日本は「エキサイティング」という言葉を履き違えている。

僕は、「社会はエキサイティングでないといけない」と思っている。エキサイティングであることは社会の、そして物事の、そしてそこに生きる人間の活力源だと思っている。

しかし、日本人は何かエキサイティングという言葉を履き違えているように感じる。それは、「エキサイティング=お金のギャンブル」という構図が日本人の頭に根強くこびりついているのを感じるからだ。もちろん、このようなことは日本に限ったことではないと思うが。

昔からパチンコなどのギャンブルは、社会問題として議論されてきた。しかし既得権益を守るためか、パチンコ店の数が減ったようには全く感じない。一方韓国ではパチンコの根絶に成功している。僕自身、韓国という国に良いイメージは持っていないが、このことに関しては素直にすごいと思っている。政治家に相当の覚悟と権力がないとできないことだ。

パチンコが問題化されている一方、日本ではカジノ計画に関する法律が出来上がりつつあり、各地で誘致が行われている。まったくおかしな話だ。日本は自分で自分の国民の首を絞めているようなものだ。

では、エキサイティングな社会とはどういうことか?それは積極的にチャレンジする人が思い切ってチャレンジできる土壌があるかということだ。しかし日本にはその土壌が乏しいと言わざる負えない。挑戦する人間にかなり冷たい。その一方で、一度挑戦に失敗しただけで、自己責任だと責められる。こんな社会に、挑戦し続ける人がしっかりと育つはずがない。そうなると自然、挑戦者は海外に出ていくことになるだろう。これこそ「異能流出」だ。

現在、日本の経済、さらに広く日本の社会は失った十数年を取り戻しつつあるといわれている。しかしどことなく閉塞感を感じる。その原因はエキサイティングであるかどうかということにも関係がある。

弱者を助けることは当然であるが、挑戦者が夢を持てる社会であることも非常に重要である。そうでなければ、日本は中流国家として安住してしまうであろう。

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