日ですね。

あけましておめでとうございます。

年度初めの今日から、このブログサイト上で、思想、社会時事ネタ、あるいは数学・物理に関するサイエンスから、くだけた話題まで、幅広く表現していきたいと思います。

みなさま、よろしくお願いします。