人工知能は人間の頭脳を超えられるのか

最近人工知能の研究が社会的に話題になっている。特に話題の中心は、「人工知能は人間を超えるのか」というものだ。

そもそも何をもって人工知能が人間の頭脳を超えたというのかという定義自体があいまいだが、一つの定義として「チューリングテスト」というものが半世紀ほど前に考え出されている。

チューリングテストとは簡単に言うと、質問の相手を隠し、相手がコンピューターであることを知らせないで質問者にいろいろ質問してもらう。そのやり取りを通じて質問者の30%以上の人が相手が人間であると判断すれば、そのコンピューターは人間の頭脳と同等であると言える、というものである。2014年になって初めてチューリングテストに合格したコンピューターが現れた。

コンピューターと人間の頭脳を比較するとき、二つの視点がある。それは計算量、計算のスピードを見るのか、あるいは計算の「質」を見るのか。

計算の量やスピードを見ると、もうとっくにコンピューターは人間を超えている。何十年も昔の電卓でさえ人間は太刀打ちできない。今では理研にある「京」というコンピューターのように、一秒間に一京回(10000000000000000回)も計算してしまうような化け物のようなコンピューターも現れている。

では「質」についてはどうだろう。これについて二つの解釈があると思う。一つは今社会で話題になっていることだが、コンピューター自身が自分をより高度に学習発展させていけるかというもの。もう一つは問題を解く能力ではなくて、問題の質、すなわちどの問題が重要であってどの問題は重要でないと判断できるかということである。

そしてその質について考えたとき、今のコンピューターの仕組みと人間の頭脳の間には、断層のようなそもそも根本的な仕組みの違いがあるかということが問題になる。

ツイスター理論で有名な物理学者ペンローズ博士は、人間の脳の仕組みには量子重力理論的効果(量子重力理論は現在完成していない)が本質的役割を果たしていると指摘した。それが合っているか間違っているかは別にして、ペンローズ博士はコンピューターと人間の頭脳には、質的な違いがあると言いたかったのであろう。もしそのような質的な違いがあるならば、今のコンピューターをいくら高度に発展させても人間の頭脳と同じ働きをするコンピューターはできない。

話を元に戻そう。コンピューターが人間を超えることで一番危惧されているのは、人間社会がコンピューターに取って代わられるのではないかということであろう。映画のターミネーターみたいな世界である。もしそうなれば人間はコンピューターの奴隷になってしまうかもしれない。そんなSFのような世界も徐々に現実味を帯びてくるであろう。

医療行為に倫理観が欠かせないのと同じように、これからはコンピューター開発にもしっかりした倫理観が必要になる。むやみに開発すればいいという考えはもう終わりにしなければいけないかもしれない。

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