20年前の死亡事件の放火容疑、再審決定、自白に対する感情と論理

10月23日、大阪高裁で20年前の放火事件容疑で懲役判決を受けた、二人の元被告に対する再審決定がなされた。20年間事件の犯人として扱われてきたわけであるが、三日後に二人は解放される見通しとなった。

この事件に対しては以前から自白強要が疑われていたが、事故の再現実験では弁護側はもとより、事件を立証しようとした検察側の実験でさえも元被告の関与を否定する結果となった。

私がこの事件に対して罪を判断することは全くできないが、もしこの事件の判決が自白強要によるものであれば検察・裁判官によって作られた犯罪となる。自白強要により無罪の人物に罪を着せた検察の罪は非常に大きい。法治国家としては決してあってはならないことだ。

以前から取り調べの可視化については大きな声があがっている。しかし可視化への動きは一向に進まない。これでは検察側が意図的に自白強要を隠そうとしていると思われても仕方がない。今回の再審決定で無罪判決が出れば、逆に言えば検察側の行為が有罪であり、検察側の責任者は罪に問われるのが筋かもしれない。そこまでいかなくても取り調べの過程を調べなおし、なぜこのような結果になったのか国民に説明責任を果たしてほしいものである。

国民にとっては、検察・裁判所から出てくる情報が全てであり、感情的に事件をとらえてしまうことは仕方がないかもしれない。しかし取り調べのプロである検察官が事件の罪を決めつけ、感情的に自白強要を迫ることは決してあってはならないことであるが、検察側では無実の人物であろうが取り調べ対象人物を強引にでも有罪に持っていくことが検察の功績となる。そのような風潮を根本から覆さなければまた同じような悲劇を繰り返してしまうだけである。

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