過度な平等論的選挙法が、政治への関心を薄くする。

10月8日、池上彰さんの番組で、世界の社会に関する解説をされていた。特に選挙に関する話は非常に面白く、北朝鮮の監視選挙など半分面白く半分恐ろしいような実態も取り上げられていた。

その中でもアメリカの選挙と日本の選挙、特に選挙法とのかかわりについて少し考えるところがあった。よく知られているように、アメリカではそれぞれ個人が自身の支持する候補者を積極的にアピールし、さらに新聞・テレビ局などの各メディアまでがそれぞれ支持する候補者を明らかにし、積極的アピールをする。

それに対して日本では各メディアは中立でなければならなく、特定の候補を支持する行動は許されず、討論番組では各党の代表を平等に取り上げなければならない。そして個人が特定の候補者に肩入れし、周りにアピールする行動は(違法とは言えなくても)好ましいとされず、行動によっては選挙法で捕まることもある。ネットでの選挙関連の書き込みにも制限があり、現在選挙でのネットの取り上げ方についていろいろと議論されている。

ところで、8日の池上さんの番組で、カンニング竹山さんがこのような発言をされた。

「選挙法で何もかも平等に扱わなければいけない感じになっているので、選挙に関する話題を話すことができなくなり、選挙に関する関心が薄れてしまう」(言葉は正確ではないが、このような趣旨のことを発言された)

この発言には僕ももっともだと感じた。日本では過度の選挙平等主義のため、政治の話題をすることさえ国民はためらっているのではないか。その結果選挙や政治への関心が薄くなり投票率の低下につながっているのではないかと僕も感じている。

実際に僕も、前回の参議院議員選挙の時に、選挙に関する各党の公約について意見を書こうと思ったが、そのようなことをネットで書くのが法に触れるのか触れないのか判断できなかったので書くのをやめてしまった。

アメリカでは国民一人一人が候補者の支持をアピールするのに積極的行動を取っているので、自然関心は高くなり、投票率も日本に対して高いことは容易に想像できる。

(と思って少しネットで調べてみたが、そんなに極端に高くはなく、日本と同じように若者の投票率の低さが目立った)

とはいえ、アメリカの選挙時の世界を巻き込んでの熱狂は、メディアを巻き込んでまで支援するシステムがあるからこそだと思う。

この様に考えると、日本国民を委縮させる選挙法というものを今のままにするのもどうかと、カンニング竹山さんの発言を聞いて考えさせられた。

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