判断に必要な「勘」とは?

勘で物事を判断することはよくある事だ。しかし一言で「勘」と言っても、それには色々な種類がある。勘と言えばもちろん直感に基づくものだが、しかしそれは決していい加減な判断ではない。もちろん、何の根拠もなく判断するようなことを「山勘」と呼ぶが、重要なのはそのような根拠のない勘ではなく、論理と計算に基づく勘だ。

論理と勘とは一見相反するようなことに思えるかもしれないが、優れた勘とは経験と論理に基づいていることが多い。論理による緻密な計算が、勘をより冴えたものにする。勘で判断する前までは、綿密な論理と計算によるシミュレーションが必要だ。最終判断をする際に総合的に判断する根拠を勘と言うのである。従って、最終判断の場面だけを見ればその判断の根拠が見えず、一見何の根拠もないいい加減な勘に見えるかもしれない。しかしそれは傍から目線であり、判断をする本人にとっては決してそのようないい加減な勘であってはならない。

数学や物理においても、勘が重要な判断基準になることがよくある。右に行くべきか、左に行くべきか?学問においてはそのような事は論理で決定されそうに思えるが、意外と研究者は鋭敏な勘を働かして判断をしている。もちろん、研究者の勘は根拠の塊からできている。何十年という論理的訓練の末に出来上がるのが、研究者の鋭敏な勘というものだ。もちろん、それが100%正しいとは限らないが、そのような鋭敏な勘の連続が最終地点までの重要な道標になることが多い。

数学や物理において、勘というものに非常に近い感覚が「美的感覚」である。数学理論、物理理論にも美しいという判断基準がある。美しい理論は大概真理を物語っている。よく美しい理論の代表として取り上げられるのが、相対性理論だ。アインシュタインの美的感覚は非常に鋭いものがある。美しいかどうかという判断に基づいて理論を構築することは決して不可能ではない。もちろん、細部を埋める計算は泥臭いものになるが、完成品は美的な光にあふれている。一般相対性理論のアインシュタイン方程式は、シンプルで力強く、そして非常に美しい。

勘を磨くことは決して容易な道ではない。計算も経験も必要であり、感覚も研ぎ澄まさなければならない。そしてある程度天性のものもあるかもしれない。しかし、物事を極めようとすると、そのような勘を磨くことは避けて通れない道である。そしてそのためには、徹底的に論理と計算を究めなければならない。

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