人間の感覚って、意外と当てにならない。

普段の行動を論理的に考えるか、感覚的に捉えるか、人によってその配分は様々であると思うが、普段の生活上のことや人間付き合いをあまりにも理詰めで考えると逆に上手くいかないこともある。問題はそこに心がこもっているか、と言うことである。感覚的に捉えつつも要所要所で論理的に判断するのが良いのではないかと僕は考えている。

しかしそれが数学のこととなると話は別だ。数学は100%論理的でなければならない。もちろん、理論の概要や方向性を感覚的に捉えることは不可欠であるが、それを基に理論を構築するときにはそれが100%論理的であることが求められる。ではなぜ数学においては100%の論理が必用なのか?

もしかしたら10%くらい感覚で記述しても良いのではと思うかもしれない。しかし数学においてはそうは言えないのである。例えば、99%論理で構築しているから1%くらいは感覚で記述しても良いとするとどうなるのか?数学はその1%から全てが崩壊するのである。あるいは、その感覚で記述した1%が実は全く見当違いであることもよくある。感覚的に当たり前であるように思えることが実は当たり前ではなく、そこに想像もしないような真実・真理が潜んでいることがよくあるのである。だから数学者は時には重箱の隅を突くようなことにこだわることがよくある。それは重箱の隅に大きな真理が潜んでいる可能性があるからである。そして理論の流れに論理でないところがあれば、それはまだ数学としては完成していないことになる。

数学を突き詰めていくと、人間の感覚と言うものが全く当てにならないと感じることがよくある。もちろん数学においても“数学的”感覚や意志を基に進めることはよくある。しかしそこから導き出される結果は100%論理的でなければならない。世の中には論理に真実や真理が潜んでいることがよくあるのである。そして数学においては、そのような論理こそが本質なのである。

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