考えることを放棄してしまう怖さ

二日前、パリの出版社で銃の乱射事件・テロが起きた。もちろん、犠牲者が10人以上も出たことは大変なことだし、僕も追悼したい。

しかし、この事件で僕が一番気になったのは、犯人が叫んだ「神は偉大なり」という言葉。

なぜこの言葉が気になったのかというと、この言葉がイスラムに限らず、あらゆる宗教の怖さを象徴しているように思えたからである。

なぜこの言葉が象徴なのか。

この言葉を発した者は、なぜ神は偉大なのかと考えただろうか?そもそも神とは何なのかと考えただろうか?おそらく何も考えていなかったのではないかと思う。何の疑問も抱かなかったのだろうと思う。

もちろん、神のこと、宗教の役割を真剣に考え、自分には何ができるだろうかと真剣に考えている人は、イスラム信者はもとより、あらゆる宗教の信者の中にもたくさんいると思う。

しかしこの「神は偉大なり」と叫ぶ人は、神のこと、宗教のことを何も考えていない。無条件に、一方的に盲目的に「宗教の上層部」の人の言うことを実行しているだけである。

このような状況は、イスラムだけではない。キリストであろうと、他の宗教であろうと、あらゆる宗教の信者に見られることである。

このような状況に陥った人は、自分で物事を考えなくなる。考えることを放棄しているのである。この「考えることを放棄」してしまうことが、宗教が与える影響の一番怖い側面だと思う。

人間が自己を表現し確立していくうえで、「考えること」は一番重要で不可欠な要素だと思う。ですから、考えることを放棄することは、自分が自分であることを放棄することと同じである。

べつに僕は宗教を否定しようと思わない。イスラムを否定しようとも思わない。しかし、どの宗教の信者であっても、常に考えることを忘れてはいけない。

今回の事件、そして20年前のオウムの事件も、根をたどれば、考えることを放棄していないか、ということに行きつくのではないかと思う。

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