未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

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