コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

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