他利の心・科学の心

「他利の心」を忘れてはいけない。

これは、京セラの経営者、稲森和夫がいつも繰り返している言葉だ。

ビジネスは一言で言うと、「お金儲け」ということになるかもしれない。しかし儲けることばかり考えて人の役に立てることを忘れては、一時的にはうまく行っても人々に受け入れられないということを、稲森さんは言っているのかもしれない。

ビジネスに関して素人の僕には、そうなのかと納得する一方、なんかありきたりの言葉でもあるような気がする。

最近の若者、いや若者だけでないかもしれないが、「社会貢献」という言葉を頻繁に口にする。社会貢献というのはすごくいいことだし、そのような心がもっと広まればいいと思う。

でも、その社会貢献という言葉によって、何かを隠そうとしているのではないかと感じることがある。自分の負の部分を許す免罪符みたいになってないかと。

それに最近は、みんながみんな「社会貢献」という言葉を口にするが、それが画一的な社会、社会貢献という言葉に賛同しない人への圧力にならないか、心配である。

世の中で、「俺は社会貢献なんかやらない。自分の好きなことに打ち込む」という人がいてもいいし、逆にいなければならない。

これは特に、科学の世界では大事なことだ。去年のノーベル物理学賞で青色発光ダイオードの発明が受賞対象になり、科学は役に立つものほど価値があると思った人も少なくないだろう。

しかし科学において、役に立つことと、科学的価値のあることとは全く別物だ。20世紀初め、相対性理論と量子力学という非常に科学的価値のある大理論が生まれた。しかし、それらは全く世の中に役に立たない(当時は)ものであった。しかし確実に価値はある。

それらの発見から時は100年近く経とうとしている現在、それらの全く役に立たないと思われた二つの理論は、現在の科学技術社会ではなくてはならない、非常に役に立つものとなった。

勘違いしていることがもう一つある。「科学」と「技術(科学技術)」である。科学と技術は別物である。しかし一般には、純粋科学も科学技術の一部と認識され、純粋科学にも役に立つことを求めるという勘違いが起こっている。科学と技術は切っても切れない関係だが、質的意味的には別物だと認識することも必要である。

日本は高い科学・技術によって支えられている。しかしここ二十年ほどは金融関係の行方に多くの関心が行き、科学の重要性に対する認識が薄れている。そしてノーベル賞受賞者が出たときに、一時的なブームのように高まる、というような繰り返しになっている。

科学・技術に対する理解を深めるためにも、科学と技術の役割や価値観の違いを認識し、コンスタントに科学・技術に対する関心を高めていかなければいけないのではないかと思う。

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