過ちを犯した人間を全否定する日本の狂気

日本という国はどうも過ち・失敗を犯した者に対して寛容でない。過ちを犯した人間に対して、徹底的に潰しかかろうとする。

最近テレビでは、清原氏・ベッキー氏・そしてショーンK氏が社会の、マスコミのバッシングを受けている。清原氏に関しては法に触れる犯罪行為を犯し、批難されるのは致し方ないし、僕自身も清原氏のしたことに対しては許すべきではないと思うが、しかし清原氏のこれまでの業績を全否定するのは少し違うと思う。そしてベッキー氏、ショーンKに対してもほとんど全否定状態だ。ベッキー氏に関しては犯罪行為を起こした訳でもなんでもなく、個人的交友関係のもつれでしかない。もちろん印象は悪いだろう。しかしこれをきっかけにあることないこと全てほじくりだし、全否定しかかっているのは異常だ。

この三人に対する対応は日本社会を象徴しているものであり、一般の人に対しても日本では「失敗」と言うものに対して非常に厳しい。その結果、日本はどうなったかと言えば、無難な生き方をし、履歴に空白がない人間が好まれることになっている。失敗覚悟で難問に挑戦する人が非常に少ないのである。皆が平均的な事をそつなくこなす、そんな社会にブレークスルーが生まれるはずがない。

アメリカではむしろ失敗を経験した人間の方が好まれるらしい。失敗は挑戦の証である。100回失敗しても、101度目で成功すればいいのである。しかし日本では1回の失敗を長く引きずることになる。極端に言えば、アメリカでは失敗は善であり、日本では悪なのである。

今、日本政府は、一億総活躍という政策を掲げている。もし国民総活躍を目指すのなら、失敗を経験した人間の知恵を生かし、失敗しても何度でも挑戦しなおせる社会にしなければならない。

過ちを犯した人間を全否定する日本の狂気」への4件のフィードバック

  1. 無難な生き方を要請する社会だけでなく、それに抗えなかった大人達一人一人の妬み嫉みも共に作用して、挑戦する者の出端を挫き、失敗し再挑戦しようとする者を引きずっているのだと思います。

    そういった事が、明確なスローガン・暴力でなされるのではなく、
    表にでてこない「風潮」や「空気」という深く根付いた文化として暗に行われる所が非常に恐ろしく、また嫌悪感を覚えます。

    この国、国民を評するなら、昔、岡本太郎氏が言った「嫌ったらしい」という表現が最も的確だと思います。
    今も昔も変わらない日本の消極的安定主義は、国が滅びるまで居座り続けるのでしょうか。

    • 木原 康明

      貴重なコメント、ありがとうございます。

      確かに「風潮」や「空気」として暗に行われ、問題にもならないことが問題なのかもしれません。
      現在は挑戦する者を挫くような非寛容な社会ではありますが、
      そのような社会を変えられる者は他でもなく、挑戦する者であると思います。
      そのためにも社会の抵抗を乗り越え、挑戦するものが成功を掴み、
      社会の一線で主張するしかないと思います。

  2. 成功を掴むという考え方自体が、私には他を蹴落とすという競争、排他社会に繋がっていると思います。一体どうして成功しなければ幸せになれないのか?その人が、そのまま生きてそこに存在する事を、自他共に当然の事として認められる社会にしていかなければ、私達は誰一人として幸せにはなれないでしょう。

    • 木原 康明

      確かに、人生とは成功とか失敗とかいう物差しで測れるものではありません。自分が自分の人生に納得できればそれが一番だと思います。
      成功と言っても、社会的な成功だけではありません。自己の目標を達成するためという意味合いが大きいでしょう。もちろん社会的な成功も大いにありますが。
      自己の成功を目指すにしろ、社会的な成功を目指すにしろ、日本では一度の失敗が足かせとなることが多いと思います。
      再チャレンジする人が大いに暴れまわれる社会になればと思っています。

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