実行者と評論者

R1に出場して改めて思ったことがある。

他人の芸を面白いだの、ダメだのと評するのは簡単だし、評する人に何の責任も生じない。もちろんプレッシャーもない。

しかし芸をする側は、自分のしぐさ一つ、喋り一つが、もろに評価の左右の分かれ目になり、後の人生の分かれ目になる。もちろんプレッシャーもすごくあるだろう。

これはべつに芸人に限ったことではない。

政治に対しても、政治評論家は政治家の行動に対して好き勝手に評するが、政治家は一つ一つの些細な行動が信任の判断の対象となる。

評論家は何を言おうが後に責任を問われることはほとんどないが、政治家は一つの行動・言論によって、政治家生命を絶たれるかもしれない。

要するに、評論者というのは、大概好き勝手なことを言うだけ言って、言いっぱなしで、その結果責任を取られることは少ないし、プレッシャーも少ない。

しかし、実行者(今までの話では芸人や政治家のことだが)は、些細な事柄が時によっては命取りになるし、責任はすべて自分にかかってくるし、プレッシャーも莫大な物であろう。

この構図はあらゆる世界に当てはまる。

サイエンティストと科学評論家、あるいは芸術家と芸術評論家、などなど。

しかし、実際に世界を動かせるのは実行者である。

決して評論者ではない。

もし世界を動かしていると思っている評論者がいたら、それは妄想である。

最近テレビで、池上彰さんの解説が大人気である。政治家をバッサバッサと切っていく様子は爽快でもある。

確かに池上彰さんは切れに切れまくっている。もしかしたら、多くのテレビ視聴者は、切られる政治家よりも池上さんの方がはるかに優れていると思っているかもしれない。

確かに池上さんは評論者としては超一流だと僕も思う。

しかし、池上さんは実行者ではない。政治家ではない。

池上さんが優秀な評論者であることは十分に分かった。だからこそ、最後に一度、実行者としての政治家として活動をしてほしいと思う。政治家でなくてもいい。経済を実際に手で動かす人でもいい。

池上さんがすごく優秀な人だと思うからこそ、評論者・解説者で終わるのではなく、実行者として名をあげてほしい。

最後に自分のことだが、私も評者・解説者に終始したくはない。サイエンスの世界に行こうと思っているが、決してサイエンスを理解し評するのではなく、少しでも科学の理論の建設に寄与する実行者になりたいと思っている。

今はまだ実行できてはいないが・・・

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